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『Echoes of Logos ― 夢幻令嬢、迷宮に堕つ。―』  作者: ちょいシン


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第36話:名なき者の系譜、紗雪の問い

迷宮の終わりに浮かび上がった問い――《名無し》とは何だったのか。数日後、放課後の学園にて、紗雪は真観と語らう。《名無し》の正体、妖怪と神、そして“名”と“祈り”の意味が静かに紐解かれてゆく。

数日後の放課後。

夕陽が学舎を橙色に染める頃、九重紗雪は一人、花桜学園の中庭に面した渡り廊下で風に髪を揺らしていた。


「……綺麗な夕焼けですね」

背後から、穏やかな声が聞こえる。


「真観さん……」


ふり返ると、香色の袈裟をまとった浦見真観が立っていた。迷宮での一件から数日が経ったが、彼の眼差しは変わらず、静謐で、どこか人の“祈り”そのもののようだった。


「少し、お話できますか?」


「……はい。なんでしょう?」


二人は並んで歩き始める。木々の間を抜け、かつて迷宮への“祠”があった礼拝堂跡へと向かう道。そこには、いつしか名も知れぬ花が咲き始めていた。


「《名無し》って、いったい、何だったんですか……?」


紗雪の問いに、真観は少しだけ立ち止まってから、歩を進めた。


「《名無し》――それは“妖怪”です。正確には、名を与えられず、神にもなれなかった“変異体”ですね」


「妖怪……」


「はい。世界には無数の妖怪がいますが、その多くは、もともと“人間”や“動物”の変異体。つまり、常人より何かが突出した存在です」


「突出、って……例えば?」


「武術に長けている、記憶力が異常に高い、感覚が鋭い――いわゆる“天才”や“異能”と呼ばれるものも、広義では“変異”と言えるでしょう。動物でいえば、狩りが得意だったり、泳ぎが速かったり、角や鱗が常よりも硬かったり」


「そういう存在たちが……合体するんですか?」


「ええ。それが“妖怪”の成り立ちの一つでもあります」


真観の声は淡々としていたが、その中には長い年月と知見がにじんでいた。


「変異体同士が融合し、強い精神力を持つものが主体となる。そうして生まれた“統合存在”が、時に“神”として祀られることもあるのです」


「じゃあ、妖怪って……全部が悪い存在じゃないんですね」


「もちろんです。むしろ――」


そこで、真観は空を見上げ、静かに続けた。


「この世に名を持つ妖怪のほとんどは、すでに仏法に帰依しています」


「……!」


「“帰依”という言葉の通り、仏門に入った妖怪は“善”の側面を持ちます。人を襲わない。道を踏み外さない。記憶と信仰に支えられた妖怪たちは、私たちと共存しているのです」


紗雪は目を見開き、そして思わず問い返す。


「じゃあ……《名無し》は、その逆?」


「そうなりますね。《名無し》は、名もなく、信仰もなく、ただ“存在”しようとする妖怪たち。中でも今回の“名無し”は、融合を繰り返した末に、一部の獣に精神の主導権を奪われてしまっていた」


「……だから、あんなにも危険だったんですね」


「ええ。本来であれば無害であったかもしれません。しかし、“自我”を獣に支配された時点で、理性も道徳もなくなる。欲望と恐れのまま、喰らい、滅ぼす存在となってしまったのです」


風が吹く。

季節外れの風鈴が、どこか遠くで涼しげに鳴った。


「でも……」紗雪が口を開く。「“灰灯”になった《名無し》は、最後には仏法に帰依したんですよね?」


「はい。人間を吸収したことで、皮肉にも“知恵”と“道徳”を得た。その状態であなたたちの祈りを受け、大日如来の加護によって“仏神”となった」


「仏神……灰灯……」


「信仰とは、“記憶”と“祈り”です。それが“名”となり、“名”が存在の輪郭を形作る。だから、妖怪であれ神であれ、名を持てば安定し、意味を得て、善となる道もある」


「でも……名を持った妖怪がみんな善い存在とは限らないんでしょう?」


「はい、そうです。ルールを破ったり、信仰や記憶が消えたりすれば、彼らは存在の意味を取り戻すために、再び人間を襲う可能性もある。だからこそ、信じられること、語り継がれること――それが何よりも大切なのです」


紗雪は、胸元の御守りをそっと撫でた。

赤と白の縞模様は、いつかの日に交わした“名前”の証であり、そして――灯火のような“祈り”だった。


「真観さん……」


「はい?」


「もし、また《名無し》みたいな存在が現れたら、どうすればいいんですか?」


「……まずは、信じることです。あなた自身の名を。そして、相手にも“名を与える価値”があるか、見極めること」


「名を……与える?」


「そう。“名を奪う”のではなく、“名を託す”こと。それは、共に在ろうとする祈りですから」


ふと、日が沈みかけていた。

風がやみ、世界は一瞬、音を忘れたかのように静まり返る。


「じゃあ、私も――」

紗雪は、どこか遠くを見るように目を細めた。


「また誰かに、名を届ける人でいたいなって、思います」


真観は頷き、優しく微笑んだ。


「それこそが、“名を持つ者”の責務かもしれませんね」


静かな夕焼けの中で、二人の祈りは、また新たな“物語の余白”となって、この世界に溶けていった。


《名無し》の起源と、妖怪が神と成る道。すべての存在が“名”と“祈り”によって形作られている。信じること、記すこと――それは、人と妖の未来を繋ぐ手がかりとなるでしょう。

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