いずれは懐かしい思い出に
「あの」と発した私の声に、「リアナ嬢」と呼ぶ声が重なる。
向けられたひどく心配気な瞳に、戸惑う。
ルーベンス様は眉間の皺を深め、
「単刀直入に尋ねます。侯爵家で、無下に扱われてはいませんか」
「!? あり得ません! 皆さん、本当によくしてくださるばかりで――」
「なら、これは?」
流れるように片膝をついたルーベンス様が、そっと私の右手を持ちあげる。
(あ、それで……)
指先に巻かれた小さな包帯。
彼の意図を理解した私は「本当に、誤解なのです」と首を振り、
「刺繍をしているのです」
「刺繍、ですか?」
「はい。お恥ずかしながらいつまで経っても不慣れなもので、何度も刺してしまうのです。傷はたいしたことないのですが、万が一にも、グラスに不備が出てはいけませんから」
不要と言われる可能性が高くとも、約束は約束。
侯爵邸を出る前になんとか間に合わせるべく、フレデリック様に贈る刺繍入りのハンカチを大急ぎで作っている。
先日、お母様に相談して簡単な図柄を考えていただいたのに、やっぱり何度も針先で指を突いてしまっていて。
普段は包帯なんて巻かずに過ごしている程度の傷なのだけれど、大切なグラスを守るべく、念のためにと保護してきたのだけれど……。
「ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「……いえ。問題なく過ごしていらっしゃるようで、安心しました」
ルーベンス様が立ち上がる。
それでも離されない指先を不思議に思い見上げると、彼は突然置いて行かれた子供のような顔で、
「刺繍ということは……婚約を破棄するという話は、なくなったのですか?」
「そ、れは」
刹那、ルーベンス様の瞳に活力が戻った。
にっと口角を上げ、
「まだ完全になくなった、というワケではなさそうですね。なら、先日の返事はまだ保留にしておいてください。少しでも可能性を残しておきたいので」
「ルーベンス様……。ですが、それでは」
「僕は諦めが悪い男なのです。例えここで"否"とお返事をいただいても、リアナ嬢が自由の身になったならば即座に駆け付け同じ告白をするだけです。……駆けつけている間に、他の男に先を越されたくはないのです。ですから、どうかこのままに」
「……わかり、ました」
(本当に、優しい方だわ)
こちらの状況はもちろん感情にも機敏で、お仕事でもそれ以外でも、そっと支えてくれるような優しさに何度も助けられている。
それなのにどうして、彼に恋心を抱けないのかしら。
ううん。恋慕の情などなくたって、彼の手を取ってしまえばいい。
ルーベンス様はきっと、それでも許してくださるから。
そこまで理解していながら、私の頭を占めるのはフレデリック様のことばかり。
『俺が心から想いを寄せているのは、リアナ嬢です。"愛しい"という感情も、あなたから学びました。嘘偽りなく、俺にはずっとあなただけです』
あのパーティーで共に踊った時、触れ合う掌から感じた熱は、嘘偽りのない本物だった。
もしかしたら、本当に"本物"だったのかもしれない。ただ、"今"が違うというだけ。
あの時、ぐらりと揺れた心を律せた自分を褒めてあげたい。
(大丈夫。フレデリック様が婚約破棄を申し出てきたら、笑顔で頷いてあげられる)
私は充分、頑張った。
約束のハンカチを渡して、やっとのことで愛する人と結ばれる彼を祝福し、侯爵邸を出る。
それが私の選択。後悔はない。
親しい人や馴染んだ場所から離れる寂しさは、いずれ懐かしい思い出に変わっていくもの。
(……それこそフレデリック様に"恋"をしていたら、心が引き裂かれるような思いだったのかしら)
侯爵邸を出た後は、一度実家へ戻るつもりでいる。荷物もあるし、家族と話しをしなくてはならないから。
けれどももしかしたら、ゼシカ様への引き継ぎが必要だと言われる可能性もあるわよね。
反対に、一刻も早く出ていってほしいと願われたっておかしくはない。
(いずれにせよ、フレデリック様の意志を聞いてから、すり合わせてもらえばいいわ)
今のフレデリック様ならば、私の意見にも耳を傾けてくれるように思う。
私は私の出来ること――ハンカチを、完成させなきゃ。
(居酒屋に行くのは、しばらくお預けね)
皆に会えるのは、全てが終わってから。
たくさん、たくさん話をすることになるわね。
目を閉じれば簡単に浮かぶ皆の反応が、俯いてしまいそうな私の顔を前に向かせてくれる。
(一緒に美味しい"ニホンシュ"を飲むのが楽しみだわ!)
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