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第12話 長い一日の終わり

天音(あまね)視点です。

 ベッドに入ってから、何度寝返りをうっただろう。一向に訪れてはくれない眠気に、私は大きく息をついてから体を起こした。

 布団から抜け出て部屋を出る。しんと静まり返った廊下を行き、向かったのは、兄の部屋。


 いつものくせでノックをしようとして、意味がないことに気づく。ドアを開けて足を踏み入れたそこには、当たり前だけれど兄の姿はない。

 冷え切った部屋のなか、歩み寄って見下ろしたベッドは、おとといの昼に私が整えたまま、使われた痕跡がなかった。きのうの夜、兄は眠ることなくここを出て行ったのだ。


 ベッドのふちに腰を下ろして寝ころべば、ふわりと兄の匂いがしたような気がした。でもそれは、ほんのかすかに。

 シーツもカバーも、洗濯しようと替えてしまっていたから、もうほとんどわからない。こんなことになるなら替えなければよかったと、そんなことを思う。


 夕方、凛人(りひと)の携帯に子爵さまから電話があった。流暢(りゅうちょう)で早口な英語での会話は私には聞き取れなかったけれど、そのあとすぐにマコじいにかけていた電話で、子爵さまは兄についてなにも知らないらしいことはわかった。

 沙綾(さあや)さんとは、連絡がつかないまま。


 兄と沙綾さんが親しくしていたことを、凛人は知らなかったようで、ずいぶん動揺していた。けれどそれは私も同じ。兄がいなくなったと知って、すぐに駆け落ちを疑えるほど、ふたりが親密な仲だとは思っていなかった。


 私が(にぶ)かったのか、それともふたりが私の前では気を使っていたのか。ふたりのあいだには恋人同士のような、そんな甘やかな雰囲気はなかったように思うのに。

 ここに来るのも、私に会いに来てくれているものだと思っていたくらいで、実際そう言われていた。向かい合って座るときも、兄は私の隣で沙綾さんは私の正面。私と沙綾さんをリビングに残して、兄は自分の部屋に行っていたことだって、よくあった。


天音(あまね)ちゃんみたいな妹がほしかったなぁ」

 いつだか、沙綾さんにそう言われたことがあった。私も、沙綾さんみたいなひとがお姉さんだったら嬉しい。そう思った。

 そのときは気づかなかったけれど、もしかしたらあれは、兄のお嫁さんになって、私の義理の姉になりたい、そういう意味だったのかもしれない。


 凛人が言うには、代々の神門(みかど)の直系は、一族の女性の中から妻を選んできたらしい。

 妻が産んだ子は当主の子とは認められないとか、当主の姉妹が産んだ子を実子として養育しなくてはいけないとか、そんなしきたりがあるから、一族外のひとではいろいろと差し障りがあるせいだ。


 私は、沙綾さんだったら、歓迎できた。祝福できた。いつか私が産む子は神門に引き渡すことになっているけれど、沙綾さんになら、預けられたのに。

 でも兄は、嫌だったのだろうか。神門のそんな(おきて)に、沙綾さんを巻き込みたくなくて。それでふたりで、逃げることにしたのだろうか。


 兄はどこへ行ってしまったんだろう。もしも沙綾さんも一緒なら、もうふたりには会えないんだろうか。この先もずっと、もう二度と。一生。


 そんなことを考えたとたんに、とほうもない心細さに襲われた。淋しくてこわくてたまらなくなってしまう。


 みんな突然に、いなくなってしまう。突然に、会えなくなってしまう。

 祖国の祖父母も、母も。父も。前触れもなくいきなり引き離されて、いなくなって、そのまま会えなくなってしまった。

 会いたいとどれほど強く願っても、届かない。みんな私から離れて、私の前からいなくなってしまう。

 今度は兄が、もしかしたら沙綾さんまで。


 昼間、凛人が玄関を出ようとしたときも、同じような思いがよぎった。兄がいなくなって、凛人まで雪の中に消えていってしまうような、そんな気がして。

 いなくならないでほしくて、行ってほしくなくてとっさに引き止めた私に、凛人は「俺はちゃんと戻ってくるから」と言ってくれた。まるで私の不安な気持ちを見透かしたように。そして言葉通りに、私のところに戻ってきてくれた。


「りひと」


 起き上がって、兄の部屋を出る。ふらつきそうになる足を、懸命に前に進める。凛人のいる、客間へと。


 辿り着いた部屋の前、ドアの隙間から明かりは漏れていない。きっともう眠っているのだろう。

 ノックをしようとして、やめる。いろいろあった一日だったから、凛人も疲れているに違いない。起こしてしまうのは悪いように思う。


 だけど凛人の姿を、その顔をどうしても見たくて、そっとノブを回し、覗き込む。月明かりと外灯が差し込む薄暗い部屋の中、ベッドの掛布が盛り上がっているのが見えた。


 少しの逡巡(しゅんじゅん)ののちに、部屋の中へと体をすべり込ませる。足音を立てないように、静かに凛人のもとへと近づく。

 かすかな寝息を立てて、凛人は眠っていた。


 ベッドのわきにぺたりと座り込んで、凛人の顔を眺める。鼻筋の通った端整な、ひどくきれいな顔。


 凛人が来てくれてよかった。私ひとりだったらきっと、兄の帰りをただぼんやりと待つだけで、誰かに連絡するとか頼るとか、そんなことは思いつきもしなかった。


 あのあと、凛人には避けられているとずっと思っていた。けれどそれは私のせいで、誤解だったとわかった。

 凛人とまっすぐ目を合わせたのも、触れ合ったのもずいぶん久しぶりだったけれど、凛人は以前とまったく変わっていなかった。そのことがたまらなく嬉しい。


 ベッドのマットレスに顔を伏せ、目を閉じる。

 すぐそばに凛人がいる。手を伸ばせばすぐに届く位置に、触れられる場所に、凛人がいてくれる。

 ただそれだけのことで、心が落ち着いていく。安心する。


「どうした?」


 不意に、凛人の声が響いた。驚いて顔を上げれば、目を開いた凛人がこちらを見ていた。


「あ、あの。ごめんなさい」


 慌てて離れようとしたけれど、腕を掴まれて(とど)められる。


「逃げなくていい。どうした?」


 問いかけてくる凛人の声が優しい。

 凛人は滑舌(かつぜつ)がよくて普段は少しばかり口調が強いから、こんなふうに優しく話しかけられるとドキドキしてしまう。

 なんとなく恥ずかしくて顔をそらしても、凛人が私を見ているのがわかる。


「天音?」


 どう答えればいいんだろう。淋しくて寝つけなくて、凛人の顔を見たかったなんて。そんなことを言ったら、十八にもなって情けないと呆れられてしまいそうで、こわい。


「淋しいのか?」


 私がなにも言えずにいると、凛人にそう言われる。どうして凛人は、いつも私の気持ちをたやすく見抜いてしまうんだろう。


「……うん」


 素直にうなずけば、伸ばされた手に頭を撫でられ、頬に触れられる。凛人の手はひどく心地がいい。


「ね、凛人。ここで寝たら、だめ?」


 気づけば、そんなことを言っていた。

 本家の屋敷にいたころは、兄の部屋に泊まっていく凛人とよく一緒に寝ていた。あのころのように、凛人のそばで眠りたい。そう思った。


 私の頬に触れていた凛人の指が離れていく。甘えすぎただろうか。


「いいよ。おいで」


 体を起こして奥へとずれながら、凛人が布団をめくり上げている。私が入りやすいようにしてくれているのだろう。


 布団の中の凛人は、当然なんだけれど寝衣姿で、思わずドキリとしてしまう。今さらながら大胆なことを言ってしまったのではと、少しばかり後悔する。


 だけどためらう気持ちよりも、今は凛人に甘えたい、すがりたいという思いのほうが強くて、私はふたたび凛人が口にした「おいで」という言葉に(さそ)われるように、ベッドに上がった。


 凛人に背を向けるように横になれば、布団がかぶせられた。なるべくベッドの端にと身じろぎをしていると、体に回された凛人の腕に、引き寄せられるように抱き込まれる。


「端に行くな。寒いだろうが」


 耳のすぐそばで聞こえた声に、首をすくめる。それでも触れた箇所から伝わってくる凛人のぬくもりに、体があたためられて気持ちが(やわ)らいでいく。


「ずいぶん冷えてるな。ずっとそこにいたのか?」

「ううん、兄さんの部屋にも、行ってて」

「そうか」


 背後から私を包み込むように抱きしめてくる腕の力強さが、体のあたたかさが、耳もとでささやかれる声が、凛人の匂いが、たまらなく心地いい。


 自分の部屋にいたときはあれほど寝つけなかったというのに、私はそのあとものの数分で眠りに落ちていたようで。


 はっと目が覚めたときにはもう朝だった。



 きれいな琥珀(こはく)の瞳が目の前にあって、驚いて起き上がる。少しの混乱ののちに、自分の足でここに来て、凛人と一緒に眠ったのだと思い出す。


「おはよう。よく寝てたな」


 寝そべったまま、凛人が言う。そういえば、久しぶりにすっきり目が覚めた気がする。


「天音。前、あいてるぞ」

「え?」


 言われて自身を見下ろせば、寝衣のボタンがいくつかはずれて(はだ)けていた。中に着ているインナーも少し乱れている。凛人の前で、恥ずかしい。私、こんなに寝相が悪かっただろうか。


 慌てて直そうとして、胸もとにぽつりと赤い痕があるのが見えた。

 ベッドを下りて姿見に映してみると、首筋や鎖骨、胸もとの何ヶ所かが、小さく赤くなっている。

 なんだろう。虫にでも刺されたのだろうか。あ、もしかして。


「凛人、ごめんね、もしかしたらお布団、ダニがいたかも」

「へぇ?」


 きのう急に凛人が使うことになったから、大急ぎで客間のベッドを整えたけれど。ここの布団の手入れをしたのはいつだっただろう。しばらく布団乾燥機をかけていなかった気がする。

 こんなことなら、兄のベッドを使ってもらえばよかった。


「あとで布団乾燥機、かけておくから。凛人は、刺されてない? 平気?」

「俺は別になんとも?」


 凛人が刺されていないならよかった。


「おまえ美味しそうだもんなぁ」


 笑いまじりに言われて、少しばかりムッとする。虫に美味しいなんて思われても嬉しくもなんともないのに。



 凛人と一緒に作った朝食を食べ終えて少ししたころ、マコじいが梨実(りみ)さんとともにやって来た。梨実さんに開口一番お祝いを言われて、少しばかり照れくさいような気持ちになる。


「あれ、天音さん。首のそれは?」


 首の虫刺されを梨実さんに指摘されてしまった。真冬に虫に刺されるなんて恥ずかしくて、なるべく首の見えないような服を選んだけれど、隠し切れていなかったようだ。


「ゆうべ、客間のお布団、使ったんだけど、ダニがいたみたいで。痒くはないんだけど、薬塗ったほうが、いいと思う?」

「あー、ダニ。あー、いや、薬はつけなくていいんじゃないですかね? 痒くないなら?」


 肌になにか塗るのはあまり好きじゃないし、梨実さんがそう言うならいいかな。


「あとで布団乾燥機、かけたいんだけど。手伝ってくれる?」

「悪い虫は布団叩きでひっぱたいたほうがいいんじゃないですか? ねぇ凛人さん?」


 どうして凛人に話を振るんだろう。なぜかマコじいも凛人をじっと見ている気がする。

 そもそも布団叩きは、布団の綿を砕くだけであまり意味がないと、教えてくれたのは梨実さんだった覚えがある。


「あー、そうですね、うっかりしてました。えーとちなみに、どのあたりまで刺されました?」

「えっとね、胸のこのへんとか、何ヶ所か。手や足は、刺されなかったみたい」

「数日で赤いのは消えると思いますよ。新たに刺されなければ。ねぇ凛人さん?」


 だからどうして、凛人に振るんだろう。布団乾燥機をかければ大丈夫だと思うけれど、それだけでは不十分なのだろうか。

 凛人は梨実さんには返事をせずに、マコじいを(うなが)して玄関へと向かう。


「天音さん。それほど時間はかかりませんからご心配なく」


 マコじいにそう言われて、少し安心する。マコじいが段取りをつけてくれたのだから、なにも心配はいらない。


「凛人、いってらっしゃい」


 声をかけると、振り返った凛人に抱きしめられ、こめかみのあたりに口付けられた。ついでに耳もとで「行ってくる」とささやかれる。


 マコじいや梨実さんのいる場でそんなことをされると、少し恥ずかしい。

 目をそらしていてくれたふたりの気遣いがありがたかった。

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