第六章 魔剣(七)
ガルカムウ山脈の北に広がる魔人領域について、俺が知っていることはほとんどない。
これは俺にかぎった話ではなく、あそこについて精通している人間なんて、大陸広しといえども一人もいないだろう。スーシャは過去の記録から色々なことを知っているようだが、それでも現在の状況はわかるまい。
何体の魔人がいるのか。棲息する魔物の種類は。総数は。大侵攻で連れ去られた人々はどうなっているのか。そもそも、魔人領域とはどれほどの広さの土地なのか。そんな基本的なことさえ分かっていないのである。
ただ、ガルカムウに棲息する魔物の数や質、それに大侵攻のたびに押し寄せてくる魔物の数が十万を下らないことを考えれば、大雑把な推測はできる。
現状で魔人領域に攻め込んでも勝算はまったくない。一万の兵を送れば一万が、二万の兵を送れば二万が、残らず殺しつくされるだろう、と。
もっといえば、派遣した軍隊がガルカムウ山脈を越えられるのかさえ疑問だった。
ウィンディア王になって魔人領域に攻め込もうなんていう企みは、現実を知らない子供の妄想、痴者の理想に過ぎない。それが常識というものだ。
したがって、今のスーシャの言葉は、面と向かって俺を子供だと、痴者だといったに等しい。
なんという暴言だ! たとえ相手がシルル教皇でも激怒せざるをえない! まったくけしからん!
……とまあ、そんな風にぷんすか怒ってごまかすという手もあったのだけど。
スーシャがあまりに鮮やかに内心を言い当ててきたものだから、ごまかすタイミングを完璧に逸してしまった。
今代の教皇が年齢に見合わない聡明さを持っていることは承知していたつもりだったが、まさかここまでとは。
その驚きの下には震えるほどの喜びがある。
どうして喜ばずにいられるだろう。
俺の野心を知って、それでもスーシャは結婚しようと言ってくれた。それは夢想じみた俺の願いを肯定してくれたということ。せまく険しい道筋に眩いばかりの光を投じてくれた好意に、正直なところ素で感動している。
――うん、このままだとちょっとまずいかもしれない。何がまずいって、十も年下の女の子に本気でぐらりと来ている自分がまずい。
それくらい嬉しかったということなのだが、とにかく少し落ち着かねば。
そう思ってスーシャに声をかける。
「そこまで察したのに、結婚しましょうといってくれたのか」
「そこまで察したから、結婚しましょうといったんです」
返答は間髪いれずにもたらされた。
言っていることはほとんど変わらないのに、なんだ、この破壊力。
この子、本気で俺を落としにきてないか?
「わたしは聖賢会議の束縛から逃れることができる。テオは国王の座に手をかけることができる。この結婚は打算にもとづくものです。けれど、わたしの胸の内にあるのが打算だけなら、こんなことは言い出しませんでした。シルル教皇として、スーシャ・リドという一人の女の子として、あなたとなら一緒に歩いていけると――いえ、一緒に歩いていきたいと、そう思ったから言ったんです」
言い終えたスーシャの顔には、言うべきことはすべて言った、という表情が浮かんでいた。
たぶん、これはウルクの問いかけに対する答えでもあったのだろう。
スーシャが答えを求める眼差しを向けてくる。頬が紅潮しているのは、今さらながらに恥ずかしさがこみ上げてきたせいだろうか。頬を赤らめ、両手をぎゅっと握り締めて見上げてくるその姿は、筆舌に尽くしがたいほど可愛らしい。
とどめといえば、これがとどめだった。
「よし、結婚しよう、スーシャ」
そう言うと、少女ははじめに目を見開き、次に安堵したように両手で胸をおさえ、最後に花開くような可憐な笑みを浮かべて「はい!」と元気よく応じた。どうやら毅然とした見た目とは裏腹に相当緊張していたようだ。
ああ、もう、ほんっと可愛いな、この子!
内心で叫びながら、俺は兵舎の天井を見上げる。このままスーシャを見ていると、色々とまずい行動に出てしまう気がしたので。
「……えーと、言いたいことや確認したいことは山ほどあるんだけど」
しばし後、イズが困惑をあらわにして口を開く。明らかに表情の選択に迷いながら問いかけてきた。
「テオはほんとに魔界に攻め込むつもりなの?」
「ああ。といっても、王になるやいなや、軍勢率いてガルカムウを越えたりはしないぞ」
イズが結婚について触れなかったのは、たぶん何と言ってよいやら分からなかったからだろう。こちらとしても何を言えばいいのかわからないので、とりあえず話題を魔人領域に移す。
とはいえ、別にいいかげんな答えを返したわけではない。
さっきも述べたが、今の時点で魔人領域に兵を向けたとしても成功の可能性は皆無。その程度のことはわきまえている。
だから、王位についたら、まずは彼の地についての情報を集めることからはじめる。
ウィンディア王になれば、アスティア様から今までは聞けなかった話を聞くこともできるだろう。それに、戦神の加護を得ることができればガルカムウを越えることも不可能ではない。みずから魔人領域におもむいて、謎に包まれた北の魔境を調査することができるのだ。
これまでの大侵攻で北に連れ去られた人々や、その子孫がどのような生活を送っているのかも調べる必要がある。場合によっては彼らに協力してもらうこともできるだろう。魔人領域の人々が立ち上がれば、無理にウィンディア兵を動かす必要もなくなる――まあ、ここまでうまく事が運ぶとは思っていないが、あくまでそういう可能性もある、ということである。
「ガルカムウを越えるにしたって、道の一つもつくらないと輜重隊を送ることもできないからな。陛下ならともかく、俺が魔人追討を叫んだところで賛成してくれる廷臣がどれだけいるかもわからん。準備が整うまで何年かかるやら、という感じだな」
「……あれ、けっこう現実的な計画をたててるんだね?」
イズが意外そうに首をかしげる。どうやら、もっと勢いにまかせた計画を想像していたらしい。
「目標は高く、歩みは堅実に、というのが我が家のモットーでな」
スーシャの言葉ではないが、ハイランダーの一人としてウィンディア軍の状況はよくわかっている。北からの圧力に抗するのが精一杯である現状、攻勢に出る余力はない。
アスティア様の騎竜の力を借りてガルカムウを越えるという手もあるが、これも危険であることは言をまたない。なにせ敵は竜種の王だ、空の支配は磐石だろう。
さらにいえば、北にばかり目を向けているわけにもいかない。俺のような若造が王座についたと知れば、南のランゴバルド王国は確実にちょっかいをかけてくるはずだ。蓬莱やカーナ連合も黙ってはいまい。
花嫁令に反対する廷臣たちが譲位の無効を求めて立ち上がることも考えられる。本来、陛下の後を継ぐべき王子や、国王の娘をめとった貴族もウィンディアには存在するから、面倒事の種には事欠かないのだ。
「もちろん、陛下の意思を尊重して、俺に味方してくれる人だって多いだろうけどな」
そういって話を締めると、イズが感心したようにうなずいた。
「な、なるほど……テオ、いろいろと考えてたんだねぇ」
俺は軽く肩をすくめることで、イズに応じる。
「王族が考えれば様になるんだけどな。猟師上がりが考えても妄想にしかならん」
だから誰にも言ったことはなかったし、そもそも言おうとも思わなかったのである。
見抜かれたのはスーシャが初めてだ。
いや、もしかしたらシュナは気づいていたかもしれないが……ああ、あとアスティア様もひょっとしてお見通しだったかも。花嫁令に参加するって言ったとき、わりとあっさり許可してくれたし。となると、陛下にも勘付かれていた可能性が大だな――あれ、けっこういろんな人に見抜かれてるな、俺。
まあ、それはいい。
別段、悪事を目論んでいるわけではない――冷静に考えると、失敗したら人類滅亡の端緒になりかねないから、ある意味、これ以上ないくらいの悪事ともいえるのだけど、そのあたりはおいておこう。
ともかく、俺の考えがどれだけ過激で無謀であろうとも、今の時点では罪のない空想だ。今やるべきは、俺の魔人領域征討計画を練り上げることではなく、疲れた心身を休めて地上に戻ること。
この地下要塞から脱出しないことには、魔人も王位も結婚もあったものではないのだから。
――と、そういう理屈でスーシャたちを半ば無理やり休ませる。照れ隠しの一面があったことは否定しない。付け加えると、しばらくは自分の顔を他人に見られたくなかった。
冷静に考えるまでもない。
いかなる理由があれ、十一の女の子に結婚を切り出されてニヤニヤしてる二十歳の野郎とか、見るにたえないに決まっているのだから。
◆◆◆
「なんだかもう、魔剣がどうとか吹き飛んじゃったねー」
休息のために横になったイズが疲れたようにぼやく。
イズと同じように横になったフレアは、そうね、と小声で同意する。そして、じっと天井を見つめながらつぶやいた。
「――魔剣、か」
その声にはここまでの戦いを理由とする重い疲労感がまとわりついていたが、同時に、ピンと張った弦を思わせる鋭気をも感じさせた。
今現在、廃都においてフレアの事情を知る唯一人であるイズは、わずかに顔をかたむけて親友を見やる。
「……フレア」
その声に込められたイズの気遣いに気づいたのか、フレアは二、三度まばたきをしてから、つとめて軽い調子で声を返した。
「平気よ、心配しないで。ただ、ちょっと妙なことを考えちゃってね」
「妙なこと?」
「そ。持ち手になった人間も魔剣みたいなものだって、そう思ったの」
テオは花嫁令によってウィンディアの王座を得て、しかる後、魔人領域に攻め込むつもりであるという。
その実現性はひとまず措こう。
問題は、魔人領域に攻め込むという行為が、一歩間違えれば人間の滅亡に直結するということ。彼の地に存在する魔人たちは、自分たちに牙を剥いた人間の存在を許すことはなく、報復するにおいて人界の国境線を気にすることもないだろう。
つまるところ、テオの野心は魔人の総攻撃を誘発しかねないのである。
いや、しかねない、ではない。
確実に誘発する。少なくとも、話に聞いた魔王ジウは自らに逆らう人間の増長を見過ごしにはすまい。
魔人領域を切り裂かんと欲するテオの野心は、人界をも切り裂きかねない諸刃の刃。
あの青年は人間という種族にとっての魔剣に他ならないのではないか。イズの声を聞いたとき、ふとフレアの脳裏にそんな言葉がよぎったのである。
常ならばバカらしいと切って捨てる自分の着想を、このとき、何故かフレアは断ち切ることができなかった……
イズとフレアが地下要塞の一角でそんな会話を交わしていた頃、地上における戦いは決着をみていた。
シルル教団遠征部隊が、押し寄せる魔物の大群を撃退することに成功したのである。
被害は甚大だった。
全軍の半ばを占めていた義勇兵団は壊滅し、教会騎士団、神官戦士団も半数以上が死傷している。一騎当千の教会騎士で構成された聖騎士団にいたっては、五十の人員のうち四十人が戦死するという惨状を呈していた。
これは聖騎士たちが、過酷な戦況下で常に全軍の先頭に立ち続けていたことを示しており、その義勇はおおいに称賛されるところであったが、聖騎士団が一度の戦いでこれだけの被害を出したことはかつてない。
全軍の半数以上が死亡し、残った者の多くも負傷している。
壊滅的と形容するしかない惨憺たる被害であり、シルル教団にとっては痛恨ともいえる戦力の喪失である。
だが、激闘の末、疲れ果ててしゃがみこんだ将兵の顔にあるのは、暗い感情ばかりではなかった。憔悴した表情の中には、自分たちが困難な目的を完遂したのだという確かな達成感がある。
彼らの誇りを支えるのが、晴れ渡った空と降り注ぐ陽光であることは言うまでもないだろう。
シルル教団は旧コーラル領を覆っていた魔人の呪いを解き、廃都の浄化を成し遂げた。
教皇親征は成功したのである。




