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第二章 僕と姉のこと(2)

 後から聞かされたことだが、この男性は皐月が生前結婚を約束していた人物だという。すぐに結婚しなかったのは、この男性の生活が安定していなかったからだそうだ。

 帝国大学を出た優秀な学士であるのに、そのまま研究者にはならなかった変わり者。

 それが、時生と後の『先生』――春日井恭助との出会いである。

 春日井曰く、あの時は本当に、時生を見て皐月が帰って来たように思えてしまったらしい。この件を機に、時生は己と姉が本当に似ていたのだなと改めて実感したのだった。

 皐月の唯一の身内ということで、喪主は時生が勤めることとなった。やはりその身ひとつで来るべきではなかったのだ。そもそも喪主を勤めること自体が未経験の時生は、あらゆる面において無知すぎた。それを影から支えてくれていたのも、実は春日井であった。この春日井という男、普段は割と仏頂面であることが多いのだが、時生と話をしている時は時折穏やかさを垣間見せるというほんの少し雰囲気が変わった人物であった。この数日間、時生は大抵春日井と共にいたので(それというのも、親戚一同の中では立場上浮いてしまうのが大変居心地が悪かったのである)、その表情の変化には早いうちから気が付いていた。

 慌ただしいままに時間だけが過ぎ、さていよいよ翌日土葬が行われるという夜に、春日井は蛍を見に行こうと言い出した。この家の近くに綺麗な川があり、今の時期ならば沢山見ることが出来るのだそうだ。本来ならばそういうことをしている場合ではないとは思うのだが、その時間にはもう翌日の支度も大方整えており、寝に入る者もいたので、時生はその誘いを受けたのだった。

 ――君はこれから、どうするのだね?

 河原へと向かいながら、春日井は尋ねた。

 ――とりあえず、高等学校は出なくては、と思います。姉をこの地に残して行くのは不安ですが、僕ひとりで連れて帰る訳にもいきません。

 それに、この場所ならばあなたがいるだろうから、きっと姉も寂しくないでしょう、と時生はつけ加えた。そうか、と春日井はそれっきり口を開かなかった。

 大変蒸し暑い夜だった。しかし、空はくっきりと晴れていたので、見上げると満天の星がこちらを見下ろしていた。歩くたびに生ぬるい湿気が肌にめたりと張り付いていくが、この凍れる星の輝きと潮の香りを含んだ風がその不快さを忘れさせてくれるようだった。

 からん、と下駄が鳴る。心地良い音色だった。

 ――春日井さんは。

 時生が声をかけると、春日井は首だけを動かし彼を見下ろす。春日井が特段背が高いという訳ではなく、単純に時生が小柄なだけである。

 ――うん?

 ――春日井さんは、強いひとですね。とても。

 その言葉に、当の春日井はきょとんとして目を瞠っていた。時生が一体どういう意図でそう口走ったのかが理解できなかったのである。

 時生は続ける。

 ――春日井さんは、決して、人前では泣かないじゃないですか。僕には無理でした。

 それを聞いて、そういうことか、と春日井はようやく納得したようだった。前述の通り、この数日二人は大体一緒にいた訳だが、その間春日井は一回も泣いてはいなかった。時生が事あるごとに泣くから、泣く気すら起きなかったのかもしれない。しかし、時生は知っている。夜中に棺を覗きこみ、皐月の皺の寄った唇に水を落としながら声を上げずに泣いていたことを。きっと、彼は時生を不安にさせてはなるまいとして、気丈なふりをしていただけなのである。

 春日井はようやくふふ、と声を洩らして笑い、そんなことはないと口にした。まるで囁くような口調である。

 ――本当に強いひとは、隠れて泣いたりしないさ。

 その言葉の真意を問い質す前に、二人は例の川原に辿り着いていた。茂る草むらへ足を踏み入れると、丈の長い草が肘のあたりをくすぐる。

 ――ところで君は、冷光(れいこう)を知っているかね。

 先を行く春日井が唐突に口を開いた。

 刹那、翠の光が時生の視界を掠めて行った。ふと視線を移すと、この茂みのあらゆる所からふわりとした翠の粒が浮かび上がり、ついたり消えたりを繰り返していた。無数に浮かび上がる光を見て、時生は今頭上に浮かぶ星星を連想する。ちょうど、空に在るものと同じものが地上にあるようだ、とも思う。

 ――冷光、と言いますと、蛍のような発光物質を持つ生物の『効率性』の話でしょうか?

 時生が答えると、春日井が唐突に動きを止めた。そして、がばりと振り返るや否や、時生にものすごい勢いで近づいてくる。さすがに時生は驚いて、目を剥いていた。

 ――君。高等学校に通っているんだったか。本科か。

 ――ええと。今は本科とは言わず大学予科と言いますが、まあそんなところです。

 ――いつ卒業だ?

 ――このまま順調でしたら、来年卒業しますが……?

 ――なるほど。どうりで……。

 ふむふむ、と春日井は何やら一方的に納得しており、当の時生はと言えばこの会話のうちにどうしてそのようなことを聞くのかよく理解できずにただただ呆けているばかりだった。そのまま春日井を観察していると、彼は随分機嫌がよさそうにしているではないか。

 ――皐月さんは、どうして黙っていたんだろうなあ……。

 そして最後に、このように呟いた。今までははっきりとした口調だったのに、この最後の一言だけは、周りに溢れている翠の光のように薄らぼんやりとした声色だったのを、とてもよく覚えている。

 今思えば、春日井は後々時生を己の書生にしてもいいと、この時点で考えていたのかもしれない。正式に春日井から声をかけられたのは、この日の出来事から一年後、時生が高等学校を卒業した日にあたる訳だが、それはまた別の話である。

 少なからずこの日までは、時生も春日井のことをただの良い人としか認識していなかったし、春日井もおそらくはそれと近しいものしか感じていなかっただろうと思われる。

 ――共にいることが増えてから、彼らの関係は大きく歪みを来し始めた。いつしか『良い人』の関係が『師弟』へと代わり、それがさらに『疑似恋人』へと移ろいゆく。それを感じながらも、時生は否定などできなかった。否定したくなかった。その頃には、既に春日井のことが心から愛しいと思えるようになっていた。同時に思う、欲しい、とも。

 あの頃に戻りたかったなんて、決して言うつもりはないけれど。

 『疑似的』なものではなく、『本物』にはなれないのだろうか。

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