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第二章 僕と姉のこと(1)

 明治二八年八月。外国との戦役に終止符が打たれてから、数か月が経過していた。

 

 時生には年の離れた姉がいた。名を、久喜皐月(くきさつき)という。

 皐月・時生姉弟は年齢も性別も異なるくせに外見が非常によく似ている。親戚が一堂に会する際はきまって「どちらも別嬪さんで」と言われるほどである。男である時生としてはとても複雑だが、皐月はどうやらそれをとても嬉しく思っていたらしい。そう言われるたびに彼女はにこりと笑い「時生は私の、自慢の弟ですから」と言い張っていたのを時生はとてもよく覚えている。

 皐月はその頃親戚の家に奉公に出かけており、時生とは別々に暮らしていたため特にそう思っていたのかもしれない。正直なところ、皐月は時生を溺愛傾向にあったのは言うまでもない。

 そういうこともあり、この皐月はとてもよく頻繁に本家へ時生宛の葉書を送っていた。皐月が奉公へ行っている親戚宅は本家とは異なり、海が近い。そのため、皐月は時生が喜ぶだろうと思い、彼が知らないと思われることを葉書いっぱいにしたためて送ってくれるのである。おかげで当時の時生はその葉書にしたためられた皐月の言葉を、軒下でぼんやりと読みふけるのが習慣となっていた。

 新しい街はとても綺麗で、風はいつも潮の匂いがすること。

 新鮮な魚が安く手に入るから嬉しい、ということ。

 魚の料理もたくさん覚えたから、今度帰った時に作ってあげる、ということ。

 そういった幸せに満ち溢れた文面が葉書いっぱいに埋め尽くされ、家からろくに出られない時生は心底羨ましかったのを覚えている。

 こういった葉書のやり取りが何年も続いていたのだが、ある時、葉書ではなく電報が届いたことがあった。カスカイ、と記されたそれに、受け取った時生は思わず首を傾げてしまった。カスカイなんて名は、全く身に覚えがなかったのである。一瞬間違いかなにかだろうかとも思ってしまったほどだ。

 ――その中身を読むまでは。

 時生はその電報を読むなり、はっと身を固くした。そして、そのまま三度ほど電報を読み返すと、次の瞬間にはろくな荷物も持たずに本家を飛び出していた。

 皐月が、虎列剌(コレラ)で亡くなったと。そう綴られていたのである。


 皐月が暮らしていた海の街は本家から遠く離れた場所にある。時生は列車を何度も乗り継ぎ、恐ろしいくらいに長い時間をかけてようやくその海の街へとやってきた。本家を出るまでは大層暑い暑いと思っていたのだが、この頃にはむしろ寒いと思えるほどに時生は冷や汗をかいていた。

 この街で暮らす親戚と時生は実のところ数回しか会ったことがない。この親戚宅すらも場所があやふやであった。やはり疎遠なのはよくないと思いながら、皐月が今までにしつこいくらいに送ってきた葉書の宛名を頼りにその家を探した。……結論から言えば、そんな必要は全くなかったのだが。

 聞くと、その家は古くから廻船問屋を生業としていたようで、ちょっと道を尋ねると誰もが「あそこか」と口を揃えて言うのだった。これだけ奇妙な体験をしたのは、時生自身初めてである。

 さて、ようやく時生が親戚宅に辿り着くと、下女がすぐに家の中へと案内してくれた。聞くと、病院に行く間もなく嘔吐と下痢を来し死亡したのだという。下女は淡々とした口調で説明してくれたのだが、その顔は随分と泣きはらした顔であった。それがやたら印象に残っている。

 縁側に面した和室に、皐月だと思われる身体はあった。時生と同じくらいの大きさの身体が布団の上に横たわっており、顔の上には真っ白な布がかけられている。白い着物から覗く指先は、瑞々しいものなんかではなく、まるで洗濯婦の掌のように皺が寄っていた。時生は咄嗟に何かの間違いだと思った。年が離れているとはいっても限度があると、そう思ったのだった。皐月がきっと己に会いたいと思い、こういう性質の悪い悪戯を思いついたのではなかろうかと思った。だから、この布を取ったらきっと別の人物で、本物の皐月はその辺の影からひょっこりと顔を出し、優しくにこりと笑いかけてくるのではと勝手に想像していた。

 ならば、この顔の布はさっさと取ってやった方がいい。そう思い時生が触ろうとすると、どうしてかその時集まっていた親戚一同に止められてしまった。見ない方がいい、と、口を揃えて言うのだ。それでも時生は我儘を言い、ようやくその顔を拝むことができた。

 白の布をそっとはぎ取る。

 ――あ。

 どのように声が出たのかはよく覚えていないが、時生は確かにそう思った。これだけはとてもよく覚えている。

 眸を閉じ仰向けに横たわるその顔は、眼が落ち込み頬がくぼんだ、老婆のような風体だった。しかし、その顔つきは知っている。長らく離れていたけれど、絶対に忘れることのない、自分とよく似た顔つきの女性。間違いなく、横たわり心臓を止めているのは皐月、その人だった。

 今となっては、泣いたのか悲鳴を上げたのか、きちんと顔にかけた布を元通りにしたのかすらも覚えていなかった。ただ、彼女の身体を取り囲むようにして立ち並ぶ四角い氷の柱がまるで墓標のように思えてしょうがなかった。彼女をそんなもので取り囲んで、あちらの世界へ連れて行ってしまうつもりなのだろうか。

 そんなの厭だ、と時生が力任せに氷をどかそうとしたとき。

 からん、と。全く別の所から音が聞こえたのである。

 下駄が転がる音だと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 時生が恐る恐る見遣ると、縁側に、墨色の着物を着た男性が一人腰かけていたのだった。髪は黒く、この家の者にしては随分と顔つきが異なると時生は思った。久喜家の血筋では特に、男性は温厚さが目立つ顔立ちをしている。しかしこの男は精悍さの方が際立っており、ぼんやりとだが、うちの親戚ではないなと感じた。

 その男性は煙管をゆったりとくゆらせながら、じいっと、己がたった今飛ばした下駄を見つめていた。あまりに真剣な表情だったので、時生には睨めつけているようにも見えていた。煙管の先端から煙の輪が三つほど浮かんだ時、ようやくその男性はおもむろに口を開く。

 ――晴れ、か。

 はっとして、時生は下駄を見た。下駄は鼻緒の部分を上にして落ちている。それを見て、この男は晴れだと言ったのだ。そんなはずない、と時生は思う。その遊びを知っているのは、この自分と皐月くらいのはずである。少なくとも、久喜姉弟の知る範囲でこれをやっている人物はいなかった。だから時生の目にはこの光景が異常に思えた。そしてこうも思う。

 この人は一体、何者なのか、と。

 男性は口元に笑みを湛えている。煙管が生み出す紫煙が、輪を描いて空へと立ち上っていった。

 ――よかったな、皐月さん。あなたの大好きな、晴れ模様だ。

 呆けたまま時生が彼の広い背中を見つめていると、その視線にようやく気が付いたのか、男性がふとおもむろに振り向いた。そして、時生を見るなりはっとして口を開け放ってしまっていた。左手で泳がせていた煙管を取り落としそうになったほどだ。

 男性は言う。

 ――皐月さん……?

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