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第一章 僕と夜光魚のこと(1)

 下宿の戸を開けると、蒸された空気がどっと押し寄せてきた。

 まだ午前の早い時間帯だというのに、既に外気は発狂したかと思うくらいに熱を帯び、湿気と共に肌にまとわりつく。

 時生(ときお)はその身に纏う襯衣(シャツ)の首元を少しだけ緩めると、ふうっと息を吐き出した。この分では、今日も一日中暑いのだろう。思わず顔をしかめてしまう程に、この暑さには底がない。

 ふと見上げればぎらつく太陽がこちらを見下ろしていて、地上のありとあらゆるものを焼き焦がそうとしていた。心底、時生は恨めしく思う。とはいえ、この場所でいつまでも突っ立っていたらますます暑くなるばかりだし、そうなると困る人物が自分の他にもう一人いる。腹を括り、時生は歩き出した。

 からん。

 濃紺の鼻緒の下駄が鳴る。時生が好きな音だ。正直なところ、履き心地に関して言えば草履の方が好みである。しかし、このからからとした心地の良い音が聞きたいというそれだけの理由で彼は下駄を履き続けているのだった。

 音の記憶というものは、意外と根深い。この下駄の音ですら、耳にするたびに思い出すものがいくつかある。

 そのまま歩いていると、暑さを知らない少年たちが元気に外を駆け回っていた。随分と威勢のいい声である。地上を焼き尽くそうとしている太陽ですら、彼らの元気までは焼却することができないのだ。よくよく耳を澄ましてみると、どうやら彼らは未だに数年前の戦役の影響をひきずっているのか、兵隊のごっこ遊びをしているようである。時生は微笑ましく思い、くすりと笑う。

 きっとこうして穏やかな気持ちでいられるのも、自分が直接戦役に出たことがないからだろう。もしも己が本物の兵士であったならば、もっと気持ちが違うはずである。しかしながら、実際には全くの無関係であるという訳ではない。

 時生は足を止めた。下駄の音が止む。

 あの時戦役が起こっていなかったならば、今の状況はもっともっと、ましだったのかもしれないと。ふと、そんなことを考えてしまったのである。


***


 目的地に着くまでの間に、近所で出会った奥方に「春日井(かすがい)先生に持って行って」という言伝と共にいくつかの水蜜桃(すいみつとう)を持たされ、すっかり荷物が増えてしまった時生である。

 春日井先生とは――厳密にいえば微妙に異なるのだろうが――時生の師にあたる人物のことである。この近所の人はそれをよく知っているので、何かをお裾分けしようと思ったらまず彼の家を直接訪れるのではなく、何故か通りすがりの時生を捕まえることを常としている。

 それというのも、この春日井という男、人は悪くないのだが奈何せん顔が悪い。否、顔つき自体は精悍さを秘めている上、実年齢にそぐわない位若々しい。分類的には端正に当てはまるだろうと時生も常日頃思っている。

 それではなにがいけないかと言うと、その表情にある。彼は大抵、どの人に対しても仏頂面なのである。笑ったところを見た人はおそらく片手に数えられる程度しかいないのではないか、と密かに噂されるほどだ。しかしそれについて時生は「先生は普通に笑いますよ」と言い張っているので、この説は信憑性が薄い。

 加えて彼の職業が「多分、学者」という微妙な立ち位置であるため、「あの人はよく分からない」と結論づけられているようだ。したがって、そこそこ人当たりが良く毎日彼と顔を突き合わせていると思われる時生に皆寄ってたかってこういうものを預けてしまうのである。

 そのおこぼれを頂戴できるので、時生自身はあまり気にしていないが。そもそも、あの人を理解しようという考え自体が時生曰く「愚の骨頂」なのである。

 さて、その時生が水蜜桃片手に春日井宅に行くと、ちょうど門から老紳士が出てくるところだった。身なりの良い白髪の老人で、丸い縁なしの眼鏡をかけている。時生は一旦立ち止まり目礼すると、彼も時生に気が付いて恭しく礼を返してくれた。

 来客が極端に少ない春日井宅にしては、珍しい客人である。

 先生の知り合いだろうか、と考えながら玄関先まで行くと、そこには墨色の着流しを身にまとう背の高い青年が立っていた。短い髪も瞳も着物と同色で、どこか厭世的な空気を纏っている男である。

 しかしその雰囲気に臆することなく時生は一礼し、

「先生、おはようございます」

と挨拶をした。

 この男が、件の『先生』――春日井恭助(かすがいきょうすけ)である。

 春日井は「君か。いらっしゃい」と仏頂面のまま返事し、次に時生がぶら下げていた包みに興味を持った。

「水蜜桃です。三丁目の松本の奥様からお裾分けです」

「ふむ、水蜜桃か。後で礼をしなければ」

 ちなみにその礼を贈るのも時生の役目である。

 時生はじわりと浮き出る額の汗を袂から出た襯衣の右袖で拭いつつ、ふと玄関脇に目をやる。そこには彼が春のうちに植えていた朝顔が弦を伸ばし、青い色の花を咲かせていた。今年も、きちんと咲いたようで嬉しかった。春日井はその時生の視線に気が付いたのか、「ああ」と首を動かす。

「今朝方咲いていた。蕾が膨らんでいたから、そろそろだと思っていたが」

「やはり、僕は青色の朝顔が好きです」

 それよりも、無関心だと思っていた春日井が朝顔に興味を示していたことが時生にとって嬉しかった。まあよくよく考えたら、春日井の専門分野を考慮すれば植物に目を向けなくてどうする、という気もするが。

それからいくつか当たり障りのない会話を繰り広げたのち、やや重い引き戸をゆっくりと開ける。だがそこで春日井はぴたりと動きを止め、突然真後ろの時生を振り返った。

「君。ちょっと見せたいものがあるのだが」

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