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序章

 明治二八年、八月。

 あなたが突然いなくなった、夏。

 塩気が混ざる風がめたりと肌に纏わりつき、喉がからからに乾いていた。耳に響くは蝉の声。延々と繰り返し聞こえるざらついた音色が、呆然としている僕の頭をしきりに叩いていた。

 目の前には、僕と同じくらいの大きさの身体が布団の上に横たわっている。あんなに綺麗だった細い指が、今はまるで洗濯婦の手のように皺だらけになっている。

あなたの周りを囲むようにして置いてあるいくつもの四角い氷の柱が、まるで墓標のようだった。その墓標は今からあなたをあちらの世界へと連れて行ってしまうのだろうか。

 からん。

 その時だった。開け放っていた縁側に腰かけていた男性が、履いていた下駄を庭へと放ったのは。軽やかな音が鳴る。

 その墨色の着物を着た男性は煙管をふかしながら、じいっと、己が飛ばした下駄を見つめていた。あまりに真剣な表情だから、僕には睨めつけているようにも見えた。

 ――晴れ、か。

 その男性は一人ごちると、口元に笑みを湛える。煙管が生み出す紫煙が、輪を描いて空へと立ち上っていった。

 ――よかったな、皐月さん。あなたの大好きな、晴れ模様だ。

 そう言って笑った彼の表情を、僕は決して忘れることはないだろう。……否、忘れてはならないのだ。

 僕が築いた彼との均衡を崩さないためにも。その身を縛る鎖のように、あの微笑みに全てを繋ぎとめておく必要が僕にはあった。そして、そのことに対して僕が納得し続ける限り、その均衡は永遠に崩れることがない。少なくとも僕自身はそう思っていた。

 ああ、あなたのいない七度目の夏がやってくる。

 空を見上げると、蒼穹の向こうに入道雲が立ち昇っている。あなたの好きな夏空が、今も変わらずにそこにある。

 それを見るたび、必ず思い出すことがある。

 下駄が転がる音と、あなたの微笑みだ。それらが蜃気楼のようにぼんやりとした輪郭を浮かべながら僕の脳裏に映し出されてゆく。それが僕とあなたの、密やかな約束の証だ。


 明治三五年、八月。

 僕は今も、あなたの代わりにあの人の側にいる。

 ねえ。

 あなたが愛したあの人と共に生きていくことを、愛することを、あなたは赦してくれますか?


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