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第二章 僕と姉のこと(5)

***


 案の定、海に着いた頃にはすっかり日が暮れてしまい、夜色の空が星を纏ってこの地上を覆い尽くしていた。潮風が頬を撫ぜる。昼間の熱気を僅かに孕んだそれはややべたつくが、特別厭ではなかった。

 時生は下駄を脱ぎ、裸足で砂浜を歩いた。細い指の間に細かい砂が入り込み、ぼこぼことした奇妙な感覚がある。砂の上を裸足で歩くことがこんなに気持ちがいいものだとは知らなかった。

 春日井は時生の後ろをのんびりと歩いているようだ。特段音はしないのだが、彼が纏う気配のようなものが背中に伝わってくるのである。

「不思議ですね」

 突然時生が振り返った。「先生。ここから、生命が生まれるのでしょう?」

 春日井もそれに同意し、ゆっくりと首を縦に動かした。

「それがこの世の理、だ」

「ならば、この場所に人は還ってゆくのでしょうか。水に生まれ、水に還る……、」

 それはどうだろうね、と春日井は苦笑した。随分おかしなことを言うものだ、と呆れられたのかもしれない。それでも、時生は彼にどうしても言いたかったことがあった。

「先生。あの夜光魚は、水に還りたいのではないでしょうか」

 時生がそう言った時、ざ、とひと際強い風が吹きつけた。鼓膜を振動させるざらついた音色の後に、再び海岸は静まり返る。その間、時生はじっと黙っていた。春日井の反応を見るためだ。

 春日井は時生の鳶色の眸を見つめたまま固まっていた。が、後に面白いことを、と短く呟き、続きを促す。

「互いに身体を擦り合わせて、『ここに自分の身体がある』と認識する。でも本当は、水に還りたくて、擦り合わせるたびに『ああ、まだここに自分の身体が残っている』と絶望しているのかもしれません。絶望の中、せめて水に近づきたくて青く光るのです」

「そりゃあ、妙案だ」

 ならば、と春日井が問う。「我々は空気になりたいと。ああまだここに身体があるではないかと思いながら触れ合うのか? こうして?」

 そう言うが否や春日井は時生の右手首を掴み、ぐんと身体を引き寄せる。黒曜石のような冷たく暗い瞳が時生の鳶色を射抜き、覗きこまれた刹那時生はぞくりと寒気を感じた。一瞬だがその瞳に刃物の切っ先のような薄い鋭さが宿った。そしてそれを真正面からつきつけられたのは紛れもなく自分だ。しかし今その刃物はすでに納められており、眸すらもゆったりと細められているのみ。春日井の睫毛がぴくんと震えるのが見えた。

「このまま触れれば君は空気のように、透明になるのかね」

「――少なくとも僕は、」

 空気になりたい。

 空気になって、あなたを満たす一部になりたいと。

 それを言う前に、口唇をきつく塞がれた。噛みつくような乱暴さで、さすがの時生もこれには驚いた。逃げようと自由な左手で春日井の胸を叩くも、決して離してくれない。角度を変える刹那に息を吸い込むと、再び噛みつかれる。酸素が足りなくなって、頭がくらくらした。暴れる舌先がなぞる歯列。その感触だけが妙に生々しい。

 力を抜けてぼんやりしてきたところで、春日井はそっと口唇を離す。彼の腕の中で時生はぼんやりを通り越して、人形のように固まっている。どちらのとも言えない垂れた涎を軽く拭ってから、彼は時生の薄い頬に触れた。

「……そらみろ。透明になんか、ならないじゃないか」

 この一言の真意が、時生の朦朧とした頭では最初理解できなかったらしい。彼はしばらく呆けたまま春日井の顔を見上げていたが、ようやく思考が追いついてきた。

「ああ、」

 触れる骨ばった手に時生は己の左手を重ね合わせ、冷えかけの指先に温んだ湿り気を移す。そして、その手を頬からゆっくりと引きはがしたのだった。触れていた箇所の温もりがすぐに潮風によって攫われていき、今はただ緩く冷えた皮膚がそこにあるだけである。

「君までいなくなったら、わたしは一体どうすればいいのだね」

 ああやはり、と時生は漠然と思う。この一言で確信を得たと言ってもよい。

 彼の胸に残るは、君までいなくなったら、の部分だ。それに繋がる言葉は間違いなく、「皐月がいなくなってしまったのに」、だ。所詮春日井にとって、時生は皐月の代わりでしかないのだ。どんなに好きでいようとも、どんなに尽くそうとも、結局は彼女の代わりでしかなく、それ以上になることはできないのだ。そう思ったら、心がまるで凍りついたようにジンと冷えた気がした。

 これが絶望という名の温度だろうか。

 時生の両手が春日井の胸に当てられる。

「……時生?」

 そのただならぬ様子にさすがの春日井も何かを感じ取ったのか、怪訝な表情で時生の顔を覗きこもうとした。

 だが、時生はその胸に当てた両手で、春日井を突き放した。決して顔を覗きこませまいとする明確な意思がそこにはあった。

「先生は」

 心の奥底でもう一人の時生が哮る。

 お願いだから、優しくしたりしないでほしかった。もし始めから冷たくされていたのなら、こんなにも好きにはならなかったし、こんなに苦しい思いをしなくても良かったはずだ。先生と出会ってからのこの七年、無駄ではなかったと思うけれど、所詮僕はただの身代わりだったのだ。身代わりでいいと思えれば、それでよかったのに。

 だけど僕は、

「先生は――僕のことを、どう思っていらっしゃるのですか……?」

 春日井が面食らったような顔をした。時生が一体何を思って突き放し、いきなり何を言い出すのかと、解せない様子でいる。今も時生は俯いたまま、春日井と目を合わせようとしない。今顔を上げれば、暴れ狂っている心がむき出しになってしまうから。

 春日井に、本心など伝えたくない。これ以上触れてしまえば、否応なしに気持ちが擦れ合ってしまう。まるであの瓶の中でゆったりと泳いでいる、かの夜光魚のように。あの幻想的な雰囲気を纏って、青く青く光りたくなどない。

 いっそ誰も触れてくれるなと、そう叫んでいる。

「何が、言いたい?」

 春日井が問う。時生はそのままの状態で言い放った。決して語調は強くない、むしろ弱い方だと思うのに、それに含有されている無数の棘は鋭い。触れれば容易く血を流してしまいそうなほどだ。

「僕は先生にとって、姉の代わり、なのでしょうか」

 だけど僕は。

 彼は唐突に理解してしまった。

 姉の身代わりでは厭だと思ってしまった。子供の駄々と似たようなものだ、自分でも分かっている。しかし、それだけは決して譲りたくなかった。それが己の本心だ。必死に隠し続けたけれどもう我慢ならない。

「君が皐月さんの?」

 春日井はまさか、と言う。そして目を瞠りながらも、しかし真摯な表情で時生を見下ろした。彼はまだ俯いている。だが、彼からほとばしるような見えない叫びが春日井をも圧倒していた。このたったひとつの疑念を胸に七年付き合ってきたとでも言うのか。そんなに無理をしていたのだろうか、この一回りも歳の違う少年は。いきなり突きつけられた鬱憤に、春日井は殴り倒されたような気分になる。

「君、泣いているのかい」

「泣いてなんか――」

 時生がその問いに食らいついた。しかし顔を上げた刹那、彼の目から何か光るものがぼろりとこぼれ落ちていく。そしてその光の粒は足元の砂浜へと落下すると、すぐにしみになり消えてしまった。

 細波の音が彼らの沈黙をかき消そうとしている。その他に音は、ない。

「……君。聞いてくれるかな」

「聞いてなんかやらない……、言ってもどうせ分からないでしょう」

 時生は思う。

 だから僕は空気になりたかったのだ、と。

 空気になれば、こんな思いもしなくてよかった。大好きな姉に嫉妬することも、憎く思うこともなかった。

 そして。

 あの夜光魚のようにいつも綺麗な青に包まれていたのなら、二人の現実はもう少し変わっていたのかもしれないのに、と。

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