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第二章 僕と姉のこと(4)

 その帰り道、珍しく時生は春日井に「海が見たい」と強請(ねだ)った。

 実のところ、時生は海を間近で見たことがない。一番近くで見たのが、件の墓標の前から見える大分遠くにある海だというのだから驚きである。彼が今住んでいる、そして春日井が住んでいるこの街も充分海に近いのだけれど、どうしてか時生は海に近づくことができなかった。理由はなんとなく分かっている。その場所に行ってしまえば、きっと否応なしに皐月のことを思い出してしまうからだ。その理由を頭の中に浮かべるたび、時生は思う。やはり、己は姉の死を消化し切ってはいないのだ、と。

 今の時間から行くと、海に着く頃には夜になっているぞ、と春日井は言ったが、時生の深刻そうな表情を見て何かを察したのだろう。しばらく考えた後、了承してくれた。

 黄昏の空は時生が好きなもののひとつである。勿論昼間の真っ青な空も好きなのだが、それ以上にこの朱に包まれてゆく刹那の色の変化がとても好きだ。柔らかな朱鷺色から燃える朱へ、そして赤銅へと収束してゆく空が、一日の終焉を現しているようだ。そして翌日、新しい陽が昇るのだと時生はぼんやりと思う。

 二人で共に歩きながら、そんな夏の夕暮れを全身で受け止めた。その仄暗さに、辺りの境界線が曖昧になり始める。蜩がどこかで鳴いている。温んだ空気にはいつしか夕餉の匂いが混ざり、どこかで懐かしいような不思議な気持ちがこみ上げてくる。

 だから、この時間が好きなのだ。

「昔は、こんな時間まで外で遊んで、よく帰りが遅いと怒られたものだ」

 今まで口を閉ざしていた春日井まで似たようなことを考えていたのか、突然そのように言い出した。彼の口から子供の頃の話、ましてや遊びの話が出てくるとは全くの想定外だったので、時生は思わず目を丸くして言った。

「先生も遊んでいらしたんですか」

「そりゃあ、わたしも人間だからな」

 そんなに遊ぶ印象がないのかと尋ねられたので、時生は曖昧に頷いた。

「僕が知っている先生は、いつも研究ばかりなさっています」

 そもそも、時生と春日井が出会った時点で彼は学士を取得していた。時生がそれしか知らないのは当然である。放蕩者だという噂はちらほら耳にしたけれど、実際はそんなことはない、よく働く人だと時生は常々思っていた。この評価は今も変わらない。むしろもう少し遊んでいてもいいのではないかと思うほどだ。

 そしてこれは最近になって思ったことだが、当時皐月と交際するにあたり、春日井は相当苦労をしたのではなかろうか。春日井の家柄から考えれば、皐月の元で暮らすということは今まで経験したことのない世界で生きることを選択したのと等しい。その覚悟は、並大抵の者にはできないだろう。

 だから尊敬できるのだ、と時生は思う。

「先生は、どういう遊びを?」

「子供の頃の話だろう? 君と似たようなものさ」

 そこでふと、長年疑問には思っていたのだが一度も聞いたことがなかったある出来事を唐突に思い出した。時生は始め聞いてもいいだろうか、と若干悩んだが、この際なので思い切って聞いてみることにした。

「先生。あの日……」

 春日井が首を動かした。こちらに目線は合わせてくれないが、話だけは聞いていることを暗に示しているのだろう。時生は続ける。

「下駄、飛ばしていましたよね」

「え? ああ、『あれ』ね」

 そして春日井は肯定し、「皐月さんがね、よくやっていたものだから。つい」

「姉様が?」

「そう」

 春日井は両腕を組み、昔のことを邂逅するように視線を宙へと向けた。今でもはっきりと覚えているようで、その口ぶりはつい最近の出来事のようだった。その口調で時生は唐突に理解した。この人にとっては本当に、「まだ七年」なのだ、と。

「わたしが遠出しようとするたびに、皐月さんは履いていた下駄を飛ばしてくれたんだ。まるで子供みたいに。しかし不思議なことに、あの方の天気予報はとてもよく当たるんだ」

「こんな風に?」

と時生が下駄を飛ばすと、からんからん、と軽い音を立て下駄が吹っ飛んで行った。二三度弾んだかと思うと、足の内側の部分が上になるようにして止まった。時生はけろりとした口調で、

「ああ、明日は雪ですね」

 と告げた。

「君の天気予報は当たらんな」

「まったくです」

 春日井のため息を背に、時生は下駄を拾いに行った。裸足で道を歩き、飛ばした下駄を再びつっかける。濃紺の鼻緒がすっかり土で汚れてしまった。幸い乾いた土が付いた程度なので、払い落せば問題ないだろう。

 時生は振り返り、笑う。春日井が呆けたような表情でこちらを見ていた。

「先生もやってみればいいじゃないですか」

 ね? と同意を求めて首を傾けると、春日井の脳内でふつんと何かが切れる音がした。記憶の糸が何かを勝手に引き出して、勝手に切れたのだ。その場に残された記憶は、確かに下駄を飛ばして笑う皐月のもので。

 ――恭助さんもやってみればいいじゃない。

 そう言って、目の前の彼と同じように笑ってみせたのだ。

 どうして、ああ。春日井は思う。

 どうして忘れさせてくれないのだろう。この少年は、どこまでも残酷で。それでも離れられない。離れたくないと、心のどこかでざわめいていた。

 『彼女』、ではなく、『彼』を見たいのに。そうするべきなのに。

 その刹那、時生はやってきた先生に腕を引かれて、そのまま強く抱きしめられていた。顔がちょうど時生の耳の後ろにあるので、彼には春日井が一体どういう表情をしているのかはよく分からない。ただ、その時春日井の肩がほんの少し震えていたのは気がついていた。

「――せん、せ」

 戸惑いながら声を絞り出すと、春日井は細い声で、珍しく駄々をこねる。

「すまない。もうすこし、」

 このまま、と。

 時生はそれで何となく理解した。今の己の無意識の行動が、先生の中の皐月に関する記憶を引き出した。夕焼けによる逆光で時生の顔が見えなかったおかげで、そこに皐月がいる気がしたのだろう。

 時生はされるがまま、身体の力を抜きながら春日井の首筋に息を吐いた。汗ばんだ筋が闇に混ざりぼやけて見える。

 己は背格好も顔つきも、皐月ととてもよく似ていた。生き写しとは言わずとも、無意識に同じ行動を取ることもある。自覚もしている。

 そんな時生の些細な行動が、今、春日井の中の皐月と重なった。彼が常に時生をそのような目で見ている訳ではないとは思う。しかし。

 ただ、それだけなのに――今この瞬間、大好きなはずの姉がひどく憎く思えてしまった。


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