5
「大丈夫さ。ちょっと足が痺れただけ、だと思う」
二人に心配を掛けたくない。
だから純一は笑顔でいた。
意識を保っていることが限界なほどなのに。それなのに笑顔でいた。
「もう帰るわよ? この期に及んで、まだ心霊とかなんとか言ってるの? そんなのもう十分よね」
夏菜は純一の首根っこを鷲掴みにし、丁寧に教室から運び出した。
「痛いよ。でもまあ、心霊現象はもういいかな。ここまで来たら、認めざるを得ないしさ。智香ちゃん、迷惑掛けてごめんね。それじゃ」
引き摺られながらも、純一は笑顔を絶やさなかった。
純一と夏菜の二人は、そのまま旧校舎を去って行ってしまう。
怪しまれない為、そこまでは智香も一緒に行った。
しかし、二人が去りゆくとまた幽霊に戻り旧校舎へ。
「今回も無事、追い返すことが出来ましたよ」
任務完了。
本当ならば喜ぶべきことであった。
それでも智香の表情は暗かった。
「純一さん」
小さくそう呟くと、智香は再び彷徨い始めた。
幽霊が出ると噂の旧校舎を……。
純一が智香と出会ってから数日が経過した。
あれから純一は人が変わったかのように勉学に勤しむようになった。
勉強が大の苦手な純一が何故――?
とはいえ、純一が精を出すことと言えばやはり、興味があることに対してだけだ。
興味のあることにはとことん凝るが、それ以外は適当。
それが堀山純一という人物だった。
「よう純一。――って、どうしたんだよ!? そんな真面目君みたいに教科書片手にノートだなんて――お前らしくもないぞ!」
声を掛けて来たのは、純一のクラスメイトにして友人でもある洸一だった。
「まぁね」と、全く顔を見ずに軽く返した後で「勉強しておきたいところがあったんだ」と続けた。
「勉強? どれどれ――って、物理か?」
「うん。手などを一切触れずに物体を自由自在に動かすことは可能なのか――ってね」
「つかこれ、当分先に習うやつだろ? 予習するにはちと早すぎはしないか?」
「うん。まぁ、勉強しておいて損はないかな? と思って」
間近で見たポルターガイスト現象。
そのせいで頭部に傷を負ったというのにも関わらず、純一といったら懲りるどころかむしろこれまで以上に興味が湧いて来てしまっていた。
科学で証明できてしまうようなものであってほしくない。
実際に見たあの光景が何者かによるトリックだったのではなく、本物の心霊現象であってほしい。
その思いを胸に純一は必死に「物理」と書かれた教科書に喰らい付いていた。
「ねえ、純一。あんた、いい加減にしなさいよ。いつまでそんなの見てんの? しつこいのよ」
教科書を奪い、夏菜はそう言った。
なぜなら、彼女は知っていたから。
どうして純一がいきなり勉強なんてし始めたのかが。
どうして純一が心霊現象なんかに興味を持ってのかが。
だから純一のことを止めないと、そう感じていた。
止められるの自分だけだ。
勝手にそう感じ、夏菜は必死になっていた。
そんな思いに、純一は気付きもしない。
「しつこいって何さ。返せよ、夏菜。お前だって気になるだろ? あんな体験したんだったら、調べたくなって当然だろうよ」
純一は教科書を取り返そうとする。
「んな訳ないじゃない。普通だったら、怖がってもう触れたくないとか思う物でしょ? 純一は可笑しくなっちゃったのよ。あの日から……。だってそれまでは、幽霊なんか大っ嫌いだったじゃない!」
つい夏菜は興奮し、声を荒げてしまう。
しかし周囲の視線に気付き、再び声のトーンを下げる。
「これは没収させて貰うわね」
「あっ! おい! 夏菜!!」
物理の教科書を持って足早に去って行ってしまった夏菜。
その背中に手を伸ばしたまま結局届かなかった純一の手。
「う~ん。まぁよくわかんねぇけどさ。とにかく頑張れ」
二人の会話をすぐ傍で聞いていた洸一は、純一の肩をぽんと軽く叩いて励ましの言葉を掛けると、そのまま自分の席へと戻って行ってしまった。
「…………」
あの旧校舎には未だ知られていないなにか重大な秘密がある。
俺はただそれを証明したいだけなんだ。
ただ事実を明らかにしたいだけなんだ。
純一は、今はもう教室にはいなくなってしまった夏菜のことを見つめながら思っていた。
夏菜は去り際にちらりと純一の頭を見ていた。
先日、夏菜を庇って怪我を負った頭の傷を――。
夏菜は俺のことを心配してああ言ってくれている。
些細な行動から瞬間的にそう読みとっていた。
元はといえば半端な興味が招いた種。
幽霊に会ってみたいという軽はずみな行動が災いし、結果的に何の関係もない智香と夏菜の二人を巻き込んでしまった。
その事実を純一は重く受け止め、ずっと後悔し続けていた。
だからもう誰も巻き込まない。
俺一人で何とかする。
たった一人で全ての真実を明らかにする。
そう決心していた。
何故かは分からない。
言葉では説明できない。
それでもあえて表現するとするならば――“選ばれた”から。
純一はそんな使命感にも似た何かをあの日、確かに心で感じていた。
まだ気付いていなかったからだ。
一人で何とかなんて出来ないことに。
真実を明らかにすることを、智香が拒んでいるということに。
自分一人で。
そう思っていても、夏菜はずっと純一を支えていたことに。
後悔している筈だったのだ。もう二人を巻き込まない、そう決めた筈だったのだ。
しかし純一は再びあの旧校舎に行こうと、秘かに計画を建てていた。
そのせいで怪我を負ってしまった。
それは重々承知しているのに。
「……智香ちゃん」
授業が初めってからも、純一は考えていた。
旧校舎の秘密について。
再び侵入する計画について。
そして、間宮智香という少女について。
全ての秘密を明らかにしたい。
そんな純一の想い。
もう一人で暗闇を彷徨いたくない。
そんな智香の想い。
二人の想いは繋がっていた。見えない糸で、確かに繋がっていた。
そしてその糸が、二人を再び巡り会わせることになる。
お互いにもう会えるとは思っていなかった。
しかし、二人の願いが引き合わせたんだ。
決意を新たにした日の夜。
懲りず再び訪れた旧校舎の中。
前回閉じ込められた教室内で、純一と智香は再会した。
「どうしてここへ来たんですか?」
「そっちこそ。なんでこんなところにいるのさ?」
教室の後方、ドア付近には純一の姿が。
教室の前方、黒板付近には智香の姿があった。
二人の間には距離がある。
目測にしておよそ五メートル。
実際の距離は遠い。
しかしながら、不思議と心の距離感はそれほどまでに開いてはいなかった。
二人ともそれを確かに感じていた。
「それは……」
智香は答えられなかった。
答えられるはずもなかった。
純一と別れてからというもの、ふと気が付けば閉じ込められたこの教室へと自然と足を運ぶようになってしまっていた。
いつものように定位置を決めずふらふらと彷徨っていたはずが、ふと我に返れば純一と並んで座った時のことを思い出すかのように同じ場所に腰を下ろすようになってしまっていた。
今夜もそうだったのだ。
「私ったらまた……」と思って場所を変えようとしたところ、純一に声を掛けられたのだ。
「秘密がある気がして、それを暴きに来てやった。もしかして、智香ちゃんもそう?」
純一の笑顔に、智香は二つの意味でドキッとした。
秘密の存在を勘繰られてしまっている。
このままじゃ不味い。ちゃんと隠さなければ。
冷やかになるドキッ。
なんて素敵な笑顔なのだろう。
このままじゃ不味い。顔がにやけてしまう。
温かくなるドキッ。
しかし、智香自身はどちらの感情にも気付いていない。
もう一度純一に会えた。
その喜びで頭はいっぱい、他のことは考えられなかった。
「え、あ、はい」
とりあえず話を合わせた。
本当は完全に反対なのに。
智香は秘密を守らなければいけない、それなのに。
「調べてみたら、凄いことがわかったんだ。秘密を守ってる番人的な幽霊がいるんだとか? 噂の幽霊、早く会いたいな~」
楽しそうに純一は語っていた。
本人の前で、そんなことを語っていた。
それを智香は微笑ましい表情で見守る。
「少し危険ではありませんか? ここに何かあるのは確かなこと、それは身を持って理解したではありませんか」
「だから調べるんじゃないか。そして今日こそ噂の幽霊に会うんだ」
「会ってどうするのですか?」
「友達になる!」
「――っ!!?」
決意の籠った宣言だった。
それに対して智香は驚いていた。
一瞬、心が跳ね上がったかのような感覚に陥っていた。
心臓なんてないはずなのに……。
なのにも関わらず、智香は胸の辺りに妙な違和感を覚えていた。
「と、友達……ですか?」
「もちろん!」
屈託のない微笑み。
それを見ただけで智香の心は激しく動揺する。
(幽霊と友達になる……。――え? それって私とお友達になってくれるということなんですか? こんな私とも……?)
戸惑いを隠せない智香。
そんな智香の様子にも気が付かない純一は、鈍感にも程があった。
「――っ!!?」
純一は何の断りもなく智香の手を握ったのだ。
そして告げる。
「行こうか」
「は、はいっ!」
有無を言わせぬ一言。
その一言に智香は従うしかなかった。
「はい」としか返すことができなかった。
そして智香はまだ気が付いていない。
この瞬間、純一に対して恋をしてしまったということを……。
それでも純一の温かさは確かに感じていた。
いろいろ話をしているようだが、触れている手が気になって言葉が入って来ない。
かつてのように心臓の鼓動が聞こえるようにも思えて、智香は自由な左手を胸に当てる。
「幽霊ってどんな人だと思う? 案外女の子だったりしてね」
他の言葉は全く入って来なかったが、さすがにこの言葉には反応した。
純一は本気で言ってなどいない。
彼の想像する幽霊は、もっと恐ろしいものであった。
胸に手を当てボーっとする智香に、純一は怯えているんだと感じた。
だから和ませようと言った言葉であった。
しかしその言葉は、一番智香を振い上がらせた。
浮かれていた智香を、一気に現実へと引き戻した。
「そうですね。そうだったらいいですよね」
なんとか微笑み、適当に相槌を打つ。
「幽霊と友達になれたら、肝試しとか絶対無敵だよな。でも幽霊って、壁を擦り抜けたり出来んのかな。会うのが凄い楽しみに思えてきた。智香ちゃんもそう思わない?」
「そうですね。私も友達になりたいです。でも……」
幽霊と、という意味で言ったわけではなかった。
純一と友達になりたい。
そういう意味が籠められた言葉だった。
しかしこの時智香の心は、純一に対して物凄く申し訳ない気持ちで溢れていた。
なぜなら、純一が探しているという幽霊の正体は自分なのだ。
正体が明かせない以上、自ら「幽霊は私です」と告げることは出来ない。
人間の姿を借り続けることでしか純一と接することは叶わないのだ。
つまり、智香は純一に対して嘘を吐いていることになる。
初めて出会った時から今の今までずっと……。
そしてこれから先もずっと……。
「でも、どうしたの?」
純一は出来る限り明るい態度で接するようとする。
がしかし、智香にとってはむしろ逆効果とばかりに心を激しく痛めつける結果となってしまった。
自分には純一の友達になる資格はないのではないか。
そう思ってしまう。
「いえ、なんでもないです。大丈夫です」
智香はまるで人間と同じように自分の感情に蓋をした。
「もしかしたら、もう幽霊が傍に来ているのかもね。いるんだったら出ておいで! 仲良くしようよ」
純一は楽しそうに歌っていた。
そう、まるで初めてこの旧校舎を訪れたときと同じように。
しかしそのときとは、一つだけ変わっているものがある。
幽霊である、智香の気持ちだ。
そのときはただ、純一を追い帰すことだけを考えていた。
でも今は、純一に帰って欲しくないと願う彼女もいた。
その願いが自分のことも、純一のことも苦しめる。
それにはもう気付いている筈なのに。
「幽霊と人間って、本当に仲良くなってもいいのでしょうか」
悲しそうにしながらも、それを押し隠して智香は微笑んだ。
「勿論だよ! 幽霊だから友達になれないとか、そうゆうのって違うと思う」
そんな純一の言葉に、智香は自分の正体を知られているとさえ思った。
自分が幽霊であることを理解し、そう言ってくれているとさえ思った。
嬉しくて、悲しくて、寂しくて。
溢れる感情を全て隠し、微笑んだ。




