深淵に這う
勇者という冠がいかに空虚なものであるか、アカネはその時初めて知った。
絶望は前触れもなく訪れ、彼女の視界をどす黒く染め上げていく。爛々と輝く十四の瞳ーー網膜に焼き付いて離れないのは、闇の深淵から這い出してきた七人のデーモンだった。彼らの歪んだ口元には、例外なく嗜虐的な、そして確信に満ちた残虐な笑みが浮かんでいる。
かつて、自分たちは英雄になれると信じていた。正義という名の免罪符を掲げ、仲間と共にこの地へ足を踏み入れたのは、ほんの数時間前のことだ。しかし、その甘美な決意と浅はかな目算は、あまりにも無慈悲に、そして容易く打ち砕かれた。
大気を震わせるデーモンたちの魔力は、およそ人間が太刀打ちできる領域を超越している。それは個人の力量や戦術の優劣といった次元の境界を遙かに置き去りにした、絶対的な断絶。例えるなら、天を突く巨人に見下ろされた一匹の蟻。その足の裏が落ちてくるのを待つだけの、無力な存在。
ーー勝てるわけがない。
脳裏をよぎったその確信は、アカネの思考のすべてを純白の空白へと変えた。頭の芯が酷く冷えていく。己の意思とは無関係に、両足はまるで大地に縫い付けられたかのように硬直を始め、指先一つ動かすことすら許されなかった。
「に、逃げろ……! 勝てるワケがねぇ……!」
静寂を切り裂いたのは、かつて背中を預け合った仲間の、形振り構わぬ悲鳴だった。
鼓膜を叩いたその絶叫によって、アカネの白化していた意識に、辛うじて現実の色彩が戻ってくる。だが、それはあまりにも希薄で、煤けた灰色に近い色合いに過ぎなかった。
視界の端で、泥を撥ねながら無様に逃げ惑う仲間の背中が見える。彼らを責める権利など、今の彼女にはない。なぜなら、アカネの足はいまだ凍りついたように沈黙を保ったままだからだ。
そうして、一秒、また一秒と、生への猶予が削り取られていく。気がつけば、あれほど強固だったはずの絆の残滓はどこにもなく、アカネはただ一人、濃密な死の気配のなかに置き去りにされていた。
デーモンたちが、じりじりと距離を詰めてくる。その足音が、肉を刻む秒針のように聞こえた。彼らの顔に張り付いた邪悪な笑みは、獲物をじっくりと嬲り殺そうとする捕食者のそれだ。
「……殺される」
それは、合理的な思考から導き出された結論ではなかった。肉体の最奥、生存を希求する本能の歪な叫びが、乾いた唇の隙間から、掠れた呟きとなって零れ落ちたのだ。
だが、その微小な震えを、異形の者たちが見逃すはずもなかった。
一人のデーモンが、ますます愉悦に顔を歪め、アカネの瞳を覗き込むようにして言葉を紡ぐ。低い、しかし脳髄に直接響くような声だった。
「あぁ。そうだよ。お前は今、ここで殺されるんだよ」
心臓が、破裂せんばかりに跳ね上がった。肋骨の裏側を狂ったように叩く血流の音が、鼓膜の奥でうるさいほどに鳴り響く。
――死ぬ。私は、こんな悍ましい場所で、ただ屠られるのだ。
「ヤ、ダ……死にたくない死にたくない……」
堤防が決壊したかのように、無意識の裡に言葉が漏れ出し、呪詛のように繰り返される。その醜態は、飢えた獣たちにとって、何よりの上等な娯楽だった。
彼らは腹を抱え、薄暗い洞窟の天井を震わせるほどの邪悪な哄笑をあげた。
「人間ってのは惨めなもんだねぇ!? そんなに死にたくねぇのかよ、勇者様よぉ!?」
羞恥も、誇りも、これまで積み上げてきた名声も、この恐怖の前には一片の価値も持たない。
泣き言を並べ立てれば、あるいは慈悲が乞えるだろうか。人類の希望などという分不相応なプライドをすべて泥水に投げ捨てれば、この命だけは繋ぎ止められるのだろうか。
捨てよう。生きるためだ。
そんなものは、何の役にも立たない。どれほど無様に這いつくばろうとも、どれほど惨めに命乞いをしようとも、私はただ、明日という光を見たい。
――だが、肝心の言葉が肉体から遊離していく。喉が微かに震えるだけで、懇願の形を成さない。
「死にたくない死にたくない死にたくない……」
壊れた玩具のように、ただ同じ音節だけが狂気的に繰り返される。
それを見下ろしていたデーモンが、冷酷な遊興の光を瞳に宿し、低く笑った。
「そうかそうか? そんなに死にたくねぇのか? じゃあ、一つゲームをしてやるよ」
デーモンは、泥と血に塗れて地に転がっていた、アカネの愛剣をゆっくりと拾い上げた。鈍い金属音が、破滅の始まりを告げるように響き渡った。




