十五話
力無く地に倒れ付した刀也を見やり、男は僅かにため息を吐いた
呼気は外気にさらされると同時に白い半透明な靄となって空気中に飛散する
夏の終わりごろと秋に挟まれた節目の時期であるとはいえ、現在の気温はまだ遠い冬の寒さに向け少しづつだが平均気温は確実に下がっている
温暖の差が激しい夏から冬の準備期間においては一年の間に気候が最も変化を起こす時期だ
加えて季節の変わり目は気温の変化が著しい。体の弱い者ならば少し体調を崩した途端、風邪に罹ってしまう位に
「すこし、寒いですね・・」
言葉と共に白い息が男の口から零れ落ちる
彼の役目は終わった。後は帰るのみだったが胸中は拳一つ分ばかりのぽっかりとした空洞が出来たかの様に空虚だった
つい五分も前は床で倒れ伏している刀也とは若干とは言え命の死闘を演じた
下手をすれば自分は殺されてもおかしくは無い程の力を持っていると主から聞かされていたのだが、実際は彼が力を使いこなしておらず、体力的にも精神的にも限界だったが為に彼の覚醒を促す『刀』を持たせても、自分の体に慣れない気力の放射をさせたがために消耗し尽くしていたため意識を喪失させてしまったのだ
彼は弱い、自分が言って見せたように実際には素手でも彼を倒すことが出来た。懐に飛び込んで手刀で喉を破壊してやればそれで事足りる。恐らく半鬼として中途半端に特性を備えているだけの刀也ならば再生能力もそう働かないはずだ
彼は人間のまま死ぬことになるだはずだ
自分も人から大分離れた存在になってしまったのでこんなことを考えるのも皮肉じみていると言えばそれまでだが彼にとってはその方が良いのかもしれない
主の命令どうり彼に『鍵』を渡すことには成功した。これから彼も自分と同じ・・・いや、それ以上に禍々しい存在と化していくのだろう
彼も衝動を抑えきれなくなりやがては身近な人間に牙を振るうことになる。そうなれば彼も人間社会の中で生きてはいけない
大きすぎる力は差別と迫害と畏怖を引き起こす。そうして彼の居場所は喪われ桃源郷を追い出された人外の存在は自分の存在を肯定して生きていくために外道の道へと手を染めるだろう
その未来はさっき自らに向けられた彼自身の欲望と暴力に飢えた眼差しを思い出しただけで容易に想像できた
(私としては多少の命の危険は覚悟していたのですがね)
彼の任務は刀也の殺害でも脅迫でも無かった
只、彼にごくごく自然な形で『刀』を使わせること
ただそれだけの事だったのだから
(あの方からの命はどうにか終わりましたが、なんか物足りませんね)
確かに、高月刀也の能力適正は実際に存在する事が確認出来たのだ
別段任務自体に不足は無い、無いのだが…
任務とはどこか離れている自らの心中をくみ取って、男は苦笑した
自分はおそらく刀也を憐れんでいる
自らのやったことであるとはいえ赤の他人によって知らず知らずの内に人生のレールを敷かれるのはだれにとってもさぞかし屈辱的だろう
自分も他人から見て真っ当な人生を送っているとはとても言い難いが少なくとも彼は自分の意思によって今の状況に胡坐をかいている。最低限自分の足で立って生きているのだ
最低の条件下の中でも信念を持ってして自分の道を進むことができるのは人間にとって一番の幸福ではないか?
人間の命を消す際に見せる足掻き、信念。目に見えない他人のそれ―――――生き様を鑑賞するのが彼最大の娯楽であり、数少ない生きがいの一つだった
「…。」
感傷を棄て、彼は自分が部屋に侵入してきた時と同じようにベランダへ向かった
普通にドアから出て行けば住人に姿を見られる可能性がある
別段自分の姿が目撃されても消せば良いことなのではあるが、彼の『仲間』も複数この街に潜伏している以上勝手な行動は許されないだろう
この前みたいに森林へ月見に出掛けた際にたまたま出会った獲物を狩った時とは事情が違う
『計画』が進むまでの間の面倒事を避けるのは当然である
そして、彼はベランダから軽く跳躍
そのまま地上三十メートル程の高さにある刀也の部屋から地面へ向けて落下する
下方から来る風圧が前髪を撫でつける
そして一秒もしない対空の後、何事も無かったかのように大地に降り立つ彼にとって別にこれは驚くべき事ではなかった
むしろ着地を成功させた彼が驚嘆したのは目の前に立つ人影の存在だった
彼は開口一番に告げた
「やはり、と思っていましたが実際に着けられていたようですね。
此処に来るまで薄々とながら気配は認知していたのですが」
前方に立つ長身の男―――最初に口を開いた『彼』よりも高い
二メートル位は有るであろう男は彼から視線を逸らさずに淡々と告げた
「お前達が何者なのかは知らないが、此処最近騒ぎを起こしているのは貴様だな?」
言葉を突きつけられた彼―――針金男は質問に答えず挑発するように返した
「そんな事は公安にでも調査を依頼すれば良いでしょう
国家内の三権分立から完全に独立。内閣のみが直接指令を発することが出来る特殊団体『機関』も素人の探偵業まがいまでにレベルが落ちてしまったのですか?」
挑発には答えず、長身の男が無感動に言った
「ゴタクは良いんだ。貴様は黙って俺達に情報を差し出せ
お前たちの組織と目的についての事をな
実際にお前のような奴と会うのは今日で二回目だ。
何も知らないとは言わせない」
それを聞いた直後、針金男の纏う雰囲気が変化する
男を見つめるまなざしに一切の余裕が無くなり、一挙一動に対してまで慎重に『敵』を観察する
隙あらばすぐに始末できるように、又は逃走可能なように
長身の男に向けて静かな、それでいて鋭い氷点下の温度を誇る殺意が向けられた
「…こんな時間にまで仕事熱心なのは関心します。が、私があなたに脅迫されてプライベートを話してしまうのは基本的人権の尊重に反しませんか?」
長身の男はそれを聞いて唇の端を片方だけ吊り上げた
なのに眼光は変わらず針金男を捉えて離さない
「安心しろ。お前達のような連中は人間の枠内に入らないから人権など初めから存在しない。それに、」
一旦言葉を切り彼はコートの内側から手に滑り込んできた軍用アーミーナイフを握り締めてから
「初めにお前がボヤいたように俺達『機関』は権力の三権分立から完全に独立している
つまりお前が仮に人間だろうが全く無問題と言うことだ」
針金男はやれやれ。という風に肩をすくめた。冗談に対して真面目に返答を返してきた友人を諭すかのように
「やれやれ、公務員がそんな物騒な発言を普通に言ってしまえるとは、恐ろしい所になったものですね。この国も」
針金男もいつの間にか手にした半メートルの長さを誇る脇差しを手に長身の男と向き合う
あからさまに敵に対して敵意を向ける針金男とそれを淡々と受け止めつつ鋭い鷹のような眼光で威圧しながら相手の出方を伺う長身男
二人が立っているマンションの駐車場は互いを殺し、食い合おうとする殺気に汚染され、一種の異界と化した