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一話

「・・・ハァ、ハァ」


吐息すらもすぐに凍る冬の寒空の下、中年の男が走る


森の中を衰えてきた体力をふり絞って、駆ける必死の疾走


ここまでの距離を走破した体験は二、三年前までは順調満風の人生を送っていた彼からすれば信じられない事だ


彼の幸せだった家庭が壊れたのはほんの二年前の事である


二十数年間務めていた町工場が不況の煽りを受け潰れたのがきっかけだった


歳が四十の半ばを過ぎた地位もコネも莫大な財産すらもない中年男を受け入れてくれる企業は何処にもなく、彼は劣悪な環境で重労働を強いられる派遣の道を選び家族を養った


遠く離れた地域で一日十四時間の工場勤務をこなしながら、家族のために仕送りを続ける彼の姿は献身そのものと言えた


それが壊れたのは一週間前に露見した十歳年下の妻の浮気だ


予定を切り上げ一日早く我が家への帰宅を果たした男はベッドの上で抱き合う見知らぬ男性と妻のすがたを目撃して自分の中の何かが壊れてしまった


しばらくして彼が正気に戻ると彼の前は男と妻の顔面が潰れ、血の海が辺りを覆い尽くす光景が広がっていたのだ


そして、現在はその死体を自宅から五キロ離れた山中に捨てに来ていたのだった


男に罪悪感は無い


妻は自分の苦労もそっちのけでどこの馬ともしれない若造に自分の体を弄ばせていた。当然の報いだ


そうして怨嗟の思いを心中で吐露しながら二人の死体を埋めた後の帰りでの事だった


「--------こんばんは

今宵は月が綺麗ですねぇ」


突然、一作業終えたばかりの彼に声がかけられたのだ


「!?」


それは、彼がスコップを引きずって麓に停めてある車へと向かう最中の時の事だった


男はすぐに声の聞こえた方をを見上げてぎょっとする


高さ五十メートル程の広葉樹に細々とした、例えるならば子供の腕くらいの太さしかない枝に案山子のような影が直立している


その影が満月をバックに男を見下ろして笑っているような気がしたのは彼の気のせいだろうか


あまりにも非現実な光景に一瞬彼は疲労による夢か、はたまたストレスによる幻覚かと錯覚した程だ


「・・・誰だ?」


思わず、男は謎の人影に問うていた


しかしながら、緊張のあまり反射的に言葉を紡いだだけの声はか細く、半ば独白の様な形で発せられてしまった


だが、影には届いたのか風に溶け込むような中世的な声で問いに答えた


「誰か?

はて?そう言われましても私は貴方が納得出来るような返事を返すことが出来ません

仮に私が本名を名乗りましても、表の社会で過ごしていらっしゃる貴方様には意味すら解せないと思いますし・・・」


そこで人影が本気で悩むような素振を見せ、枝から地面に着地してそのまま彼のそばまで歩み寄ってきた


「一体なんと名乗れば私の事を簡単に理解して戴けるでしょうか・・・」


(な、何だ?こいつは----)


彼は頸動脈の血液が冷水に変わったかのような怖気を感じた


とにかく悪い予感がする。一刻も早くこの奇怪な人物から離れないといけない


彼がそう思ったのも必然だったのかもしれない


こんな夜中に懐中電灯すら持たずに木の上でひたすら満月を見上げる男。奇怪な風景だとしか答えようのなかった


とにかくこの男が変人だという事は理解できる


確かに、先刻の奇怪な行動、理解不可能な言動からしたら誰しもが枝の上の奇人を警戒するだろう


しかし、それ以上に中年の男性は目の前の人物から一般人と異なる様子を微かにだが嗅ぎ取っていたのかもしれない


妻と憎たらしい愛人の顔面を判別不可能の程に破壊し、鋸で遺体をバラバラに分割した己よりも禍々しい気配を放つ青年をだ


彼は男の注意が逸れている内に半ば無意に後ずさりしていた


自分の脚はごく自然にすり足の要領を保ちつつ半歩ずつであるが静かに後退していく


「・・・ですから、自分の事を理解させるために自己紹介というのは相手に伝わるように行うべきなのです。

近今では日本もグローバル化が進み、会話による相互理解の手法が複雑になってきています。だからこそ私は-----」


最早、会話の体すら成していない青年の奇妙な独白も、彼の耳には入ってこない


彼は細い木の枝に立っている人物の話の価値など聞く気にもならなかった


まずはこの男から離れて、死体を処理するのが先である


乗ってきた車が停めてある近くに崖があった。そこに死体を投げ入れてさっさと帰り、シャワーでも浴びて眠りに就きたいのだが、ここは人里からそう離れてはいない深いだけの森だ


もしかしたら明日登山者がこの森を訪れて来たとしたならばせっかく遺棄した死体も発見されてしまうかもしれない


そうなっては一大事だ。だからこそ慎重に捨てる場所を選ぶべきなのかもしれないが


しかし、この男に現場を見られているとなれば、、、、、?


(こいつも殺すしかなくなる)


スコップを握る手から冷たい汗が滲みだす


現場を第三者の他人に見られたら終わりだ。通報され事が露見すれば冷たい監獄暮らしが待っている


無論、犯罪者の人権が擁護されているこの国においては一人二人の他人を殺したくらいで死刑にはなるまい


人格者を気取った左翼弁護士に罪の減刑を懇願し、十年程服役すれば出所できるほどに罪は軽くなるだろう


しかしながら、彼は妻を殺した上でようやく手に入れた自由をこんな事で失いたくは無かった


「おや?人の話も聞かずに去るとは失礼な方ですね。

最近の日本人はモラルの低下が進んでいると聞きますが、もしや貴方もそうですか?」


会話が成立するかも怪しいのだが、一応この青年が自分の所業を確認していないか探りを入れて話すとしよう


「すみません。変だとは思いですが私はこの辺りで深夜の散歩も兼ねて森林浴をするのが日課なんですよ

ハハ、変わった趣味だとは妻にも言われますがね」


妻を会話に組み込んだのは自らが動揺している証拠だろうか?それと、声も若干うわずっていたような気がする


自分はあまり嘘も吐いたことがない。怪しまれたろうか?


「そうですか。では、貴方はなぜ重たそうにスコップを引き摺っているのですか?」


「あ、いやいや、それはですね、、。」


彼は動揺した。この青年から逃げることばかり考えており、それ以外の事に気が回らなかったからだ


「で、で、ですからこれは、、、」


「もしかして埋蔵金でも探しているのですか、それとも、誰かの死体でも埋めて来たのですか」


「そそ、そ・・・そんな事有るわけないでしょう」


確信に迫った質問を返され彼は焦る


チラリと横目で一瞬スコップ方を窺った


血は付いていない


当然だ。死体を埋めるためだけに使ったスコップは凶器ではないからだ

本物の凶器、返り血を浴びた衣類はは遺体とは別の位置に埋めている


同じ山ではあるものの、わざわざ車を使って移動する場所に埋めたのだ。念を入れて捜索しない限りは警察ですら発見できないという自負もあった


それにシャワーも念入りに浴びて体も洗った。傍目からは見て怪しまれるような要素は無い


「そうですか。ではこちらから一つ尋ねたいのですがよろしいでしょうか?」


変人にいちいち構ってられない。彼は青年を無視してその場から立ち去ろうとしたが


「貴方。血の匂いがしますよ」


その言葉を聞いた次の瞬間に青年に向き直った


「いったい何を言うかと思えば・・・」


噴き出した興奮と共にスコップを握る手に力を込め一気に青年に接近する


「いい加減にしろ。私は深夜の散歩を楽しんでいるだけだ

木の上で月見をしているあんたに変人呼ばわりされる謂れはない!」


(こいつは殺すしかない。何があれ自分のやったことを暴露するような連中がいれば、殺す)


青年はどう見ても体力があるとは思えないほど痩せている。重量のあるスコップで殴打した後に止めを刺す


死体の隠し場所を増やすのは面倒だが、仕方が無い


口封じは、すぐに終わる


彼は一気に青年に近づきスコップを振り上げた


しかし得物を振り下ろした次の瞬間の事だった


青年の痩せた体を打ち据えて、かの肉体を粉砕するかと思われた


だが、現実には男が振り下ろした重たく大きい鉄の鈍器は、いつの間にか青年の腕に握られていた細いナイフによって受け止められていた


「先程から貴方から殺気を感じたのでわざと一撃を受けてみました」


(なんだ?奴が持っているのは只のナイフなのに・・・)


青年は男が振り下ろしたスコップを、片手で持った一本のナイフで受け止めていた


男はスコップを持つ手に更に力を込める。しかしナイフとスコップでは後者の方が明らかに重量に分が有るにも関わらず、微動だにもしなかった


そして青年が細い得物で男の凶器を受け止めている時に細目がちだった目が見開かれ狂喜に沸いた相貌が自分を捕えているのを確認してしまった


「ひ!」


男は恐ろしいと感じた。青年の細腕に同贔屓目に見ても重量を込めたスコップを押し返す筋力が有るとは信じられなかったからだ


青年に対し畏怖を覚え、スコップを押さえつける力が弱まったと同時に青年が苦も無さげに小さな得物でそれを弾き飛ばした


後ずさりする男に向かって青年が笑顔を向ける


「------------っ!」


この場にそぐわない嬉しそうな青年の視線に晒された男は獣の様な叫び声を挙げて明後日の方向に駆け出した


青年は対して急ぎもしない様子でそれを追った











(・・・・分からない。なぜ俺はこんな目に逢っているんだ?)


彼は幻惑していた


まるで覚めない悪夢の世界に迷いこんだかの様に感じる


さっきから空気が粘性のコールタールに変化したかのようだ


息を吸いこみ肌寒外気を体内に取り込む一歩一歩を踏み出す度に足が重たくなっていく、舗装もなされていない険しい山道を走破するのは日頃は労働以外に運動なぞしない彼にとっては苦痛でしかありえなかった


それでも今は走り続けざるを得ない


止まれば、背後から迫ってくる男に何をされるかわからない


今は脅威から逃げる事しか考えられなかった


(くそ、いつまで追ってくるんだ・・・・)


月光のみが照らす薄暗い森の中でも湿った落ち葉を踏みしめる足音は聞こえてくる


もう三十分ばかり走ったろうか?


それでも自分を追ってくる足音は止まない


「どうしましたか?早く逃げないと追い付いてしまいますよ。」


男の姿が見えないのに木々の向こうからはっきりと声が聞こえた


「!?」


懐中電灯等の光源を持参していなかった彼にとって、多少目が慣れたとはいえ月の光だけが僅かに照らすだけの森の暗いお闇の中で得体の知れない何者かに追われる恐怖は想像を上回る


街中でやくざに尾行されるのとは訳が違う。此処ではどんなに声を張り上げて、救いを求めても誰も助けには来ないだろう


唯独り、偶然によって脅威に追われる不幸な中年男。それが今の彼の現在であり、辛い現実となっていた


しかし、そんな彼の不幸もそろそろ終わりを迎えることになる

「あ!」


地面に根を張らした木の枝に彼の足が躓いたのだ


枯れた落ち葉の堆積した慣れない地形で長時間走り続けたので木の枝に爪先が引っ掛かったのも無理はないだろうが


「なんだ・・・もう終わりですか?仕方ないですね」


針金のような青年が闇の奥から姿を現す


その手に握られているのは先刻スコップを受け止めた銀色の凶器


「う、ああぁ」


彼は一瞬にして恐怖に追い立てられた。逃げようにも腰が引けて立ち上がれない


救いを求めるように地面を這う腕は、枯れ枝や雑草を掴むだけで彼が求める助けはどこにも無かった


怖じ気ずく彼に青年は場違いとも呼べる爽やかな笑顔を浮かべながら言った


「人が話をしてる最中にいきなり走りだすなんてマナーがなってませんよ」


「や、やめろ。

こ、こ、こっちに来るなぁ!」


彼がいくら懇願しても青年は口元を円弧状に歪めるだけで、聞き入れはしない


「ほらほら、早く逃げてくださいよ

じゃないと私が面白くないじゃないですか。」


自分からの逃亡を促しながらも、青年は足を止めない


(おい・・嘘だろ?何でこんな悪夢みたいな目に遭っているんだ?)


状況をうまく飲み込めず錯乱している彼に理解の猶予も与えることまたずに


笑顔の青年が凶器が振り下ろした










青年は満足していた


殺人犯の中年男とは言え、久しぶりに人間の肉を裂く事が出来たからだ


今は生首を解体している最中である


愛用のナイフを器用に使い、表皮を剥ぎ眼球を抉り出し徐々にピンク色の筋肉を削いで白い骨を晒していく


作業中の血臭や、手に残る生々しい感触なんかも全く気にならない


それどころかその解体行為はかれにとっての悦びの一つであり生きがいでもあった


一般人には決して理解されないであろうその行為も彼にとっては愉悦であり、遊びでもある


そもそも、彼には普通の人間が普通に持ち得るであろう道徳心や平等心などには縁のない場所で生まれ育ってきたので、ヒューマニズムなど持ちようがないし、興味すら抱かなかった


彼の人格の根幹にあるのは殺すか殺されるか弱肉強食の掟だ


人間を解体バラす事に快感を感じるのもそういった世界で育ってきたことによる結果でしかない


幼児が親に与えられたボールを用いて遊ぶのとなんら変わりない、当然の結果である


しかし、この国は人を殺さなくても生きていける


この国家は貧乏人から無理やり搾取を行う役人も、徒党を組んで女子を狼藉を働くならずものも、気分次第で人民を虐殺する軍隊も表向きには存在しない


では、一見混乱とは無縁の様に見えるこの場所になぜ殺人を是とする青年が居るのか?


その答えは未だ無残な姿になり果てた男の体で遊んでいる青年の天上で漫然と闇夜に輝いている満月だけが知っているのかもしれない

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