040.ゾウ鼻のノーゼは地獄から帰還する
ゾウ鼻のネイチャー族ーー、ノーゼは十日間このダンジョンをさまよっている。
領主ドナルド・トラッパよりダンジョン制圧の命が下され、大勢の仲間たちとこの洞窟へと潜った。
だがゴブリンの襲撃に加え、仲間たちもゴブリン化するという不可解な状況に陥り彼らと殺し合うまでになってしまった。おそらく、まともなままでいられてる衛兵は自分だけなのではないかと思う。
ノーゼはエルフとゾウ鼻ネイチャーのハーフだった。尖った耳とゾウの鼻をヒクヒクさせながら周囲をうかがう。
ゴブリンやゴブリン化した仲間たちに出くわす可能性は低い。聴覚と嗅覚には絶対的自信があった。
あちこちで気味の悪い目玉がこちらを見ている。薄紅の花弁をまとった魔草だ。
【ケケケ…フィアフル…】
《なぁ、聞こえているんだろう。いつまで無視をするつもりだ》
怖じ気づいて帰りたいと願う自分をあざ笑うかのようにーー、悪魔の声が聞こえてきた。
《私は悪魔だ。ここから出たくばお前の身体をよこせ。家族に別れの挨拶くらいはさせてやろう》
「うるさい!」
ノーゼは邪悪な声を振り払った。
しまった、と思ったときには後の祭りだった。悪魔の声は消し飛んだものの、洞窟内に響きわたった自分の声はゴブリンたちにも届いたかもしれない。
闘争か、逃走かーー。
これまでもゴブリンたちとはなるべく刃を交えずやり過ごしてきた。巨躯に似合わぬ心臓を仲間に笑われたこともあったが、今となれば彼を否定できなかった。
衛兵になったのが間違いなのだ。そもそも。
ノーゼは洞窟内をとにかく進んだ。聴覚と嗅覚を駆使して。蟻の巣のような迷路をさまよう内、より安全な道を選択し歩み進めていたはずなのに、ゴブリンーー、いやゴブリン化した冒険者たちに囲まれてしまった。
そのうちの一人はねずみ色の見慣れないデザインの服装に、肩から刀剣を背負った少年のように思えた。思えたというのは顔が醜悪に歪み、もとの人物像がなかなか予想できなかったためである。
「おれは大黒創司。あんたを救いにきた」
ゴブリン化した少年はわけのわからぬことを言い、その剣をすらりと肩から抜くと光の斬撃を飛ばしてきた。
「ま、待ってくれ」
言い掛けた瞬間、ノーゼの左肩の鎧が砕け散り、光の刃がそこを貫いた。飛び散る血液。
心拍数が跳ね上がり、徐々に弱まる。
「やったぞ!ぶちこんだぜ」
少年の背後のゴブリン化した冒険者が叫ぶ。よく見れば自分と同じ衛兵の鎧を着込んでいるのが分かった。
「くそ…不覚…ゴブリンどもめ」
そういえばゴブリンは言葉を話すものだろうか。とんちんかんな疑問が頭をよぎりつつも、少年の攻撃をうけたあとの身体が死に向かうのが予測できた。
「魔薬の作用で仮死状態になるが、すぐに息を吹き返す。ダンジョンの外へと解放されたら、領主のドナルドを訪ねろ。そしてすべての顛末を話しておいてくれ」
少年ーー、創司の声が鼓膜をかすかに揺らす。
◆
ノーゼは森の中で目を覚ました。見覚えのある景色。もう一度帰りたいと願った、暗闇と恐怖に閉ざされる前に見た、最後の風景。
そして澄み渡った青い空。
あのダンジョンーー、悪魔の洞窟があった深い、深いあの森だ。
左肩がズキズキと痛むが致命傷ではなく、出血も少量だった。
「生きて帰れたのか」
いったい何が自分の身におきたのか分からない。だがこうして戻ってこれたことは紛れもない事実だ。
悪魔に魂など売らなくてよかった。誰かは知らないがあの、創司という名の少年に感謝しなければならないーー。
ノーゼは涙で歪む視界を拭いながら、領主がいる町の方角へと歩みを進めた。
◆
領主ドナルド・トラッパの屋敷にたどり着き、すべてを報告し終えたのち、聞かされた真実ーー。
「君らは幻術により互いをゴブリンと誤認し、錯乱していたのだ。ダンジョンから解放される唯一の方法が、悪魔の興味の対象外になることーー、死体になることだった。仮死薬はそのためのものだ。ノーゼ。君の死を偽装したのだ」
領主ドナルドはノーゼに手厚いもてなしをしながら言った。誰を斬ったか、誰に斬られたかなどという詰問はいっさい無かった。
「しかし、どのタイミングで幻覚が発動したのか皆目見当がつかない」
涙がこみあげてきた。悪魔にしてやられたと思った。ノーゼはある仮説を思いついた。
「きっと原因は洞窟内の…」
領主ドナルドはそれを聞き、驚愕の表情を浮かべた。




