第六章 5 鼓動
「次は、どんなことがあっても放さん。須佐之男、そこで見ておるがよい」
悦楽の笑みはそのままに、アマテラスは再び左腕をのばした。
さきほどのように一瞬ではなく、ゆっくりと時間をかけて腕が長くなっていく。
千鶴には、それをよける気力が、すでに欠落していた。なにもできなかった。自分の首がつかまれるまでの長い長い時間を、ただ待つことしかできなかった。
獣たちも、弾き飛ばされたダメージで、動くことができないようだ。頼みの周防も正気を取り戻せないでいる。
ドクン……。
このまま死ぬのを待つしかないのか。
ドクン、ドクン……。
神様なんていない!
ドクン、ドクン。
この世に……信じられるものなんて、なにもないんだ!!
ドクン、ドクン、ドクン!
〈これ、なにやっとるか……だらしない!〉
(な、なんだ!?)
周防の脳裏に、語りかけてくる……というより、叱咤する声が侵入してきた。以前、耳にしたことのある老いた声だった。
(さっきの、ばあさん?)
アマテラスの姿形を目の当たりにして、冷静な思考を消失させていた周防は、その声で、わずかだが、われを取り戻した。
〈おまえは、あの子を見殺しにするというのか? それでも、わしの愛したスサノオの魂を継ぐ者か!?〉
(な、なに言ってやがる! だいたい、あんたは、くたっばったんじゃないのかよ!)
周防は、声と同じように、心のなかにだけ言葉を響かせた。
〈ほほ、まだそんな減らず口が叩けるとは、感心、感心……さすがは荒ぶる神よ。どうやら、死んではいないようだな、心の奥底までは――〉
(なにが言いたい!?)
〈本当なら、いまごろ極楽でお茶でも飲んでいたかったのだが、おまえさんのあまりのだらしなさに、成仏しそこねたわい〉
(なにが極楽だ! 地獄のまちがいじゃないのか?)
〈それだけ冷静に皮肉が言えるんなら、アマテラスと妹の区別ぐらいつくだろうに。なにをやっておる〉
(黙れ! あれは、ゆかりだ!!)
〈おまえさんの妹の魂は、あのアマテラスに喰われたのじゃ。妹の魂を自由にしてやるためには、アマテラスを倒すしかない!〉
(で、でも……あのアマテラスだって、オレの姉さんなんだろ!?)
〈そうじゃ。だからこそ、止めなければならない。弟自らの手で〉
(オレは、姉さんを犯した……最低のことをしたんだろ!? そんなオレが、人間の存亡のために戦うだって!? 笑わせないでくれ!)
〈落ち着け!〉
(そうだ、あいつの言うとおりだよ……オレは、ゆかりのことを、ゆかりのことを……妹として見てなかった……いずれ、その身体を……)
〈やめんか!〉
(……抱きたいと思ってた! そうだろ!? 姉を犯し、天界を追放されたほどの男なんだろ!? ゆかりが生きていたら、きっと同じめに遭わせてたさ!!)
〈……〉
声は、しばし沈黙した。
そして、諭すように語りだした。
〈よく聞け。いいか、天界においては荒ぶる神とされ、アマテラスすらも恐れていたスサノオが、高天原を追放され、この地上に堕とされてからは、不思議と善神として人々から崇められていた。それはなぜか……〉
(そんな、神話でのことなんて聞きたくもない!)
〈おまえに見せてやろう〉
(……?)
〈《道》は過去へも続いておる。おまえ自身が記憶している、遠い遠い昔の光景じゃ〉
それは、唐突に浮かび上がった。
脳裏に焼きつく刻印のように、深く深く、鮮やかに再現された。眼に見えるわけではないが、眼で見ている映像のように鮮明だ。
男の上半身だけが見える。
左右の眼と、鼻がない。
不気味な形相であるはずが、なぜだか邪悪なものは感じられなかった。むしろ、聖なる胸像のごとき美しさを漂わせている。
〈おまえの父……イザナキじゃ〉
そう……その光景は、遙か昔――まだ神と人間が共存していた神話の時代……黄泉の国から逃げ戻ったイザナキが、黄泉の穢れを川で洗い流しているときのものだ――。
そのさいに、イザナキは最後の三神を誕生させたという。
左眼がアマテラス。
右眼がツクヨミ。
そして、鼻が……。
「須佐之男よ、おまえが、わしにとって最後の子供だ……」
イザナキが……父が、自分に語りかけてくる。これは、そのイザナキに抱き上げられている赤子としての視点なのだろうか。
「天照は高天原を……月読は夜の世界を統べることになるだろう」
あたりからは、オギャー、オギャー、という泣き声が聞こえてくる。同じように生まれたばかりのアマテラスとツクヨミの泣き声のようだ。
「須佐之男……おまえはいずれ、この中つ国をおさめることになる……。だがな、神では人界をおさめることはできん。それは、神が人間の『上』ではないということなのだ。しかし……天の神々は、そのことを忘れ、人間を支配しようとするだろう……。おまえはそのとき、人間の側に立って戦わねばならぬ」
無いはずの両眼から、やさしい光が放たれているような気がした。
「わしの最後の子供は、神ではない。須佐之男……おまえだけは、《人間》として誕生させた。よいか……神々がまちがった方向に進もうとするならば、おまえはそれを阻まなければならん! どんなことをしてでもだ……よいな」
(……!)
「つらい使命を背負わせてすまん……わが最後の子供……須佐之男よ――」
悲しそうなイザナキの言葉を最後に、光景が消えた。
〈わかったか……神が堕とされて人間となったのではない。人間が神として天上にいただけなのじゃ!〉
(オ、オレは……)
〈たしかにおまえは、天上で姉を犯したかもしれん。だが……おまえの心は泣いていたはずじゃ〉
(な、泣いていた……)
〈さあ、戦え! 姉を止められるものは――神々を阻めるものは、人間でありながら、神の力を持ったおまえだけなのだ!!〉
そこで、あることに気づいた。
左手のなかに、感触がある。
なんだ!?
周防は、左掌を開いた。
櫛がのっていた。
「これは……」
美しい光沢。
どこかで見覚えがある。
〈わしの化身とでも思ってもらおう〉
声が言った。
〈この櫛とともに、わしの意志はある。おまえさんには、いまだけでなく、これからもがんばってもらわなけりゃならんのでな〉
(……?)
声がなにを言おうとしているのか、まったく読めなかった。
〈さきほど、多紀理の話はしたな〉
(あの先生のことだろ?)
〈そうじゃ。おまえには、これから多紀理を……織絵を守ってもらわねばならん〉
(どうしてオレが……)
〈多紀理は、大国主の妻になるべく宿命をおっている〉
(……どういう意味だ)
〈なんじゃ、知らんのか。出雲の国譲り神話で有名な大国主とは、スサノオの六代あとの子孫にあたる。まるでおまえさんのことのようじゃろ?〉
(なにわけのわからないことを!)
〈おまえは多紀理と恋におちる〉
(勝手に決めつけるな!)
周防は、脳裏で声を荒らげた。
〈カッカッカ、まあそれはよい。いまは、それどころではなかったな〉
声はヘンな笑い方をすると、一転、鋭く言い放った。
〈はやくせい! このままでは、あの子が死んでしまうわ〉
周防は、左掌の櫛を強く握りしめた。
かつて、櫛に変化した櫛名田比売を髪にさし、八俣大蛇を退治しに向かったスサノオの姿と重なって見えた。
いまここに、神話が蘇る。
ドクン、ドクン!
なんの音だろう……。
ドクン、ドクン!
千鶴は、その音を感じていた。
耳から聞こえてくるのではない。
どこからか伝わってくる。
ドクン、ドクン!
視界を覆い尽くすほどに、アマテラスの左腕が迫っていた。
ドクン、ドクン!!
音は、だんだんと強くなってゆく。
どこから伝わってくるのだろう?
以前にも、この音を感じたことがあるような……。
(あのとき……)
トゥガル族の村で、ライ吉に襲われたとき――気を失う寸前に聞いていたような……。
(鼓動!?)
そうだ……、きっとこれが、大地からの鼓動なのだ。それはつまり、大地が――女神ガイアが、自分を守ってくれるということなのだろうか!?
自分にとっての、神なのだろうか!?
だが、もう猶予はない!
至高神の腕につかまれる!!
「……!」
あきらめに眼をつぶりかけたとき、だれかがすぐ前に立ちふさがっていた。
ドクン、ドクン!!
(大地からじゃない……)
音の伝わりは、もっとちがうところから響いてくる。
千鶴は、その音の源を手でさわった。
(鼓動は……)
ドクン、ドクン!!
神?
仏?
そんなものじゃない。
神とは……人間が祈る存在とは、天にいるものでもなければ、地上にいるものでもない……神は、ここにいた!
眼の前に立った青年の後ろ姿――。
千鶴は、その青年を信じた。
その信じた心のなかにだけ、神はやどる。
「髪の毛が……」
あの日から、のびることを忘れた髪が、急速に長くなるのを感じた。いままでのぶんを、ひたすら取り戻すかのように――。
あのときから止まったままの時間が、再び動きだしたのだ。
ドクン、ドクン!!
自分の心臓の鼓動が、時を刻む秒針のように、さわっている掌に伝わってくる。
「すまん、もう迷わない……」
後ろ姿の青年は、振り返らずに言った。
捕らえられているのは、その青年の首か、はたまた迫ってきた左腕か。
「おまえは、ゆかりじゃない」
周防は、明確な敵対の意を込めて告げた。
つかまれていたのは、アマテラスの腕のほうだった。
「わらわを阻むか、須佐之男よ! 人間なんぞの味方をするとは、つくづく愚かしい! 人間など、神に支配されるだけの屑虫にひとしい存在ではないかっ」
圧政で臣民を苦しめる女帝のように、アマテラスはうそぶいた。
これが神!?
いや、もうそんな概念などどうでもいい!
周防は、瞼を閉じた。
「……をよぉ」
静かにつぶやく。
「なんじゃ、須佐之男? よく聞こえんぞ」
「……人間をよぉ……」
やるべきことは一つ。
瞼を持ち上げる。
瞳のなかの敵に、すべての力を叩きつけてやった!
「人間をナメるな――――ッ!!」
渾身の地割れが、アマテラスに襲いかかっていく!
「無駄じゃ! 最初と同じく、はじき返してくれよう!」
バリッ。
空間に罅が入った!
「な、なに!?」
バーン!!
アマテラスの身体が――いや、アマテラスを映していた鏡が、地の裂け目と呼応するかのように、左右二つに割れていた。さらに二つとなった鏡は大地に倒れ、粉々に砕け散った。
〈あれが、三種の神器の一つ、八咫鏡――実体は、ちがう場所にある!〉
イネの助言をうけるまでもなく、周防は、すでに本体の位置を把握していた。
背後にいる千鶴のずっと後方――そこに、アマテラスの実体がある!
いままでは鏡の力を使い、そこに映した虚像で攻撃していたにすぎない。だから、こちらからの攻撃が通じなかったのだ。
周防は瞬時に振り返ると、その実体めがけて駆け込んだ。
〈剣を使え!〉
頭にその声が流れ込んできたと同時に、地面には、それが突き立っていた。研ぎ澄まされているようだが、金属製ではない。土でできた刃だった。
迷わず手に取った。
〈それが、草薙剣……! 形など、どうでもよい! おまえが……スサノオが手にした剣のことを『草薙剣』と呼ぶのだから〉
八坂瓊曲玉、そしてたったいま砕き割った鏡――アマテラスの御霊代として祀られる八咫鏡。
その二つに並ぶ伝説の至宝。
天叢雲。
またの名を草薙剣。
その《地の剣》で、周防は斬りかかった。
「甘いわっ!」
だが、まばゆい陽光が周防の身体を射抜いていた。
まるで、光速の矢!
「ぐうう……」
剣を持つ右肩から、血液が荒れ狂うように噴き出していた。いまにも手放してしまいそうだった。
衝撃で、三歩ほど退いてしまった。
あと七、八歩駆け込めばたりる距離だというのに……。
「とどめじゃ」
姿をあらわにしたアマテラスは、冷たく宣告した。
必殺のきらめきが、一つの命を消し去ろうとしていた。周防にとっては、まだ遠い間合いだが、敵にとっては、瞬く間もないほどに近い。
避けられない!
まばゆさと同時に衝撃がくる。
いや、こない!
疾風が、割り込んだ。
動物!?
ガゼルだ。
その背には、千鶴が乗っている。
風速が、光速に並ぶのか!?
間に合った!
千鶴の手には、なにかが握られていた。
陽光にも負けないきらめきを放っている。
ちがう、放っているのではない。
反射しているのだ!
鏡。
いましがた砕け散った八咫鏡の破片。
陽光の矢は、そのまま返っていった。
太陽の女神――アマテラスのもとへ!
「なんじゃ……と!?」
心臓の位置を、寸分たがわず貫いていた。
「ま、まだじゃ……わらわは、この程度のことで滅びたりはしない……」
忘れてはいけない。この身体は、あくまでも《偽神体》。
周防の妹――ゆかりの魂の記憶から、この身体を形づくっているにすぎない。通常の人体構造など、参考にすぎないのだ。
まだ自らの余力を実感し、アマテラスは勝ち誇った視線を前方へ向けた。
すぐに余裕は消えた。
荒ぶる男が、そこにいた。
「うおおお――ッ!」
雄叫びとともに、噴き出す血流を誇るかのような右腕を、周防は振り下ろした。
ザクッ!
手応えが伝わった瞬間、胸が痛んだ。
天界で姉を犯したときも、この胸は痛んだのだろうか。
「お、おのれ……すさ、のお……」
妹の姿をしたアマテラスは、胸を大きく斬り裂かれ、そして力尽きた。
「む、無念……じゃ……」
その身体が、土のなかへと沈んでゆく。
冥界へ、旅立とうとしている。
「お、にい……」
そこで、アマテラスの声が変わっていた。
「お兄ちゃん……」
「ゆ、ゆかり……」
〈アマテラスの呪縛から解き放たれたのじゃ……最後の言葉を聞いてやれ……〉
地に埋まっていく妹の顔を、いとおしそうに周防は見つめた。
「ゆかり!」
「……自分の……ために、生きて――」
それが、兄へ伝えたかった言葉……。
この世にとどまっていた理由を果たした少女は、わずかな再会のあと、眠るように大地へ帰っていった……。
「ゆ、ゆか……」
硬い殻に、罅が入ってゆく。
心を覆っていたサナギの殻が破れ、なかから新しい姿があらわれる。
やっと……。
《不敗のサナギ》は、羽化をはじめた。