第六章 6 秘術
空の明度が落ちてゆくさなか、猛き雷神は、どこへともなく歩みを進めていた。
本来の夜を取り戻そうとする地上の色には興味がないのか、天へは眼もくれない。玲の氷剣による傷は、すでに癒えているようだ。どこかを庇っている仕種は、まるでみられなかった。
「そうか……」
つぶやいて、ふいに立ち止まった。
まわりを飛ぶものが、雷神にだけ見えていた。
霊魂……一度は、自分で捕らえたことのある生命の礎。
「やるべきことを果たしたか」
雷神はそう言うと、はじめて夜空を見上げた。まるで『あそこへ行け』と霊魂に告げているような……。
「どうした?」
しかし、漂う魂は、雷神のもとを離れようとはしない。
「まだこの世にとどまるか?」
雷神は、右の掌を強く握った。
まばゆい輝きが、拳からもれた。
開いたとき、一本の剣があらわれていた。
『フツミタマ剣』――。
「この俺のことを心配するとは、ずいぶんとお節介な人間だな」
ス、と鞘を滑らせた。
刃が、銀光をひらめかす。
「《建速の小僧》のことは……兄のことは、もういいのだな?」
魂のゆらめきが、うなずいたような気がした。
「ならば、ここに入れ。そのままでは、いずれ消滅してしまう。天へ昇るつもりがないのなら、俺とともに来い」
周辺をしばらく舞ってから、少女の霊魂は剣の刃にしみ込んでいった。
「おまえが建速の小僧を変えたように……やるべきことを果たしたように、この俺も、なにかを成し遂げなければならんだろう。いずれ……な」
それは、かつて『出雲の国譲り』において、天孫による支配を、大国主神に迫ったときのような大役が、まだ自分に残されているかどうかを推し量ろうとする言葉だった。
「もはや、高天原に未練もない」
魂のこもった刃を鞘のなかにおさめた。
「それまでは、この葦原の世をさまようか」
再び、歩きだした。
さきの空が、明るくなりはじめていた。
東から本物の太陽が昇るのだ。
一瞬だけ立ち止まり、まわりの壊れた景色を瞳に入れた。
「あのときの国譲り……はたして正しかったのか、まちがいだったのか?」
そのことを確かめなければならない。
雷神――建御雷之男神。
これよりのち、天へ帰ることは一度としてなく、この世をさすらう放浪神となる。
少女の御霊やどる霊剣をたずさえて……。
「すまなかったな……」
周防は、千鶴の肩に左手をおいた。
もう片方の腕には力が入らないのか、だらんとたらしている。
剣は、すでに塵となって消えていた。なにもなくなった指先から、血が水のように流れ落ちてゆく。止まる様子はないが、女神ガイアの守護を受けている人間ならば、これで命がどうこうすることはないだろう。
おいた手にそれまで握っていた櫛は、お尻のポケットに放り込んでいた。
〈わしをそんなとこに仕舞うとは、なにごとじゃ!〉
頭のなかにだけ響いてくる怒鳴り声は、聞こえないことにした。
「大丈夫か?」
そう問いかけると、憔悴しきってはいるものの、とても明るい笑顔が返ってきた。
「神はいたよ……ここに」
千鶴は、自分の胸を手でふれながら――。
「オレのなかにも、いるのかな?」
「いるよ……きっと」
二人は、見つめ合った。
「笑うこともあるんですね」
「キミこそ、笑顔なんてはじめてみた」
「ふふふ」
千鶴は、思わず吹き出した。
「ははは」
周防もつられたように。
「フフ……、ハハハハ」
だが――。
『ま、まだじゃ……』
安息の空気も、すぐに消し飛んだ。
「なんだ!?」
怨念に満ち満ちた声が、どこからともなく聞こえてきた。
「まだ死んでないの!?」
『わらわは滅びようとも……そこの娘だけは殺してくれる! わらわの予言は、まだ生きておる……絶対に逃れられん!!』
ふいに、周防の身体が弾かれた。
「くっ、バカな!」
たいしたダメージにはならなかったが、三メートルほど後方に飛ばされていた。
〈残留思念じゃ!〉
イネの忠告が、鋭く脳裏を突き刺す。
「どういうことだ!?」
心のなかだけのはずが、思わず口に出してしまった。
〈至高の神ならば、この場に残った《念》だけでも、そうとうの力があるぞ! 気をつけるのじゃ〉
「神の幽霊みたいなものか!?」
イネからの答えは、怨念の声にかき消されていた。
『くくく……わらわの最後の秘術を受けよ! いまからおまえたちの動きを封じる!! これから、どんなに身をよじろうと、指一本、動かすことはできぬ! 思念の力を使おうとしても無駄じゃ! おまえに取り憑いている魂でも、どうすることもできぬ! どんな攻撃も封じることになるのだからな!!』
たしかに、周防も、千鶴も、動くことがまったくできなかった。それだけではない。周防は、地を動かそうと念じてみたが、実現する様子は微塵もない。千鶴にしても同じだった。獣たちの動きすら封じられてしまったようだ。周防のなかにいるイネの力でも、この窮地を打破できそうになかった。
ギイ、ギイ……。
不吉な音が発生していた。
『この塔で、その娘を潰してくれよう……須佐之男、おまえはなにもできずに、その娘が死ぬところを眼球に焼きつけるのじゃ……! おまえは自分の無力を呪うだろう! さすれば、わらわの勝ちじゃ!! 滅びようとも、わらわの勝ちじゃ!!』
(な、なんだと!?)
周防は、数秒遅れで、それが声になっていなかったことに気がついた。
舌を動かすこともできなくなっている。
『さらばじゃ、弟よ……これからの生き地獄を、楽しく生きるのだな――』
アマテラスの声は、それを最後に途切れたが、ギイ、ギイ……という鉄塔の軋む音は、やむどころか、より激しくなっていた。
(ダ、ダメだ……)
周防にも、ましてや千鶴にも、どうすることもできなかった。
〈わしの力でも、この術は破れん……〉
脳裏に語りかけてくるイネの言葉も、絶望に染まっていた。もうだれの力も、アマテラス最後の秘術の前では、無力だった。
倒れてくるであろう東京タワーのほうを向くこともできない千鶴は、ただ真正面を凝視するしかなかった。凍りついた周防の表情が、もうどうすることもできないんだ、と胸をえぐる。
音の伝わり方や、アマテラスの台詞からすると、あと数歩……周防のもとまで前進することができれば、倒壊しようとする鉄塔から逃れることができるのだろう。
だが、その数歩が遠い。
(死ぬの……かな)
そう、千鶴が死を覚悟したとき――。
(背中……?)
背後に、あたたかいものを感じた。
なんだろう?
その感覚を確かめることはできなかった。
ガ、ガ!
ガガガ!
ガガガガガガガガ――ッ!!
無情な破壊音。
アマテラスの予言……それは《運命》と呼んでもいいだろう。
その運命は、不幸を望んだ。
けっして、くつがえりはしない。
巨大な残骸の塔は、千鶴の頭上へと倒れこんでいた。




