第五章 7 人間
奇跡の雨はやんだが、それでもなお、浄明と金山毘古神との死闘は続いていた。
「な、なんということだ……! わが強固な身体が溶けるとは!?」
狼狽せずにはいられなかった。鉱山と鉱物の神である証――最硬の肉体だったはずだ。
それが、たかが《雨》ていどで溶けてしまうとは……!
「だれかはわからぬが、この雨……おそらく命とひきかえにしたのであろう」
浄明はうろたえる硬神を憐れみながら、天を仰いでつぶやいた。
雨にも、雲一つなかった青い空。いや……雲一つない、こんな青空に雨を降らせたことこそが、『奇跡』なのだ。
「ならば拙者も、すべての力を出し切らぬわけにはいくまい」
勇ましい僧形から、気のようなものが、眼に見えるほど発散されはじめた。
「そ、それは……!?」
金山毘古もよく知っている気配だが、知っているからこその恐怖があった。
それは、《威気》!?
神だけが発するはずの気だ。
「な、なぜ、人間であるはずのおまえから……!? 信じられん!」
いまならば、できるかもしれない。
ここで成すことができなければ、あれは存在しない、ただの伝説にすぎなかったということだろう。
(わが師、浄円阿闍梨……)
天台密教の総本山――三井寺に伝わりし、深奥の秘奥義。第三代座主、円仁が唐より持ちかえったとされるが、その奥義を極めたものは、いまだかつていないとされている。
《護摩壇いらずの浄明》ですら、ただ一つ体得できなかった秘法。
だれも成したことのないところから、それを『無』と呼び、もしそれを極められる者がいたとしたら、それは神に近づくことと同等のことである――と伝えられている。
〈浄明よ……無とは、なにも望まない虚無の心のことではない。悟りの境地とはちがうのじゃ〉
〈なにかを望め……ということですか?〉
〈そうじゃ〉
〈なにを望めと?〉
〈……それを悟ることができたときこそ、天台密教最後の奥義――『無明形就』が、その姿を成すであろう……〉
(いまこそ望む! 『すべてを出し切る』ことを――)
修行により身につけた密教の秘法を――。
友の変貌を案じる純粋な心を――。
親よりさずかったこの身体を――。
いまを全力で生きるこの命を――。
この身、滅びようとも!
「な、なんだ……これは!?」
金山毘古は眼を見張った。
《威気》が完全なる形となってあらわれたではないか……!
後光とか、そんなあやふやなものではない……それは、曼陀羅!?
中央に弥勒如来。
上に、尊星王。
それらを囲むように、金色の不動明王。
新羅明神。
訶梨帝母。
山王権現。
円珍。
三尾明神。
一八個の明鏡であらわした十八明神。
――『本寺の三宝』と呼ばれる曼陀羅だ。
それが蜃気楼のように、浄明と重なって見えていた。
「月読よ……出雲での誓い、いまこそ果たそうぞ!」
中央の弥勒仏が輝いた。
菩薩ではない。
如来形として描かれたこの弥勒こそが、三井寺の本尊。
その輝きに呼応するかのように、まわりの護法神たちも光を放ちはじめる。
すべてが聖なる光で満ちたとき、浄明の瞳からも、まばゆい輝きがあふれ出た。《重瞳》から放たれるきらめきは、もはや人間のものではなかった。
「形とは、光に照らされて現れるものではない……。形があるからこそ、光によって浮かび上がるだけなのだ! たとえ永遠の闇のなかにあったとしても、形は『形』として存在している!!」
光に、ごまかされるな。
闇を恐れるな。
真実の形は、そこにある。
この心のなかに――。
ただそれを信じる。
それこそが、『無明形就』の神髄とみたり!
「これが、心のなかにある『形』――」
曼陀羅の光が弾けた。
天空に向かい、幾条もの強い光が飛び散っていく。
「オンマユラキランテイソワカ――いまだこの地をさまよいし神々よ、おとなしく天へと帰るがいい!」
恵みを求める祈雨の法――『孔雀仏母法』の真言。
浄明は、自分の意志で奇跡をおこした。
雨。
ただの雨ではない。
光の雨――。
流星の群れに飛び込んだような光景。
美しい。
だが、苛烈!
これが、奇跡というものか。
奇跡の雨が、崩壊した街に降りそそいだ。
邪なる存在を滅する聖なる雨。
下級、上級を問わず、生き残っていた神のことごとくが、この雨にうたれて葬り去られていくだろう。
当然、もっとも間近でうたれたとなると、いかに硬神とはいえ、ひとたまりもない。
「ば、馬鹿な……に、人間が奇跡だと!?」
いく筋の光に貫かれただろうか。すでに絶命間際まで追い込まれた金山毘古のその問いに、人へと戻った浄明は冷たく答えた。
「人間が奇跡をおこさずして、なにが奇跡をおこすというのだ」
「か、かみ……」
「ならば、おぬしは滅びるに値する。人間の可能性を信じられない以上――」
もうその言葉は、金山毘古には聞こえていなかった。
並べられた林葉雄司と村田徹の亡骸を、千鶴は、感情をなくした……どうにも気持ちを表現できない子供のように見下ろしていた。
「こいつら、あの夜の二人だろ?」
千鶴は返事をしなかった。
二人の、とても安らかとはいえない凄惨な死に顔から、瞳をそらさなかった。まるで、自分が殺した男の顔を、深く眼球に焼きつけようとでもするように――。
「もう人間じゃなかったんだ……」
周防のその言葉は、千鶴だけでなく、自分自身にも言い聞かせようとするかのようだった。
「どうした?」
周防は、千鶴の顔を覗き込んだ。
「どうせ殺すつもりだったんだろ、こいつらのこと? たしか言ってたよな」
〈殺しちゃえばよかったのに──〉
冥界からの使者がかけるような戦慄の声。
いま思い出しても背筋が凍る。
「よかったじゃないか。どんな恨みか知らないが、それを晴らせたんだから」
「……」
「そう考えられるあたり、もうオレたちも、人間じゃないってことか」
自嘲ぎみに周防は言った。
「……ええ、そうよ」
答えた千鶴から、周防は顔をそむけた。
「殺すつもりだったわ。こんなヤツら、死んで当然よ!」
小さな身体を強く抱き寄せた。
「それでいい」
周防の胸に、千鶴は顔をうずめた。
「その涙は、キミが《人間》だっていう証拠だよ」
豊穣の神フレイは、火の巨人スルトによって倒され、雷神トールも、怪蛇ヨルムガンドの毒で死を迎えた。
オーディンすらも怪狼フェンリルに呑み込まれてしまったではないか。
最後にスルトが放った炎が世界を焼き焦がし、《ラグナレク》がやって来た。
世の終わり。
終焉。
それが、神々の黄昏――。