第五章 6 天国
奇跡の雨は、崩壊した街全土に降りそそいでいた。
千鶴と周防の行く手を阻んでいた天手力男も、その身を溶かす恐るべき雫によって、それまでの優勢をたもてなくなっていた。
「ぐおおおお――ッ!」
「なんだか知らないが、この雨に弱いみたいだな!」
地割れが、巨体に向かって襲いかかった。
それまでは、体格に似合わない迅速な動きによって、ことごとくかわされていたが――。
「え!?」
この巨体をも、のみ込むことができるほど――五メートルほどの幅はあるだろうか……しかし、地の裂け目に落ちるであろうという思惑は、見事なほどにはずされた。
「な、なんなのよ……あいつ」
千鶴が気味悪がるのもしかたなかった。
身体が、のびていた。
水飴のように……という表現は適切だろうか? 胴体の中心から左右に、びよ〜ん、と広がった。それにより、五メートルの地割れにも、のみ込まれることはなかった。悠々と地の深淵を跨ぐことができたのだ。
「ご、ごのでいどの……あめでぇえ!」
胴体だけでなく、顔も中心から同じようにのびているために、歪んだ口から発せられた言葉もまた、歪んでいる。
「もっと広げられないの!?」
千鶴の提案は、もちろん周防に向けられたものだが、さきに広がったのは、地割れの幅ではなく、天手力男の身体のほうだった。
「な、なんてヤツだ!」
周防は戦慄をおぼえたが、千鶴にはべつの感情が爆発していた。
「き、き、き、き……」
「なんだ、どうした!? 『き』がどうかしたか!?」
「き、き、気持ち悪い〜〜ッ!!」
噴き出した叫びとともに、千鶴は三本の指を立てて、のびきった強力の神を指さした。
親指からテン蔵が、中指からライ吉が、そして千鶴の後ろで控えていたガゼルが跳躍し、光の矢と化して飛翔してゆく。
のびきっていたのが、原因なのだろうか。その三体の光跡は、大きな胴体を気持ちいいぐらいにぶち破っていた。千鶴の気分も、少しはおさまっただろう。三つの光跡は急旋回すると、千鶴の右手に吸い込まれた。
「ぐおお……」
断末魔の叫びをあげかけて、天手力男の身体は、二つに割れていた。
いや、分かれていた。
「か、数が増えちゃった……」
左右が離れたと思った刹那、そこには二体の天手力男神が出現していた。大きさはオリジナルの半分ほどになってしまったが、同じ顔形、体格をしたものが二つ――。
「ど、どうしよう……」
自分の攻撃方法を深く反省しながら、千鶴が嘆く。
「オレが、左をやる。千鶴は、右だ」
「わ、わかった」
「とにかく、この雨が降ってるうちに決着をつけないと……!」
周防が両腕を天にかざすと、左の一体の足元が隆起した。危機を察して跳び上がった二分の一になった巨漢だったが、それを追うように、隆起はさらに盛り上がる。
土が、槍のように迫っていく。
その鋭利な矛先に刺し貫かれるかと思われたが、天手力男は、まるで体操選手のように身体を反転させると、槍の先端をうまいぐあいに避けて、横からつかみとった。
土の槍に、片手一本で逆立ちしている格好になった。この持ち方では、そうとうの腕力が必要になるはずだが、そこは二分の一になったとはいえ、《手の力の強い神》と呼ばれるだけのことはある。
「これならどうだ!」
逆立ちしている相手めがけて、弾丸と化した土の粒をあらんかぎり発射させた。
「フン!」
気合を放ち、天手力男は全体重を支えている片腕だけで、さらに上空に跳ね上がった。
それまでいた空間を、地上から飛来してきた土の弾丸が蜂の巣にする。しかし、それで周防の攻撃が失敗したわけではない。すでに十数メートルも隆起していた土の槍が、再び追尾を開始した。
跳躍した天手力男は、さきほどと同じように先端を横からつかもうとした――が、土の先端が方向を転じていた。
つかもうとした掌めがけて突き刺さった。
「こしゃくな!」
それだけではない。なんと、その刺し貫いた矛先が変化したではないか。釣り針のように湾曲した。ご丁寧に『カエシ』までついている。これでは容易に抜くことはできない。
「次は外さない」
地を見れば、細かな土の粒がすでに用意されていた。あたり一面に浮き上がっている。
「名付けて『魔塵弾』だ!」
もう片方の手を使い、どうにかして土の穂先を抜こうとしていた力の神だが、抜くよりも叩き壊したほうがはやいとふんで、渾身の手刀を先端部分に激突させた。
バキッ!
折れた。
が――。
「うおおおお――っ」
そのときには、土の粒がおびただしい数、その身体にめり込んでいた。さきほどからの雨により、その身が溶けかかっていたこともあるだろうが、粘土に石を埋めるがごとく、土の弾丸は、天手力男の体内に深く侵入していた。
上空から落下する半分の巨体。
当然、周防の頭脳は、このあとの攻撃方法も計算している。
落ちてくる天手力男を剣山が待っていた。
槍と同様、土の剣山だ。
「ぐおおおおっ!!」
やはり雨の影響か、土とはいえ、針は強力の神に突き刺さっていた。
「ぐぞお!」
剣山に串刺しにされながらも、なんとか自力でそれを抜き、ふらついた足どりで立ち上がった天手力男が見たものは、奇妙なものを持っている周防の姿だった。
それは――ラケット?
土でできたラケットだ。
ネットの部分も、ちゃんと模倣されている。
その土のラケットを右手に持ち、左手にはやはり土で固められた特製のボール。それを軽やかに宙に放ると、右腕が力強く、それでいて優雅にしなった。
振り下ろす!
〈バチンッ!!〉
強烈なサーブが、天手力男の顔面を粉々に砕いていた。
「これの名前は『魔球砲』……ってとこだな」
自らのネーミングに満足しながら、周防は顔を無くした巨神を見下ろしていた。
(ヘンな名前)
そして、もう片方――分かれたもう一体の天手力男と千鶴の戦いも、終幕をむかえるところだった。
いかに、体格に似合わないほど素早い動きのできる巨神といえど……二分の一になって、さらに速さが増していたといえど、風の使徒たるガゼルの本気のスピードにはかなわなかったのだ。
雨の影響も大きい。
すでにガゼルの瞬速のなせるわざで、両足の腱を寸断していた。神であろうと、そうなったら身動きはできなくなるらしい。
周防の戦い様にも、耳を傾ける余裕ができていた。自分の動物たちへのネーミングセンスを棚にあげて、周防の技へのネーミングセンスにケチをつけている。
「こっちも終わり」
勝利を確信した千鶴は、ふう、と息を吐き出した。
自分の前で、いつ命令されてもいいように、ガゼルが突撃の準備を終えている。全体重を後ろ脚にかけて、すぐ一歩めを踏み出せるように待機していた。
人差し指を目標めがけて突き出そうとした千鶴だったが、ある異変に気がついた。
「た、助けて……」
声がした。
神の声ではない。
顔だ。
天手力男の顔のなかに、べつの顔が浮かび上がっていた。
知っている。
輪郭はぼやけているが、その目鼻だちはしっかりと見て取れた。
「林葉く……ん!?」
「お願いだよう……殺さない、でく、くれよお……」
「な、なんで……」
涙を流しながら訴えかける同級生の変わり果てた姿に、千鶴は戸惑いのつぶやきをもらした。
差し出した指も、いつしか下りていた。
「なにやってる、はやくケリつけろ!」
「そ、そんな……だって、この人……」
周防にも、だいたいの状況はわかっていた。
いま自分の倒した片方の天手力男の姿も変わっていたのだ。
おそらく、こちらのほうが本当の形なのだろう。顔が砕けたはずの強力の神は、まだ中学生の少年の姿へと戻っていた。
周防にも見覚えのある少年だった。
自分が狩ったことのある〈A〉。
そう……千鶴と出会った、あの夜に――。
「もうそいつは、人間じゃない」
しかし、千鶴の腕は動かなかった。
同級生、林葉雄二の顔を浮かばせた天手力男神が、ゆっくり、ゆっくり……傷ついた両足をなんとか引きずるようにして前進をはじめた。それが困難とふんだのか、少し進んだところで、四つん這いの体勢となり、太い腕の力で、前進を再開する。
周防が、手に持ったままのラケットをかまえた。
「お願い、だ、よお……た、す、け……」
命乞いしている顔とはちがい、その身体から漂い出る《威気》は、あきらかに邪悪なものがふくまれていた。
林葉雄二の顔が嘘を言っているようには思えない。浮かんだ顔と身体の意志は、べつのものなのだろう。雨による損傷で力がおよばなくなり、もとの本体である林葉雄二の意志が表層にあらわれてしまった――というところだろうか。
「ひ、氷上……ゆ、許して……く、れ……」
声とは裏腹に天手力男は、千鶴からわずか二メートルほどにまで近づいていた。
「どけ、オレがやる」
周防は、サーブを打つつもりだ。
もう一体にとどめをさした『魔球砲』――天才の称号を欲しいままにした、《不敗のサナギ》最大の武器。
「や、やめて……く、れ……」
林葉雄二の濡れた瞳が、千鶴に懇願していた。
次の千鶴の一言で、希望に輝いた。
「やめて、周防さん」
「ダメだ、やる!」
「いいの……」
林葉雄二の瞳が、絶望へと一転した。
「ガゼル――」
夢のなかに語りかけるように、千鶴はつぶやいた。
指を、標的に――向けた。
両断するのに、瞬く間もいらなかった。
「き、奇跡だとぉ!?」
雷神――建御雷之男は、その奇跡をおこした張本人の眼前で、神の威厳をも忘れ、恐れおののいていた。
その男は、すでに半死半生。とても、そんなことを成せる力など残されていないはずだった。『フツミタマ剣』で斬り裂かれ、強烈な雷撃もその身にくらっている。まだ息をしていること事態が奇跡にひとしいのだ。
(……!?)
《奇跡にひとしい!?》……建御雷は、己のまちがいに気がついた。
力が残されていない者が成したから、それを《奇跡》と呼ぶのであり、力が残されていなかったからこそ、《奇跡》はおこったのだ。
《奇跡》とは、神が……〈力ある者〉がおこすものでない。
それは、奇跡とは言わない。
なんの力もないはずの人間がおこすものこそ、それを《奇跡》と呼べる!
「……おまえのような人間がいたのか」
雷神の顔から、邪気が消えていた。
その身体から発散する威気も、まさしく神々しい崇高なるものとなっていた。雨で崩れていた姿形も、まるで生まれ変わったかのように、治癒している。
鎧の色までも……。
白の鎧。
胸の鹿を模した徴は、逆に黒く変化していた。仮に、黒が悪で、白が正義の色だとするのなら、さきほどまでは悪が支配し、いまは正義を取り戻したということだろう。
胸の紋様は、たとえ悪が支配していたとしても、心の片隅には正義が残っていたという象徴なのか。だとすれば、正義の支配するいまも、心の片隅には悪が残っているということになる。
建御雷之男は、神剣を引き抜いた。
鈴宮に、抵抗する力は残されていなかった。
白く変わった雷神は、鈴宮の身体を抱きかかえると、そっと、うるおいを取り戻した大地に寝かせた。
駆け寄ろうとした玲を、牽制するように睨んだ。いや、睨んだというよりは、見つめたといったほうがいいだろうか。その瞳が、なにかを語っていた。
やどっていた邪悪なるものが、この雨ですべて洗い流されてしまったかのようだ。
この姿こそ、真の建御雷之男神――。
「われわれも、もはや退くことはできん。もう一度、剣を取れ」
そう言うと、神剣をかまえた。
玲のほうに眼を向けたまま、なにもできず立ち尽くしていた桜子にも声をかけた。
「さきほどからの無礼、許せ」
「……」
「続きではないが、おまえにその気があるのなら、この俺の力をくれてやろう。どうだ、俺のものになるか?」
邪悪に支配されていたときのような、下卑た愉悦は感じられなかった。真剣に建御雷は訊いていた。
桜子は、怒りの視線を返した。
「ならばいい。俺の力は、べつのだれかが必要とするだろう。おまえは、自分の力だけで戦っていくのだ」
そして、つけたすように、
「《氷》の女だけでは、われは倒せん。おまえも加勢するがよい」
それまでが嘘のように、建御雷は静かに告げた。
「どうした?」
玲と桜子、両方への言葉だった。
「この男の、なにを見ていたのだ」
そのセリフを聞いてから、玲が妖艶でありながら、冷たい、いつもの笑みをつくった。
「ふん、あんたに説教されるとは思わなかったねえ。それとも神様ってのは、みんな説教好きなのかい?」
この雨が、消えかかった闘志を再び燃え上がらせてくれた。
なくなった力が、どこからか湧いてくる。
手のなかに、氷の剣が蘇っていた。
「やるよ、桜子」
「はい!」
柄が溶けてしまいそうなほど強く握りしめて、玲は建御雷に突きかかった。
同時に、桜子も《花》を舞わせる。
『可憐な乱舞』――!
色とりどりの鮮やかな花びらに飾られながら、氷の刃が白の鎧を貫いていた。
「な、なぜ……?」
だが、むしろ驚いたのは、玲たちのほうだった。
「そうだ」
満足げな笑みを、建御雷は浮かべた。
攻撃も防御もしなかった。
「もし人間すべてが、この男のようなら――人間は、ここで滅ぶべきではない」
「……」
「不思議か? 俺がこんなことを言うのは」
返事はなかった。
「俺が残虐な悪魔になっていたのは、人間のおこないのほうに問題があったのだ」
殺しあい。騙しあい。
強奪。私利私欲。
強者に媚びへつらい、弱者を虐げる。
大地を侵し、天を穢す大罪。
「そして都合のいいときにだけ、神に祈りを捧げる――そんな人間のどこに繁栄する価値があるというのだ!?」
玲たちは、反論することができなかった。
「やはり人間は、価値のない虫けらだ! だが、この男のように……おまえたちのように、命を棄ててでも自分の生き方を貫ける者になら、この世を託すことができるやもしれん」
かつての国譲り神話――この葦原中つ国を平定したという英雄の重い言葉だった。
「人間に繁栄する価値があるのなら、われは神になる! だが、忘れるな――」
言葉の途中で、建御雷の身体が消滅をはじめた。煙のような魂のゆらめきを放ちながら霧散してゆく。
「この世の人間すべてが、死すべきに値する者しかいなくなったときは、再びわれは悪魔となるだろう!」
顔以外が消えた。
そして、残された顔も散りはじめる。
「……この程度のことでは死なん! おまえたちの戦いの行方を見守っているぞ――」
声の余韻が消えたのと同時に、建御雷之男神の姿も、地上から去っていた。
戦いを終えた二人は、痛恨の思いを胸に、荒れ果てた大地に横たわる鈴宮京介に寄り添った。すでに、雨はやんでいた。鈴宮のおこした奇跡の終焉とともに、その命も尽き果てようとしていた。
「に、にいさん……大丈夫かい……」
かろうじて息の残っている京介に、玲はそれだけを呼びかけるだけで精一杯だった。
そっと、手を握った。
「……ぐみ」
「え?」
わずかに残った力で、握り返してきた。
「……めぐ、み……」
もうほとんど視力のないだろう瞳で、玲のことをやさしく見つめていた。
「天国に……来れたんだな……また、いっしょに……く、暮らせるんだ、な……」
「な、なに言って……」
「めぐみ……」
「あ、あたしは――」
言いかけて、玲はやめた。
さらに手を強く握った。
「き、きれいだなぁ……花に囲まれて……美しいところ……だなぁ……」
「……そ、そうよ……ここで、また二人で生きていくの」
「あ、あたたかいよ……なんて、あたたかいんだ……」
瞳の輝きが、急速に薄れていく。
「あのころに……も、戻れるんだなぁ……」
「ずっと、いっしょよ……もう離れない!」
「ああ……ずっと……」
手の力がなくなった。
「す、鈴宮さん!!」
呼びかけても反応はなかった。
唇だけが、最後に動いた。
《ずっと、いっしょだ――》
鈴宮京介は、幸せそうに瞼を閉じていた。




