第五章 5 奇跡
京介、玲、桜子の三人は、建御雷之男の圧倒的な神力の前に、為す術がなかった。
『フツミタマ剣』をたずさえた雷神――建御雷。猛き武神であり、かつてこの国を平定したという英雄神でもある。
西洋東洋を問わず、神の最大の武器こそが、《雷》とされている。それはつまり、人間にとって、もっとも恐ろしく、もっとも忌み嫌う自然現象が、《雷》ということだ。
人間が生来もっている恐怖の念。
そこから、『神の怒り』という発想が生まれた。
怒れる雷神に慈悲はないのか?
本能のおびえを具現化したような容赦のない雷撃。京介と玲は、水の防御があるからこそ、いまだ立っていることができる。
どうにか隙をついて攻撃を仕掛けても、こちらかの攻撃は一切通じない。京介の《雨》も、玲の《氷》も、怒れる雷神の前では無力に等しかった。
桜子は、さきほどの肩への雷撃で動きを封じられたままだ。桜子の身体はよほど大事なのか、あれ以降、建御雷は攻撃をしようとはしなかった。
「待っておれ! こいつらを殺したら、たっぷりとかわいがってやろう、ふふふ! もう一度言うぞ、よく聞いておれ――純潔の乙女は、穢されるものなり!!」
建御雷は、怒りと残虐さに、愉悦の情をくわえて言い放った。
淫猥な欲望に、面持ちも歪んでいるようだ。
「な、なんて破廉恥な……!」
桜子は、建御雷のあまりの暴言に、身体の痺れも忘れて震えだした。
「許せませんわ! もうわたくし、堪忍袋の緒が切れましたわ!!」
なにかを投げつけた。
「なんだ、これは?」
受け取った建御雷之男は、それが、なんの変哲もない赤紫の花だったことを眼で確かめると、何事かと眉を寄せた。
「それは、鳳仙花。あなたでも知っているでしょう!」
「これがどうしたというのだ?」
「わたくしを怒らせたことを後悔なさい!」
「くくく、いいだろう。ならば、おまえのその怒りを受け止めてくれようぞ!」
建御雷之男は、対峙している京介と玲を無視するかたちで、桜子に近づいていった。
桜子のほうも、それを受けてたとうというつもりらしい。
「ま……待ちなさい、桜子! あんた一人で倒せるような相手じゃないわ」
だが、玲の声でも、桜子を鎮められそうになかった。
「いいえ、レイ姉さま、わたくしの最大の技をみせるときがきたようですわ!」
花びらが、舞いはじめる。
桜子を包むように……。
「こんなもので俺を阻めるか!」
花びらの群れを腕ではらいのけ、建御雷は桜子の細身をわがものにしようとした。
だが、はらえない?
この量は、なんだ!?
「鳳仙花の花言葉は……『わたくしにさわるな』――よ!!」
どこから流れてくるのだろう。桜子のまわりを……いや、この世界を包むように花々が舞っている!
幾千、幾万……それを超える幾億の花びらが、この世界を覆い尽くそうとしているかのように――。
「幻か!?」
「この世に咲き誇る花たちよ、わたくしのもとに集いなさい!」
その言葉が嘘でないように、まるでこの荒野で咲き残った……いや、それだけではたりようもない。東京すべての……それ以上、関東周辺、日本中!?
もしかしたら世界中の花たちが、この場所に漂ってきたのかもしれない。
乱舞というスケールを超越した、花の嵐――《花嵐》!
「吹き荒れろ、花たちよ! 必殺『純潔は二度と戻らない』っ!!」
億単位の花びらが、建御雷之男に襲いかかった。
花嵐が、雷神を包み隠す!
「す、すごいわ……あの子……」
いささか技のネーミングに疑問を感じたものの、玲も京介も、その迫力に圧倒されるしかなかった。
これが乙女の怒りの爆発か!?
ただただ唖然。
ピチャ、ピチャ、ピチャ! と、自分たちを取り巻く水の防御にも、花びらが当たって水面を揺らす。小さな刃のように、ふれたものを傷つける鋭さがある。
そんな嵐のただなかに取り込まれたとあっては、いかに名の知れた神といえど、無事ではすむまい。
嵐は、やがて去り、花びらは嘘のように散っていった。
残骸の荒れ野に、立っているものがあった。
「そ、そんな……」
絶望のつぶやきが、桜子の口からもれた。
「くくく、おもしろい見せ物だ。ますます気に入ったぞ!」
無傷とはいかなかったが、ほんのかすり傷ていどの痛手だけで、建御雷之男は健在だった。
「いちはやく、おまえの身体が欲しくなったわ!」
桜子に向かい、建御雷は一歩踏み出した。
まるで桜子に見せつけるように、神剣の刃を掲げた。
「傷はつけん。その邪魔な衣装を斬り裂くだけだ。俺のものになるのだから、裸を見せるのは当然!」
「こ、こないで……」
本気で自分のことを凌辱しようとしていると悟って、桜子は恐怖で身がすくんだ。命をとられる以上の恐ろしさと、たとえようもない屈辱感に襲われた。
どうすることもできない。
戦うことも、逃げることも……。
「変態! あたしが相手になってやる!!」
たまらずに、玲が叫んだ。
だが、建御雷は一睨みだけで玲の動きを牽制する。
フツミタマ剣を振り上げた。
絶望的な展開は、それだけではなかった。
周囲では、おびただしい数の神兵たちが結集しつつある。空を見上げれば、無念の死をとげた人間の魂を食らおうと漂う神魂の群れが――。
「凍りつけ!」
そんな危機を打開しようとするように、玲が凄まじい冷気を建御雷に叩きつけた。
「話にならんわ!」
すべてを凍りつかせるはずの寒波でも、建御雷之男をひるませることはできなかった。
凍りつくどころか、冷気の渦がその戦闘的な肉体にぶちあたったと同時に、焼けた鉄に水滴を垂らしたがごとく、ジュウ、と音をたてて水蒸気をあげた。
「邪魔をするな!」
建御雷は左手を上げた。
雷光が立て続けにほとばしる!
「フン、フン、フン!!」
京介と玲を包む水の膜が、激しい音をたてて飛沫をあげた。
「そんなもの、破ろうと思えば、すぐにでも破れるわ!」
ひときわ強烈な稲妻が放たれた。
雷撃!?
いや、まるで火炎のような――。
「『雷燃』をくれてやる!」
建御雷の吠え声は、ゴオオオ、という雷鳴のような響きに、なかばかき消されていた。
火炎放射器から噴き出したように、輝きの塊が放射されていく。
まさしく、燃える雷だ!
「うッ!」
それは、水の防御にぶつかると、さらに激しい光を発した。
眼がまぶしさの影響から解放されたとき、鈴宮は、すでに水の防御がなくなっていることに気がづいた。
「うう……」
玲が、胸を押さえていた。
「お姉さまッ!」
崩れるように倒れていく玲に、桜子が駆け寄っていこうとする。
しかし当然、猛き雷神がそれを許すはずもない。
「おまえは、ここでじっとしていろ! 大切な獲物なのだからな、くくく」
振り上げていた右腕の刃を、桜子の顔面にスッ、と突きつけていた。銀光の冷たい輝きに瞳を奪われて、桜子は胸をおさえた玲が、なんとか立ち上がったありさまを見ていない。
「だ、だいじょ……ぶ」
安心させるように、玲が言葉を押し出した。だが、はっきりしないその声からも、かなりのダメージを負っていることはあきらかだった。もう一撃、いまのを食らったら終わりだろう。
「どうする? おまえに決めさせてやろう。あの死に損ないの女をさきに殺すか、それとも男のほうか? おまえをさきに女にしてやってもいいのだぞ!」
下卑た笑みを浮かべて、建御雷は訊いた。
左手は、玲と京介に狙いをつけている。
「う、う……」
桜子は、声を出すことができなかった。
「ならば、俺が決めていいな? やはり、あいつらなど、どうでもいい。はやく、俺のものになるのだ!」
建御雷之男は、突きつけていた刃を、再び振り上げた。
走り出す影があった。
桐生玲。
胸を片手で押さえ、片手に氷の剣を持っている。
建御雷が、かまえていた角度をずらした。
走り込んでくる玲めがけて斬りつけた。
いや――。
走り出していたのは、一人ではなかった。
ザクッ!
刃が、生身の肉体にめり込んだ音。
「な……」
玲は、眼の前の光景に、神を呪った。
刃で裂かれたのは、自分ではない。
「す、鈴宮さん…………!」
玲をかばうように、京介が立ちはだかっていた。
肩口から斜めに入った刃が、身体のほぼ中央まで到達している。
心臓も傷ついていよう。
「オレは、ここまで……!」
鈴宮は、剣を持つ建御雷の腕をつかんだ。
刃を抜こうというのではない。
「放せ!」
「あ、雨よ……!!」
道連れにしようという策は、もろくも崩れた。頼みの雨が降らなかったのだ。鈴宮の願いに、大地よりさずかった力は、もう応えてくれなかった。
「くくく、力尽きるか!」
「な、ならば……このオレごと……」
京介は、首だけを動かした。
見たものは、玲の瞳。
「で、できないよ……」
その意味を悟った玲は、顔を横に振ることしかできなかった。
京介を犠牲にすることをためらっているだけではなかった。疲労と胸の苦痛により、すでに玲の力もなくなっていたのだ。その証拠に、握っていたはずの氷剣も水と化し、その形を消していた。
冷気を放つどころか、立っているのもやっとだった。ここまで駆け寄ったことも、すでに限界を超えたことだ。わずかでも気を抜けば、すぐに倒れてしまうだろう。
「最後の策略も無駄に終わったようだな。おまえらが勝つためには、まさしく『奇跡』がおこるのを待つしかない。だが、教えといてやろう。奇跡とは、神の気まぐれ。われわれを敵にまわしたおまえらに、奇跡などおころうはずもない」
建御雷之男は、情け容赦なく、至近距離の雷撃を放った。
ドンッ!!
その衝撃は、京介を貫通し、その後ろの玲までを吹き飛ばしていた。
「グッ!」
直撃でなかったぶんだけ、玲に致命傷がつくことはなかった。
しかし、それを間近でくらったとなると、おそらく……。
すぐに身を起こした玲は、建御雷之男の右腕を放さないままの、凄絶なる京介の後ろ姿を見た。
身体の中央まで侵入した『霊剣』……そして、いまの一撃による傷で、もう塞ぎようのない亀裂が深く刻まれてしまった。
「も、もう……」
玲は、つぶやいた。
胸が痛むのは、さきほどの『雷燃』による苦しみだけではない。胸の奥に焼きついて離れない《絶望》という現実が、魂を痛く揺さぶる。
「だ、だめ……わたくしの力でも……」
桐生玲、久世桜子……それだけではなかった。それぞれ、ちがう場所で戦っている〈洗礼者〉たち――。
風神シナツヒコと戦っている玄崎太一も。
鉱山の神カナヤマビコと死闘をえんじている浄明も……。
強力の神アメノタヂカラオと対峙している千鶴と周防も……みな自身の力の限界を感じていた。
神に戦いを挑んだことがまちがいだったのだろうか?
神に従わない人間の末路とは、無残な死しかないのだろうか!?
「ん?」
この絶望に埋め尽くされた残骸の街で、ただ一人――まだ、人間による奇跡を信じている男がいた。
その男が、うつむいていた顔を上げた。
そこにいる存在と眼が合った。
なにか驚いたような……たじろいだような視線が返ってきた。
まだ死んでない瞳に、さすがの神も驚愕したのだろうか。
さらに上へ、眼を動かした。
明るい空が広がっていた。
太陽こそ出ていないが、雲一つない美しい青空だった。
昔の……あのころまでの澄んだ空。
彼女とすごした、幸せな空の色。
この世界が腐ってる?
そうかもしれない。
人間は汚いものかもしれない。
だが、そうであったとしても、汚れていない人間だっているはずだ。
そう……死んだ妻のように――。
彼女が愛した……そして生きたこの世界を、壊させはしない。
はじめて、悲しみでない《雨》を降らせる。
ともに歩んだ思い出を……。
この世界を守るために!
「あ、……雨よ――――っ!!」
命果てようとするいま、消えゆく命の炎すべてを、この男は投げ出そうとしていた。
鈴宮京介……最期の戦いへ――!!
志那都比古の巻きおこした『かまいたち』によって、太一の肩口がパックリと切り裂かれたところだった。
ポツリ。
ポツリ……ポツリ――。
「雨?」
最初、肩から噴きこぼれる自分の血液かと思ったが……ちがう。たしかに雲一つない晴天の空から、雨粒が落ちてきた。
それが、一滴、二滴と、自分の顔をやさしく冷やした。
だんだんと激しく、傷ついた肉体と心――荒れ果てた大地を、癒すように、慈しむように、雨は降りそそいだ。
「な、なん、だ、これ!? ぐぐううっ……」
雨が激しくなるにつれ、細すぎる体躯の風神は、表情を苦悶に歪め、くぐもった悲鳴をもらしはじめた。
「か、身体、が……とけ、るぅぅ……」
〈チャ、チャンスだニャ!〉
太一の足元で、ムクムクが叫んだ。
太一にしろ、叫んだムクムクにしろ、突然の雨と、志那都比古の異変に戸惑いがないわけではなかったが、これが最大にして最後の好機だということは理解できた。この雨が人間に残された、たった一つの希望だということが――。
「重くなれ――ッ!!」
渾身の力を念に込め、志那都比古に叩きつけた。周囲の地面ともども、志那都比古が沈下していく。
細すぎる身体に、可能なかぎりの重力をかけてやった。これまでのように、穴や地割れの溝に落とすというのではなく、押しつぶして陥没させようというのだ。
さきほどまでの自分なら、ここまでの力など出せなかった。この雨が、無尽蔵の力をあたえてくれる。
いまなら倒せる。
いや、この雨の降るいましかない!
「ぐうう……こ、この、程度、では……やられ、ない……か、風、よぉッ!」
まわりの土とともに、地中へと沈んでいく志那都比古の痩身。その足元から、硫酸に浸かっていくように煙が生じていた。
上からは、雨。
下からも溶かされていく。
しかし、それでも『ビッグタワー』と呼ばれている、細いが大きな身体を持ち上げるには充分な余力があった。
風。
志那都比古を取り囲む大気が渦を巻き、上昇を開始した。
重力に逆らって浮き上がっていく。
「む――んッ!!」
長身のすべてが、地上に戻った。
が、下半身の大部分は地中に入り込んでしまったために、見るも無残な状態にまで崩れかけている。上半身にしても、この雨のために似たようなものだ。
「た、ただ、では……やら、れんッ!」
上昇気流に乗りながら、志那都比古は攻撃に転じた。自身を持ち上げようとする気流から、いく筋かの風がはぐれていく。
それが見えない刃となって、玄崎太一に襲いかかった。
一撃、二撃!
太一の左肩、右太股を鋭く裂いた。
さきほどの『かまいたち』より威力は小さいが、同じような原理の技らしい。
「ぐうう……」
苦痛が体内に入り込み、鮮血が体外にしぶいていった。
だからといって、力を抜くわけにはいかない。いましか勝機がないだろうことは、だれにでもわかることだ。
「つ、次……、は……はず、さない!」
太一のかける重力と、志那都比古を浮かせる上昇気流は、互角……いや、じょじょに志那都比古の身体が高く持ち上がっていくような……。
地面より数十センチは浮揚しただろうか。
もし次の攻撃も太一に命中すれば、力のバランスは急激に崩れ、重の技が破られるのは確実。それだけにとどまらず、当たり所が悪ければ、太一の命までも危ない。
「逃げて、ストーカーさん!」
安全なところに避難している織絵の叫びが、風の音でかき消されそうになりながらも、太一の耳まで届いてきた。太一は、その声のほうに顔だけを向けた。
織絵と二人の少女たち――。
自分の力で、本当に彼女たちを守れるのだろうか……。
ここで自分が倒れれば、彼女たちも死ぬことになるだろう。この命がここで終わるのだとしても、眼前の敵だけは、なんとしても滅ぼさなければ……。
だが、自分にそれができるだろうか!?
なんの取り柄もない、冴えない男。
間の悪い、使えない人間。
生まれてからこれまで、人から期待されたこともないし、自分自身の期待にすら応えたこともない。
(そうか……)
太一は、瞼を閉じた
自嘲の笑みが、一瞬だけ口許をゆるめた。
(自分すら裏切りつづけてきたのか……)
運とかめぐり合わせとか、そんなのもののせいではない。
たとえ最悪の運命を背負って生まれてきたのだとしても、それがどうしたというのだ。
そんなもののせいにして、自分すら裏切ってきた。
運なんていらない。
間が悪い?
けっこうじゃないか!
(ダメだっていい! でも、ボクはやる!!)
太一は、はじめて運命という鎖から解き放たれた。
もう自身を縛りつけるものはない。
それは、力とて同じことだ!
「な、なん、だとぉ!?」
志那都比古の身体が、再び下降をはじめたではないか。
「く、そ、ぉ――ッ!!」
上昇気流からはぐれた風の筋が、さきほどと同じように太一めがけて襲いかかった。
ザクッ!
右のわき腹を裂かれたが、そんな苦しまぎれの攻撃など、いまの太一には通用しない。
瞼を持ち上げ、信念のこもった瞳を輝かせた。
「沈め! 沈め! 沈め!!」
だが、志那都比古も浮力を得ることだけに全能力を集中したようだ。
膠着状態――。
志那都比古の細い身体は、上にも下にも、まったく動かなくなっていた。
「こ、こう、なった、ら……どち、らが、先に、力、尽きる、かだな……」
志那都比古は、溶けかかった顔に、勝ち誇った笑みを浮かべた。
いまだ降りつづける雨による損傷で自身の力が尽きるよりも、このまま強大な重力をかけつづける太一のほうが不利とふんだのだろう。
たしかに、太一の限界は近づいていた。
いや、もうとっくに超えているのかもしれない。
いつ力尽きても不思議ではないはずだ。
「や、やは、りぃ……人間、には、われわれを、倒すこと、はできん、のだ!」
(もう……ダメだ……)
視界がかすみ、足がふらついた。
朦朧としていた意識が完全に飛ぶ寸前、力の均衡が崩れていた。
「な、なにぃぃぃ――ッ!?」
驚きの声をあげたのは、勝利を確信していたはずの、志那都比古のほうだった。
細すぎる風神は、再び沈みはじめていた。
驚愕に見開かれた眼球が、『信じられない』と叫んでいた。その眼で、あわてふためきながら、自分の身体におこった変異の原因をさがしあてた。
それは、足にいた。
ほとんど原型をとどめていないその下半身に、二匹の獣がぶら下がっていた。
「あ、あれは……」
太一にも、思いもよらぬ出来事だった。
ムクムクとソワソワが、志那都比古の下半身に噛みついているではないか。
「ば、馬鹿、な……こ、この俺の、足に、かじり、ついている、という、ことは……こ、この、上昇、気流を、かいくぐった、ということ――!?」
そうだ。志那都比古に近づくためには、まわりを取り巻く凄まじい風の流れに逆らわなければならない。あんなに小さな身体では、それは不可能のはず。
なぜ、吹き飛ばされなかった!?
「!」
そのとき、太一の身体を駆け上がるものがあった。その子は肩で制止すると、かわいい瞳を太一に向けた。
「リスが……」
太一は、つぶやきとともに理解した。
よく見れば、ムクムクとソワソワの小さな身体が、青い靄のようなもので覆われているではないか。
『水の羽衣』――。
その名を太一は知らないが、このリス――『リーちゃん』が、ムクムクとソワソワの二匹にバリアのようなものをはり、上昇気流を突破できるようにしたのだろうということが、おぼろげながらわかった。
〈ガウウ! わがはいたちの重さのぶん、タイチの《重》の力のほうが勝っているガウ〉
そのとおりに、志那都比古の痩身が、地中へと落ちていく。
どんどん、どんどん!
すでに最初の攻防で、深さ一メートルほどの穴があいていたが、下半身がその穴に入っていくと、火花のようなものが鮮やかに散った。むろん、ムクムクとソワソワも穴に入っていることになるが、神族でない彼らに害はない。
穴の一番下まで沈むと、ムクムクとソワソワは巧みに痩身をよじ登り、頭の上に到達した。
そこで、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ!
今度は上からの重みで、志那都比古は沈んでいく。穴の深さは変わらないようだが、それは足先から順に溶けきってしまているからだろう。
「こ、この……!」
頭上の邪魔な二匹を捕まえようとするが、ピョン、と跳ねられてしまった。
宙に舞った二匹は、気流を越えて、地面に着地する。そのときの最後のひと踏みで、志那都比古の身体は、完全に穴のなかへ落ちてしまった。
「ぐ、ぐる、じぃ――!」
腕をのばし、穴の縁をつかんだ。
が――。
そこに待ち構えていたのは、かわいい小悪魔の微笑みだった。
ニタァ!
「や、やめ、ろ……!!」
瞳を爛々と光り輝かせたソワソワは、大きく大きく、小さな口をあけた。
本日二度目の、このシチュエーション。
すっかり癖になってしまったようだ。
ガブッ!
「うわあああ――――っ!!」
凄惨な苦しみの末、風の神は暗い土中で消滅していった。
それを悲しんでいるのか……歓迎しているのか、ゆるやかな風が一陣、吹き抜けた。
〈わがはいの頭脳の勝利ガウウ!〉
〈ガウウ!!〉
ムクムクの決めゼリフとともに、ソワソワも一声吠えた。
穴のなかに残っていたのは、息絶えた長身の男だった。溶けたのは志那都比古としての身体だけだったのか、とくに大きな外傷はないようだ。
〈このまま穴を埋めて、お墓にしてあげるガウウ。この背の高い男も被害者ガウ〉
その言葉にうなずいたあと、太一は大きく息を吐き出した。
「ふう……助かったよ」
やっと力を抜くことができた。
抜けすぎて、意識が遠のいていった。
ふら、と倒れそうになったところを、だれかに支えらた。
このまま死んでもいい――そう思った。
(もう、このまま……)
安らかな顔で、太一は眠りについていた。
「ちょ、ちょっと!」
自分に体重を預けて意識をなくした太一のことを、てっきり織絵は死んでしまったものだと勘違いした。
涙を流しかけていたところに、
〈ただ気を失っているだけガウ〉
と、ムクムクに教えられて、少しムッとした顔をする。
(まぎらわしい!)
でも――。
「かっこよかった……」
そのつぶやきは、太一の夢のなかへ吸い込まれていった。




