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第二章  3 鬱朝

 さわやかな朝……のはずだが、高橋家に心から爽快な朝がおとずれていたのは、もうずいぶんと昔の話だ。

 この一週間あまり、織絵は泣いて暮らした。自分がどれほど良蔵のことを愛していたか、いやというほど思い知らされた。とにかく泣いた。なにもしていないときは、必ず泣いていた。なにかをしながらでも、自分一人のときは涙を流していた。つらい一日がまたはじまるのなら、朝など来ないほうがいいと本気で考えた。

 良蔵の死以前にも、そこまでではないが、朝を暗くしてしまうほどの心配事があった。

 千鶴を追い詰めたあの事件……。登校拒否になってしまった彼女を案ずる日々が、長く続いた。いつも朝から、重い気持ちですごさなければならなかった。

 だから、この三ヵ月――。

 いや……じつは織絵には、それより以前から抱えている悩みがあった。いまから半年ほど前――良蔵との結婚を意識しはじめたころから、爽快な朝はおとずれていなかった。好きになった男性はすでに四〇半ば、娘も一人いる。楽天家の祖母はいいとしても、両親は結婚に反対するだろう。その愛する男性の娘も、自分のことをよく思っていないようだ。彼とは結婚すべきでないのだろうか――朝から、そのことで頭がいっぱいだった。

 だから、この半年間……。

 いやいや……さらにじつは、爽快な朝が来ないのは、それよりもっと半年前までさかのぼらなければならない。つまりここ一年、安らぎの朝を織絵は知らない。

「またいるわ、おばあちゃん」

 織絵は、純和風の居間の雨戸を開けると、早朝から和服姿で優雅にお茶をすすっている祖母に、声をひそめて話しかけた。

「毎日毎日立派なもんじゃ。三日坊主のバカ息子に、見習わせたいのう」

 そう大声をあげると、壁に貼ってある『禁煙』の文字をチラッと祖母は見た。織絵の父――つまり自分の息子が二日前に貼ったものだが、昨日帰ってきたときには、すでにタバコをくわえていたのを織絵ともども目撃している。

「もう! そんな冗談言ってる場合じゃないわ! 気持ち悪いとか思わないの!?」

 織絵は、窓から外を眺めていた。四〇歳ぐらいの中年男が、電柱に隠れるようにして、この家をうかがっている。

 もう一年近くになる。

 あの小太りの中年男が、朝からこの家を覗いてるのは――。

「完全にストーカーよ!」

「けっこう、けっこう」

「もう!」

 まったく真剣みのない祖母にムッとしながら、織絵は窓の内側の障子をきつく閉めた。

「わたしが、あの男に襲われてもいいの!?」

「けっこう、けっこう」

 それでも祖母は表情を変えず、ただお茶をすすっている。名前は早乙女イネ。年齢は七〇歳を大きく越えているが、とてもそんな年齢とは思えないほど若々しい祖母だ。

 外見だけなら歳相応、コンパクトすぎる小さな身体に、織絵の祖母というのが嘘みたいな猿顔がのっている。だが内面に秘める若さは、二四歳の織絵ですら圧倒されるほどだ。

 白髪のなかに黒いものがほんの少しだけ混じっている薄くなった頭だが、ちゃんと結い上げて、赤い櫛で飾られている。まるで光をまとっているかのような美しい艶のある輝きの櫛だ。イネが一〇代のころから肌身離さず持っているそうだが、それにしては光沢がすばらしい。

 姓が《早乙女》だが、母方の祖母というわけではない。父親のほうが婿養子なのだ。結婚のさい、父が婿養子になるんだったらという、わけのわからない条件をイネがつけたらしい。そのくせ、いまでは《高橋家》に自分から転がり込んできたわけだから、かなり個性的な思考の持ち主と言えるだろう。

 過去に、織絵はそのへんのことを詳しく尋ねてみたことがあったのだが、イネはおかしなことを言うだけだった。

『女の孫ができることはわかっておった。三人が守る必要はない』

 いまでも意味はわからない。

 その後、何度同じ質問をしようと、イネは答えてくれなかった。

「新聞、おばあちゃんが取ってきてよ」

「バカ息子が起きたら、自分で取ってくるじゃろ」

「わたしが見たいの!」

「じゃ、自分で取ってこんかい」

「まったく……お母さんがいないからって、いつにも増して、ずうずうしくなってるんじゃない?」

「カッカッカ、和歌子さんさえいなくなれば、わしの天下じゃ!」

 この家は、もともと《高橋家》の持ち家であり、この家の主は織絵の母――和歌子なのである。

「お母さんから連絡は?」

「昨日の晩、電話があった」

「どうだって?」

「べつに、な〜んも言っとらんかった」

「なにかは言ってたでしょ!?」

 いい加減なイネの返答に、織絵は怒った顔をする。どうにも解せないことだった。織絵の母は、一週間ほど前から島根県にあるイネの実家に行っている。

 なにが解せないかというと、最初の話では「遠い親戚が事故に遭ったから、だれか実家のほうに行ってくれないか」というものだった。一人が死亡、一人が重症を負って入院しているから、葬儀の手伝いと、病人の看病をしてくれというのだ。そこで、母の和歌子が行くことになったのだが、それ事態は別段おかしいことはない。

 しかし、よくよく話を聞いてみると、その事故で死亡した『遠い親戚』というのが、織絵の叔父であり、重症を負って入院しているのが、その娘――つまり従姉妹だということがわかった。父親からすれば、兄弟と姪……イネからすれば、自分の息子と孫ということになる。遠いどころか、ごく近い親類――父とイネにとっては、血のつながりの濃い肉親だったのだ。

 そもそも、自分に叔父や従姉妹がいたなんて、織絵には初耳だった。イネも父親も、これまで実家の話をすることなど、まったくなかった。その実家とやらが、どこにあるのかも知らなかったのだ。というより、東京の人間だとばかり思っていた。

 イネと父親の態度もおかしかった。

 普通なら、自分の息子が死んだ、自分の兄弟が亡くなった――ということになれば、イネにしろ父親にしろ、実家のほうに飛んで帰らなければおかしいのではないだろうか。

 それを、《早乙女家》とは直接関係のない母に行かせるなんて、織絵にはどうしても納得できないことだった。

「何度でも言うけど、おばあちゃんは行かなくていいの!? お父さんもだけど、わたしだって行ったほうがいいと思うのよ……叔父さんたちには一度も会ったことないけど」

「おまえもわしも、ここを離れるわけにはいかん……まあ、必要とあらば、バカ息子を向かわせるわい。役に立たんだろうがな」

「どういうことよ、それ!?」

 しかし、イネは答えようとしなかった。

 まるで、その話題から無理やり遠ざかろうとするように、ちがうことにふれる。

「眼が赤いのう。昨晩も泣いとったんか」

 イネも、織絵の恋人のことは知っていた。

 大学時代の講師だということ、すでに四〇歳を過ぎていたこと、一人の子持ちで、その子供の通う中学校が織絵の職場だということ――そして、その彼がタンザニアで死んでしまったということも。

 イネは、お膳の上のリモコンのボタンを押した。部屋に合わせた昭和を感じさせるレトロな造りのテレビがついた。リモコン付きということでもわかるとおり、そういうデザインなだけで、古いテレビというわけではない。

『――青森県××村の核燃料サイクル施設で、パイプからもれた汚水が地下にしみ込んでいたことがあきらかになりました。汚水に放射能はふくまれて――』

 チャンネルを変えていく。

『昨日の夕方六時ごろ、落雷により三人が重傷を――』

『――地球温暖化の国際的専門家組織IPCC「気候変動に関する政府間パネル」の発表によりますと、二酸化炭素などの温室効果ガスによる温暖化は、もはや猶予のできない状況にまで――』

『埼玉県の××川で競技用ボートが強風のために転覆し、練習中だった林慶大学の学生一人が行方不明となりました。行方不明になった学生は、二メートル近い身長から、《ビッグタワー》という愛称で人気の――』

 この時間、どの局もニュースをやっているようだ。もう少ししなれば、ワイドショーの時間帯にはならない。

『――本日公開の映画「ラブソウル」に主演する青柳一生さんと七瀬美珠さんが、初日舞台挨拶に出席する予定となっています。――さて、次の話題ですが、歌舞伎役者の袋小路染麿さんと人気局アナの原達子さんとの不倫疑惑ですが――』

 一局だけワイドショーのようなネタをやっていたが、本当にどうでもいい内容だったのか、イネは、つまらないものを観てしまったとでも言いたげに、さっさとチャンネルを変えてしまった。

『――今月はじめから行方不明になっている東京の会社員、関根光三さんについての続報ですが、松江市で目撃したという――』

「いいかげん、あの子のことはもうやってないわな」

『さあ、来週に迫った衆院選も山場をむかえたわけですが――』

 最初の数日間は、『少女・奇跡の生還!』というような衝撃をあおるタイトルで、ニュースでもワイドショーでも新聞でも、織絵の愛した男性の娘――氷上千鶴のことを大きく報じていた。学校にも大勢のマスコミ陣が押しかけてきた。

 だがその騒ぎも、すぐに過ぎ去った。

『明日から有明で開催される大会を前に、世界ランク一位のレイ・オニール選手が――』

「たった一人で、アフリカから戻ってきたんだろう、その子?」

 ひと通り確認してみたが、やはり硬派なニュース番組では、もうその話題を取り上げることはなさそうだった。ワイドショーでならまだやることもあるかもしれないが、そうだとしても短い時間でしかないはずだ。

「ええ……四国ぐらいあるんだって、セレンゲティ国立公園って。そんな広いところを自力で脱出したんだもの。ほんとに、たいしたものだわ」

「……できすぎじゃがな」

「え?」

「こちらも、動きだしたか……」

 奇妙なつぶやきだった。

「なにが?」

 織絵は、茶をすするイネの表情をうかがったが、なにを意図したものか、読み取ることはできなかった。

「ねえ、おばあちゃん……」

 一抹の疑問を残しながらも、織絵は本題に入ろうと意を決した。

 ここ数日、ずっと言いだそうとしていたことだ。

「なんじゃ?」

「千鶴ちゃんを……うちで引き取るってわけにはいかないかな?」

 それまでの会話とは、あきらかに真剣みがちがう。織絵にとって千鶴の存在は、もう他人ではなかった。

「千鶴ちゃんがあまりにもシッカリしてるんで、いまはまだウヤムヤになっちゃってるけど……このまま一人で暮らしていくわけにはいかないでしょう?」

「親類は?」

「北海道のほうに、遠い親戚がいるみたい。でも、小さいときに一度会ったことがあるだけだって。千鶴ちゃんも、北海道には行きたくないみたいだし……」

 引き取り手がいないというのなら、施設に入らなければならないだろう。義務教育が終了する来年の春になれば、卒業後、就職して独り立ちすることもできようが、この不景気による就職難では、厳しい生活をしいられることになるのは眼に見えている。

「連日、学校に児童相談所の人が面接にやって来てるのよ。このままでは、今月中にも施設に入ることになっちゃうわ。べつに転校とかはしなくてすむみたいなんだけど……自分の家があるのに、かわいそうよ」

「じゃが、うちで引き取ったとしても、いまの家には住めないだろうよ」

「うちに住まなくてもいいと思うの。千鶴ちゃんが住みたいほうに住めば。とにかく名目上でも、うちの養女ということになれば、施設に入らなくてもすむでしょう?」

「ふ〜む、どうじゃろ。娘一人をあらたに養っていくことになるのじゃ。わしとバカ息子はいいとしても、和歌子さんが『よし』と言うだろうか。このうちの決定権をもっているのは、なんといっても和歌子さんなのじゃからな」

「お母さんは、わたしが説得するわ。もし、ダメだったときは……わたしの娘として引き取る!」

「それがどういうことか、わかっとるのか?」

 イネは、責めるような視線を向けた。

「まだ若いおまえが、一人の子持ちになるのじゃぞ。しかも、血のつながりのない娘だ。経済的なものは、かりに大丈夫としよう。そういうことなら、わしだって微力ながら協力することもできる。バカ息子の小遣いからも出させよう。だが……おまえにも、いずれ結婚しようとするときが来るだろう。そのときに彼女の存在が邪魔になりはしないか?」

「そんなことない! それに……結婚するつもりもない!」

 織絵は、叫ぶように答えた。

「愛した男が死んだばかりだから、そう言えるのじゃろう。時が経てば、彼への思いも薄れる。そうなってからでも、同じことが言えるのか?」

「彼への思いは……」

 途中で声は消えていた。

 きっと、『絶対に薄れない』と続いたのだろう。

「まあ、よいわ。どちらにしろ一番大事なのは、彼女の意志じゃ。彼女がどうしたいのかが重要じゃ」

 イネはそれ以上、言うことはしなかった。

 織絵が泣きだしてしまいそうだったからだ。



 結局、新聞は自分で取りにいった。

 父が起きるまでには、もう少しかかるし、イネはテレビの前からまったく動こうとしない。

 玄関を出た織絵は、チラッと自宅前の通りをうかがった。電柱の陰から、気味の悪い視線を送りつづけている中年男の姿が確認できた。朝から非常についてない。

 中央前頭部の毛が、いくばくもなくなっているのがあわれだった。何日も着つづけているようなヨレヨレで趣味の悪いスーツ、脂ぎった太り気味の顔。こんな男につきまとわれるのは生理的にきつい。

 中年男は、やはり織絵を見ているようだ。

 一瞬だけ眼があった。

(いや!)

 すぐに顔を伏せて、織絵は家のなかへ逃げ込んだ。それとすれちがうように、イネが出てきた。なかから、「外に出るんだったら、おばあちゃんが取ってきてくれればよかったのに!」という抗議の声が聞こえてくる。

 イネは、電柱の男を堂々と熟視した。

 小さい身体なれど、その迫力すら感じさせる視線に気圧されたのか、中年男はうろたえたように、しどろもどろ周囲を見渡すふりをしてから、あわてて走り出していった。

 すると、それと入れ代わりに、前の通りをさわやかに駆け抜けていこうとする人影があった。

「オッハヨウゴザイマース!」

 イネに向かって、そう無邪気に挨拶してきたのは、浅黒い肌をした異国の青年だ。イラン人だろうか、パキスタン人だろうか、外見からだけでは判断できない。

 彼は毎日、高橋家の前をジョギングしているのだ。

「あのイラン人も気味悪いわ」

 家のなかに戻ったイネに、織絵は思わず声をかけた。窓からジョギング青年のことも見ていたのだろう。彼のことをイラン人と決めつけていた。

「あやつは、わしの知人じゃ」

 イネは、迷わずに答えた。

「毎朝、家の前をジョギングしてるってだけで、知人にしないでよ! だいたいあのイラン人も、おばあちゃんのこと知り合いみたいな感じで挨拶してくるし……まったく、あのストーカーといい、あのイラン人といい!」

 警戒心をむき出しに、織絵は言葉を吐き出していた。つい、中国や中東をはじめとしたアジア系外国人による犯罪を連想してしまうのだ。

 本来、教師という立場の人間がもってはいけない偏見というものを、どうやら織絵はもってしまっているらしい。

「やっぱり、《巫女》にはむかん」

 ため息まじりに、イネは言った。

 ほんのつぶやくような声量で……。

「ん? なにか言った?」

 どうやら、織絵の耳までは届かなかったようだ。真剣な面持ちで新聞を読みはじめていた。


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