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電脳網奇譚  作者: ノアン
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西鉄バスジャック - 井上靖

こちらは、フィクションであり、実際の個人・団体とは一切関係ありません。また特定の個人・団体を批評する内容ではありません。

一章


湯島正(ゆしまただし)は、夜がもう明けようという時眼を覚ました。カーテンは開いていて、空一面に積雲が塗り広げられていることを露わにしていた。

湯島は大きな伸びをして、すっくりと半身を起こし、窓の反対側に眼を向けた。静枝は静かに寝息立ててすやすやと寝ていた。湯島は其の14年聞き続けて慣れた筈の音が、何故か胸の内でぶら下がっている自分の心をそっと持ち上げるのを感じた。

湿度を持った周りの空気が、天鵞絨(びろうど)のように体に纏わり着いて離れないのを感じたが、湯島の胸は沙漠のように冴えていた。そのため、湯島は眼を向けようとすると消えてしまう瞼の裏に捺された何か以外に、気にするものは無かった。

湯島は何も感じず眠りづめていたかったが、意を決して寝巻きを脱ぎ棄て立ち上がり、クローゼットに掛けてあるシャツとスラックスを間を縫うようにビッチリと着込んだ。

そしてベランダに出て、湯島はスラックスのポケットからピースの箱を取り出し一本くわえ、手すりにもたれ掛かった。

霧が軽く立ち込めていたが湯島にはその時、向こうの稜線までのおびただしい数の建造物の窓の奥が、一つ一つ呻くほどはっきりと判った。其れは稜線を超えて海の向こうまで勢いを増していった。

太陽系を知ったときの戸惑いに近いものが、この時湯島を再びとらえた。

月は一定の周期で満ち欠けし、太陽は同じ方角から昇り、潮は満ち引きを繰り返している。そして偶然に見える其れは、実際は惑星が複雑に相互作用て光の反射や重力が変化して出来たものである。しかし湯島にとって空に浮かぶ惑星に現実味はない。従って其れは湯島にとって偶然に変わりなく、理不尽なもので有った。

湯島が目を向けている時、誰かが水を欲し、誰かが溺れ死に、誰かが飽食し、誰かが飢え死に、都市は雑沓し、シャッター通りは錆びつき、誰かは家族から挨拶され、誰かは戦場で撃ち殺されている。

けれど、世界はいつもどおり進み今、湯島は煙草を()んでいる。

郊外のため道幅はゆったりと確保され、曇と朝も相俟(あいま)ってどんよりしていたが、湯島の目には雑沓を極めているように見えた。たとえ離れていたとしても、厖大な数の人々は街中に張り巡らされた光の網に乗って(2)チャンネルと呼ばれる狭い掲示板の上へはち切れんばかりに喧噪している。人々はそれによって遙かに簡単に相互作用をするようになった。

湯島の眼にはそれが、喜ばしくも悍ましく見えた。遙か遠方の事を注意深く(おもんぱか)り、作用されなければいけない理由が湯島には判らなかった。

(しばら)くして、湯島はポストへ朝刊を取りに行った。


二章


湯島は居間のテーブルに朝刊を広げ、コーヒーを啜りながら続報へ眼を向けていた。しかし活字を目で負いながら実際は何も読んでいなかった。湯島は今、何か一人で考えなければいけない気持ちがしていた。

そして、湯島はそのうちに突然ぎょっとしたように新聞から顔を上げた。湯島が眼を向けている先には息子の陽一が坐っていた。声もなく降りて来て、声もなく坐っていた。テーブルの向こう側、湯島と向かい合う席に陽一は腰掛け、スーパー・ファミコンのコントローラーを握り込み、眼の前の小さなテレビの画面へ眼を向けながら、ぼやけた影をこちら側へ落としていた。

正はその精悍だがどこか頼りない大洋に浮かんだ筏のような横顔を見詰めながら、いつから其処に居たのかを考えていた。

陽一は、父が目を光らせていることに気づいているのかいないのか、微動だにしなかった。

暫くして静枝が降りて来た。静江は、夫が既に起床していることに気づくと少し驚いていた。静枝は直ぐに朝食の準備を終わらせ、黙って三人分の椀を並べた。

「ご飯よ」

静枝は陽一に言った。陽一はコントローラーを握ったまま画面から頑なに眼を離そうとしなかった。

「陽一」

今度は正が言った。

「朝食は暫く要らないよ。」

陽一は、父の威厳のある声に続けて突発的に言い放った。その様子には、反抗というより、もっと別の何かが在った。自分の輪郭をまだ掴みきれていない者が、それでも誰かに頼ることを許さない、そういう頑なさのようなものが、少年の丸まった背中に滲んでいた。

正は何も言わなかった。静枝も何も言わなかった。三人分の椀から湯気が立ち、やがて静かに消えていった。

陽一がコントローラーを置いたのは、それからしばらくしてからだった。黙って躊躇いがちに椀を手に取り、黙って食べ始めた。挨拶はなかった。ただ、食べた。両親は、そんな陽一にどう接すればいいか判らなかった。

「ごちそうさま」陽一は、そうぶっきらぼうに言った。

正は少し安心した。陽一に小さかった頃の面影を薄らと感じたからだ。正は、父親としてもっと陽一に辛い時にこそ頼ってほしかった。


三章


「今日は遅くなる」

湯島は、ゴールデン・ウィークに入った仕事の出掛けに静枝にそう言った。

「気をつけて」

静枝は今日もそう言った。

湯島にとってその声は、十四年間ずっとそうであった筈なのに、湯島を心から引き戻そうとしているように感じた。近いうち受験をし、高校へ征こうとしている陽一のために学費を稼がなければいけない。家のローンを今月も払い、家族の食費・光熱費・水道代を払わなければいけない。夏休みの家族旅行のための旅費を払わなければいけない。それなのになぜか、進んではいけないという思いがそれでも湯島の心の一部に頭を(もた)げて来た。湯島は理不尽に感じた。いや、理不尽に感じなければいけないと思った。

湯島は憤って自分の力で靴を結び、自分の力で立ち、自分の力で「行ってきます」を言い、自分の力で戸外へ出た。しかし、外のどんよりする湿気と肌寒さも相俟って、湯島はまるで迷っているところを見かねた親切な山案内人に憤慨した時感ずる罪悪感に捕らわれた。

其れでも、湯島は足を前へ踏み出した。ここで停まってしまうことは、何かを認めてしまうような気がした。其れが何であるか湯島自身にも判らなかったが、認めたくなかった。

実際ここで停まることは、会社へ遅刻すること以外なんの意味も持たない筈であったが、その時の湯島にとってそうではなかった。

いつもと同じ道を歩いている筈なのに、湯島には永遠のように感じられた。反省をするには十分な時間だった。中学校の頃のワンシーンが湯島にフラッシュ・バックした。多忙な筈の先生が、湯島を諭すような眼で何時間も向き合っていた。先生のその眼を見るたび、湯島は申し訳無さで胸が張り裂けそうになった。然し、クラスメイトに張った虚勢が頭を擡げてきた。湯島は、自分の弱さを認めてしまうような気がした。そして、先生に「うるせぇ」と吐き捨てて終えた。

今、湯島は歳を取り、スーツを着て、会社へ歩いている。しかし、其のイメージは変わらずに湯島をとらえている。

遂に、バス停に着いた。けれど湯島は、誰かに見放されたように感じた。躊躇なくバスは向こうから轟轟と音を立ててやって来る。それに湯島は少し心地よい物を覚えながら、バスへ乗車する。乗車口を折れて右側、向こうの丁度行き止まり、最後列の窓際の席が空いていた。湯島は其れでも、恐怖を覚える。しかし後ろに人は(なら)んでいる。湯島は、他人に迷惑はかけれないと思った。さらに湯島は、人の沢山いるこの場所で、正体不明な恐怖に怯えていることが段々馬鹿馬鹿しく思えてきた。そして、湯島は坐った。

馬鹿馬鹿しさに、湯島の恐怖は押しつぶされた。だが湯島にとって、凝縮された恐怖は体の内側から熱を放っているようであった。しかし、脱力してシートへ身を預けるに従ってその恐怖は消えていった。

暫くして、湯島は煙草を喫んでいないことに気づいた。そしてそれが恥ずかしく感じてきた。煙草に火をつけて何かを証明したかったが、バスが禁煙であったことを思い出して、渋々断念した。

原動機の唸り超えが低くなり、そして速度が低い所で一定となったので、高速差し掛かったことが湯島には判った。だが、それと同時に前方で何かが起きた。

最初、湯島にはそれが何であるか判らなかった。しかし、湯島は運転手の肩が強張ったのを感じ、そこから左へ視線を(つた)うと、何かがギラりと不気味な光沢を立てているのが判った。次の瞬間、短い悲鳴が湯島には聞こえた。

湯島は運転席の横に立っている男が十代のように見え、右手には牛刀を持っていると認識した。

湯島はまるで、それを昔から知っていたかのように落ち着いていた。いや、知っていた。湯島は夜な夜な、バスジャックを(ほの)めかす文章を見ていた。然し湯島は、それを悪戯とあしらった。それを認めるのは、まるで幼稚園生のようで湯島にとって本当に屈辱的だったからだ。

然し、湯島は段々と焦り始めてきた。ここ高速であり、進行方向の左側の窓際に湯島は坐っているため、窓から飛び出したら、命は確実にない。しかし湯島は、あまりその危険性を重大なこととして捉えなかった。寧ろ、その場所にいることが湯島にとって屈辱的に感じられた。

湯島の学生時代は少年の心を置き去りにしたまま一瞬で過ぎ去った、そして何時の間にか社会人となっていた。従って強がらなければならなかった。だが湯島の心の真髄に押しやられた少年の心が、その瞬間生き生きと呼び覚まされた。

湯島は立ち上がり即座に窓を開け。其処から半身を投げ出したが狭すぎて突っかかってしまった。犯人はそれに気づき、こちらへ向かってきた。湯島はその瞬間、矍鑠(かくしゃく)としていた。湯島は力任せに体を揺さぶり、車内の手すりであろうところを蹴り飛ばした。そうすると、一気に体重が窓の外へ湯島を引っ張り出した。路面へ落ちる際、頭が先行していた。

その時何処かで産声が上がっていた、誰かが通勤電車に揺さぶられていた、何処かで日が昇った、誰かが山に登頂していた、そして誰かが洗濯物を吊るしていた。


四章


何処かで電話がなった、受話器を取り上げたのは静枝だった。陽一は音の鳴った方を一瞥してすぐにゲームに戻った。静枝は夫の勤め先へは電話をかけないようにしていた。かけたくなかった。しかし、受話器の向こうにいたのは警察であった。静枝は、夫が同じ車両に乗っていたことをすでに知っていた。ジャックされたバスがまだ、暴走しているというのも知っていた。だから目的は直ぐに判った。被害に巻き込まれていることを伝えるはずだろう。しかし違った。

静枝はその言葉を一度では理解できず、もう一度繰り返してもらった。繰り返してもらっても、やはり理解できなかった。ただ、電話を切った後、静枝はしばらく受話器を両手で持ったまま、台所に立っていた。やかんが鳴っていた。静枝はそれに気づかなかった。

その時、どこかで風が吹いていた、ベランダで夫のシャツとハンケチは(ひるがえ)っていた。テレビからはコンピューター・ゲームの音が鳴っていた。窓から静枝は郵便ポストへ投函する人が見えた。

夫は死んだ。だが世界は躊躇なく進み続けている。そして、静枝一人が取り残されている。静枝は、孤独を感じた、世界に自分一人しかいないような感覚となった。

夫が死んだことよりも、それに眼もくれず進み続けている世界を静枝は恨んだ。

しかし、戦いを挑んだ相手はあまりにも強大で、すぐに屈してしまった。

進み続けるこの世界の慣習に従うなら、静枝は洗濯物の取り込みを続けなければいけない。

そこに遺っていたのは、なるほど夫のシャツとハンケチだけであった。

でも、それを取り込めなかった。静枝は世界が自分一人を取り残して過ぎ去ってしまうとしても、それを取り込んでしまうと何かが終わってしまうと感じていた。

陽一は、聞いていた。ゲームの音を大きくしても其れは無視できなかった。陽一は、動揺する母を見た。父親は、死んだんだ。陽一はそう感じた。

気だるい昼下がりであった。

陽一は、その後ゲームで過去最高得点を取ったが、嬉しさは無かった。だが、それだけが自分ができる対処の如く陽一は、無心に続けていた。しかし、耐えきれなくなって途中で自室へ駆け込んだ。


五章


陽一の部屋には一般的な中学生の部屋であった。

教科書と、陽一の学校で流行りの読みかけの漫画、テレビ、窓、ベッド、机のみが置かれていた。

陽一が中学に入学したその暁に、湯島は二度と陽一の部屋へ入らなかった。静枝が入ろうとしても、陽一はそれを留めた。

そのためか、陽一の部屋にはゴミが散乱していた。

陽一は天井の上の染みを見詰めた。昔彼の父がペンキを塗り直そうと言っていたところであった。しかし、結局それは後回しとなり、今もそのまま残っていた。陽一には、父の声が、もうその染みの上に居場所を持っていないことが判った。

暫くして、窓を見た。隣家の洗濯物は相変わらず風に揺れていた。誰かの生活が躊躇なく続いていた。陽一は泣きそうになっている自分に気づき、同時にそれを見られはしないかという猛烈な不安に襲われたため、カーテンを閉め、ベッドに頭を埋めた。陽一はそれでも涙をこらえた、泣いてしまうと父親に何かを認めてしまう様な認識が陽一には在った。

その後陽一はテレビをつけた。どのチャンネルもジャックされたバスの中継であった。既に武田山トンネル付近で、男性客は全員降車させられたと知った。陽一はそれを見て、なぜ父だけが死ななければならなかったのかと思った。多分父は、他の人のために勇敢に戦って死んだのだろうと陽一は考えた。

陽一は、肩幅の広くどんなことでも包容してくれる寛容な父親をえがき出した。そして其の父親がいないという事実だけが、陽一の胸の中を何回も反響していた。

なぜあのとき正直に、いただきますと言えなかったのだろうかと、陽一は深く反省していた。

陽一は悲しみと申し訳無さを堪え切ることができず、その一角が涙となって現れた。

陽一には判らなかった。どういう顔をして、どういう声で、どういう言葉で、母の前へ現れればいいのかが。

父親に向けるつもりだった言葉が、行き場を失ったまま陽一の胸の内で溜まっていった。それは謝罪ではなく、不満でもなく、もっと形の定まらない何かであった。朝食を食べた時の、あの一瞬のことを陽一は思い出した。あの時、父は何も言わなかった。ただ見ていた。陽一はそれが、何故か今になって堪えた。

陽一には、もう支えてくれる父親はいないということに恐怖した、そして理不尽さに涙を流した。

陽一は、誰かの助けがないと自分は生きていけないということを、認めた。その瞬間陽一は、自分を捕らえていたものが今はちっぽけな物であるように感じた。

でも、ここからは自分で生きていかなければいけない。陽一はそう感じた。小さい青年が精一杯決心したことであった。陽一は凛として精悍な顔を、背骨をつかってぴしりと起こした。

その目には、どんな困難にも冷静に、自分の感性と理性を信じて立ち向かっていくという強い意志が感じられた。


誰もが子供心を持ちながら、それでも大人は大人、子供は子供で精一杯純真に強がっていた。

湯島正は今、路上で頭蓋の中身の乏しさを空へ曝している。

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