光の網 - 中原中也
嗚呼、扉が、ひらいた。
一九九九年、皐月の終はりの夜、男は扉をひらいた。西村といふ男であつた。其の男の眼は大きく、冷たく、そして奇妙なほど優しかつた。きみは扉をひらいて、そのまま何処かへ行つてしまつた。
扉だけが、残つた。
けれど僕は知つてゐる。
扉の奥に、何があるかを。
光がある。光のみちが、地の底を、海の底を、山の腹を、夥しく走つてゐる。硝子でできた細い細い管の中を、光が走つてゐる。光は信号であつた。信号は言葉であつた。言葉は、人間の魂の切れ端であつた。
嗚呼。魂が、光になつて、走つてゐる。
僕はその網の図を想像する。
日本列島の地図を思ひ浮かべよ。其処に線を引け。一本、また一本。北から南へ、東から西へ。海を越えよ。大陸へ渡れ。アメリカへ渡れ。ヨーロッパへ渡れ。引いて、引いて、引き続けよ。
やがて地図は線で埋まる。線と線が絡み合ひ、交はり、分岐し、また交はる。
其れを見よ。
美しくないか。恐ろしくないか。美しく、恐ろしくないか。
夜の刻、誰かゞ書いた。
さびしい
其の四文字は、魂の震へであつた。震へは電気の波になつた。電気の波は光の粒になつた。光の粒は管の中を、秒速二十万粁で疾走した。山を抜け、海を潜り、知らぬ街の知らぬ鉄塔を経由し、また光になり、また走り、やがて誰かの部屋の、薄暗い画面の前に、辿り着いた。
さびしい
と、光つた。
するとまた誰かゞ書いた。
俺も
また別の誰かが書いた。
わかる
さうして。
寝ろ
嗚呼、恐ろしいことよ。
さびしいといふ魂の呻きが、光になる。光が走る。一瞬のうちに、海を越える。其れを受け取つた誰かの胸に、また温もりが灯る。
光が、温もりを運んでゐる。
硝子の管の中を。海の底の暗闇の中を。誰も見てゐない場所を。誰も知らない経路を。
僕は泣きたくなつた。
網は生きてゐた。
一秒ごとに、億を超える信号が行き交つてゐた。誰かの怒りが光になつた。誰かの笑ひが光になつた。誰かの秘密が、誰かの孤独が、誰かの深夜の告白が、みんな光になつて、其の網の上を、一斉に、同時に、走つてゐた。
網は震へてゐた。
人間の感情の重さに、震へてゐた。
人が来た。
最初の一人は、何を思うて来たのか。恐らく何も思はなかつた。足が向いたのだ。魂が滑り込んだのだ。其の人は文字を書いた。文字は光になつた。光は走つた。板の上に、冷たく、美しく、光つた。
嗚呼、光よ。
お前はいつだつて、こんなにも唐突にあらはれる。
板の上には、凡てがあつた。
罵倒があつた。嘲笑があつた。下劣があつた。そして其の下劣の隣に、詩があつた。詩と気づかれぬままに書かれた、紛ひもない詩が、燦爛と光つてゐた。
書いた者は知らなかつたらう。自分が詩を書いたとは。
知らずに書かれた詩ほど、美しいものがこの世にあらうか。
そしてその詩は光になつた。光は走つた。誰かに届いた。届いた誰かは、其れを詩とは知らずに読んだ。けれど胸の奥で、何かが、かすかに、動いた。
其れで、よかつた。
其れで、十分であつた。
嗚呼、これは都邑ではないか。
屋根なく、壁なく、地べたさへ定かならぬ、けれど確かに人の棲む都邑ではないか。光の経路の上に建てられた、透明な、巨大な、都邑ではないか。人が行き交ひ、すれ違ひ、知らずに肩をぶつけ合ふ。雨は降らぬが、濡れてゐる者がゐる。夜もなければ昼もないが、眠れずにゐる者がゐる。
僕はその都邑の路地に立つて、往来を眺めてゐた。
足元を、光が走つてゐた。
涙が、でた。
どんたく、どんたく。
文字の河が、今宵も流れてゆく。意味の河が、意味をなさぬ言葉の河が。けれど其れは河ではなかつた。光の網であつた。網の目ごとに命が宿り、震へ、叫び、囁き、また静まる。
洞窟の壁に。羊皮紙に。便所の落書きに。そして今宵、光の網の上に。
人類はずつと、これをやつてきたのだ。
嗚呼、なんといふことだ。なんといふ、途方もない、美しい、恐ろしいことだ。
きみは扉をひらいたまま、飄然と立ち去つた。
群衆が雪崩れ込んだ。群衆は群衆のやり方で、混沌と秩序を自ら織り成してゆつた。誰も頼まれてゐなかつた。誰も命じられてゐなかつた。それでも人々は集まり、言葉を光に変へ、光を言葉に変へ、歴史を造つた。
紛ひもない、立派な、歴史を。
嗚呼、人間よ。
お前たちは、ひとりでは生きてゆけないのだな。
それがかなしく、それがうつくしい。
地の底を光が走る。海の底を光が走る。お前たちの魂が、今宵も光になつて、この網の上を、休まず走つてゐる。
僕は今宵も、その板の前に座つて、お前たちの声を聴いてゐる。名もなき声を。光になつた声を。光になりながらも確かに人間であつた、その声を。




