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名前のない放課後  作者: えあな


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32/49

音のない返事

昇降口の冷たい床。


いつもと同じ足音、同じ靴音。


なのに、胸の奥だけが妙にざわつく。

教室の扉を開けた瞬間、目が合った。


ほんの一瞬。

俺「おはよ」

いつも通りの声を出したつもりだ。

いつも通りの空気で返してほしかった。


佐伯「……おはよう」


間。

短くて、薄い。

そしてすぐ視線が逸らされた。


(……なんだ、それ)

べつに怒ってるわけじゃない。


でも、昨日より距離がある。


机にノートを置きながら、心のどこかがちりっと引っ張られる。

言葉にならない違和感だけが残る。



一限と二限の間。


黒板前で掲示を貼る。

“ぴた”——いつもと同じ音。


ただひとつ違うのは、

佐伯が触れない距離を保ったまま作業してること。


前なら、意図せず手がぶつかった。

目が合って困ったように笑っていた。


今日は——避けられてるみたいだった。

俺「そこ、合ってる」

声をかけると、彼女の指先が一瞬止まる。


返事の代わりに、小さくうなずく。


その仕草に遠慮がある。

俺にじゃなくて——距離に。


何か言えばいいのに。

聞けばいいのに。

喉まで上がった言葉が、なぜか出ない。

(大丈夫だろ。たまたま。)

そう思った。思い込んだ。



昼休み。


柏木が意味のわからない動画を見せながら笑っている。

久我が冷めた声で突っ込んでる。

俺は適当に相槌を打ちながら、窓の方へ目が流れる。


佐伯は向こうの机。

スープジャーを開けて、友達と話してる。

いつもより笑ってない。


(……俺のせいか?)

いや、気のせい。

多分、眠いだけ。

疲れてるだけ。



放課後前。

LINEで打ち合わせ。

|導線 右寄せで貼り直し|

|了解?|

短い業務連絡。


|はい。|

の意味のスタンプだけが佐伯から送られてきた。

いつもと変わらないようで——どこか淡い。


やり取りの薄さをごまかすように

|助かる|

一言だけ返事をした。

いつもならスタンプに返事なんてしないはずなのに…



帰り道。


昇降口で声をかけようとした瞬間、

佐伯「ごめん。今日、先帰るね」

早口。

息が少し上ずってる。


こっちを見る前に靴を履き替えて、そのまま走った。

俺「「ちょっ…柏木!?」


(なんで逃げる?)

せっかく一緒に帰れると思ったのに…

この数日の違和感を埋めようと思っていたのに…

ちゃんと佐伯の気持ちを聞こうと思ってたのに…

追いかけるより先に佐伯の姿が見えなくなっていた。


家。

机にノート置いたまま、ペンを回しながら考える。

(俺、なんか……した?)

いや、してない。

してないはず。


胸の奥がズキッと痛む。


違和感じゃない。失いそうな気配だ。

理由を知りたくて、誤解があるなら解きたくて

それでも今日は打てない。

手を伸ばすだけで逃げられそうで。

触れたら壊れそうで。


画面だけがぼんやり光ってる。

|未返信:佐伯|


横には小さく、既読のまま止まった一言。

“助かる”

その短さが、静かに胸を締めつけた。


息を吐く。

今日の沈黙は、昨日より2ミリ深い。

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