17 晩餐会、そしてしばしの別れ
その晩、辺境伯邸では心づくしの晩餐会が開かれた。
勿論招待客は身内だけという気楽なものだ。
主催者の辺境伯夫妻を始め、国王陛下、その異母兄にして竜の英雄、その恋人である聖女と、農学博士のリンドヴァリ夫妻に武の名門フォーシェル家の異母兄弟。顔ぶれこそ錚々たるものだったが、内実は気心の知れた友人知人の集まりだ。
辺境伯領の新鮮な農産物や、リンドヴァリ夫妻から贈られた特産品がふんだんに使われた絶品料理を、皆で語り合いながら心行くまで楽しんだ。
件の水晶蟹やトリスヴァル産のエーデル・クレフタ料理も振る舞われ、晩餐会の食卓をさらに華やかなものにした。
滅多に市場に出回ることのない立派な水晶蟹の姿蒸しに、普段はきっと冷静なのだろう王家の主従や農学博士夫妻は歓声を上げていた。既に蟹料理を味わっていた二人は、ザックや辺境伯夫妻とともに微笑ましく彼らを見守った。
従来の仕来たり通り、蟹の大皿料理は辺境伯夫妻が自ら取り分けてくれた。これを切るには料理用の鋏では用をなさず、水晶蟹専用だという立派な小剣が用いられてシオリは驚いてしまった。
「見事なものですな。これほど立派なものは伯爵領でも見たことがない」
領地の主要産業が農業で、自ら率先して農作業に従事しているというリンドヴァリ博士は、ロゼワイン色の殻が美しい大振りの蟹脚にうっとりと見惚れ、ずっしりと重い真っ白な蟹肉を口に運んでその豊かな味わいに目を見開いていた。
もう六十近い年齢らしいが、農作業で日に当たっているというわりには肌も髪も張りがあって艶やかだ。今年三十七の夫人とは十も歳が離れていないように見える。
「美髪と美肌の秘訣は十分な睡眠と健康的な食事、そして毎日の手入れです。我が領特産の野菜料理を食し、薬草から抽出した美容液を朝晩欠かさず付ければ、このように瑞々しさを保つことができるのです。ご覧ください、我が妻を。まだ三十そこそこに見えるでしょう」
「まぁ、貴方ったらお上手ですこと」
おしどり夫婦だとは聞いていたが、それにしてもなかなかの惚気っぷりだ。シオリは少し気恥ずかしくなって目を彷徨わせたが、アレクはどこか嬉しそうに夫妻を眺めていた。
「健康食や美容食という考えは東方から学んだのですよ。ミズホ国などは、国民のほとんどが実年齢よりも一回りは若く見える。楊梅商会をご存じですか。あそこの代表を務めているご婦人も外見は十代後半の少女のようですが、あれで三十前後と聞いて肝を潰しましたよ。若く見えるのは体格が小柄なせいもあるのでしょうがね」
「ヤエさん……ですか」
「おや、ご存じでしたか。いや、そういえば東方のご出身でしたな。あの地域の文化や技術は、我々とは着眼点がまるで違う。実に興味深い。極東だの未開の地だのと言って揶揄する連中には、実際に見てから物を言えと言ってやりたいと常々思っておりますよ。あの国はまるで桃源郷のような場所でしたな」
そう言ってリンドヴァリ博士は、愉快そうに笑った。
続くエーデル・クレフタ料理は、食べやすいようにか大振りのロブスターほどの大きさのものが用意されていて、これは一人一匹ずつ配膳された。
郷土料理とあって皆食べ方が上手だ。手づかみが基本とはいえ、殻を割って中の肉に口を付ける動きは洗練されていて、上品さは損なわれていない。
自然と触れ合う機会が多く食べ慣れているからなのか、リンドヴァリ夫妻が一番手慣れていて、殻を割って中の肉を食べる動きは淀みがなかった。
まったく慣れていないシオリは気後れしてしまったが、恐れ多くも隣のフォーシェル公爵閣下エドヴァルドが直々に食べ方を指南してくれた。
「ここをこうして、こうして、こう。で、こう」
「あっなるほど……こうして、こう」
「そうそう。さっすが覚えがいいな姉さんは」
「なんだって?」
異母兄の恋人をさらりと姉呼ばわりした側近にオリヴィエルはぎょっと目を剥き、アレクは口に含んでいた白ワインを派手に噴き出して盛大に噎せ返っている。ちなみにザックは、巨大ザリガニの脚を咥えたまま硬直していた。
「兄上の妹で、俺より年上ってんなら、姉さんでいいだろ」
「いや……いやいやお前そりゃあ」
「いいだろ」
「いやぁ……」
「いいだろって」
「……」
エドヴァルドにしてみれば自分を残して去った異母兄に対する意趣返しの意味合いもあったのだろうが、それを知らないザックは妹扱いしている自分が駄目とも言えずに押し黙ってしまった。
この一連のやり取りがツボにはまったのか、辺境伯夫妻はその後もずっと思い出し笑いが止まらないようだった。時折噴き出しては二人して腹の筋肉を痙攣させていて、その都度ザックはなんとも言えない表情でワインを啜っていた。
国家の要人が集っているはずの晩餐会は、まるで田舎の親戚の宴会のような様相を呈し始めていた。けれども和気藹々と和やかな雰囲気で会は進み、夜が更ける頃には円満の内にお開きとなった。
翌日もお茶会という名の情報交換会で親睦を深め、充実した時間を過ごした。
一度はヴェロニカ・セーデシュテンの話題に及んだものの、こちらは事件のあらましとその後の処遇に触れる程度に留められ、すぐに話題は別の楽しい事柄に切り替えられた。
傍らではスライムを中心とした使い魔たちが楽しげに遊んでいる。ペルゥとの旧交を温めるために市内のスライムたちが集結していたようで、フィルクローバーやソルネの姿もあった。
お茶会の席でシオリの幻影魔法によるお伽噺の上映会を拍手喝采するほどに楽しんだリンドヴァリ夫妻は、一足先に帰路に就くことになった。西周りで戻り、ブロヴィート村の視察をした後は、ヴェステルヴァル領の温泉地で英気を養ってから帰るのだそうだ。
「レヴィも壮健でな」
「ええ。アレクもね」
アレクとレヴェッカ、二人が交わした短い別れの挨拶には、言葉にできない様々な想いが込められていた。
「――リンドヴァリの地から、王兄殿下とご婚約者様のご多幸をお祈りしておりますわ」
一歩下がって夫の隣に並んだレヴェッカは改めてアレクを見上げてそう言い、それからシオリに視線を移しておっとりと微笑んだ。その瞳には純粋に二人を祝福する色が浮かんでいて、アレクの後悔と苦悩を知っているシオリは、本当に全てが丸く収まったのだと感慨深く思った。
オリヴィエルや公爵家の兄弟、辺境伯夫妻と一頻りの挨拶を済ませた夫妻は馬車に乗り込み、荷を下ろして身軽になった幌馬車とともに去っていった。
冷凍水晶蟹を土産に渡すことになっていたはずだが、これは幌馬車には積み込まれず、領地に直接送ることにしたのだそうだ。王家や公爵家へも然り。
(でも、結局あの幌馬車って、何を積んでたんだろう。来るときは凄く重そうに見えたけど)
首を傾げるシオリに、「土産の農産物がぎっしり詰まっていた」と苦笑い気味のクリストフェルがそう教えてくれた。
「たくさんもらったのでな。良かったら少し持っていってくれないか。君たちのところには食欲旺盛なのがたくさんいるのだろう」
言いながら彼はちらりとオリヴィエルとエドヴァルドに視線を流したが、彼らは揃って勢いよく首を振った。こちらに来る前に、もう十分過ぎるほどにもらったらしい。
送迎の馬車に積まれた木箱には、立派な伯爵芋やイールそっくりの白人参、長期貯蔵に向いた竜玉葱、東方由来の黄金甘藷、乾燥虹色トマトの瓶詰などがぎっしり詰め込まれていた。これから出荷でもするのかという量だ。
「……これは備蓄にできそうな量だな」
「当面は根菜買わなくても良さそうだねぇ」
健啖家揃いの同居人たちならきっと喜んでくれるはずだ。二人はありがたくいただくことにした。
やがてオリヴィエルとエドヴァルドの発つ時刻になり、アレクとオリヴィエルは名残惜しそうに握手を交わした。
「もう帰るのか。慌ただしいな」
「ちょっと無理を言って出てきてしまったからね。でも、どうしても僕から会いに来たかったから」
「そうか……すまない、いや、ありがとう、オリヴィエ。お前と会えて嬉しかったよ」
「僕もだよ、アレク」
「奥方と子供たちにもよろしく伝えてくれ」
「ああ。お前も身体には気を付けて。次に会うのはお前達の結婚式かな? ……と言いたいところだけど、それまでにも何度か会いたいね」
「そうだな」
アレクも頷く。
「機会があれば、今度は俺から会いに行く。そうだ、なんなら中間のどこかで落ち合うのもいいんじゃないか」
「それはいいね」
オリヴィエルは笑った。
「ロヴネル領なんてどうだい」
「悪くないな」
「あそこは賑やかだし、君たちも女伯殿とは親しいんだろう?」
「ああ。いずれは訪ねてみたいと思っている」
別れの挨拶を交わす間も二人の両手は握り合ったまま。
きっと、離れ難いのだろう。
けれども出発の時刻を僅かに過ぎて、ひどく名残惜しそうにしながら二人はようやく手を離した。
次にオリヴィエルはシオリを振り返り、静かに手を差し出した。儀礼的なものではない、家族や友人相手にするような、ごく自然な仕草だった。
シオリが恐る恐る手を重ねると、彼はふわりと笑った。
「シオリ殿。アレクを頼んだよ」
「はい、陛下」
そう言うと、オリヴィエルの笑顔が微かに揺らぐ。
「……うん、そうだな。今度から非公式の場所では名前で呼んでもらおうか」
オリヴィエ、と。
親しい間柄で呼び合う名で呼んでほしいと、彼は言った。
「いずれ、僕らは姉弟になるんだから」
「姉弟……」
そうだった。アレクと同年のオリヴィエルはシオリより年上で、けれども彼がアレクの弟である以上、籍を入れれば義弟となるわけで。
そうは言っても年上の、しかもこの国の王を愛称で呼ぶことには、本人がいいと言っても躊躇いはある。
気後れしているシオリを見ていた彼は、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「呼んでくれないと、君のことは義姉上と呼ぶよ。ああ、それとも義姉さんとか義姉様とか、そっちの方がお好みかな」
「いえ、あの、是非愛称で呼ばせてください――オ、オリヴィエ」
「うん」
彼は満足そうに笑った。
「これからもよろしく。そしてちょっと遅くなってしまったけど……ようこそ、ストリィディア王国へ。僕らは君を新たな国民として歓迎するよ、シオリ」
シオリは息を呑み、目を見開いた。
アレクとともに人生を歩むことを認めてくれたばかりか、王自らが正式に、自分を王国の民として認めてくれたのだ。
「あ、りがとうござい、ます」
涙が溢れそうになって慌てて俯いて隠そうとして、失敗して水滴が地面に落ちてしまった。そんなシオリを、背後からアレクが優しく抱き締めてくれた。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「ああ。またな。道中気を付けて」
馬車に乗り込み、そして扉が閉じてやがて馬車が走り出してもなお、オリヴィエルの視線はアレクから外れることはなかった。
馬車が辺境伯邸から出ていく間際、馬車の窓ががたんと開き、身を乗り出したエドヴァルドが大声で叫んだ。
「またなー兄上。姉さんもな!」
「お、おお……まったくあいつぁよぉ」
苦笑いするザックの横で、アレクは愉快そうに笑っていた。
重荷を下ろしたような清々しい表情。その笑顔は晴れ晴れとしていた。
(願わくは、アレクの未来がこの笑顔のように明るく温かなものでありますように)
そう願いながら愛しい人に身を寄せたシオリは、トリスの街の向こうに消えていく馬車を静かに見つめていた。
このシーンを目指して約8年……(満足)
そして次回、熱い夜(※全年齢)
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