17 幕間三 二人の医師(エレン、ニルス)
夕刻。仕事や買い物を済ませた人々が家路に付く中、エレンは静かに店の扉を開けた。閉店が近い時刻ゆえか客は疎らだった。奥のカウンターで帳簿を繰っていた店主のニルスが顔を上げた。柔らかな笑みと共にひらりと手を振った彼に手を振り返しながら、カウンターに歩み寄る。
「やあ。珍しい時間に来るね。どうしたんだい」
そう言う彼の横で、先日使い魔となったばかりのアルラウネが気怠げに触手を掲げた。これでも一応は挨拶のつもりらしい。
それに愛想笑いで返したエレンのやや強張った表情に、ニルスは何か込み入った話らしいと察したようだった。彼はカウンター横の椅子を勧め、それに躊躇いがちに腰を下ろす。
「……『患者さん』のことで訊きたいことがあるの。待たせてもらってもいいかしら」
「うん、勿論。閉店まで少し待っててくれるかい」
「ええ」
会計しながら客と軽い雑談を交わす彼から視線を逸らしたエレンはぐるりと店内を見回した。常備薬や携帯薬品などが並べられた商品棚にはところどころに空きができていて、いくつかが売れたことを示している。
薬など数十年ほど前までは庶民が気軽に買えるようなものではなかったというが、今では一般家庭でも当たり前のように買い置きできるのだ。
先人たちの努力と研究の賜物。
王国の平均寿命が飛躍的に向上した理由には生活環境の改善や豊かな食生活が挙げられるが、その中には薬学や医学、治療魔法の発展による怪我や病の死亡率の低下も含まれている。気軽に医療機関を受診し、低価格で薬を買うことができるようになった――早期治療が可能になったことは大きいだろう。
(……もっとも、まだできないことは沢山あるのだけれど……)
たとえば、残ってしまった傷痕を綺麗にする、だとか。
――最後の客が立ち去り、それを戸口まで見送ったニルスは閉店の札を扉に下げた。窓に覆い布を下ろして店じまいしてから「待たせたね」と言ってエレンに向き合って座る。
「それで、訊きたいことって何かな。患者さんって言ってたけれど」
「ええ……」
思い切って出向いてきたはいいが、改めて問われると本当に訊いてよいものかという躊躇いが生まれた。患者に関する情報は第三者に明かすべきではないという暗黙の了解があるからだ。
しかしニルスはそれとなく察したのかもしれない。
「――シオリのことなんだけれど」
そう切り出すと、さして驚いた素振りも見せずに「そうか」と頷いた。
「答えられる範囲でなら答えるよ。ある程度は共有しておいた方がいいこともあるかもしれないからね。彼女に近しい医療関係者として」
「多くは訊かないわ。ただ……彼女、今後は遠征で誰かと一緒に入浴する機会が増えると思うから、貴方の意見を聞いておいた方がいいかしらと思って」
――あの不自然な両手足の傷痕はまだ真新しく、ここ一、二年で付いたものだと分かる。それがいつどういった状況で付いたものかなど考えなくともすぐに分かった。
しかしあれだけの傷痕だ。これまで欠片も噂の端にも上らなかったということは、彼女自身が見せまいとしていたからだろう。事実、それまでは一緒に水浴びすることも躊躇わなかった彼女が、ある時期から仕事効率とやらを理由に頑なに誰かと入浴することを拒むようになったという。あの事件を境にだ。
エレンが彼女とパーティを組んで仕事をするようになったのはここ半年ほど。だから傷痕には気付かなかった。先日の薬草採集の折にその場の流れで一緒に入浴して――初めて、あの傷痕に気付いたのだ。
ニルスはあの【暁】の事件時、彼女の診察に立ち会っていた。途中からは主治医になっていたはずだ。あの傷痕のことでもしこれから先に彼女が悩むことになったとしたら、どう接するべきかを聞いておきたい。これまで隠していた傷痕を人目に晒したということは彼女の心境に変化があったということなのだろうが、それでも何が切っ掛けで思い悩むことになるかも分からないのだ。
――身体の傷痕が何らかの辱めを受けた可能性を示唆するとして婚姻にも影響した時代は過去の話だ。一部の貴族階級ではまだ多少は重要視されているようではあるが、貴族の娘が騎士や冒険者になることも珍しくない今ではそれも過去のものになりつつある。少なくとも、元は騎士であった王妃も幾許かの傷痕があると公表されている以上、表立ってはそれを瑕疵として指摘する者はいない。
それでもあれほどの傷痕だ。婚姻云々は別としても、何らかの形で指摘する者、噂する者が出るだろう。そのときに彼女が再び傷付くことがないだろうかと、そのことが気掛かりだった。
「気にし過ぎかもしれないし、私自身が納得しておきたいだけなのかもしれないけれど……一応訊いておくわ。あの傷は――あのときに付いたのよね?」
「うん、そうだね。でもあれは人為的なものではなく、全部魔獣によるものだった。それは彼女も認めたよ」
「……そう」
あの事件の最中に付いた傷ではあるが、故意に付けられたものではないということだ。でも、それが幸いと言っていいものなのかどうかは分からない。それほど不自然に多く付いた傷だった。そしてそれを隠していたという事実から、彼女の心の重しになっていたということが窺える。
それをニルスは否定しなかった。
「……ブロヴィートの救護所でアレクに訊かれたことの意味。急にどうしたのかしらと思ったけれど、こういうことだったのね」
「うん」
エレンは目の前の男を正面から見据えた。柔和な顔立ちの男はいつものように柔らかく微笑んでいる。ただ、その瞳だけは魔法灯の灯りを映してほんの僅かに揺れていた。
「……あの傷痕は彼女の心の傷そのものだ。あれ以来ずっと隠し続けてきたその傷痕を彼女は自ら晒したんだ」
それはきっと彼女の決意の表れ。囚われていた過去の出来事から本気で抜け出そうとしている。
「僕らにできるのは今まで通りに見守ることだ。余計に気を使って逆に負担になったら元も子もないからね。でもあのときとは違う。もう決して見逃したりはしない。彼女が辛いと思ったなら、今度こそは見逃さないつもりでいるよ」
一番最初に気付いておきながら見逃してしまったとずっと悔いていたニルスの言葉は重い。
「そう……ね」
ゆっくりと頷いたエレンは薄く微笑んだ。
薬学や医療分野はこの数十年で飛躍的に発展したが、精神医療分野の研究はまだ始まったばかり。患者が抱える心の傷に医療者としてどう向き合うべきかは未だ手探りの状態だ。それでも病や身体の傷を癒すだけで終わりにしたくはない。医師として決して見放したくはない。
それ以上に彼女はエレンの同僚――友人なのだ。
「私も見逃さないわ。お友達の異変を見逃してしまう程度の医者なんてたかが知れているわよ」
「……耳が痛いね」
「お互い様よ」
顔を見合わせて苦笑いする。笑うというにはあまりにも苦みが多過ぎるそれ。
患者の異変は見逃さない。それは決して容易いことではないけれど、それでもあの事件で経験した『失敗』は確かにエレンとニルスの重しになっていた。
――宵闇に沈んだ薬局の片隅。二度と同じ過ちは犯さないと、二人の医師は決意を胸に刻むのだ。
ルリィ「イール触手振っただけっていう」
ペルゥ「さすがものぐさ」
脇でわさわさ触手運動くらいはしていたかもしれません。
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