16 幕間二 アレクの燻製作り(アレク、シオリ)
厚く垂れこめた空から大粒の雪が降りしきるある日の昼下がり。そんな中でもペチカによる全館暖房で常に温かく保たれた室内は春の陽だまりのように心地よく、食後の読書を楽しんでいたシオリは長椅子でうとうとと転寝を始めた。
そんな彼女に毛布を掛けて唇に優しい口付けを落としたアレクは、しばしの間その可愛い寝顔を堪能した。伏せた長く黒い睫毛は整えたように美しい曲線を描き、形の良いふっくらとした唇は緩く開いて穏やかな寝息を漏らしている。
「……可愛い、な」
――いつまででも眺めていたい、安らいだ寝顔。
これほど穏やかで無防備な寝顔を他の誰でもない己だけの前で見せるのだという微かな優越感と共に、愛しさが心を満たしていく。
「愛してる」
呟いてもう一度口付けを落とし、ひっそりと口の端に笑みを浮かべた。
「……さて」
シオリの頬をひと撫でしてからそっと立ち上がったアレクは、ぐるりと室内を見回した。自身もひと眠りするか、それともシオリの蔵書を借りて読書でもするか。
ちなみにルリィは害虫駆除業の得意先を回っているらしく、今は不在だ。
どうするかと台所に目を向けたアレクは、ふむ、と唸った。片隅の保冷庫に歩み寄り、買い置きしてあったアルファンバイソンの塊肉を取り出す。
「シオリと一緒にやろうと思っていたが……眠っている間に仕込んでおくのも悪くはないな」
リヌスに教わった自家製燻製の作り方。あれを早速試そうという訳だ。
簡単そうではあるが、なにぶん初めてということもあって思うほど上手くはいかないかもしれない。だが物は試しだ。
「やってみるか」
アルファンバイソンの肉は少々値が張る。もし失敗して全て駄目にしては勿体ないと、少しの量から試してみることにした。一センチメテルほどの厚みの肉を一枚切り出す。
「……このまま炙るだけでも美味そうだな」
そんなことを呟きながら、手帳を繰って手順を確かめた。
「両面に塩胡椒して風通しの良い場所で三十分ほど乾燥させる……か」
酒を振っとくといい感じに臭みが消えて美味しいんだよというリヌスの言葉を思い出したアレクは、小瓶に残ったブランデーを軽く振りかけてから両面に塩胡椒する。
このまま炙ってしまいたいところではあるが、表面に残る水分が失敗の元なのだと口を酸っぱくして言われたことを思い出し、手順通りに味付けをして小皿の上に載せた。
風乾燥は気候によっては外で干すと良いらしいが、低気温な上に生憎の空模様なので大人しく室内で行うことにした。
「窓を開けて窓辺に置くか、保冷庫にするか……」
しばし考えた末に保冷庫に戻す。常に低い温度と湿度に保たれているという保冷庫が最も失敗が少ないらしい。そもそもが今の季節では外に出したら乾燥する前に凍結するのが落ちだ。
「初心者だしな。失敗が少ないやり方を選んでおくか」
乾燥する間に使ったナイフとまな板を洗い、次に燻煙用の鍋と小皿、金網などを取り出して焜炉の上に置いた。燻煙材は口に合わずに残してあった紅茶の茶葉を使うことにした。鍋底に茶葉を入れ、その上に端を折って脚付きにした金網、小皿、一回り大きな金網を置く。あとは赤身肉が乾燥するのを待つだけだ。
時計を見ながらなんとはなしにそわそわと待っていたアレクは、時間ぴったりに保冷庫を開けて肉を取り出す。表面の水気が飛んで、見た目にもざらりとしているのが分かる。
「ほう。結構乾燥するんだな」
あとは結露防止に常温に戻してから燻すのだ。さらに待たなければならないというこの時間がもどかしいが、これも美味い肴のためだ。
ちらりと長椅子の方を振り返ったが、シオリはまだ眠っていた。できれば眠っている間に全て済ませて驚かしたいとも思うのだが。
『――わぁ、凄い、アレク!』
そんなふうに驚いてくれる恋人の姿を想像しながらふっと笑う。この場に他の者がいたならば、笑うというよりはにやつくと言った方が正しいと指摘しただろうが、ともかくなんとはなしに楽しくなったアレクは適当に拝借した棚の料理本を捲りながら、そわそわと残りの時間を過ごした。
「……そろそろ頃合いか」
指先で肉に触れてみる。もとよりそれほど大きくはない肉片だ。表面の温度は十分に常温に戻っている。念のためにと調理用の清潔な布で表面を軽く拭う。
「よし、では始めるか」
焜炉を作動させて火を付け、強火にする。しばらく待つと煙が立ち上った。
「……む。案外出るな」
あの広い洞窟で燻したときにはあまり感じなかったが、こうした閉鎖空間ではやけに煙が気になった。調理台の排煙口でも些か心許ないほどだ。
「いかん、火事だと誤解されそうだ」
慌てて窓を開けたが思うようには排煙されず、そうこうしているうちに何事かと目を覚ましたシオリが驚いて飛び起きた。
「アレク!? どうしたの!?」
この台所の主とも言える彼女は一目で事態を察したようだ。焜炉の火力を弱めて金網の上に肉を載せ、すぐに蓋をしてほっと息を吐く。それも束の間風魔法を発動させ、空気の流れを作って室内に残る煙と匂いを窓の外へと追い出した。
「匂いは……しばらく残るかも」
風の魔法を繰るシオリは苦笑するばかりだったが、アレクはまるで叱られた子供のようにしょんぼりと肩を落とした。
「すまない。やはり慣れないことをするものではないな。お前が起きるのを待てば良かった」
「ううん。きっとアレクのことだから私を驚かそうとしたんでしょう」
「う……その通りだ」
完全に見透かされていた。眉尻を下げて項垂れるアレクの頬に触れたシオリは、伸び上がって唇をそっと押し付ける。
「可愛い人」
彼女はそう言って笑ったが、男としては些か情けないとも思ってしまう。気にしないでと言いながらもう一度口付けたシオリは、アレクの唇を指先で優しくなぞって微笑んだ。
「後で消臭剤買ってこようか」
「……ああ」
香り自体は決して不快ではないが、この匂いが常に室内に漂っている状況は少々困る。室内の臭い消しに利用されている薬草から抽出された噴霧液が確かニルスの店にも売られていたはずだ。後で買い出しに出るついでに薬局に寄らねばなるまい。脳内の予定表にその項目を書き入れているうちに、燻煙時間が過ぎたようだ。
「そろそろいいかも」
あまり燻し過ぎると今度は肉が硬くなってしまうのだ。頃合いを見て火を止めたシオリは、蓋を開けて微笑んだ。
「わ、いい匂い。美味しそうだよ」
まな板の上で薄くスライスしたアルファンバイソンの燻製肉は表面こそ燻されて焼き色が付いているが、内側は程よいレアに仕上がって綺麗な赤色を見せていた。見た目には美味そうなローストビーフのようだ。
「食べてみるか」
「うん」
口に放り込んで何度か咀嚼する。表面は焼いた肉のそれだったが内部はしっとりと口触りがよく、燻製の香ばしさと共に凝縮した肉の旨味が口いっぱいに広がった。
「ん……臭みがなくて食べやすい。美味しい……」
「ああ。これは酒が進みそうだ。秘蔵の赤ワインを開けるか」
もう一つ、とつい手が伸びる。なるほど、試食で完食してしまったというリヌスの言葉の意味がよく分かる。
「まだ肉は沢山ある。もっと作っておくか。ルリィも喜ぶぞ」
「うん、そうだね」
ぷるぷると小刻みに震えて料理を堪能するスライムの姿が目に浮かぶようだ。顔を見合わせてくすりと笑った二人は、次は煙を出し過ぎないようにと気を配りながら作業した。肉を多めに切り分け両面にブランデーと塩胡椒を振って、器用なシオリが風魔法で急速乾燥させる。
「フリーズドライにするわけじゃないから、これくらいなら私でもできそう」
「おっ。これはいいな。これならもっと早くできるぞ」
「うん」
指先で肉の状態に問題がないことを確かめてから、燻煙材を入れ替えて火に掛ける。
シオリの風魔法で排煙しながらの作業。程よく煙が立ち上ったところで火力を弱め、手早く肉を入れて蓋をする。
でき上がった燻製は、これもまたいい味わいだった。
「これは癖になりそうだな。次はチーズも試してみるか」
「うん。あ、溶けて下に落ちるかもしれないって言ってたから、お皿に載せよう」
「ああ」
二人並んで語らいながらの料理。楽しい時間は瞬く間に過ぎ、窓の外は早くも日没を迎えようとしていた。得意先を回り終えたルリィを出迎えた二人は、今度は三人連れ立って宵闇の迫る街へと繰り出す。追加の酒と燻製によく合いそうなベッティルの雑穀パン、そして消臭剤を買い出しに行くのだ。
楽しい笑い声、溢れる笑顔。細やかだが穏やかで幸せな時間は、雪が降り凍てつく風が吹きつける中でも温かな空気を生み出していた。
(――幸せ、だな)
隣に寄り添う恋人を見下ろしてアレクは微笑む。足元のルリィもぷるんと楽しげに震えた。
この貴い幸せなとき。
こんな時間を過ごすことがこれから先も増えるのだ。
まだ片付けなければならない問題はあるが、それでも今この瞬間だけはと思いながら、アレクは柔らかな夜に抱かれるトリスの街を歩いていった。
ルリィ「しばらくお部屋が燻製のいい匂いだったよ!」
ペルゥ「焼肉の匂いも消臭スプレーじゃ消えないしね……」
雪男「まるまる一本使い切ったら消えないこともないですよ……」
あれ、規定のスプレー回数見てびっくりしますよね_(:3」∠)_
しますよね。
2月25日にコミカライズ1巻とうとう発売です。
ゼロサム編集部様の公式Twitterや通販サイトさんでは書影&特典情報が見られます。
素敵な表紙絵、ご覧になってくださいね( *´艸`)
おの先生の描かれた特典ペーパーもぐふふです。ぐふふ。
また、Pixivコミックさんでも掲載開始されました。
どうぞよろしくお願いいたします。




