13 動き出す日々
――カーテンの隙間から洩れる、冬の朝の柔らかな日差し。がたごとと雪馬車が通りを駆け抜けていく音が聞こえる。
「……ん……」
朝の気配を感じて目を覚ましたシオリは、布団に包まったままぼんやりと視線を巡らせた。カーテン越しの光は明るく、今日はよく晴れているのだということが窺える。
ストリィディアの冬の夜明けは遅く、新年を迎えて間もないこの時期の日の出時刻は八時半を過ぎた頃だ。もう外がこんなに明るいということは、大分寝過ごしてしまったのだろう。
ちらりと見た隣の寝台は既に整えられて無人だった。床に広がって眠っていたはずのルリィもいない。隣の部屋から物音も聞こえた。もう二人とも起きているのだ。
「起きなきゃ……」
そう思いながらも気怠さの残る身体はいまいち言うことを聞いてくれない。
「ちょっと……怠いな」
シオリは再び緩く目を瞑った。ほんの僅かに身体に残る疲れが起きようと思う心を押し留めている。しかしその気怠さは決して不快なものではない。それどころかむしろ。
――ただならぬ仲でなければ決して触れるはずのない場所を這い回る武骨な手の感触をまざまざと思い出して、シオリは一人赤面した。
「……味見だけって言ってたのに」
あれではほとんど食べたようなものだ。
初めて一緒に入浴したあの日。確かに宣言通り、事に及んだりはしなかった。けれどもそれは「最後まではしない」という条件付きだったのだ。アレクにとって「あれ」は恋人同士のちょっとした戯れに過ぎないのかもしれない。今までだって散々つまみ食いのようなことをされたのだから、裸で向き合った日にはそれどころでは済まないことなど明白だったのだ。
湯舟の中で散々に可愛がり倒されて、結局あの日は風呂から上がる間もなく意識が飛んでしまった。目が覚めたのは翌日の朝だ。
夕べだって随分と熱心に愛情を注いでくれて、そこから先の記憶は曖昧だった。
「味見だけであれなら、最後までしたらどうなっちゃうんだろう……」
ぼそ、と独り言ちたそのとき、静かに寝室の扉が開いた。
「……起きたか」
起こさないようにと気遣ってくれたのだろう。そっと顔を覗かせたアレクは、目を覚ましていたシオリに気付いて足早に近付いた。ルリィもまたひょこりと顔を出してぷるんと震える。
「あ……おはよう。ごめんね、また寝坊しちゃって」
「構わんさ。いつもは早起きなんだ、少しくらいゆっくりしても罰は当たらんよ」
挨拶代わりの触れるだけ口付けをしてからアレクはにやりと笑った。
「――大分手加減したつもりだったが、ほんの少しの味見でこうなるのなら、本番はもっと手加減するか。大きい仕事の前はやめた方が良さそうだな」
「ほ、ほんの少し? 手加減? あれで?」
「ああ。味見だけで毎回あれほど可愛らしく乱れるのなら、本番はどれだけ――う、ぶっ」
朝っぱらから恐ろしく恥ずかしいことを言い出す恋人の顔面に枕を押し付けたシオリは、素早く寝台から出て衝立の陰でさっさと着替え始めた。
「……もう」
押し付けた枕を抱えたまま笑っているアレクを置いて浴室へと向かう。身だしなみを整えるために立った鏡に映る自分の顔が赤い。冷たい水で洗顔して薄化粧を施したらようやく落ち着いたシオリは、ほう、と息を吐く。
――絶倫とか底無しとかいう噂をちらっと耳にしたことはあったけれど、それは多分本当だ。
鏡越しに浴槽が見えて、ふと昨晩の淫靡な光景が脳裏を掠め、それを慌てて打ち消した。
さすがに毎日「味見」するつもりはないようだけれど、あの戯れはあまりにも刺激が強過ぎる。
それにどういう訳か一緒に入浴しているルリィが「毎回丁度良いタイミング」で風呂を上がって出ていってしまうのだ。お陰でアレクのやりたい放題になってしまうのだけれど、あれはどう考えても分かってやっているようにしか思えない。賢いとは思っていたけれど、あのスライムは思う以上に物知りのようだ。
複雑な気分になりながらも、それでも――幸せだと、そう思うのだ。
(嫌がらなかった。綺麗だって……言ってくれたんだもの)
『――やはり……お前は綺麗だ』
醜い傷痕が沢山残る両の二の腕を指先で優しく撫でながらそう言ってくれた。
『お前が生きようとした証だ。例え不本意だとしても――それを、恥じないでくれ。何度でも言う。生きようと戦い続けたお前は綺麗だ』
そう言って強く抱き締めてくれた彼。
そんな彼だからこそ、身も心も捧げてもいいと思ったのだ。
――いつの間にか後ろに立っていたアレクが、シオリの身体を抱き寄せる。
「……シオリ。無理強いはしない。気分が乗らないときもあるだろう。そういうときはきちんと言ってくれ」
「……うん。ありがと、アレク。そうする」
振り返りざまに伸び上がって唇を寄せると、背の高い彼はシオリが届くように身体を屈めてくれた。その唇に自分から口付ける。
「ああ、そうだ。勿論お前から誘ってくれても構わんぞ」
「……もう。アレクってば」
なんとなくいい雰囲気に纏まりかけていたというのに台無しだ。
くすりと苦笑いしながらもう一度口付ける。優しく啄み合った後、アレクはシオリの手を引いた。
「朝食はできている。といっても、携帯食のスープと炙った腸詰肉くらいだが」
「う、ごめ……ううん、ありがとう。優しいなぁ、アレクは」
貴方の優しさに溺れてしまいそう。そう伝えると彼は微笑んだ。
「溺れてくれたらむしろ本望だ。毎日どろどろに愛してやる」
「う、わ……」
恋人の遠慮のない愛情溢れる言葉が気恥ずかしく、そして胸が痛むほどに嬉しい。
愛しい人と可愛い友人と共に食卓を囲み温かな食事をするという、細やかだけれども貴い朝のひとときを過ごした二人は後片付けを終えて仕事着に着替えた。
今日はニルスの薬局を訪ねてからギルドへ向かう予定だ。
「少し日が過ぎてしまったが、もう出来上がっている頃合いだろうしな」
間に一泊の仕事が入ってしまって取りに行けなかった依頼の品、シオリの手荒れ用軟膏。主にあかぎれの治療用の薬だ。とりあえず買った店売りの軟膏を塗ってかさつきは解消されているけれど、季節的なものか少し塗り忘れると指先や関節が切れて血が滲んでしまうのだ。それでもお勧めの薬というだけあって、塗ってさえいれば小さいあかぎれ程度で澄んでいるのはありがたかった。
「前はほとんどの指が切れて凄く痛んで大変だったから、これだけでも随分違うの。買ってくれてありがとう」
「ああ。前ほどの痛々しさはなくなったな」
「うん」
そんな会話をしながらギルドの先にある薬局に向かったシオリ達は店の扉を開けた。年明けに訪ねたときには客が疎らだった店内も、いつも通りに賑わっていた。ちらほらと同僚の姿も見えて、互いに軽い挨拶を交わす。
「――やぁ。来たね」
「ええ。遅くなってすみません」
「大丈夫。また仕事だったんだろう?」
「まぁな」
会話しながらも二人の視線はカウンターの上に釘付けだった。
売り場と店主の領域を隔てるカウンターの、作業の邪魔にならない場所。そこに据え置かれた立派な植木鉢から、アルラウネが身体の上半分をだらりと投げ出している。いつでも好きなときに飲めるようにか、触手のような根で魔法回復薬の瓶を抱え込んでいた。
柔らかな灯りに照らされた居心地のいい店内の、その場所だけが異様な雰囲気を醸し出しているような気がするのは決して気のせいではない。実際、賑わっている店内の植木鉢の周辺だけが人気がないのだ。
「――ほとんど予想通りだったな」
「……うん」
まるで酒瓶片手に温泉に浸かっている飲んだくれのようにも見えるアルラウネの姿に二人して噴き出し、ルリィが何か言いたげにぷるるんと震えた。
対してニルスと当のアルラウネは満足げだ。
「あーあー」
極楽極楽。どこから発声しているのかもよく分からないその声が、まるでそう言っているように聞こえた。
「……で、名前は決めたのか?」
「うん」
なんとも言えない表情で薬師の使い魔から目を逸らして訊いたアレクに、ニルスはにこにこと笑いながら頷いた。
「イール、だよ」
「……イール。イールか。なるほど、それらしい良い名じゃないか」
二人にしか分からない会話に首を傾げていると、アレクが説明してくれた。
「北方神話の医療を司る神の名だ。元は古い時代に活躍した薬師の名らしいんだが」
正しくはエイールまたはアィルらしいが、さすがに神の名をそのままもらうのは恐れ多いと、愛称として伝わっている「イール」を採用したということだった。
「わぁ。素敵な名前」
薬師の使い魔、洞穴の主に相応しい立派な名だ。
感嘆の声を上げるシオリに、イールと名付けられたアルラウネは誇らしげにわさわさと葉を揺らした。まるで「よろしく!」とでも言っているかのようだ。
「……さて、依頼の薬だけど、出来上がってるよ」
不気味で奇妙だけれど、どこか愛嬌のある使い魔の名のお披露目を終えたニルスはカウンターの下から小さな軟膏缶を取り出した。取り違えないようにか、蓋のラベルにシオリの名と用途が小さな文字で書き込まれている。
中の軟膏は淡い半透明の緑色で、見た目にはさらりとしたジェル状のクリームのようにも見えた。しかし指先で少し取ってみると、思ったよりもずっと粘度は高く硬い。
「水仕事でも流れにくい成分を入れたんだ。これを患部を埋めるように塗って。大丈夫、沁みないから」
「こう……ですか?」
手に取った軟膏を、ぱっくりと割れて赤身が見えている小さな傷口に載せる。軽く抑えるように塗り伸ばして傷口を塞ぐと「そう、そんな感じ」とニルスは頷いた。
「痛み止めと消毒効果もあるから、炎症が起きてるような酷いあかぎれにはよく効くよ。普段はこの間の軟膏を塗って、ひび割れてきたらこれを塗るようにしてごらん」
痛み止めが入っていると聞いたら、心なしか患部の痛みが引いたような気がした。一度塗って肌に馴染むと、多少は擦っても落ちないようだ。
「ありがとうございます。良かった、これで冬の水仕事も捗ります」
「うーん、そうはいってもできれば控え目にして欲しいところだけれど」
そう言って苦笑する彼に、財布を取り出したアレクが提示された金額を払う。高級な薬草を使った特別製の薬なだけにやはりいい値段だ。申し訳ないような気持ちになったシオリはいくらか出そうとしたけれど、それは「言い出したのは俺だからな、俺に支払わせてくれ」と固辞されてしまった。
「……ありがと、アレク。ニルスさんも」
手渡された軟膏缶を握り締めて微笑んだシオリは、大切に薬品ポーチの中にしまい込んだ。その手を労わるようにアレクが優しく撫でる。
――シオリの手荒れ用軟膏の調合依頼から始まった短くも濃密な「旅」はこれで終わりだ。
「……ほんの数日なのに、なんだか色々あったなぁ」
しみじみとニルスが呟く。
「絶体絶命の危機にも陥ったけど、良質な薬草や貴重なデータが沢山採れたし、その上『愉快な友人』とも出会えたんだ。なんだかんだでいいことずくめだったよ」
そんな旅の切っ掛けを与えてくれてありがとうとニルスは言った。植木鉢の中のアルラウネ――イールもわさりと葉を揺らす。
「俺も大分痛い目には遭ったが本気で自分を見つめ直すいい切っ掛けになったし、それに――」
シオリの肩を抱き寄せたアレクの、見下ろすその紫紺の瞳が優しい。
「今まで以上に親密になれたしな。悪くはない旅だった」
親密、という意味深長に強調された言葉に含まれた意味を察したシオリの胸がどきりと鳴った。けれどもニルスはそのままの意味に捉えたようだ。
「はは、仲が深まったようで何よりだよ。仲間としても……嬉しい」
そう言って柔らかく微笑んだニルスと温かな握手を交わし、彼の使い魔の「あー」という気怠い声に送り出された二人と一匹は薬局を後にした。
「――本当に、良かったよ。二人が幸せになってくれそうでさ」
シオリ達が去り、からん、とドアベルの音と共に閉じた扉を眺めていたニルスは、口の端に笑みを刻んだまま小さく呟く。
「それだけじゃない。あの二人が出会って手を取り合うようになってから、色んなことが良い方向に向かおうとしているような気がするよ」
どういう意味だとイールが小首を傾げるように身体をくねらせた。その器用な仕草に笑いながら、アレクが支払いで置いていった硬貨をそっと撫でる。
「……シオリの事件はさ。皆の心に深い影を落としたんだ。皆、なんとなくおかしいって気付いてたのに、誰も助けてあげられなかった。ずっとそのことが心のどこかに引っ掛かってたんだ。その罪悪感がきっとどこかで色んなことの重しになってたんだろうな」
あの【暁】の事件以来、トリス支部内にはどことなく停滞した空気があった。
――シオリへの遠慮と罪悪感、あるいは憐憫の情が、心の底から何かを楽しもうとする感情を抑制していたように思う。
もしかしたらそれは後付けされた印象なのかもしれないが、少なくとも彼女に一度でもかかわり、仲間としての情を育んだことのある者達の心情はそうだった。
『ザックでもクレメンスでも、どっちでもいいんだ。どっちかが一緒になってやりゃあいいのによ』
仲間内でそんな会話がなされたことは一度や二度ではなかった。あの事件でシオリが独りで生きるための決意を固めてしまったことを誰もが気付いていた。だというのに彼女の手を引いて孤独から救ってやろうという気概を持つ者は誰一人としていなかった。彼女に最も近しい二人の男が身を引いたのなら、自分達に出る幕はないと言い訳をして、そうして彼女をより一層深い孤独に追いやってしまった。
あの孤独はシオリ自身が一人で解決できるものでは決してない。誰かが手を引いてやらなければ這い上がれないほどの深い闇だ。それだけの傷を与えるほどあれは惨い事件だったのだ。
しかし彼女をこれ以上傷付けたくないという思いが、彼女との間に遠慮という壁を築いてしまった。あの深い傷をどう癒してやればいいのか誰も答えを持ち合わせていなかったというのもある。
「……でも、癒してやりたいっていう気持ちこそが敗因だったのかもしれないな」
夏の終わり、外での長い仕事を終えて数年ぶりに帰還したアレクはあっという間にシオリとの距離を縮めてしまった。遠慮という垣根を飛び越えて彼女に歩み寄ったアレクは、いつの間にか壁を取り払ってしまったのだ。
アレクもまた痛みを抱えているのだと知った今、あの二人の関係はただ一方的に与えるものではない、分かち合い支え合うものなのだと分かった。
生真面目で自立心が強いシオリに必要だったのは、多分そんな対等な関係だったのだろう。
そうしてようやく事件から解放されつつあるシオリを見て、彼女にかかわる者達の心情もまた変化しようとしている。
シオリに近付くアレクをどことなく複雑な顔で眺めていたザックは、最近は温かな眼差しを二人に向けるようになった。
誰かに失恋したらしいクレメンスは、最近ようやくその想いを断ち切ったようだ。過去に一時期噂のあったナディアと、今まで以上に親密にしている姿を見かけるようになった。
先日一緒に旅をした仕事一筋のリヌスやエレンもまた、シオリとアレクに感化されてか恋人探しを始めるつもりらしい。
「僕だって君と出会えたんだ」
イールの白い身体を撫でて魔法回復薬を注いでやると、嬉しそうにその葉がぴこぴこと揺れた。
「こじつけかもしれないけど……心につかえていた重しが取り払われて、停滞していた運気が動き始めたのかもしれないね」
前向きな気持ちは良い巡り合わせを引き寄せる。
「今年は幸先がいい幕開けだね」
買い出しだろうか、二人連れ立って店を訪れたクレメンスとナディアを笑顔で出迎えながらニルスは一人呟く。
――新たな年。どうか幸多き年でありますようにと薬師は願うのだ。
犯罪被害って事件が解決してはい終わり、じゃないところが難しいんだと思います。
脳啜り「縦読みか? 縦読みなのか?」
アルラウネ「いや、隠しリンクやもしれぬ。まずは全文選択だ」
脳啜り「いやそれよりTabキーだ、Tabキー連打しろ」
ルリィ「……あの二人さっきから何やってんの」
ペルゥ「エロ描写がどこかに隠れてるかもしれないって必死に探してる」
雪海月「うわ……ドン引き」
全 年 齢 _(:3」∠)_
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ゼロサムオンライン様にてコミカライズ版第4話公開中です。
アレクとクレメンスの演武や、ニルスと暁の皆さんのビジュアルに興味がおありの方は是非( *´艸`)




