38 溶け合う心
ルリィ「ウッフフフフヒヒヒ」
ペルゥ「!?」
宿の受付で手続きを済ませると、アンネリエは明日の朝食を共にすることを約束してから早々に部屋に引き下がった。どうやら夕食はルームサービスで簡単に済ませるつもりのようだ。でもあの様子では食事が来る前に寝てしまうかもしれない。「おいっ、せめて着替えてからにしろっ」とか「もう無理……」という男二人の言い争う声とそれを窘める声が扉の向こうから聞こえ、皆で顔を見合わせてから小さく噴き出した。
「俺達はどうする? 疲れていることだし、部屋に運んでもらうか?」
「うーん……それなら食堂で済ませた方が早いかも」
一休みしてからにしたい気持ちもないわけではないけれど、そうするとそれこそ食事を待つ前に朝まで眠ってしまいそうな気がした。
イレギュラーな出来事が続いてさすがに疲れを見せているアレク達もこれには同意し、早々に食事を済ませて今夜は早めに休むことになった。
――かたん。
耳を打つ微かな物音に意識が浮上する。視線を巡らせて見た時計の針は、日付が変わってすぐの時刻を示していた。十八時を過ぎた頃には床に入った記憶があるから、それなりの時間は休めたようだ。
扉の開閉音の後にゆったりと歩く足音が聞こえ、それはこの部屋の前で止まった。ややあってから、その足音は遠ざかっていく。
(――アレク?)
なんとなく彼のような気がして、シオリはそっと身体を起こした。
隣の寝台ではナディアが静かな寝息を立てている。
寝台の足元ではルリィが広がって眠りこけていた。山盛りの串焼きをもらって御満悦だったルリィも、食事を済ませて部屋に戻るなり気力が尽きたらしく、いつもの伸縮運動をする間もなくそのまま眠ってしまったのだった。この分だと朝まで起きないだろう。
(……本当にお疲れ様)
心の中で瑠璃色の友人に労いの言葉を掛け、それからショールを緩く羽織って部屋から静かに滑り出る。全てのものが寝静まった深夜の宿は、静寂に包まれていた。
足音が向かった先に足を向けると、果たしてそこにはアレクの姿があった。いつものシャツを緩く着崩した姿で出窓の縁に腰掛けている。小瓶の酒を呷りながら窓の外を眺めているその横顔は、魔法灯の明かりの下にいるせいなのか、どこか物憂げな影が落ちていた。
彼はシオリに気付いて振り向き、そして僅かに目を見開いた。
「……シオリ。どうした、眠れないのか?」
「ううん。ちょっと目が覚めただけ。アレクこそどうしたの?」
「一度起きたら眠れなくなってな。酒でも飲めば眠れるかと思ったんだ」
そう言って少し困ったように笑うアレクに近付く。
疲れの滲む顔色は冴えない。目の下に落ちた薄っすらとした隈が、起きてから大分長い時間眠れていないのだということを示している。
彼の頬にそっと手を伸ばして触れると、上から押し付けるようにして彼の手が重ねられ、そして強く握り締められる。
――まるでそれは、縋るように。
「……お前はこうしてここにいてくれるんだな」
「うん?」
「……俺のそばにいてくれるんだな」
「アレク……?」
もう片方の手も彼の頬に押し当てて、そうして彼と向き合った。
「どうしたの? 嫌な夢でも見た?」
アレクは少しだけ躊躇ってから、小さく頷いた。
「……駄目なんだ、あの夢だけは」
「あの夢?」
「ああ。俺には何の価値もないと言われた――あの日の夢だ」
まるで忘れるなとでもいうように、未だに夢に見るあの日の出来事。それまで積み重ねてきたはずの温かい想い出はおろか、その想い出を共に作った自身ですら何の価値もないのだと――そう断じられた日のことを夢に見たそのあとは、どうしても眠れなくなるのだとアレクは言った。
「……我ながら情けないとは思うがな。もう二十年近く経つのに」
そう言って彼は弱々しく笑った。
信頼していた者からぶつけられたその言葉は、毒を孕んだ棘となって彼の心の柔らかい部分に突き刺さったまま膿んで爛れ、そうして未だに彼を苛み続けている。
「それだけその人のことを信頼してたんだね」
「……ああ。弟と同じくらいか――いや、多分それ以上だったんだろうな。俺の、心の拠り所だった人だった」
「うん」
「まだ子供だった俺に優しくしてくれた人だった。辛いのなら泣いても構わないのだと言って、胸を貸してくれて」
「……うん」
「……姉のように――慕っていたんだ」
「……そっか」
自分の手を握りしめるその手が、震えたような気がした。
強くて頼りになる――いつもは自分を護ってくれる強くて優しいこの人が、今はひどく弱々しく見えた。そして、こうして弱い部分を曝け出してくれる彼が、堪らなく愛おしい。
握られていない方の手を伸ばして、アレクの頭を引き寄せるようにしてそっと抱き締める。その柔らかい栗毛に指先を滑らせて、優しく宥めるように何度も梳いた。
遠慮がちに伸ばされた手が、シオリの背中に回され――強く、縋るように抱き締める。
「……すまない。お前に、昔の女の話をするなんて……」
「……いいんだよ」
心が痛まないわけではない。きっと今の自分より長く彼のそばにいて、その腕に抱き締められ、そうして熱い口付けも交わしたであろう顔も知らない女に、嫉妬しないわけでは決してないけれど。だけど。
「いいんだよ。今でも夢に見るくらいに辛かったんでしょ? せっかくだから、今ここで全部吐き出してしまおう? 少しは……楽になるかもしれないから」
アレクが辛いのは、自分も辛いから。だから、教えて?
そう伝えると、抱き寄せた栗毛の頭が小さく揺れた。
「……彼女も俺を慕ってくれた。何度も気持ちを確かめ合って――いずれは一緒になりたいと思っていたんだ。だが」
シオリを抱き締める腕の力が強くなった。
「……実家は少し家格の高い家でな。父が病に倒れ、庶子の俺と嫡子の弟のどちらが家督を継ぐかで周りが揉めて収拾がつかなくなって――それで俺が家を出て沈静化を図ろうとした。だがそうすれば、彼女との付き合いは続けられない。身分が釣り合わなくなるし、お嬢様育ちの彼女を連れていっても苦労させることになるのは目に見えているからな。だから、既に嫁ぎ遅れの年齢に差し掛かっていた彼女が困らないように、せめて別の良い縁談を用意できるよう取り計らった」
「……うん」
「だが、俺と一緒になるつもりでいた彼女は納得できなかったんだろう。それはそうだろうな、彼女にしてみれば嫁ぎ遅れまで待たされて、いざ求婚されると思ったら別れを切り出されるんだ。怒るのも無理はない」
「うん」
「だが……だが、それでも最後は理解してくれると思っていた。姉のように……母のように優しい人だったからな。だから、もしかしたら一緒に付いていくと言ってくれるかもしれないと淡い期待を抱いてもいたんだ。しかし彼女は……」
切った言葉の端が微かに震えた。
「今までの俺との想い出には何の価値もないと言った。それどころか家を捨てる俺にすら何の価値もないと断じて……二度と話し掛けるなと言って去っていった。彼女とはそれきりだ」
「アレク……」
顔も名前も知らない彼女と同じ女だから、彼女の気持ちは分からないでもない。結婚を匂わせておいて嫁ぎ遅れの歳で別れを切り出されたら、確かに不愉快だっただろう。まだ二十代半ばだというアンネリエですら行き遅れと揶揄されているというから、嫁ぎ損ねた良家の娘が新たな嫁ぎ先を探すのは思う以上に大変なのかもしれない。
だとしても――何の価値もないとその存在そのものを否定するような言葉は、例え自分から離れていこうとしている男だとしても言っていいものではないだろうに。彼なりの事情があって、それでも彼女に対して誠実であろうとした彼にぶつける言葉としてはあまりにも惨い。
「……俺は父が外に作った子供だったからな。幸い家族は俺に良くしてくれたが、それでも家での立場はあまりよくなかった。そのことで随分嫌な思いもさせられたし、同年代の女も俺には見向きもしなかった。それなのに、父が倒れて俺にも家督を継ぐ可能性が少しでもあると分かった途端に、今まで虫でも見るような顔で俺を見ていた女達が、手のひらを返したように目の色を変えてちやほやするんだ。そんな女達を相手にするのは本当に気分が悪かった」
そんな中でも、その人だけは最初から彼に優しかった。価値の薄い庶子だと嘲られていた彼にも優しく接した彼女。だからその優しさだけは本物だと思っていた。
「……だが、家を出ると知った途端に彼女は態度を変えた。あの優しさは全て俺に近付くための演技だったのかと……子供のうちから手懐けておく心積もりで近付いて何年も俺を騙していたのかと、そう思ったら俺は――」
何も知らずに弱い内面を曝け出し、そして温かい想いを幾度も口にした自分はまるで道化のようではないか。
震えるような吐息とともに吐き出された言葉は、夜の静寂の中に溶けて消えた。
縋り付くようにして自分を抱き締めているアレクの栗毛を、シオリは何度も優しく梳いた。
「その人のこと……好きだったんだね。とても」
「……ああ。大好きだったよ」
――自分ではない女に向けられた「好き」は、微かな痛みをシオリに与えた。けれども彼のその想いはもう、過去形になって久しい。
「……それだけに、あれ以来甘い言葉を囁きながら近づいてくる女は生理的に受け付けなくなってな。普通に接してくれるなら、どうとも思わないんだが」
「そっか……」
しばらくの沈黙。
アレクの栗毛を撫でながら、シオリは純粋無垢の真白な雪に覆われた街を眺める。
人の心は複雑だ。この雪のように、ただ純粋無垢ではいられない。色々な立場があって、様々な思惑があり――そんな中で人々は互いに想い合い、傷付け合いながら生きている。
そんなことを思いながら、ふと抱いた疑問をシオリは口にした。
「……ねぇ、アレク」
「……なんだ?」
「家を出るときにその人と別れることを決めたと言っていたけれど、それなら――もし家に戻ることになったら――私と、別れる?」
身分違いになるから、きっと苦労するだろうから別れを決めたと彼は言った。
それなら自分は?
そう問えば、彼は小さく息を飲んだ。
「……きっとアレクの本当の身分は――貴族か何かなんでしょう?」
彼は一瞬躊躇い、それからぎこちなく頷いた。
「……ああ」
「なら、私は平民で外国人で……アレクとは釣り合わないよ?」
だからもし戻ると決めたなら、自分は彼女と同じように――。
想像するだけで心が引き裂かれそうに痛む。
胸元に抱き込んでいたアレクが身動ぎした。シオリの緩やかで甘い拘束が解かれ、今度は逆に彼の胸元に抱き寄せられる。
「――俺はもう、お前を手放す気はないんだ。ずっとお前のそばにいたい。いさせてほしい」
耳元に熱く掠れた声が吹き込まれて、シオリはぞくりと身を震わせた。
「そのためにも俺は、家や弟のことと向き合おうと決めた。時間が掛かっても、必ず――消化してみせる。そうしたら」
耳を食むように唇を寄せて、彼は熱く囁いた。
「お前を、俺の――」
続きの言葉はなかった。けれども、熱い唇から漏れる吐息が全てを語っているような気がして、じわりと身体が熱を孕んだ。
「……お前こそどうなんだ」
「え?」
熱を帯びてきた身体を持て余していたシオリは、逆に問われて目を瞬かせた。
「……郷里に帰りたがっていただろう。もし帰れる日が来たら、お前こそ俺を……置いていくんじゃないのか」
もし帰れる日が来たら。
「そんなの……」
ふるりと唇が震えるのが分かった。
「私だってアレクのそばにずっといたい。離れる日が来るなんて考えたくもないよ。もうアレクがそばにいることが、当たり前になっているんだもの」
帰りたいと願っていた。帰る手段があるのなら、以前の自分なら是が非でも帰ろうとしただろう。けれどももう、この世界で大切なものを作ってしまった。大切なものができてしまった。離れることなんて考えられないほどに、大切な人。大切な人達。
自分は独りではなかった。友人のように親しく付き合う人達がいた。ずっと見守ってくれる人達がいた。そばに寄り添う瑠璃色の友がいた。そして――今は、誰よりも愛しいこの人がいる。
「……もし本当に帰ることができたら……家族や友達や、お世話になった人達に挨拶はしておきたいな。でも、アレクとはもう離れたくないよ。ずっと一緒にいたい。ずっと一緒に……いさせて?」
抱き締める腕の力が強まる。呼吸が止まりそうなほどに強く抱き締められて、でもそれすらもひどく嬉しくて。
「……勿論だ。お前が嫌だと言っても、もう二度と手放す気なんてないぞ」
「……ありがと、アレク」
この人がいてくれるから。こうして力強い腕で繋ぎ止めてくれるから。この世界に来て失くしたものを、一つずつ丁寧に拾い上げていってくれるから――自分はここに在っていいのだと思えるようになった。
「……あのね、アレク」
「うん?」
「今はまだ話す勇気はないけれど――でも、いつか聞いてくれる? 私の故郷のこと」
いつかその覚悟ができたなら。
自分の故郷――生まれ育ったあの国が在るあの世界のことを、彼に聞いてほしい。彼に知ってほしい。自分を形作ったあの世界を、いつか。
アレクは優しく温かい夜空の色のような紫紺の瞳でじっとシオリを見下ろし、しばらくそのままでいてから、やがてふっと微かな吐息を漏らすように笑った。
「……ああ。勿論だ」
言いながら、彼の指先がシオリの唇をなぞっていく。
「いつか……お前の全てを教えてくれ。俺もいつか、全てを教えるから」
「……うん」
触れていた指先が離れ、そして頬に添えられた。上向かされ、そのまま熱い唇が押し当てられる。溶け合う唇が割り開かれ、激しく絡み合う吐息に混じって「愛してる」という言葉を聞いたような気がしたのは――きっと気のせいではない。
だからシオリも伝えるのだ。
吐息の中に紛れ込ませて、小さく囁くように、「大好き」と。
ルリィ「アレクの場合『お前の全てを教えてくれ(※性的な意味含む)』だと思う」
ペルゥ「否定できないって陛下が」
雪男「……添え物ぉぉぉ」
雪熊「根に持つタイプだなぁ」




