第17話 店主がいない店
王都へ向けて出発するまで、あと三日。
厨房馬車は、まだ車輪と骨組みしかない。
国王へ出すラーメンも、完成どころか、何を作るのかさえ決まりきっていない。
火竜素材の分配は、ようやく話がまとまったばかりで、王室へ請求する出張費の返答も届いていなかった。
普通に考えれば、店を開いている場合ではない。
蓮司自身、そう思っていた。
「王都から戻るまで、店は閉める」
朝の仕込み前、蓮司がそう告げると、ミーナは陽麦粉の袋を抱えたまま、あからさまに嫌そうな顔をした。
「何日?」
「予定どおり進めば、往復と王宮での滞在を合わせて、十日から二週間程度だ」
「長い」
「俺も長く滞在する気はない。国王へ一杯出し、必要な話が終われば戻る」
「でも王都で問題が起きたら、もっと長くなるんでしょう」
「問題が起きる前提で話すな」
「店主が王宮へ行くのよ。起きないと思うほうがおかしい」
「俺を何だと思ってる」
「料理の話になると、王様にも喧嘩を売りそうな人」
「喧嘩は売らない」
「料理勝負は?」
「必要なら申し込む」
「同じでしょう!」
ミーナは粉袋を作業台へ置いた。
勢いが強すぎて、袋の口から陽麦粉が白い煙のように舞い上がる。
「静かに置け。粉が飛ぶ」
「店を閉める話のほうが大事!」
「食材を粗末にするな」
「話を逸らさないで!」
「逸らしてない。店を閉めることと、粉をこぼさないことは同時にできる」
「そういうところ、本当に腹立つ!」
ミーナは布で粉を集めながら、それでも口を止めなかった。
「どうして閉めるの。昨日も一昨日も、あたしたちだけで十二杯出したでしょう。今日だってできる」
「三人とも王都へ行くからだ」
「だったら、あたしが残る」
蓮司とリーゼの動きが同時に止まった。
「何を言ってる」
「店を開けるの。リーゼは王様のラーメンを作るのに必要だし、王都で騎士団の話もある。でも、あたしは王様の料理に絶対必要ってわけじゃないでしょう」
「必要だ」
蓮司は即座に答えた。
「火竜脂の匂いを見られる。肉やスープの変化にも気づく。王宮へ持ち込む食材が途中で傷んだ場合、お前の鼻が一番早く分かる」
「それなら、別の猫獣人でもいいかもしれない」
「お前と同じ仕事をしていない奴を、出発直前に連れていけるか」
「でも店はどうするの」
「閉めると言ってる」
「だから嫌なの!」
ミーナは、集めた粉を袋へ戻す手を止めた。
「やっと毎日、ここへ来れば仕事があって、ご飯が食べられて、明日も来ていいって言われる場所ができたのに、二週間も閉めたら、戻ってきたときには、また何もなくなってるかもしれないでしょう」
「建物は残る」
「そういう意味じゃない!」
ミーナの声が震えた。
「貧民街では、昨日まであった店が、朝になったらなくなってることがある。夜逃げしたり、借金で道具を持っていかれたり、店主が病気になって戻らなかったり。明日もあると思った場所ほど、急になくなるの」
「今回は王都へ行くと、客にも伝える」
「待ってくれるって、どうして分かるの」
「戻れば、また開ける」
「店主は、戻ってくるって言った大人を、ずっと信じて待ったことある?」
蓮司は答えられなかった。
前世では、待たせる側だった。
明日は休む。
来週は通常営業へ戻す。
体調が悪い従業員へ、無理をしなくてよいと言いながら、自分だけは厨房へ立ち続ける。
自分が戻ると約束し、その約束を疑われることなど考えたこともなかった。
「ミーナ」
リーゼが穏やかに声をかけた。
「店を守りたい気持ちは分かります。しかし、あなた一人を残すことはできません。毒牙鼠の処理も、火の管理も、一人で行うには危険です」
「ガルドさんや、ギルドの食堂へ手伝ってもらう」
「冒険者ギルドには、別の仕事があります」
「オルドたちに薪を運んでもらう。器洗いは貧民街の人へ頼む。料理だけ、あたしがやる」
「今のあなたには、まだ無理です」
リーゼの言葉は、優しかった。
だがミーナの耳は、深く伏せられた。
「リーゼまで、店主と同じこと言うのね」
「同じではありません」
「まだ早い。危ない。任せられない。全部同じでしょう」
「あなたを子供だから軽く見ているのではありません。店を一人で営業することは、大人の料理人でも難しいのです」
「それを決めるのは、やってからじゃないの?」
「命に関わる失敗を、やってから判断することはできません」
「じゃあ、いつなら任せてもらえるの」
ミーナはリーゼを見たあと、蓮司へ顔を向けた。
「店主は、あたしが何をできるようになったら、店を任せるの」
「一人で毒牙鼠を処理できる。スープを仕込める。麺を打てる。火加減を見られる。客の注文と金を管理できる。食中毒の兆候へ気づける。何か起きたとき、営業を止められる」
「全部?」
「全部だ」
「それを全部できるようになるまで、何年かかるの」
「分からない」
「店主は、何年かかった?」
蓮司は少し考えた。
「人へ出せるラーメンを作るまでなら、数年だ」
「店を任せられるまで?」
「……もっとだ」
「じゃあ、あたしは何年も、ずっと“まだ早い”って言われるの?」
「段階がある。最初から一人で全部をする必要はない」
「でも今回は、一人で残るか、店を閉めるかしかないでしょう」
「だから閉める」
蓮司が答えると、ミーナは悔しそうに唇を噛んだ。
「店主は、閉めても平気なんだ」
「平気ではない」
「でも決められる」
「安全に開けられないなら、閉めるのが店主の仕事だ」
「その言い方をされたら、何も言えない」
ミーナは粉袋を抱え、厨房の隅へ運んだ。
いつものように文句を続けることもなく、そのまま作業を始める。
大人しくなったわけではない。
納得できないことを、言葉にしても変わらないと諦めただけだった。
その背中を見るほうが、怒鳴られるより居心地が悪かった。
「蓮司」
リーゼが小声で呼んだ。
「何だ」
「閉店という判断は、間違っていないと思います」
「なら問題ない」
「判断が正しいことと、ミーナが傷ついていないことは別です」
「分かってる」
「本当に?」
「今、その言葉を便利に使った」
自分で認めると、リーゼは少し驚き、それから困ったように笑った。
「少しずつ、自分の癖へ気づくようになりましたね」
「気づいても、答えが変わらないことはある」
「はい。無理に変える必要もありません。ただ、閉める以外に何もできないのかは、もう少し考えてよいと思います」
「三人とも王都へ行く。誰も厨房へ立たない。それで、どう開ける」
「営業はできなくても、店がなくならないと伝える方法はあります」
「木札へ、休業日を書く」
「文字を読めない人もいます」
「絵を描く」
「蓮司が?」
「リーゼが」
「最初から私へ回さないでください」
リーゼは呆れながらも、作業台へ指を置いた。
「例えば、王都へ行っている間、店を完全に閉ざすのではなく、ギルドへ場所の管理を頼む。決まった日に、オルドさんや貧民街の方々へ店先を使ってもらい、持ち寄りの食事会を開く」
「俺たちが作らない料理を、店で出すのか」
「商売ではありません。店の設備を使わず、火もギルド側の管理下で、店先だけを使います。暖簾を下ろしきらず、皆が掃除をし、戻る日を知らせる」
「勝手に店へ入られたら?」
「食材と道具は、ギルド倉庫へ預けます」
「炉を壊されたら?」
「建物の中へは入れません」
「それでも店の前が汚れる」
「戻ったら掃除します」
「俺たちが?」
「一緒にです」
蓮司は不満そうに店先を見た。
自分のいない店へ、人が集まる。
厨房へ入れないとしても、暖簾の前で食べ、話し、待つ。
店が、自分の知らない時間を持つ。
「嫌ですか」
リーゼが尋ねた。
「少し」
「店を忘れられるより?」
「それはもっと嫌だ」
「では、考える価値はあります」
蓮司は返事をせず、王宮用の質問表へ目を落とした。
国王の好み。
病状。
毒見制度。
持っていく道具。
考えなければならないことは、いくらでもある。
それでも頭の隅から、ミーナの伏せられた耳が消えなかった。
◇
その日の営業は、十二杯の予定だった。
実際には十一杯で終わった。
最後の一杯を作る前に、リーゼがスープの香りの変化へ気づき、営業を止めたためである。
「少し酸っぱい気がします」
リーゼは鍋から取ったスープを、小皿へ移した。
「酸っぱい?」
ミーナも匂いを嗅ぐ。
「腐った臭いじゃない。でも朝より、葉っぱみたいな匂いが強い」
「火を入れ続けたことで、香草の苦みと酸味が出たのかもしれません」
「最後の一杯くらい、出せるんじゃない?」
「出せるかどうかと、出してよいかは別です」
リーゼは列の最後に立っていた若い鉱夫へ頭を下げた。
「申し訳ありません。本日のスープは、ここで終了とします」
「俺の前で?」
「はい」
「一口も残ってないのか」
「量はあります。しかし朝に確認した味と変わっています。身体へ害があるとは思いませんが、原因が分からないまま、代金を受け取って出すことはできません」
鉱夫は鍋を見た。
その後ろでは、すでに食べ終えた仲間が、気まずそうに様子をうかがっている。
「俺だけ食えないのは、正直、腹が立つ」
「はい」
「でも、俺へだけ怪しいスープを出されるのも嫌だ」
「申し訳ありません」
「明日は?」
「開店できるか、仕込みを確認してから知らせます」
「予約は」
「受けていません」
「店主と同じだな、そこは」
鉱夫は不満そうなまま、それでも怒鳴らずに帰った。
ミーナが、その背中を見送る。
「一杯くらいなら平気だったかもしれないのに」
「そうかもしれません」
「じゃあ、どうして止めたの」
「私が、平気だと言い切れなかったからです」
「怒られるのが怖かった?」
「少しは」
リーゼは正直に答えた。
「蓮司へではありません。客へ何か起きたとき、自分が“たぶん大丈夫だと思った”としか言えないことが怖かった」
「一杯売れなかった」
「はい。売上も減りました」
「店主なら、どうしたかな」
「蓮司」
白線の向こうから名前を呼ばれ、蓮司は顔を上げた。
「今の判断へ、口を出してよいでしょうか」
「俺へ聞くのか」
「今日は、私が調理責任者です。ですが営業を止めた理由を、店主へ報告する必要はあります」
蓮司は鍋へ近づき、スープを嗅いだ。
口へ入れる。
酸味。
腐敗ではない。
使った赤実の皮が、前日のものより厚く、煮込み続けたことで苦みと酸味が出たのだろう。
「傷んではいない」
「では、出せましたか」
「出そうと思えばな」
ミーナが顔をしかめる。
「だったら、一杯売れたのに」
「だが止めたのは正しい」
蓮司が言うと、リーゼとミーナの両方が驚いた。
「店主なら出した?」
「原因に気づけば、タレを減らし、脂を少し足して調整する。だがリーゼは、原因が分からなかった。分からない状態で、客へ出さないと決めた。店を任された人間の判断として、間違ってない」
「売上より?」
「客へ何か起きれば、十一杯分どころでは済まない」
リーゼは、緊張を解くように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただし次は、赤実の皮を薄く剥け。香草を入れる時間も記録する。味が変わる前に気づける」
「はい」
「ミーナ」
「何」
「最後の一杯を出したかった気持ちは分かる。だが客へ出すか迷ったときは、売上より安全だ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるけど、悔しいの!」
ミーナは鍋を睨んだ。
「一人だけ食べられない人が出た。昨日よりたくさん作ったのに、十二杯全部をちゃんと出せなかった」
「だから明日、直す」
「王都へ行ったら、直す人がいなくなる」
「お前たちも行く」
「店には誰もいない」
また、その話へ戻る。
「店主」
ミーナは蓮司へ向き直った。
「王都から帰ったあとでいい。あたしが一人じゃなくても、店主がいない日に店を開けられるようにして」
「誰と開ける」
「リーゼでも、ほかの人でもいい。店主が、ずっと毎日ここにいる必要がない店にしたい」
「俺がいないほうがいいのか」
「どうして、そうなるの!」
ミーナが声を上げた。
「店主がいないほうがいいなんて、一回も言ってない! 店主が病気になったり、仕入れへ行ったり、王様に呼ばれたりするたび閉めなくて済むようにしたいって言ってるの!」
「客は俺の味を求める」
「本当に?」
「何だと」
「昨日の焦がし葱ラーメンを食べたいって、今日も言われた。店主が作ったラーメンじゃないよ」
その言葉は、蓮司の胸の中へ真っ直ぐ入った。
「店主の味を食べたい人は、店主がいる日に来る。あたしたちの味を食べたい人は、あたしたちが作る日に来る。それじゃ駄目なの?」
「同じ看板で、違う味を出せば、客が迷う」
「書けばいいでしょう。今日は店主。今日はリーゼ。今日はミーナって」
「お前の名前で客から金を取れる料理は、まだない」
「だから作るの!」
ミーナは涙を浮かべながら、それでも目を逸らさなかった。
「店主の味を完全に真似する店なら、店主がいない日に開ける意味がない。あたしたちは店主の手の代わりじゃない。自分で考えて、自分の料理を出せるようになりたいの!」
厨房が静まり返った。
客のいなくなった六席。
火を落とした炉。
十二杯目を出せずに残ったスープ。
店の中には、料理が完成しなかった悔しさと、言葉にしてしまった怖さが残っていた。
「俺の味を、受け継ぎたいわけではないのか」
蓮司が尋ねた。
「受け継ぐって、全部同じにすること?」
「基本は同じだろ」
「店主も、前に働いてた店と、全く同じラーメンを作ったの?」
蓮司は黙った。
修業先の店。
鶏と魚介を合わせたスープ。
細い麺。
師匠が守り続けた醤油ダレ。
蓮司は、そこから多くを学んだ。
だが独立したとき、同じものは作らなかった。
鶏の炊き方を変えた。
麺を少し太くした。
師匠が使わなかった香味油を加えた。
同じ味を作れなかったのではない。
自分の店を作るために、変えた。
「違った」
「だったら、あたしも変えていいでしょう」
「まだ基本が足りない」
「それは教えて。危ないことも、駄目なことも。だけど、味まで全部店主が決めたら、あたしが作る意味がない」
蓮司は反論できなかった。
その日の夜、彼は手順書を作り始めた。
◇
「長すぎます」
リーゼが言った。
「まだ途中だ」
「すでに皮紙が十二枚あります」
「必要なことを書いてる」
「一杯の塩ラーメンを作るだけで、十二枚も必要なのですか」
「食材の受け取り、保管、下処理、スープ、タレ、麺、提供、会計、片づけ、安全確認まで含めている」
蓮司は文字を十分に書けないため、内容を口述し、リーゼが書いている。
最初は「手順を記録することは必要です」と協力していたリーゼも、五枚目を超えたあたりから、明らかに後悔し始めていた。
「第七項。毒牙鼠を洗う水は、朝の気温が低い日は三回、暖かい日は四回以上交換する。ただし肉の色と臭いに異常がある場合は、回数に関係なく――」
「待ってください」
「何だ」
「暖かい日の基準は?」
「肉を洗う水が、手へ冷たく感じなくなる程度」
「人によって違います」
「では、水へ手を入れて五息以上、冷たさを感じない場合」
「リーゼの手と、あたしの手でも違うよ」
ミーナが机へ頬をつけたまま言った。
「猫獣人は、人間や竜人より少し体温が高いもの」
「なら、温度計を使う」
「まだ買ってません」
「ベルトランへ頼んだ」
「明日の午後に届く予定です」
「では、数値はあとで加える」
「手順書を完成させてから道具を決めるのですか」
「道具がなくても判断できる方法も残す」
「それで条件が二倍に増えているのです」
リーゼは筆を置き、指を揉んだ。
「少し休みませんか」
「時間がない」
「私の指が動かなくなれば、続きは書けません」
「では、俺が書く練習を兼ねて――」
「出発までに読める手順書が必要なのでしょう。蓮司の文字では、解読する仕事が一つ増えます」
「そこまで酷くない」
「ご自分で、昨日書いた行を読めますか」
蓮司は皮紙を見た。
曲がった文字。
間隔も不揃いで、一部は自分でも何を書いたか分からない。
「大体は」
「どこが“火を弱める”ですか」
「ここだ」
「それは、“毒腺を捨てる”と書いた文字です」
「似てるな」
「似ていては困ります!」
ミーナが、皮紙の束をめくった。
「ねえ、これ全部覚えるの?」
「必要なときに読む」
「料理しながら?」
「ああ」
「麺を茹でながら、何枚目のどこに書いてあるか探すの?」
「項目ごとに分ける」
「探してる間に伸びるよ」
蓮司は黙った。
「大切なことだけ、壁へ貼れば?」
「全部大切だ」
「また、それ」
ミーナは皮紙の最初へ戻った。
「第一項。朝、店へ入る前に周囲を一周し、煙、異臭、足跡、扉の傷、屋根の破損を確認する。これ、毎日必要?」
「盗人が入った可能性がある」
「足跡なんて、客も通るでしょう」
「昨日と違うものを見分ける」
「雨が降ったら?」
「足跡は増える」
「じゃあ、全部調べるの?」
「怪しいものだけだ」
「どれが怪しいの?」
答えようとして、蓮司は止まった。
経験で判断する。
見慣れた店先との差。
言葉へすれば簡単でも、それを手順書だけで伝えることは難しい。
「第二項。扉を開けたあと、炉の灰を確認する。前日の火が残っていた場合――」
「前日に火を消した人が、覚えてればいいでしょう」
「人間は忘れる」
「店主みたいに?」
「誰でもだ」
「だったら、“火を消した人が名前を書く板”を置いたほうが早くない?」
蓮司はまた黙った。
「第三項。水場の桶を洗い、匂いを確認し――」
「これは必要」
「第四項。包丁の数を確認し――」
「これも必要」
「第五項。昨日の売上と銅貨の枚数を――」
「帳簿へ書いて、金箱をガルドさんに預ける」
ミーナは一つずつ、必要か、別の方法があるか、実際に作業しながら読めるかを分け始めた。
「勝手に減らすな」
「店主の手順書、料理するためじゃなく、店主が安心するためのものになってる」
「安全のためだ」
「安全と、店主と全く同じように動くことが混ざってるよ」
リーゼが、ミーナの言葉へ頷いた。
「例えば、麺を茹でる際、“鍋の右側から入れ、左回りに三度ほぐす”とあります」
「そのほうが麺同士が絡みにくい」
「私は左利きに近いため、逆から行うほうが動きやすいです」
「味が変わる」
「どの程度?」
「僅かに」
「客が気づくほどですか」
「分からない」
「なら、それは蓮司のやり方であって、絶対の安全手順ではありません」
「再現性には必要だ」
「何を再現するのです」
「俺の味だ」
口へ出した瞬間、ミーナが皮紙を置いた。
「やっぱり、そうなんだ」
「何がだ」
「店主は、あたしたちに店を任せたいんじゃない。自分の手が増えたみたいにしたいのよ」
「違う」
「違わない。右から麺を入れるところまで同じにしないと嫌なんでしょう」
「客が《異世界麺処・蓮》の味を求めて来るなら、同じものを出す責任がある」
「昨日の焦がし葱ラーメンも、この店の料理でしょう」
「あれは、お前たちの味だと説明した」
「だったら、店主がいない日も説明すればいい!」
「王都へ行っている間、お前たちもいない」
「帰ったあとの話をしてる!」
ミーナは椅子から立ち上がった。
「店主が仕入れへ行く日。病気の日。休みたい日。王都へ呼ばれた日。あたしたちが自分の料理を出せるなら、店は開けられるでしょう!」
「何を出す」
「今から考える」
「完成してない料理を、店の仕組みに入れられない」
「だから明日、作る!」
ミーナは皮紙の束から、最後の一枚だけを抜き取った。
「必要なのは、これでしょう」
そこへ書かれていたのは、料理の細かな手順ではなかった。
毒腺を傷つけた肉は使わない。
腐敗や異臭へ迷ったら捨てる。
火が制御できなければ営業を止める。
客へ材料と担当者を説明する。
分からないときは、無理に出さない。
金より客の安全。
「これは覚える」
ミーナは言った。
「店を続けるために絶対必要なことだから。でも、葱を何息焼くか、麺を右から入れるかは、あたしが自分で決めたい」
「失敗するぞ」
「する」
「客へ出せないものも作る」
「出さない。まかないにできれば食べる。無理なら、どうして失敗したか残す」
「食材が減る」
「働いて返す」
「金の問題だけじゃない」
「分かってる!」
ミーナは、涙を堪えるように声を強くした。
「でも、失敗させてもらえなかったら、一生、店主がいない店なんて作れない!」
リーゼが静かに筆を置いた。
「蓮司。手順書は必要です」
「なら――」
「ですが、料理人の代わりに手順書を置こうとするのは、間違いです」
「俺のいないとき、判断を揃えるためだ」
「判断を助けるためなら分かります。しかし今の内容は、判断させないために作られています」
「判断を間違えたら?」
「その責任を、任せた私たちと、任せた蓮司で負います」
「客へ被害が出たら、取り返せない」
「だから安全に関わる部分は、絶対の決まりとして残す。それ以外は、担当者が選ぶ」
「線引きが曖昧だ」
「今、三人で線を引きましょう」
リーゼは皮紙を三つの山へ分けた。
一つ目。
必ず守る安全規則。
二つ目。
蓮司の基本手順。
三つ目。
担当者が変更してよい部分。
「毒牙鼠の毒腺処理は、安全規則」
「ああ」
「包丁と作業台を、毒物用と食材用へ分けることも」
「ああ」
「麺を右から入れることは?」
「基本手順だ」
「変更可能では?」
「……変更してもいい。ただし、茹で上がりを確認する」
「焦がし葱を使うことは?」
「担当者の判断。ただし焦げすぎて発苦味が強い場合、客へ出さない」
「スープの塩気は?」
「担当者の判断」
言葉にすると、喉へ何かが引っかかる。
自分以外の人間が、店の味を決める。
同じ看板の下で。
「ただし」
蓮司は続けた。
「誰が作ったか、客へ必ず伝える。俺の一杯として売るな」
「はい」
「値段も、料理ごとに原価を出して決める。安くすれば客が来るからと、勝手に下げるな」
「分かりました」
「安全規則を破った場合は、調理へ戻さないこともある」
「当然です」
「失敗を隠したら?」
「店員を辞める」
ミーナが答えた。
「そこまでは言ってない」
「でも店主は、嘘をついたら商売できないって言った」
「事情は聞く。盗んだ、隠した、客へ嘘をついた。それだけで、すぐ追い出すとは決めない」
「前より甘くなった?」
「人間は、追い出せば直るとは限らないと分かった」
ミーナは少し笑った。
「じゃあ、明日、あたしのラーメンを作る」
「焦がし葱か」
「昨日のままじゃない。ちゃんと、あたしの一杯にする」
「何を変える」
「今は言わない」
「材料は、先に申告しろ」
「安全に関わるから?」
「ああ」
「毒牙鼠、清流葱、岩鎧猪の脂、白角鹿の骨。それから陽麦」
「店の基本材料だな」
「同じ材料で、店主と違うものを作る」
「できると思うか」
「分からない」
「そこは、できると言わないのか」
「店主の真似」
ミーナは、少し得意そうに笑った。
「根拠もなく言い切る料理人は、信用できないんでしょう」
「口だけは覚えるのが早いな」
「店主に似たの」
「一緒にするな」
リーゼが、長すぎる手順書の束を持ち上げた。
「これは、どうしますか」
「捨てるな」
「すべて必要ですか」
「店の基本手順として残す。俺の味を作る日は使う。お前たちが自分の料理を作るときは、安全規則だけ守り、必要な部分を参考にする」
「ようやく、手順書らしくなりましたね」
「最初から手順書だ」
「最初は、蓮司を皮紙へ写したものです」
「俺を写したら、もっと長い」
「自覚があるのですね」
三人は深夜まで、皮紙の山を分け直した。
安全に関わる規則は、赤い縁取り。
必ず守ること。
蓮司の基本手順は、黒い縁取り。
《異世界麺処・蓮》の塩ラーメンを作る際の基準。
担当者が自由に変えられる部分は、青い縁取り。
料理名、香味油、具、麺の太さ、味の濃さ。
「青が多くない?」
ミーナが尋ねる。
「料理だからな」
「店主が、自由にしていいって?」
「全部とは言ってない」
「また細かいことを言う」
「安全規則を守れ。客へ嘘をつくな。金と食材を記録する。それ以外は、作った人間が責任を持って決める」
「店主が帰ってきて、嫌な味だったら?」
「不味いと言う」
「優しく?」
「正直に」
「やっぱり優しくない」
「だが、包丁は取り上げない」
ミーナは、少しの間、蓮司を見た。
「約束?」
「ああ」
「店主が手を出しそうになったら?」
「リーゼが止める」
「また私ですか」
「頼りにしてる」
リーゼは一瞬だけ黙り、やがて小さく微笑んだ。
「その言葉を使えば、私が何でも引き受けると思っていませんか」
「思ってない」
「少しは?」
「少し」
「正直すぎます」
◇
翌朝、店先へ新しい木札が掛けられた。
王都への出発日。
休業予定。
戻る時期は、王宮の事情によって変わる可能性があること。
文字を読めない人間のため、王冠を載せた丼と、街道を走る馬車の絵も描かれている。
絵はリーゼ。
蓮司は、描かせてもらえなかった。
「帰ってくる印がない」
ミーナが木札を見て言った。
「行く絵だけだと、店を捨てて王都へ移るみたい」
「では、何を描きますか」
リーゼが尋ねる。
「馬車が戻ってくるところ」
「一枚の板へ、行きと帰りを描くのですか」
「上に行く馬車、下に帰る馬車」
「事故の図に見えませんか」
「丼から湯気を出す」
「それで戻ると分かるか?」
蓮司も口を挟む。
ミーナは考えたあと、店の暖簾と、その下に並ぶ六脚の椅子を指した。
「椅子に、布をかけておく」
「何のためだ」
「店主たちの席を取っておくの。戻るまで、誰も持っていかないように」
「客の椅子だ」
「三人も座るでしょう」
「まかないのときだけだ」
「じゃあ三脚じゃなく、一脚だけでいい。店主の椅子」
「俺だけ?」
「一番、帰ってくるか心配だから」
冗談のように言ったが、ミーナの目は笑っていなかった。
蓮司は、六脚のうち一番端にある、少し脚の短い椅子を見た。
最初の営業日、客が一人も来ない時間に、ミーナが座っていた椅子。
閉店後、三人でまかないを食べるとき、蓮司がよく使う椅子。
「布をかける」
「本当に?」
「ああ。ただし雨で濡れないよう、店内へ置く。扉の隙間から見える位置にする」
「それじゃ、盗まれるかも」
「戸締まりはする」
「絶対戻ってきてね」
「戻る」
「王様が、王都で店を出せって言っても?」
「断る」
「大きな店とお金をくれるって言われても?」
「考える」
「店主!」
「この店を捨てる条件なら断る。王都の店と両方続けられる話なら、聞くだけは聞く」
「少しは商売人になりましたね」
リーゼが言う。
「最初から商売はしてた」
「料理を売ること以外も、少しずつです」
ミーナは、まだ完全には安心していない顔だった。
それでも蓮司の言葉を、今は信じると決めたのだろう。
「帰ったら、店主がいない日を作る」
「休業日か」
「違う。リーゼとあたしが、料理する日」
「俺は何をする」
「休む」
「仕入れへ行く」
「休んで」
「食材がなければ店を開けない」
「一日くらい、何もしないで!」
「何もしないと、落ち着かない」
「練習して!」
ミーナが声を上げ、店の前にいた客たちが笑った。
「店主が休む日なら、見物に来るぞ!」
「働き始めたら、椅子へ縛ろう!」
「縛るなら冒険者ギルドへ依頼を出せ!」
「俺を何だと思ってる!」
蓮司は怒鳴ったが、客の笑いは止まらなかった。
店主がいなければ、店を開けられない。
店主がいなければ、味が決まらない。
店主がいなければ、何も進まない。
そう思われることを、以前の蓮司なら誇りに感じていただろう。
今は違う。
必要とされたい。
自分の味を求めてほしい。
その気持ちは消えない。
だが、自分一人がいなければ壊れる店は、強い店ではなかった。
「店主」
ミーナが厨房へ入る前に振り返った。
「今日は、試作するからね」
「営業後だ」
「分かってる」
「材料を使う量は記録しろ」
「分かってる」
「最初から客へ出すな。俺たち三人と、必要ならオルドに――」
「分かってる!」
「聞くたび返事が雑になるな」
「店主が同じこと何回も言うから!」
ミーナは厨房へ入り、焦がし葱用の小鍋を手に取った。
昨日までなら、蓮司はすぐ隣へ立ち、火の強さを指示しただろう。
今日は白線の外へ残る。
手順書はある。
安全規則もある。
それでも最後に味を決めるのは、皮紙ではない。
鍋の前へ立つ人間だった。
「明日の一杯で、不味かったら不味いと言うからな」
蓮司が言う。
ミーナは振り返らず、木匙を持ち上げた。
「望むところよ」
小さな店で、見習い料理人が初めて、自分の名前で売る一杯を作ろうとしていた。




