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古き佳き世界のぼくら

 

 ピアノの鍵盤に汗が滴った。扱い慣れない運指は僕の脳も疲れさせる。日差しが強い。喉が乾いた。朱里は前のめりでピアノを教えようとしている。今更席を立ったら、許してくれないかもしれない。


「で、お前、デカチンが好きなの?」


 どうせ怒らせるなら早いうちにと、話をむしかえした。

 なぜか演奏は中断されず、朱里は逆にしなだれかかっててくる。


「えー、気になるんすか? キモ。女の子の口からそんなこと言わすなんてサイテー」


 悪態をつきながら、ますます体を密着させる。塩素の匂いのする髪が、僕の頬にかかった。


「試してみます? パンツにビビってた先輩にそんな度胸ありますかね?」


 朱里の指が僕の腿をトントンと、はじく。いつの間にかピアノ講師は淫らな手練を発揮し始めた。自然と体の一部が隆起してきた。地核変動だ、これは。僕にはどうすることもできない。


「そ、そうだ。チェルシーの手帳を見つけたんだ。でも暗号めいていて読めなくて、何かわかる?」


「んー? どれどれ」


 逡巡することなく、朱里は手帳をめくる。その間も僕の体を操縦し続けた。


「よくわかんないっすねえ。先輩の体みたいにわかりやすければいいのに」


「もっとちゃんと見てくれよ……、んっ!」


 手の動きが激しくなる。女の子みたいに声を押さえる自分が嫌になる。唇を噛んで下を向いた。そこにありえないものを見た。きらびやかな金髪が床に垂れている。


「個人レッスン、あたしも混ぜて!」


 ピアノの下からチェルシーがぬっ、と這いだしてきた。突然の強襲に、心臓が止まるかと思った。朱里はもっと如実な拒否反応を示した。椅子から転げ落ちて、哀願するように手を合わせる。


「ち、ちがうんす、先輩が下心丸だしでピアノ教えて欲しいなんて言うから、殺さないで!」


 チェルシーは腰に手を当て、朱里を悠然と見下ろしている。顔は笑っているが、妙な威圧感がある。


「二人が熱心にピアノの練習してたから、気になって。邪魔しないように隠れてたんだけど、我慢できなくなっちゃった!」


 無垢な笑顔が逆に恐ろしい。


 扉を開ける音はおろか、気配を全く感じなかった。いつから隠れていたのだろう。手帳の件を聞かれていなかったかひやひやする。朱里も弁えたもので、手帳を素早くポケットに入れていた。


「ハルヒコは、ショパン好きなの? チェルシーはリストの方が好きだな。コンサートでは女性を失神させてたみたいだし。ハルヒコもそうなって欲しい」


「へ、へー、なんか僕には荷が重そうだね」


 手に手を絡ませて強く念を押される。 


「できるよ、ハルヒコなら。だからもうショパンは弾いちゃだめだよ。わかった?」


 歯がみする朱里を横目に、僕は頷いた。手帳を持ち出したのを言い出せる空気じゃない。なんであんなもの持ち出してしまったんだろう。軽率な行動が悔やまれる。


 その後、落ち込んだ顔の春雨が音楽室にやってきた。


「……、やられた。ドローンに逃げられた」


 指揮官の敗北宣言は、課せられた任務の失敗を意味した。音楽室は重苦しい静寂に包まれる。


「起こってしまったことは仕方ないよ!」


 チェルシーは明るく春雨を励ました。春雨は小さな失敗も許さないような完璧主義者らしく、なかなか顔を上げなかった。


「夕食に好きなものでも作ってやったら、機嫌も直ります。あいつはそういう奴です」


 朱里は鼻歌交じりで食料庫に足を向けた。その日の夜は、春雨のためにステーキを焼くことになった。


「ミディアムレアだぞ。それ以外は認めないからな」


 ナプキンをつけた春雨はうるさく注文をつけてきた。僕は肉の担当だ。さながら肉のお兄さんだ。


「この肉、どこから手に入れたんだよ」


「この学校に決まってるじゃないっすか。牛舎あるの知らないんすか」


「じゃあ、解体は……」


 チェルシーの立てる包丁の音が、こぎみよく響く。僕は詮索を諦めた。人工肉みたいな都合のいいものはなかった。鶏のトモゾーの様子をもっと頻繁に見ようと思う。


 赤身肉をほおばると、春雨はすぐに有頂天になった。北海道から来たこと、ゲリラに参加したことを軽々に語った。正義に目覚めたきっかけは、住んでいた村の病院の危機を救ったことだった。セキュリティーの脆弱な病院を身代金ウイルスが襲った。身代金を払わなければ、電子カルテが閲覧できなくなる。春雨はウイルスを解析した上、ハッカーの居所も突き止めた。相手はロシアのハッカーだった。


「ロシアの暗躍は知っていたつもりだったけど、あれで目が覚めた。自分の国は自分で守らないといけないってね」


 春雨はまだ十三歳だが、自衛隊の訓練にも参加したらしい。彼女は頑なに国防軍と呼ぶことを好んだ。憲法が変わればそうなると主張している。


 春雨の正義は暴走している。こんな風に外では暴徒化した市民が暴れているんだろうか。この自衛という考えはこれまでの保守ともリベラルとも違う。日本独特のものだ。急激な円安からのインフレ、燃料価格の高騰は国民を痛めつけた。もはや思想などとは生ぬるい。自衛のための一揆が起きている。三島由紀夫の提唱した行動は高尚な理由ではなく、腹の虫から起きた。


 食後、僕は朱里と手帳の件について小声で話し合った。皿を洗いながらさりげなく。


「何かわかったか」


「ぜんぜん。私、こういう頭使うの苦手なんすよね」


「巻き込んで悪い。早めになんとかするから」


 あの手帳にはチェルシーの秘密、ひいては僕の過去に繋がる何かが書かれている気がする。


「そんなに昔のこと、思い出したいですか」


 正直、畜生だった自分に戻りたくない。でも、今のままの自分でここから出たら、みんなに対して礼を欠く。


「思い出したら、私が殺してあげるっす。チェルシーに取られる前に」


 デザートを食べるような感覚で、僕の命を左右しないで欲しい。殺される前に出てやるさ。この古き佳き世界から。


 その日の夜は、怖い夢を見た。学校に行ったら、大勢から非難を浴びた。大きな口と歯だけの人間もどきが、僕をどこまでも追いかけてくる。トイレに鍵をかけても、上から下から侵入してきて、僕に絡みついてくる。空き教室に閉じこもって、カーテンで頭を覆った。見たくないものを見ないように、聞きたくないことを聞かないように。


「チェルシーだけはハルヒコの味方だからね」


 いつだったか君はそんなことを言ってくれた。信じたいんだ。記憶を失った僕を見初めたのが君だったから。


 カーテンの陰で怯える僕を、チェルシーが見つけてくれた。現実の朝は、ひんやりと湿っている。


「ハルヒコは朝露を飲んだことがある?」


 蕗か何かの大きな葉っぱに、大粒の水滴が膨らんでいるのを想像する。飲むどころか、拝んだことすらないものが、この世にはあると彼女は教えてくれた。


「ない、と、思う」


「飲みに行こう。さあ」


 校舎の脇道を隔てた場所にビニールハウスがあって、春雨が植物の生育を見守っていた。まだ夜が明けきらない時間だ。チェルシーが驚かないので日常の光景なのだろう。


「春雨の実家は農家だから、ゆくゆくはスマート農法で家族を助けたいんだって」


「へー」


 鶏や牛もいるのだ。この学校は農業高校なのかもしれない。幸か不幸か、生活の基盤が揃っている。あるいはそういった事情をあてこんで根拠地として選んだのか。


「あったよ、ハルヒコ。朝露」


 僕は働かない頭をふらふら振って、地面に近い葉をのぞき込む。小指の腹ほどのサイズの水滴が、淡い輝きを放っていた。


「朝露ってどこからくるんだろうね、不思議だね」


 きっと春雨の如雨露の中からだよ。僕の理性は口を閉ざした。夢を見る権利は誰にだってある。


「ハルヒコ、目を閉じて。口を開けて」


 言われるがままに、目を閉じる。春雨の足音が遠ざかる。舌の上に通り雨のような早さで水滴が流れ込み、感触を味わう前に霧散した。


「タイトル 人の一生」


 チェルシーは前衛表現を用いて、僕を現実に引き戻した。味わうには早すぎて、遠すぎる。


 悪夢の気配は藤色の空と共にどこかへ追いやられた。また、古き佳き世界の一日が始まる。


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