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陽動作戦(前編)

 

「ほーら、どうすか先輩」


 朱里の手つきはなまめかしく上下に動いている。僕はしゃがんで、玉の汗を浮かべた。


「お前、手先が器用だよな。に、人間には何か一つ、取り柄があるもんだ」


「鼻声きもーい♡ はあはあ言ってないで、もっとよく私の手の動き、覚えてくださいね」


 僕は足下に置かれたバケツに目をこらす。白濁の液体が滴って、泡を立てていた。放流されたダムの勢いに似ている。生命力の象徴に、感動さえ覚えた。


 牛が低い声で長く鳴いた。朱里は頃合いと見て、乳搾りの手を止める。僕は、仕事を終えて静かに横たわる牛の側から退いた。屋根付きの牛舎には牛が三頭おり、のんびり搾乳の順番を待っていた。


「それにしても、彼女の手帳を勝手に読もうとするなんて、先輩みたいな恥知らず他に知らないっすよ」


 牛の餌箱の下に日記が隠されている。チェルシーは牛舎に滅多に近づかないらしいので、安全な隠し場所というわけだった。


「バレてないかな」


「ビビるくらいなら、こんな大それたことしなければいいのに。なんなら一緒に謝ってあげましょうか」


 こいつが殊勝な性格をしているわけもなく、交換条件で僕を一生奴隷にするつもりだろう。こいつに相談した時点で、僕の運命は決まっていた。


「これからどうしよう」


「自分で考えてくださいよ。まあ、春雨のパソコンなら解析ソフトがありそうですけど」


「それだ!」


 悪いことをしているのに、僕の胸は高鳴っていた。他人の秘密は少なからず好奇心を引き起こすものである。


 次なる狙いは、春雨のPCになった。だが、あの猜疑心の強そうな幼女のことだ。素直に協力してくれるだろうか。


「一人が春雨を引きつけて、もう一人がPCで暗号を解けばいいんじゃないすか」


「それだ!」


 景気づけに牛乳を飲み干し、僕らは陽動作戦にとりかかった。


 春雨は脚立を持って、よろよろ廊下を歩いている。僕はこっそり後をつけ、話しかける機会を伺う。


「今日はパンツ履いているよ」


 階段の手前で尾行に気づかれた。ここまで来たら後には退けない。


「昼間も出歩いてるなんて珍しいな」


「施設の点検だよ。何か私に用かい」


「重そうなもの運んでるなって思っただけだよ。持ってやろうか」


「物好きな。手漉きなら別に構わないが邪魔はするなよ」


 春雨は特に疑いもせず、僕を荷運びに加えてくれた。


 随所で脚立に上り、監視カメラを点検する。彼女は背が低いので、背伸びしてやっとだ。


「カメラやトラップの設置はロボットに任せるわけにはいかないからね。幼体にむち打っているというわけさ」


 春雨は絞りのある白いワンピースを着ていた。その服は作業に適しているとはいえないが、清潔感があり幼体にあつらえたように似合っていた。


「思ったんだけど、向こうだってプロだろ。いくらトラップがあるからって攻めあぐねるのは変じゃないか」


 僕の疑問に対し、春雨は口をへのじに曲げた。トラップの信用を疑ったからかもしれない。


「あちらにも荒事を避けたい理由があるのさ。そのうちわかる」


 幼女は移動を再開した。僕も脚立を持って続く。


「君は考える前に脚立を持ってくれただろう。行動するのが大事なんだ」


「僕らは止まっているように思える」


 春雨は頑なに首を振った。


「時が止まることはない。見えない力は常に働いている。電磁力みたいに」


 僕らを中心に磁界が放射状に生じる。自分を中心にした危険思想に春雨は取り付かれているのだ。


「ハルヒコは覚えているかな。日本人は、未だかつて革命を経験したことがない希有な民族だ。明治維新は民の頭越しに行われたし、第二次大戦で天王制は形骸化して独立の旗印は永遠に失われた」


「今更階級闘争して何になる。フランス革命みたいにギロチンでも持ち出せっていうのか」


 僕が詰め寄ると、春雨は薄笑いを浮かべた。幼女の皮を被った怪物と対峙している気分だ。


「無論、憲法だけでなくギロチンも必要だ。用意するのは我々ではないがね」


 これ以上、春雨の相手をしていたら僕までおかしくなりそうだ。朱里はまだ暗号を解いていないのか。じれながら時間稼ぎしていると、つんざくような悲鳴が聞こえた。


「上だ!」


 いちはやく音源を突き止めた春雨と共に三階に向かうと、廊下に倒れる朱里を見つけた。


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