第六章 正蔵沙衣(まさくらしょうい)
何が起きたのかわからなかった。わたしが死に一歩踏み出すと誰かに抱きしめられた。
一緒に落ちている誰かはわたしを守ろうとするかのようにわたしを抱え込んだ。そんなことをしても意味ないのになんでこんなことをするのか分からなかった。ただ、自分の自殺に誰かを巻き込むわけにはいかない。そんな思いだけがあった。だから仕方なしにわたしは、久しぶりに風龍を呼び出した。優しい風が私たちを包み込み静かに崖下へと着地した。わたし達は怪我一つなくそこに着いた。わたしを守ろうとしてくれた誰かが戸惑っていることが抱きしめられた身体から伝わってきた。それはそうだろう、現代の常識からはあまりにも現実離れしている。風が実体化して守ってくれるなんて夢物語の世界だろう。地上の神の元、地上にある全てのものは神の眷属。地上の神の血を引いたターチェには時々、眷属を持って生まれる者がいる。沙依は三体の眷属を従えていた。風龍はその中の一体。わたしが沙依でなくても応じてくれるのは、わたしが沙依の一部だから。
「ごめんね。」
大切な主人を亡くしたのはわたしもこの子も一緒。わたしはこの子の主人ではないのに、ずっと主人のふりをしていた。風龍はそんなわたしの傍にずっといてくれた。ずっと守っていてくれた。わたしはなんて愚かなんだろう。自然と涙が溢れてきた。そんなわたしを、抱きしめていた誰かがそっと撫でてくれた。
「無事でよかった。」
聞き覚えのある声だった。
「あなたって人は、本当に。もう少し他人の事を考えてください。あなたに何かあったら俺がどんな思いをすると思っているんですか。清原はどうなると思っているんですか。自分のことを大切にしないのは、自分を大切に思ってくれている人への冒涜ですよ。」
そこには泣きそうな顔をしている忠次さんがいた。たくさん小言を言われて怒られて、再び強く抱きしめられた。無事でよかった。呟くその声に、自分がどれだけこの人に想われているのか実感することができた。その分胸が締め付けられた。
「わたしは沙依じゃなかった。沙依のふりをしているだけだった。わたしは。」
うまく言葉が出てこなかった。ただこうやって想われるのはわたしではなくて沙依なのだと、わたしはどうしようもないことをしてしまったのだと、話し続けていた。今までの事、知ってしまったこと、全て思いつくままに話していた。
「バカじゃないですか。」
忠次さんは心底呆れたようにそう言った。
「あなたの名前が本当はなんでもあなたはあなたでしょう。どんなに上手にまねしていたとしても、こんなに長い間自分をだまし続けることはできないし、完全に他人になることはできない。俺も旦那さんも、本物の沙依さんに会ったこともなければ知らない。俺たちが好きになったのは沙依さんではなく、まぎれもなくあなたですよ。」
わたしが何か言い返そうとすると遮られた。
「人をバカにするのもいい加減にしてください。あなたの上っ面だけであなたを好きになったわけじゃない。あなたを知れば知るほどあなたに惹かれていったこの想いを、表面上の演技に騙されただけなんて言わせない。俺はあなたが好きです。あなたのことが好きなんです。」
強くそう言う姿にもう何も言い返すことができなかった。わたしが考えていたことは何だったのか。まだ最悪感で胸が痛むが、全てがどうでもいいことのように思えた。
「ありがとうございます。」
そう言うと忠次さんは笑い返してくれた。
「やっぱりあなたには笑顔の方が似合いますよ。」
その台詞になんだか胸が熱くなった。忠次さんの笑顔が勢三郎と重なって、鼓動が早くなった。
勢三郎への想いは本物だった。沙依の真似をしていたのではない。わたし自身が勢三郎に恋をして、惹かれ合い、添い遂げた。この想いはわたしの物。わたしはわたし。そう思うと、忠次さんの言葉が実感を伴ってわたしの中に沁み込んだ。
「とりあえず帰りませんか。清原が心配していますよ。」
そう言われて素直にうなずいた。
家に帰ると伸君に泣かれてしまった。伸君が泣くなんて想像もしていなかったので戸惑った。
「沙依。ごめん。俺、お前にひどいことばっかり言って。お前が家族じゃないなんて嘘だから、家族だと思ってるから。だからどこにも行かないでくれ。」
わたしに抱き着いて泣きながらそんなことを言う伸君が、凄く小さな子供のように見えた。そうか伸君はわたしのこと家族だと思ってくれていたのか。そう思うと嬉しくなった。それと同時に胸が苦しくなった。伸君はわたしが思っていたよりずっと子供だった。それなのに、わたしはこんなに不安にしてしまった。本当、保護者失格だな。
「ごめんね。」
伸君の背中をさすりながらただ謝った。伸君が落ち着くまでそのままでいた。
「伸君。忠次さん。わたしの話を聞いてくれますか。」
わたしは心を決めて二人に言った。話し始めようとすると何故か忠次さんに止められた。
「あなたが何の話をしようとしているのか、だいたい想像はつきます。だからこそここにもう一人呼びたい人間がいるのですがいいでしょうか。そいつにもあなたの話を聞かせたい。いや、聞かせるべきだと思うのですが。」
その話しぶりでその人物が誰かわたしにも想像がついた。
「清水先生ですね。」
わたしの言葉を聞いて、忠次さんは何故か辛そうな顔をしてうなずいた。自分で話を振ったくせにわたしや清水先生のことを想って傷ついている。この人は本当に優しい人だな。そう思うと自然と頬が緩んでいた。
少し話し合い忠次さんが清水先生を呼びに行き、家にはわたしと伸君の二人になった。伸君は話についてこれず、戸惑っている様子だった。
「伸君。わたし人間じゃないんだ。」
「それは知ってる。っていうか、人間だって言われた方がびっくりする。」
そっか知ってたのか。
「伸君。ありがとう。」
そう言うと何故か驚いた顔をされた。
「わたしね。伸君に嫌われているんだと思ってた。だからわたしがいなくなっても、いいかなって。むしろ自分がいない方がいいんじゃないかなって思ってた。」
「お前、バカじゃねぇの。」
そう言ってから伸君はごめんといった。そして、ぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。初めて伸君の口から語られたその内容をわたしは静かに聞いていた。話し終わると伸君は泣きそうな顔で笑った。わたしが戻って来てくれてよかったと、そう言ってくれた。
伸君はわたしがここにいることを望んでくれている。そのことがひしひしと伝わって来て辛くなった。わたしはどれだけ鈍感でいたのだろう。こんなに想ってくれている人たちが傍にいたのに何も気付かなかったなんて。自分がいなくなっても平気だなんて勝手に思い込んで、何も話さずに急にいなくなったりして。忠次さんに言われた言葉が胸に刺さる。わたしは本当にバカだな。
伸君の気持ちは分かったが、それでもわたしはここにいるわけにはいかない。それだけは譲ることができないと思った。いや、実際は自分自身ががもう耐えられないだけだった。自分がいることでまた人間が変な欲にかられ同じ様なことをことを起こすのも見たくないし、大切な人達が自分を置いて逝ってしまうという事実も辛かった。結局わたしは自分の事しか考えていないんだな。そう思って自分に呆れた。
今度はちゃんと話さなくては。自分勝手なことは解っているが、それも含め思いを伝えなければ。ただ、ちゃんと伸君の思いに答えなければとそう思った。
「伸君、わたしね。実家に帰ろうと思うんだ。」
そういうと心底意味が解らないといった顔をされた。何か言い方を間違えたのだろうか。どこから話せばいいのか分からず考えていると、忠次さんが清水先生を連れて戻ってきた。
「なんか、沙依が実家に帰るとか言い出したんだけど。」
伸君は戸惑った様子のままそう忠次さんに伝えた。
「そう言うと思いましたよ。」
忠次さんのその言葉に伸君はさらに訳が分からなくなった様子だった。
「清原。とりあえず全部話を聞き終わってからにしてくれないか。話が終わらないうちは、お前も判断がつかないだろう。今は意味が解らないだろうが、沙依さんと清水の話を聞けば、お前にもわかるはずだ。」
そう言われて伸君は神妙な顔で黙り込んだ。
「いまさら言うのもなんだが、聞いて楽しい話じゃないぞ。」
本当に今更だよな。そう言って伸君は苦笑いした。今更仲間外れはなしだと言って聞く体制に入っていた。皆が神妙な顔で集まっていると、なんだか緊張してくる。とりあえずお茶入れてきたが、沈黙が重かった。
「沙依さん。いや、沙衣さんから話してもらってもいいですか。」
忠次さんから話を振られるが、さっき伸君に話そうとした時と同じでどこから話すべきなのか困ってしまった。伸君に話したいことと清水先生に話したいことは違うし、どうしたらいいんだろう。そう考えて最初から話すことにした。ターチェが何なのか。わたし達に何があったのか。戦争で国が滅び気がついたら一人だったこと。大切な人を亡くして自分がその人だと思い込んでいたことも。勢三郎と出会って旅をして、祝言を交わして娘ができて、娘が嫁いで、勢三郎が死んで。勢三郎との約束が果たせなくなったことも。そして、伸君が家にきて学校に通うようになったこと。清水先生に会ってどう思ったか。忠次さんの話では自分は納得できなかったこと。そして調べに出て知った結果がどうだったのか、全てを話した。
とても長い話になったが、皆、静かに聞いてくれた。清水先生にとってひどい話だったと思う。とても傷ついたのではないだろうか。そう思って顔をみると、清水先生は真剣な顔で何か思いにふけっている様子だった。
「次は俺の番ですね。」
そういうと、清水先生は語り始めた。
清水先生の話は自分が想像していたようなものではなかった。清水先生も自分自身を責めていたのだと知って胸が苦しくなった。彼は他の誰かを責めるのではなく自分を責めて悩んでいたのだ。ずっと。
「妹さんに会いに行きましょう。」
気が付くとそう言っていた。その場にいた全員が驚いた顔をしていた。自分で言って自分で驚くのもおかしいが何故そんなことを言ったのか自分でも解らなかった。ただ清水先生の話を聞いて気がついたらそう言っていた。それに気付いたことがあった。
「清水先生の話を聞いて思ったんです。多分、妹さんは龍籠にいます。」
妹さんを誘拐したという人物。その人物の特徴。話していた内容。龍籠の軍人で間違いないと思う。多分、沙依の部下だった斉藤一馬が来たのだと思う。でも一馬だけでは襲撃はできても情報収集はできない。だから龍籠の機能がある程度復興しているのではないだろうかと思った。そして仲間を集めている。そんな期待が胸に膨らんだ。
「龍籠へ行きましょう。」
わたしはそう言った。今度ははっきりと自分の意志で宣言した。
わたしのその言葉を聞いて清水先生は気持ちを決めた様子だった。忠次さんは困った様に笑っていた。伸君は難しい顔をして私を見ていた。
その日はそれで解散し家にはまた伸君とわたしの二人だけになった。
「沙依。俺はついていけないんだな。」
伸君が口を開いた。
「そのまま帰ってくるつもりもないんだろ。」
声が震えて泣きそうになっているのが分かった。
「わがままなのはわかってる。だけど、わたしも自分の居るべき場所に帰りたい。ここでの生活は幸せだった。だからこそわたしは耐えられない。」
ごめんね。そう言うと伸君は笑った。
「お前は本当に人の心が解らないやつだから。」
そう言ってでこぴんをされた。
「ちゃんと話してくれてありがとう。お前は俺の大切な家族だから俺はお前の意思を尊重するよ。」
そう決めていたのだと、伸君は言った。俺だってもう子供じゃないんだぜ。そう言って笑った顔は、どう見ても強がっている様にしか見えなかったが、今はその言葉に甘えようと思った。
「ありがとう。」
わたしはそれだけ言って伸君を抱きしめた。どうかこの子に幸が多く訪れますように。そう祈った。
学校の長期休暇に入るのを待って、わたし達は龍籠を探す旅に出ることにした。
「沙衣さんがいたころと同じ場所にあるとは限りませんが、龍籠があると予測される範囲はこの辺りだと思います。」
忠次さんが目星をつけていたことに驚いた。どうやってこの範囲を割り出せたのだろうか。疑問に思ったのはわたしだけではなかったようで、清水先生からも疑問の声が上がった。
「美咲さん誘拐事件の時に何か清水にしてやれないかと思って、実は調査した。今はどこにでも監視カメラがある時代だ。カメラには何も映っていなかったが、データを消去した後を追って、追えるところまで追尾した。あとは沙衣さんの話と、沙衣さんの旦那さんの日記から、沙衣さんと出会った地点を割り出し、それらのデータから範囲を絞ってみた。」
なんとなく沙衣さんが行くと言い出すんじゃないかと思って以前から調べていたのだと、忠次さんは悲しそうに笑った。そういえば忠次さんが勢三郎の蔵書類をみたいと言って、うちに来た時によく見ていたことを思い出した。その時はただ読書が好きなんだなと思っていたが、そんなことを考えていたなんて全く気が付かなかった。
わたしには龍籠の場所が変わっているのではないかという不安はなかった。龍籠には地上の神が眠っている祭壇がある。だから復興するなら元の場所以外ありえない。どうやってこの範囲から見つけ出すのか、その不安もなかった。行けば分かる。そういう自信があった。きっと昔以上に慎重に、人間が入ってこられないように結界が張ってあるか、空間自体を捻じ曲げているかしているだろう。だからこそそれを見つければいい。そう考えていた。
出発の日時を決め、お開きとなった。
忠次さんの様子が気になって声を掛けると、彼は淋しそうに笑った。
「ずっと夢を見ていたんです。あなたの夢を。昔から。」
夢の中でずっとわたしの心配をしていたのだと彼は言った。
「なんであんなに心配していたのかずっと解らなかったですが、今なら解りますよ。あなたは本当に自分勝手で危なっかしくって、なのに凄く繊細で。一人にしたら何をするかわからないから。」
そう言って彼は遠くを見ていた。
その夢ももう終わりますね。もう俺が心配しなくてもあなたは大丈夫だから。そう言って笑った顔が、胸に刺さって辛くなった。
「龍籠に行って、それからどうするつもりなんですか。」
その質問にわたしは答えた。伸君に話したように全部素直に自分の気持ちを話した。忠次さんはただじっとわたしの話を聞いていた。わたしの話を聞いて彼は笑った。笑ってわたしの頭を撫ぜた。そしてそのまま何も言わず帰って行った。
忠次さんの笑顔の意味がわたしには解らなかった。ただ胸がざわついた。
出発の前日、伸君が食事を作ってくれた。
伸君に話しをしたあの日から、伸君は家事を覚えたいと言ってきた。それからは家事を教え、一緒に調理などして過ごしていた。今日は最後だから一人でやると、伸君が全部一人でやった。家の掃除も、洗濯も、調理も。俺だってやれば出来るんだぜ。そう言って笑った顔が頼もしく見えた。
夕食の時だった。
「これで最後なんだろ。」
伸君の言葉に箸が止まった。
「俺は振り切れたからいいんだ。ちゃんと自分の気持ちを話して、お前の話も聞いて、ちゃんと自分で決めた。これから後悔しないとは言いきれないけど、大丈夫だと思う。」
伸君が何が言いたいのか解らなかった。
「忠次への返事、お前保留にしたまんまだろ。ふるにしてもちゃんと返事してやれよ。」
そういえばわたしはちゃんと返事をしていない。わたしは忠次さんのことどう思っているのだろう。いつの間にか傍にいることが当たり前になっていた。当たり前になっていたけれど、忠次さんは人間でわたしはそうではない。わたしとあの人は生きる時間が違う。この旅が終われば忠次さんともお別れなのだ。そう思うと胸が苦しくなった。
勢三郎が死んだときのことを思い出す。あの時の痛みが鮮明に蘇って叫びだしそうになった。あの時わたしは気が狂いそうだった。分かっていた、人間はわたしより先に死ぬと。だけどあんな風に急にいなくなるなんて思ってもいなかった。いや、何が起こるかわからないのも分かっていた。今ほど平和な時代でもなかったし。それでもあの時わたしの心は張り裂けそうになった。
その日の夜はなかなか寝付くことができなかった。睡眠が浅かったせいか夢を見た。真っ白な世界だった。そこには男が立っていた。見覚えのある男だった。
「久しぶりだな。沙衣。」
沙依の養父と同じ顔。でも全く似ていない。いつでも不機嫌に見える表情の乏しい、不愛想な顔と声。沙依の養父の実弟、青木高英だった。
これは本当に夢なのだろうか。人の記憶や精神を自由にできるこの男なら、人の夢に出てくるぐらいやってのけそうだ。
「夢でも現実でもどちらでも構わないさ。」
高英はそう言った。
「お前はようやく人形をやめたんだな。」
そう言った顔がかすかに嬉しそうに見えたのは気のせいかもしれない。
「沙依はずっとそれを望んでいた。お前がお前の生を生きることを。お前は今、昔のお前からは想像できないくらい人らしくなった。今のお前を見たら沙依は喜ぶだろうな。」
そんなことを言われてもわたしはどう答えていいか解らなかった。
忠次さんも言ってくれた。わたしはわたしなのだと。わたしが沙依の身代わり人形である話をしたとき忠次さんは言った。要は沙依さんのクローンってことでしょう。双子の妹みたいなものじゃないですか、と。でもそれを受け入れることが上手くできなかった。気持ちの整理がいまだに出来ていなかった。沙依の身代わり人形であることが、わたしの存在理由だったから。そう思って生きてきた時間があまりにも長すぎて自分が一つの個人であることを受け入れることを心が拒否していた。
そんなことを考えた瞬間、場面が飛んだ。
目の前に沙依がいて、彼女はわたしの手をとってこちらを見つめていた。
「沙衣。沙衣には手を汚してほしくない。沙衣の手は人を殺めるための手じゃない。人を助けるための手だよ。沙衣はお医者様なんだから。わたしと同じことはしなくていい。わたしが傷を負ったら手当してくれればいい。それがあなたの仕事だから。」
懐かしい記憶。沙依がそう願うなら、そう思ってわたしは医術の発展に励んだ。本当は沙依にこそ危ないことはしてほしくなかった。代われるものなら代わりたかった。だけど沙依はそれを望まなかった。
あの時の言葉が方便だと言うことは解っている。医療部隊には暗殺部隊のとしての側面もあった。医術を発展させると同時に、どうやったらどのように人が死ぬのかも研究していた。それを沙依が知らないはずはなかった。つまり沙依はわたしに軍人をやめてほしいと言っていたのだ。沙依が本当にわたしにただの医者であってほしいと、自分と同じ道を行かないでほしいと願っていたことは解っていた。それでもわたしは医療部隊に残り続けた。沙依がわたしの全てだった。他のものは全てどうでもよかった。沙依の為に生き、沙依のために死ぬ。それが当時のわたしの願いだった。だから軍人を辞めなかった。
思い出して間違いに気が付いた。沙依は一度だってわたしを身代わり人形だと思ったことはなかった。沙依はずっとわたしを一人の人として扱っていた。そんなことも解らなかったなんて。
「わたしは本当にバカだ。」
忠次さんに言われた通り。本当にわたしはバカだ。大バカ者だ。
わたしはわたしの生を全て沙依に押し付けて彼女の気持ちを無視し続けていた。沙依はずっどんな気持ちだったのだろう。今となってはもう聞くことも、謝る事も出来ない。
「まだ遅くないよ。」
夢の中の彼女はそう言った。
「気が付いた時、それが始まりだから。」
わたしの記憶の中と変わらぬ笑顔で彼女は言った。
これは夢。もしくは高英が見せた幻だと思う。沙依がこうやってわたしに笑いかけてくれることなんてもうないのだから。それでも今はこの夢に浸かっていたかった。
気が付くと、元の白い空間にいた。
わたしは泣いていた。涙がわたしの中の何かを溶かして流していったような気がする。気持ちが晴れわたっていた。自分の生を生きることにもう迷いは無くなっていた。
「隆生を迎えに行かせる。来るなら来い。」
そう言い残し高英の姿は見えなくなった。
そして朝になっていた。
忠次さんが作った地図を頼りにわたし達は龍籠を探す旅にでた。
忠次さんの車に三人で乗り込み、まずはただひたすら勢三郎とわたしが出会った地点へと向かった。窓を流れる景色がとても不思議なものに見えた。わたしと勢三郎はずいぶん長い距離を旅していたらしい。二人で歩いた道はもう面影はないけれど、昔ここを通ったのだと思うだけで懐かしくなった。車に揺られながら、わたしはその思い出に浸っていた。
昨日夢の中で隆生が迎えに来ると言っていた。彼は龍籠に戻っているのだろうか。
勢三郎との旅の途中わたしは度々仲間を見つけた。その誰もが鬼になっていた。自我を失った彼らはもう仲間のことさえも分からずただ破壊を繰り返していた。何度も彼らと遭遇し、同じことを繰り返し、一度鬼になってしまえばもう戻れないのだと、そう悟った。だから見つければ殺した。それがわたしにできる唯一のことだと思ったから。
隆生と再会したのはそんな時だった。彼は鬼になっていた。まだ自我が多少残っている様子だったが、姿は完全に鬼と化し、彼が彼でいられるのは時間の問題のように思えた。だからこそ、わたしは全力で殺そうとした。少しでも自我があるうちに葬ることが彼の為だと心から思っていた。でも奇跡が起きた。彼にとどめをさそうとした時、彼を殺させまいとしてわたしの前に立ち憚った人物がいた。その人物が声を掛けると隆生の姿は元に戻った。鬼と化した者が元に戻った。わたしは信じられなかった。人間への怒りや憎しみで鬼と化していた同胞が、人間の手によって元に戻るなんてとても信じられなかった。ではわたしのしてきた仲間殺しはいったい何だったのだろう。わたしはなにをしてきたのだろう。そんな思いもぬぐえなかった。
隆生を守ったその人物は、和葉姫というお姫様だった。ある事情から城を追われたお姫様は鬼退治にあって瀕死状態だった隆生を介抱し、気が付くと隆生は元の姿に戻っていたという。それからも感情が高ぶると鬼になってしまう事があるが彼女がいれば治まるという。まるでお伽噺。そんなことがあるのかとわたしには信じられなかった。
それから隆生と和葉ちゃんもしばらく一緒に旅をした。和葉ちゃんは本当に根が優しくて、純粋な子だった。また霊力が強く、彼女の言葉には力があった。彼女には人を癒す力があった。旅の同行が終わるころには彼女が隆生の傍にいてくれて本当に良かったと、そう思えるようになっていた。
あの後隆生達はどうしていたのだろう。どんなに霊力が強く巫女として素質があったとしても和葉ちゃんは人間。もう隆生の傍にはいない。隆生は人間への怒りを忘れることはできたのだろうか。もう和葉ちゃんがいなくても大丈夫になったのだろうか。そんな思いが頭をよぎった。
「お前等はいつでも旅をしているな。」
その声に驚いて隣をみると、いつの間にか隆生が座っていた。
忠次さんや清水先生が驚いた様子はないが、いつの間に乗っていたのだろうか。
「さっきコンビニに寄った時に乗り込んだんだ。この状態は高英の仕業だろ。気にするな。」
驚いたわたしの顔を見て隆生はそう言って肩をすくめてみせた。
「事情はだいたい聞いてる。記憶、戻ったんだってな。前に会った時は、自分を沙依だと思い込んでたけど、今はちゃんと沙衣なんだろ。」
隆生はずいぶんと人間らしくなったなと付け加えて笑った。
「隆生は龍籠に戻ってたの。」
そう聞くと、まあなと返事があった。
「人間皆がみんな和葉や勢三郎みたいな奴じゃない。俺は結局は人間を許すことができなかった。だから戻った。」
そう言って隆生は腕にはめた数珠を撫でた。
「これには和葉の霊力がこもってるんだ。この数珠が俺の邪気を吸って浄化してくれてる。この数珠が真っ黒になれば俺は鬼になる。その時はもう戻れないだろう。」
少し煤けてはいるが数珠はまだ白いままだった。
「人間と関わらなければ思い起こすこともない。この数珠を見れば今でも和葉が俺の傍にいてくれてると感じることができる。だから俺は自分のままでいることができた。これからもそう生きていくつもりだ。」
隆生はとても穏やかな顔をしていた。
「俺は唯一鬼になって戻った一番危うい存在だ。だから見定めるために俺が来た。人間の持つ敵意や害意を感じるのは俺が一番鋭いから。でもそんな必要なかったかもな。あの頃、俺が仲間を託した時と変わらない。お前等と旅をしてた時が懐かしいよ。」
そう言ってどうするつもりなのかと聞かれた。わたしはありのままを話した。
「高英からお前が戻ってくるつもりなら連れて来いって言われてるんだ。そこの二人は用事が済んだら元いた場所に帰す。どうせ都合の悪い記憶は消されるんだろうから、一緒に連れて行ってもいいだろ。」
そうしてわたし達は龍籠にたどり着いた。
わたしは高英に呼ばれ皆とは別行動となった。勝手に頭に流された情報を頼りに、わたしは高英のところに向った。彼がいたのは医療部隊の詰め所にある病室だった。向かった先で彼の姿を見て、わたしは息をのんだ。
「そんなに驚くことじゃないだろ。」
高英の声がした。
「あの戦いで俺の身体は動かなくなった。それだけのことだ。」
彼は片腕と片足を失っていた。近づくと、こちらを見ているその両目も光を失っていることが分かった。どう診ても処置のしようもない状態だった。たとえ手足に高性能な義手義足をつけたとしても、彼はもう以前のように動くことは不可能だった。
「幸い、俺は身体が動かなくても支障がない。魂の器が機能しているうちは生きるのに問題ない。」
気が付くといつかの白い空間にいた。
「この方が話がしやすいだろ。悪いが眠ってもらったぞ。」
そこには以前のよく見知った高英がいた。
「お前の目からみても俺の身体は絶望的だろう。正直、自分自身生きていたのが不思議なくらいだ。」
多分執念なのだと思うと高英は言った。
「あの時、沙依に繋げていた精神の糸が切れたからあいつは死んだんだと思った。だけど俺はそれを受け入れるとができなかった。どこかで生きていると信じたかった。だから精神を飛ばして探し続けた。」
色々な生き物の精神を渡り歩き、記憶を探り、そして彼は沙依を見つけたのだと言う。
「信じられないか。でも本当に見つけたんだ。沙依はちゃんと生きていた。」
わたしは正直、高英が自分と同じで精神に異常をきたしそういう妄想を働いているのではないかと思った。沙依を世話し育てたのは養父の行徳より高英の方だった。高英は本当に沙依を大切にしていた。過保護なくらい大切にしていた。だから現実と向き合えないのではないか、そう思った。
人の心が読める高英に隠し事はできない。高英は信じられないのも無理はないとため息をついた。信じたい気持ちはあった。沙依が本当に生きていたらどんなに嬉しいことか。でもやはり信じることはできなかった。
「お前にはあいつが生きているってちゃんと会って伝えたかったんだ。会って話をすれば嘘か本当か伝わるものかと思っていたが、難しいな。」
そういう高英は淋しそうに見えた。
ここは精神の世界。高英が感情豊かに見えるのはきっとそのせいだろう。感情がそのまま見られてしまうなら、わたしは今どんな顔をしているのだろう。
病室から出ると忠次さんと隆生がいた。
「成得の千里眼で生死確認できていないのは沙依と行徳だけだ。それをどうとるかは自由だけど、なんとなく俺は二人とも生きてると思うぞ。」
隆生の言葉に胸が締め付けられた。わたしだって信じたい。信じたいけどでも期待してダメだったら。本当に死んでたら。わたしはきっと耐えられない。
わたしは何も言わず。その場を後にした。
「沙衣さん。」
忠次さんの声がして肩を掴まれた。急に涙が溢れてきて止まらなくなった。怖かった。色々なことが怖かった。わたしは結局自分が傷付きたくないだけなんだと解っているけれど、この不安が、恐怖が、どうにもできなかった。忠次さんはそんなわたしの話を静かに聞いてくれた。
「今は色々なことがありすぎて整理がついていないだけですよ。時間がたって気持ちに整理がついたら、その時に考えればいいんじゃないですか。」
そう言ってハンカチを渡してくれた。忠次さんはいつもこうやってわたしの話を聞いてくれる。こうやって優しく支えてくれる。わたしはどれだけこの人に助けられてきたのだろう。
その時、伸君に言われた言葉を思い出した。そうだった。わたしはこの人の気持ちになにも答えてない。まだちゃんと返事をしていない。ちゃんと言わないと。
「忠次さん。」
彼の名前を呼ぶ。
ちゃんと伝わる様に、ちゃんと言わないと。
「わたし、貴方のことが好きです。」
わたしは彼の目をまっすぐ見て言った。
忠次さんは驚いた顔をして、そしてわたしを抱きしめた。
好きです。わたしにそう言った彼の声は、泣いてるように聞こえた。
強く抱きしめられた身体が痛かった。だけどこの痛みがきっと彼の想いなのだと感じることができた。
名前を呼ぶと、抱きしめていた腕の力が少し抜けた。そうして見た彼の顔も泣いているように見えた。こんなに想われて、わたしはなんて幸せ者なんだろう。そう思うと自然と身体が動いていた。わたしは彼の唇にそっと口づけをしていた。
あぁ、わたし、本当にこの人の事が好きだな。そう実感して胸が苦しくなった。
彼が返した口づけは熱く激しかった。
頬をつたった涙には、いったいどんな意味があったのだろう。
わたしは何がしたかったんだろう。その答えが解らないまま、わたし達は別れた。
これでもう会うことはない。そう思うと胸が痛くなった。わたしはまたバカなことをしている。それは分ったがどうしたらいいか解らなかった。ただ、またあの場所に戻るという選択肢だけはわたしにはなかった。それだけは確かだった。
本当に幸せだった。本当に楽しかった。わたしはもうこれで充分。だから、わたしのいないところで、わたしの知らない世界で、皆が幸せでありますように。わたしはそう願った。
忘れてほしくないというのはわがままかもしれない。だけど少しだけ、わたしのことを良い思い出だったと言えるようになってほしいと願った。少しでも、あの人の中で生きていられたら、幸せだと思った。




