水路を取り戻す証拠
審問官が求めたのは、旧水門の地下保管庫から運び出された木箱だった。
扉が開くと、二人の役人が箱を抱えて入ってきた。蓋には古い封蝋が残っている。ひび割れてはいたが、中央の印章は判別できた。水路管理局が、まだ商会の名を冠する前に使っていた印だった。
大広間の空気が変わった。
商会の代表は立ち上がりかけ、すぐに椅子へ戻った。
「その箱が、なぜ今まで保管庫にあった」
審問官が問うと、先頭の役人が答えた。
「地下保管庫の奥、崩れた棚の裏に隠されていました。棚を動かしたところ、壁との隙間から見つかりました。封蝋は一部が剥がれていましたが、箱そのものにこじ開けた跡はありません」
「開けろ」
蓋が持ち上げられた。
中には、油紙に包まれた契約書と、数冊の台帳が入っていた。紙は黄ばんでいたが、文字は鮮明だった。審問官が契約書を広げる。水路の所有権を町から商会へ移す、と記された原本。その末尾には、町議会の承認を示す署名と印が並んでいる。
だが、現在使われている契約書の写しとは、ひとつだけ大きく違っていた。
「譲渡ではない」
セナが息をのんだ。
「原本には、十年間の管理委託とあります。水路の所有権は町に残る」
リネアは契約書の端に目を凝らした。紙の繊維に沿って、かすかな擦れがあった。誰かが文字を削り、別の紙を重ねて写し取った跡だ。
ユハンが低く言った。
「商会が提出した契約は、この原本をもとに作られた。ただし、委託という言葉を譲渡に変えた」
「それだけではありません」
リネアは台帳を開いた。
「ここに補修工事の日付があります。商会が工事を行ったと帳簿に記した日、水門の音は記録されていない。けれど、その翌日に操作音が残っている」
彼女は赤い糸の束を取り出した。昨日まで大きな布に縫い込まれていた記録の一部だった。セナが読み上げた時刻と、台帳の日付が並ぶ。
「この時刻に水門が閉じられています。補修のためではなく、水圧を落とすために」
審問官は原本の署名を確認し、続いて商会側の写しを手に取った。
「代表。説明を」
男は唇を開いたが、声が出なかった。
代わりに、後方の有力者の一人が立ち上がった。
「写しを作った者が勝手に書き換えた可能性がある。商会全体の責任とは限らない」
「では、誰が写しを作ったのか」
ユハンが尋ねた。
「写しの作成者欄には、あなたの印があります」
有力者の顔から血の気が引いた。
審問官は台帳をめくった。そこには、補修費として支払われた金額と、町議会の承認を得たとする印の一覧があった。しかし、印を押したはずの議員の一人は、記載された日にはすでに病床にあり、もう一人は隣町へ出ていたことが、住民の記録によって証明されていた。
ミラが傍聴席から声を上げる。
「その議員さんの娘さんが、昨日証言したわ。父親はその日に印を持っていなかったって」
「証言は記憶にすぎない」
商会の代表がようやく言い返した。
リネアは原本を指した。
「だから、音と帳簿と署名を照合します。記憶ひとつではありません」
彼女は新しい布を広げた。昨日、審問の場で受理された記録布。その上には、水門の操作音、各地区の水圧、商会の帳簿、役所の控えが、同じ時刻の列に沿って並んでいる。
「原本にある本来の契約では、水路の管理記録を町へ提出する義務が商会にあります。けれど商会は、譲渡契約だと偽った写しを使い、記録を提出しなくてよい状態を作った。そのうえで水を絞り、水不足を演出した。町が水路を維持できないと思わせ、所有権を奪うために」
広間の奥で、誰かが「ひどい」と呟いた。
審問官は長く沈黙した。机上の原本と偽造された写し、その両方に視線を落とす。
「封蝋の印を確認する」
役人が持参した印章台帳と照合した。原本の印は一致した。写しに押された印は、輪郭がわずかに潰れている。台帳に記された正規の印と比べれば、鋳型を削って作った偽物だと分かった。
商会側から、反論は出なかった。
審問官が木槌を手に取る。
「本審問の判断を告げる」
誰も動かなかった。水路の流れる音さえ、遠くに退いたように感じられた。
「提出された写しは、原本の意図を改変した偽造文書である。水門操作の記録、補修帳簿、住民の水使用記録は相互に一致し、商会が意図的に水圧を操作した事実を認定する」
木槌が鳴った。
「管理商会および関係する有力者は、水路に対する契約権と管理権を失う。水路は本日付で町の共同管理へ返還する。商会は不正に徴収した水代と、被害地区の損失を補償せよ。偽造に関与した者については、別途、刑事審理に移す」
大広間が揺れた。
水売りたちは抱えていた帳面を高く掲げ、職人たちは互いの肩を叩いた。誰かが泣き、誰かが笑った。セナは机に手をつき、何度も息を吐いている。
リネアは歓声を聞きながら、原本の端に指を置いた。紙は冷たく、古い水の匂いがした。
「終わりましたね」
ユハンが隣に立った。
「まだ、補償も制度の改正も残っています」
「そうだった」
「でも、取り戻しました」
彼女が言うと、ユハンは水路の記録布を見つめた。
「君が取り戻した」
「みんなで、です」
リネアは赤い糸を指でなぞった。
「一人の声なら、消せたかもしれません。でも、町じゅうの音を織った。だから残った」
扉の外から、水の音がはっきり聞こえた。
閉じられていた水門が開き、長く滞っていた流れが、石の溝を走っている。誰かの許しを待つことなく、細い水路は町のすみずみへ向かっていた。
審問官が、原本を役所の保管箱へ納めるよう命じた。
今度こそ、隠されることのない場所へ。
リネアはユハンと並んで大広間を出た。朝の光はもう高く、濡れた石畳に水の筋が何本も伸びている。
その流れを見て、彼女は初めて、自分の工房へ戻る日のことを考えた。
失ったものを、同じ形で取り戻すのではない。
聞こえなかった声まで記録できる場所を、これから作るのだ。




