公開審問の朝
役所の大広間には、開門前から人が集まっていた。
石床に並ぶ長椅子はすぐに埋まり、座れない者たちは壁際に立った。水売りは濡れた帳面を胸に抱え、職人たちはそれぞれの記録板を手にしている。若い書記のセナは、審問官の机へ提出する書類を何度も数え直していた。
リネアは入口の脇で、大きな布を抱えていた。
赤、青、白の糸が、幾重にも重なっている。旧水門の操作音、水圧の低下、役所の控え。それぞれ別の人間が残した記録を、同じ時刻の上で結び合わせた布だった。
「ずいぶん大がかりになったな」
隣でユハンが言った。
今日は監督官の制服を着ていない。処分を待つ身として、役所から正式な立場を与えられていないからだ。それでも彼の背筋は伸びていた。
「大がかりにしないと、また一人の記録にされます」
「君の記録に、か」
「私だけではありません。あなた一人の証言にも」
ユハンは布を見下ろした。
「その通りだ」
審問官が入室すると、ざわめきが消えた。商会側の席には、管理商会の代表と、町の有力者たちが並んでいた。代表の男は整った外套の襟を正し、穏やかな顔で立ち上がった。
「本審問に先立ち、提出された記録の扱いについて申し上げます」
彼はリネアの布を指した。
「音を糸に移したという記録は、通常の公文書ではありません。作成者の感覚に依存し、後からいくらでも改変できる。町人の私的な記録も同様です。これらは証拠として無効にすべきでしょう」
すぐに何人かの傍聴人が不安そうに顔を見合わせた。
審問官がリネアを見る。
「反論はあるか」
「あります」
リネアは布を机の前へ広げた。
「これは、私の記憶だけで作ったものではありません。誰が、いつ、どの音を聞き、どの手順で糸にしたかを、すべて記録しています。改変できると言うなら、どこをどう変えたのか示してください」
商会の代表が笑った。
「では、その手順を今ここで再現できますか。都合よく作ったものではないと、誰にでも分かるように」
「できます」
リネアは答え、持参した小さな木箱を開いた。
中には、旧水門の金具を写し取った三つの薄い板、同じ太さに揃えた糸、砂時計、そして空白の布が入っていた。
「まず、音を聞いた時刻を砂時計で測ります。音そのものを覚えている必要はありません。聞こえた順番と間隔を、三本の糸で仮に結びます」
彼女は板を順に打った。
高い音、短い間、低い音。旧水門が閉じるときの三つの音が、大広間に響いた。
「次に、音を聞いた者が自分の印を付けます。私は音の高さと間隔を、別の人が時刻を確認する。最後に、記録を読み上げ、立ち会った全員が間違いがないか確かめてから、糸を布へ縫い込みます」
ミラが前へ出た。
「今の時刻は、私が読みました」
セナも続く。
「時刻と手順は、私が書き留めました」
桶職人が板を掲げた。
「音の間隔は、私が確認した。リネアが一人で作ったものじゃない」
商会の代表は眉をひそめた。
「しかし、板の音が本物の水門と同じだという保証はない」
「保証なら、私がします」
ユハンが前へ進んだ。
「私は旧水門を何年も点検した。あの門が立てる音は、金具の摩耗によって特有の間隔を持つ。今の再現は完全ではないが、記録布に残された間隔と一致している」
代表の男が素早く口を挟んだ。
「あなたはすでに職務上の責任を問われている。自分の失態を隠すため、町人に都合のよい証言をしているのではありませんか」
大広間に緊張が走った。
ユハンは一度、目を伏せた。
「その疑いは受けます。私は以前、商会の補修報告を信じ、異常を記録しなかった。だからこそ、私の証言だけで決めないよう、ここにいる全員の記録と照合している」
彼はリネアの布を指した。
「私の証言は、この布の一部にすぎない」
リネアは白い糸の端をつまんだ。
「そして、この白い糸は、証言をした人の立場を示すものではありません。誰が偉いかではなく、誰が何を確認したかを示しています」
彼女は布を裏返した。
裏側には、表からは見えなかった小さな結び目が並んでいた。それぞれに番号が振られ、別紙の記録と対応している。
「商会が無効だと言うなら、この番号をひとつずつ検証してください。音の記録、時刻、立会人、役所の控え。そのどれか一つでも一致しない箇所があれば、私は布を証拠として扱わなくていいと認めます」
審問官がセナへ視線を向けた。
「照合表は正しいか」
「はい。私が二度確認しました」
「役所の記録として受理できるか」
セナは一瞬だけ息を止めた。それから、はっきり答えた。
「手順と立会人が明示され、複数の記録と照合できるなら、規則上、検証可能な記録として受理できます」
商会側から、低い抗議の声が上がった。
審問官は木槌を鳴らした。
「提出物は仮受理する。次に、旧水門の操作記録および補修契約の写しとの照合に移る」
その言葉が響いた瞬間、傍聴席のあちこちで息が戻った。
リネアは布の端を押さえた。指先が震えていることに気づいたが、隠そうとはしなかった。
ユハンが小さく言う。
「震えているな」
「あなたもです」
「そうか」
「でも、立っています」
「君がいるからな」
リネアは返事をしなかった。ただ、赤い糸の交差する箇所を、布の上からそっと撫でた。
ひとつの音は、聞き間違いにできる。
ひとつの紙は、偽物にできる。
けれど、検証する手順を開き、互いの記録を照らし合わせれば、誰かの記憶は誰かの都合で消せない。
審問官が次の書類を求めた。
大広間の扉の外では、町の水路が朝の光を受けて流れていた。今日は、その流れを止めるためではない。誰のものでもない水として、取り戻すための一日だった。




