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水音を織る仕立師は、契約の嘘をほどく  作者: 銀細工ナギ


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14/20

過去の失敗と対立

 ユハンが呼び出されたのは、夜明け前だった。


 水路監督所の窓にはまだ灯りがなく、廊下の奥にある上級監督官の部屋だけが明るかった。扉を開けると、机の向こうにグレイヴ監督官が座っていた。隣にはヴァルドと、見覚えのない役所の役人がいる。


「座る必要はない」


 グレイヴは一枚の命令書を持ち上げた。


「旧保管庫への無断侵入、資格停止中の記録師への協力、証拠品の不正な持ち出し。君を水路監督の職務から外す」


「リネアは証拠を盗んでいません。原本は保管庫に残っています」


「問題は原本ではない。君が規則を破ったことだ」


 ヴァルドが薄く笑った。


「規則を守れない監督官に、水路全体を任せるわけにはいかないでしょう」


 ユハンは命令書を見つめた。紙の右下には、以前事故調査を担当したときに見た印章が押されている。水路事故の責任を彼ひとりに負わせた、あのときと同じ印だった。


 七年前、南壁水路の崩落を知らせる異音を、彼は聞いていた。


 だが、記録がなかった。上役は「老朽化による小さな音に過ぎない」と判断し、ユハンも命令に逆らわなかった。翌朝、石壁が崩れ、二軒の家が浸水した。死者は出なかったが、幼い子どもがひとり、濁った水を吸って長く寝込んだ。


 ユハンは報告書に署名した。原因は予測不能な自然損傷。自分の耳が拾った異常については、一行も書かなかった。


 その沈黙を、ヴァルドは知っていた。


「君は以前にも、記録のない異音を理由に工事を止めようとした。結果、何も起きなかったな」


「起きた。事故のあとに」


「しかし、君は証明できなかった」


 グレイヴの声が落ちた。


「証明できない判断で人を動かせば、町は混乱する。今回も同じだ。リネアの布が本物だという確証はない。彼女の証言に頼る君の調査は、ここで終わりだ」


 ユハンは拳を握った。机の上の命令書を破れば、職務放棄になる。受け取れば、リネアだけを残して退くことになる。


「彼女を拘束から解いてください」


「それは審査委員会が決める」


「彼女は商会の告発を受けただけです。証人を買った疑いもある」


「疑いで命令に逆らうのか?」


 グレイヴが顔を上げた。


「君はまた、同じ失敗をするつもりか」


 その言葉は刃のように、ユハンの古い傷へ入った。


 監督所を出ると、空は薄紫色になっていた。ユハンは拘束された者を置く仮留め室へ向かった。廊下の小窓から、リネアが見えた。彼女は粗末な机に糸を並べ、指先で結び目を確かめている。


 扉を開けると、リネアは顔を上げた。


「命令が出ました」


「聞きました。あなたは調査から外される」


「私は外されません。あなたが外されるだけです」


「同じことだ」


「違います」


 リネアは立ち上がった。疲れているはずなのに、目だけは静かだった。


「あなたは監督官として、水路の記録と立入権限を持っている。あなたがいなければ、私は地下保管庫にも入れません。町の人たちも、あなたの許可がなければ証言を正式な記録にできない」


「だから、私が命令に従わずに動けば、君たちまで巻き込まれる」


「もう巻き込まれています」


「リネア」


「あなたは私を守ろうとしている」


 彼女は低い声で続けた。


「でも、命令書を破って私を逃がすことが守ることですか。あなたが職を失えば、商会は水路監督所そのものを手に入れる。そうなれば、被害地区の人たちは二度と記録を残せない」


「では、黙って処分を受けろというのか」


「そうは言っていません」


 リネアは袖口から一本の糸を取り出した。地下保管庫で拾った赤い糸だった。


「あなたの過去を、商会は弱みとして使っています。昔、聞こえた異音を記録に残せなかったことを、あなた自身が失敗だと思っている。だから今度は、私を見捨てないために、規則を全部壊そうとしている」


 ユハンは言葉を失った。


「私は、誰かを見捨てたくない」


「私もです。でも、あなたひとりが罪を背負う形では、真実は残りません」


 彼女は糸を机の上に置いた。


「あなたが調査を続けられないなら、私は別の方法を探します。あなたの名前を盾にしない。私自身の責任で」


「資格を剥奪された君に、何ができる」


「資格がなくても、聞くことはできます」


 その返事に、ユハンの胸の奥で何かが軋んだ。信頼しているからこそ、彼女を危険にさらしたくない。だが、信頼とは相手の選択を奪うことではないと、ようやく分かりかけていた。


「単独で動くな」


「それは命令ですか」


「違う。頼みだ」


 リネアの表情がわずかに揺れた。


「なら、聞きます。ただし、あなたも勝手に動かないでください」


 ユハンは目を伏せた。


「私には、もう監督官としての権限がない」


「権限がなくても、知っていることは話せるでしょう」


「話せば、君まで共犯にされる」


「黙っていても、私はすでに混乱を招く女です」


 リネアは笑わなかった。ただ、まっすぐ彼を見た。


「なら、混乱の中で、誰が本当のことを言っているのかを確かめます」


 その日の昼、ユハンは正式な解任通知を受け取った。監督所の鍵を返し、徽章を外した。窓の外では、商会の荷車が水路沿いを通り過ぎていく。車輪が石を踏む音に、三つの金属音が混じっていた。


 内鍵を回す金具の音。


 ユハンはそれを聞き、反射的に振り返った。


 だが、追わなかった。


 代わりに、解任通知の裏へ短い文を書いた。


 ――南壁事故の異音を、私は聞いていた。記録しなかった責任は私にある。


 リネアへ渡すと、彼女は黙って読んだ。


「これは、失敗の告白です」


「ああ」


「商会に利用されます」


「それでも、今度は記録する」


 リネアは紙を折り、赤い糸で結んだ。


「では、これを最初の証言にしましょう」


 ユハンは彼女を見た。


「私たちは、対立しているのかもしれない」


「はい」


「君は私の進め方を拒み、私は君を止めようとしている」


「でも、敵ではありません」


 仮留め室の外で、遠く水が流れた。


 リネアは結び目をひとつ増やした。


「過去の失敗を隠したままなら、私たちは商会と同じ側に立つことになります。だから、互いに間違いを言える関係でいましょう」


 ユハンはうなずいた。


 職も徽章も失った。調査を続ければ、拘束される可能性もある。それでも、彼は初めて自分の失敗を記録に残した。


 その夜、リネアは仮留め室を出た。


 彼女の手には、地下保管庫で聞いた音の結び目と、ユハンの告白を結んだ新しい布があった。


 商会が買えるのは、ひとりの証言だけだ。


 ならば、ひとりで立たなければいい。


 水路の音を知る者を集め、誰の耳にも残る記録を作る。リネアはまだその方法を知らなかったが、歩き出す方向だけは決めていた。

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