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「で、二十後半になったころには、上司の紹介で一人の男性とお見合いして、そのままとんとん拍子で結婚に至ったの。旦那さんの了解も得て、自分の実家で新たに三人で暮らし始めたってわけ。でもね、残念ながら、結婚生活はうまくいかなかった。姑であるおばちゃんの母親が何かにつけて、旦那さんにちょっかいをかけ始めたの。これはずっと後に直接聞いたことらしいけど、別にその旦那さんが嫌な人間だったからというわけではなくて、自分の娘が取られたみたいであまりにも寂しくて、ついついきつく当たってしまっただけらしいの。涙ながらにそう話して、お母さんは赦しを乞うたらしいけど、随分勝手な話だと思わない? でね、結局最初はじっと我慢していた旦那さんもついに耐え兼ねて、家を出ていったらしい。で、そのまま離婚して、また母と娘の二人暮らしに戻ったってわけ」
「その旦那さんは、掃除のおばちゃんを連れて家を出ていこうとしなかったんですか?」
拓人の質問に玲奈は首を振って否定した。
「いや、一人で出ていったの。というのもね、確かにお母さんが旦那さんをいじめてたわけだけど、おばちゃんも決して旦那さんの味方にはつかないで、ずっとお母さんの言うことが正しいって信じてたの。そんな状態じゃ、なかなか一緒に出ていこうとは思わないよね、普通」
玲奈の言葉に拓人は押し黙ることしかできなかった。テントの中にいつの間にか入ってきた羽虫が天井にぶら下がった電球に何度もぶつかり、にぶい音を何度もたてていた。
「それでその後は?」
「その後? その後はなんてことないわ。そのまま再婚もせずにお母さんと暮らして、お母さんが寝たきりになったら、仕事を辞めて介護に専念して、お母さんが死んでその必要がなくなったら、生活のために空港のトイレ掃除のバイトを始めたってだけ。これでお話はお終い。大戦があって、それ以降どうなったかなんて知らないけど、行方がわからないなら結局、その他大勢と同じく死んでるってことよね」
玲奈は右手を顔の前に持っていき、その甲をじっと眺め始めた。それはこれ以上期待されてもそのおばちゃんについて話すことなどないということ態度を明確に表すためでもあった。拓人は少しだけ考え込んだ後、つぶやくように玲奈に質問をぶつけた。
「なんで急にそんな話をしたんですか?」
拓人のもっともな質問に対しても、玲奈は視線を自らの白く透き通った手の甲から離さないまま、しばらく黙ったままでいた。
「さっき、生きる意味について話をいたわけじゃない。で、拓人が言うには、楽しむために生きているんだってことになる」
一分ほど沈黙を貫いた後、玲奈はそう切り出した。
「でも、掃除のおばちゃんの人生は楽しいものじゃなかったわ。もちろん、おばちゃんの人生の中でも、いろいろ楽しいと思える瞬間とか、胸を打つイベントがあったかもしれない。そもそも勝手に私がこういう風に決めつけるのも悪いのかもしれない。それでもさ、少なくとも、おばちゃんの人生は楽しいことが他の人よりもずっと少なかったはず」
「そうですね」
拓人は玲奈の言わんとする意味を察知し、少しだけくぐもった声で返事をした。
「ねえ、人生が拓人の言う通りだとしたら、おばちゃんの人生はどう捉えられるの? 彼女の人生に、果たして意味はあったの?」
玲奈の言葉に拓人は目をつぶり、自分の中から何とか言葉を手繰り寄せようとした。そのようにしなければ、玲奈に対して極めて失礼にあたると思えたからだ。そして、眠たげな声で自分なりの考えを玲奈に伝えた。
「真実は時には残酷なものなんですよ。ある哲学者が言ってたように、真実は単に事実に過ぎないんですから」
「全然わかってない」
玲奈はあっさりと拓人の言葉を否定した。彼女はようやく右手を下に降ろし、身体ごと拓人が眠っている方向へと向けた。そして、薄暗いランプの下で、じっと彼女は拓人の目を覗き込んだ。その瞳は絵の具で塗りつぶしたように黒く、まるで深く掘られた井戸を見ているかのようだと、拓人は感じた。
「生きる意味を問うのはね、別に真実が知りたいからじゃないの。それが正しかろうが、間違っていようが関係ないの。大事なのはさ、ただ単純に、その答えが今ある苦しみに対する理由になってくれるかだけなんだから」