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27話『出版の根回しとうどんの話』

 ペナルカンド世界におけるエルフ族の知能は他種族に比べてもかなり高い。

 卓越した記憶力を元にした学習能力と長寿による知識の蓄積で、世界的に有名な学者も多く存在していた。無論、それらの知能を活かして生活する者もいれば、単に記憶力が高いだけで特に勉学の知識を得ずに普通の生活をする者も居たが。

 そこの出身のスフィも相当に頭が良い。図鑑や辞書などは一度見れば大抵覚えるし、音楽も一度聞いただけで楽譜に起こせる。

 なので、江戸にやってきてから文字を覚えるのもあっという間であった。

 九郎が未だに本によっては目を細めながら解読気分で本を読むのと異なり、ミミズがのたくったような文字でもスフィはスラスラと読めるようになっていた。

 屋敷の畳でゴロゴロ転がりながらその日スフィは読書をしながら鼻歌を歌っている。ペラペラと小気味よいテンポでページが捲られているのを九郎が横目で見ていた。

 

「~♪」

「……ちなみに昔は個人個人によって書き文字に癖が多かった。なので現代人から見ると正しい古代語を覚える云々ではなく、非常に悪筆な文字を読んでいるような気分になるのである」

「九郎。何を一人で自己弁護するみたいに言っているのよ」

「フサ子の文字は読みやすくて良いな。うむ」

「ありがとう」


 九郎の隣に座りながら原稿を読んでいた豊房だったが、褒めると素直に頷いた。豊房──というか鳥山石燕の文字は九郎からすれば程よくわかりやすい。

 こちらの世界に連れてきて、言葉は九郎のように通じるだろうとは思っていたがこれほどまでに文字にも適応できるとは意外であったのだ。 

 

(喜ばしいことではあるがのう……)


 文字がわからずに四苦八苦するよりはずっと良い。自分もそこら辺で多少面倒だったから、九郎はそう納得した。

 するとスフィが本をぱたりと閉じて顔を上げる。


「あー面白かったのじゃよー。この『百姓盛衰記~妖魔転生編~』!」

「なんだそれ……」

「『百姓盛衰記』って小説を下地にした改本ね。正徳三年(1713年)に出版された本なんだけど、増版する際に色々書き加えられたのよ」

「まさか百姓が出蛭でびる族だったとはのー……! ヒロインらしい庄屋の娘も首がすぽーん!って飛ぶし! バイオレンスじゃー」

「誰だそんなもん書いたのは」

「先生か、その知り合いだと思うのだけれど作者名を変えてるからよくわからないわね」

「だと思った」


 変なのばかり怪しい名前で出版している石燕らに九郎は微妙な顔をする。

 後世に残して良いのだろうかこんなもの、とか思うのだが。

 それよりスフィはずいっと豊房に近づいてきて興奮したように云う。


「それでこの続きは無いのかえ? 気になる最後じゃったから、続編があるんじゃろ!?」

「己れは読んでおらぬが、どういう最後だったのだ?」

「一揆を行って荒廃した畑に立ち尽くす百姓と代官……お互いに虚しさを噛み締めているその背後で、泥だらけの田から何者かが立ち上がったところで終わりじゃ」

「泥田坊だろそいつ!」

「背後から恨めしそうに響く声! 『田を返せ……!』」

「泥田坊だろ間違いなく!」


 無理やり妖怪オチに改変されているようであった。

 しかし豊房は残念そうな顔をして首を横に振った。


「続きは出ていないわ。発禁を食らったもの」

「なぬ!? こんなにエンタメしておるのにか!?」

「あやつ発禁ネタ多いのう……」


 以前も「僕の名前は嬰児! 子宮は狙われている!」とか不謹慎でグロテクスな死絵を描いて発禁になり、版木を燃やされていたことを思い出しながら九郎は云う。

 一方で豊房は「うーん」と説明に言い淀みながら二人に教えるように述べた。


「内容が反体制とか、異様に趣味が悪いとかそういうことじゃないのよね、発禁の理由って」

「どういうことじゃ?」

「近年の江戸ではね、まず新しい本を出版することが原則禁止されているの」

「ええ!? そ、そんなでぃすとぴあ都市じゃったのか、ここは」


 スフィが驚いたように告げる。

 本の出版は文明の証であり、大衆文化の大きな進化でもある。本を作る文明レベルに達していないならまだしも、庶民のみで出版までできる状態で規制しているとなると管理社会めいた大きな圧力を感じた。

 

「町奉行の大岡忠相が発案した制度ね。曰く『もう世間には沢山の本があるのだから、新しい本を作らなくてもあるものだけを読んでも充分だろう』とのことよ。碌でもないわね。

 もちろんそれは建前だわ。公方様が倹約令を出したせいで世間への締め付けが強くなっていて、地方でも一揆が多く起こるようになったの。それで幕府批判の情報を出さないように、新しい本や瓦版を作ることを統制したのね」

「む? その割りには、これまでも何度か本を出す話があったような……」

「妖怪の仕業ね」

「そうか、妖怪の仕業なら仕方ないのう」


 九郎は爽やかに納得しかけたが、豊房は咳払いをして「冗談よ」と言を翻した。


「一応、その出版規制にも抜け穴があるの。まず一枚絵として売る分は許可。子供向けの黄表紙本は許可。芝居の書籍化は許可。これまで出した本の再販は許可。もちろん検閲があるけどね。

 だから私達は黄表紙向けと云う名目で描いたり、芝居の改変なんかで出したりするのね。それでも検閲に引っかかればすぐに不許可になるけど。あと、有用な学術書なんかは許可を貰えば出せるわ」

「つまり娯楽本は駄目なのか。井原西鶴の『好色一代男』みたいな」


 現代で例えるならば、漫画と小説と週刊誌が出せなくなったようなものだろうか。

 随分と寂しい状態に思えて、スフィが溜息をついた。


「ほー……大変なんじゃな」

「そうよ。大変なのよ」


 豊房は憤然として原稿の紙束を床に置いた。

 日本の出版業は寛永の頃(1630年代)に京都で始まり、江戸は明暦(1650年代)にやや遅れて出版が盛んになったとされている。

 だが出版統制も早々と行われて、元禄には三都にて統制されて享保になると政治的配慮もあって本格的に取り締まられた。

 例えば現代の本などで見られる奥付──巻末に作者名、出版者名、出版年などが書かれているそれは大岡忠相が許可を出した本につけるようにと指示を出したとも言われている。これも作者名と版元の情報を押さえて記録しておく制度である。


「実際凄く面倒くさいのよね、手続きが。わたしがする訳じゃないけど、面倒なことになるから危なそうなのは版元が取ってくれないし」

「そうなのか……己れも原稿を取ってくる仕事はしていたが、そこから先は知らんのう」

「聞いた話によると……」


 豊房が紙を取り出して自分の知っている知識から箇条書きにし、手続きの手順を示す。


一、原稿を版元に渡し、版元は出版社の組合である仲間行事に持っていく。

二、仲間行事は幕府の規制に引っかからないか、他の作品のパクリじゃないか吟味する。

三、仲間行事が願書を作って承認の印を押して町年寄に持っていく。

四、町年寄が町奉行所に出版許可を申請する。

五、町奉行所が本を検閲する。

六、仲間行事を町奉行所に呼び出して許可を下知する。

七、仲間行事は版元に許可を伝える。

八、版元は版木を作成する。

九、出来た版木と書籍を仲間行事に渡す。

十、渡された書籍を一冊、町奉行所に上納する。

十一、版元に販売許可が降りる。その際にこれまでの手数料を仲間行事に支払う。


「──と、こんな感じかしら」

「面倒くさいのう……」

「一応、再販だと四から十までの手続きを飛ばせるから楽っていえば楽なんだけれど」


 原稿をあっちこっちに持って行きまくりである。

 

「ちなみに八番目で『版木を作成する』ってだけあるけどここの作業だけでも、」


一、作者が草稿を書く。

二、編集が文字を清書する(字が汚い場合)

三、絵師が指定された挿絵を描く。

四、版木師が彫る。

五、摺り師が紙に写す。

六、編集が帳合を整えて、天地(紙の上下余白)を切る。

七、丁稚が表紙を貼り付ける。

八、女衆が本を糸で綴じる。


「これだけ人が関わってくるのよね。本も高くなるはずなの」

「人件費がヤバイのう……」

「まあいいのよその辺は。版元がやってくれるんだから。でも新刊を出しにくいのが困ってるのよね。ただ、一枚絵は管理していないというか、大体許されているからわたし達絵師はまだ仕事があるのよね」

「ほう」

「問題は文を書く作家の方よ」


 豊房が床に置いている原稿を指差した。


「靂のやつが版元に出したやつを、どうにか本にできるぐらいに修正しないといけないって作業を回してきて面倒ったら無いわ。やったけど」

「ああ、あやつはそう云う仕事志望だったのう」

「読んでもいいかえー?」

「どうぞ」


 スフィがその原稿に手を伸ばしてぺらりぺらりと捲り始めた。


「で、物語本を出すにはさっき言った通り抜け道を通らないといけないわけね」

「抜け道か」

「そう。つまり、子供向けって言い張るか、昔出した本の再販風にするか、芝居の書籍化か。靂は赤穂事件を元にした話を書いたから芝居ってことにしないといけないわ」

「どんなのだ?」

「邯鄲の夢みたいな夢オチ話ね。吉良邸襲撃を受けた吉良義央は、死んだと思ったら当日の朝に目覚めるの。そしてまた襲撃を受けては殺されを繰り返し、どうにかして赤穂浪士を返り討ちにする話」

「そんな芝居があったのか」

「無いわよ。あったってことにして出版するの。お芝居はお上に許可された三座だけじゃなくて、あっちこっちで小さな芝居が行われてるのよ。それを全部把握するなんて不可能だわ」

「……追求されたら拙くないか」


 架空の芝居をモチーフにしたという名目で話が作れるならば、実質なんでもできそうなものだが。

 もちろんあまりに奇抜なものは疑われるだろう。


「だから判りにくいように、赤穂事件とか大衆に人気な題でやるの。最初の方をそれっぽく普通な感じに書いておけば、向こうも全部は読まずに『ああこれ赤穂浪士のやつか』と納得して許可が降りるのよ。だからそれっぽい部分を前半に付け加えて、幕府批判なんかの要素を削って見れるようにしたわ」

「そういうもんかのう」

「そういうものよ。むしろ版元としては、紛らわしいものを送りつけているうちに向こうも確認が嫌になって出版統制が形骸化しないか狙ってるって話だわ」

「役人と戦うのが目的になっておる……」


 実際に江戸時代での出版統制を見ても、強く引き締める時期とやたら自由な本が出ている時期が順番に来ている。

 有名な享保の改革、寛政の改革、天保の改革のときには特に強く出版物が規制されたが、町奉行とて永遠に同じ人物が就いているわけではない。人が変われば前任者が定めた令に対する処置もどんどん適当になっていくのだろう。

 

「もしくは闇版元に頼むって方法もあるわね」

「闇版元とな」

「歌麿が関わってるところよ。吉原の中にあるらしいわ。あそこは町奉行の管轄じゃないから見逃されてるのかしら。だって考えても見てよ。『吉原細見』なんて一般書籍が出版禁止なのに許されるはずないじゃない。だけど出してるってことは法の外にある版元が存在しているのね」


 『吉原細見』とは十七世紀頃から明治時代まで延々と売り出されていた、吉原のガイドブックとピンクチラシを混ぜたような代物であった。

 簡易的な店の名前と遊女名、料金などの表として売られているものが基本だが中には『両巴巵言』などという鳥居清長の挿絵付き指南書に細見がオマケでくっついている本まで出版されていた。


「まあでも、靂が歌麿と組むと碌なものが出来上がらないのよね」

「うむ。最初の頃は子供らが頑張って制作した同人誌だから配り売ってやっていたが、何故かお下劣路線を突き進むのだあやつら」

「ちなみにその本」


 と、スフィが読んでいる原稿を指差して云う。


「草稿の時点だと題が『吉良逆行記』っていう率直なものだったのよ」

「ふむ。死に戻りする話だからのう」

「でも歌麿が首を突っ込んだら『女体化オメコウ浪士 吉で良しなチン入記』になったわ。当然ボツにしたけど」

「赤穂浪士が祟ってきそうだ。というかこう(・・)しか合っておらぬではないか」


 靂と歌麿の相性が謎であった。何故二人が組み合わさるとジョグレス進化したような作品が出来上がるのか。

 しかもそちらは規制已む無しな内容な上に、歌麿の使う吉原の版元でゲリラ出版してしまうという。

 後世に名の残るような作品を書きたいと常々言っている靂だというのに、このままではとんだドスケベ作家として名が残ってしまうだろう。

  

「とにかく、その靂の本をどうにか騙くらかして出そうって版元では躍起になっているわけね」

「しかしどうしてそこまでして靂のを出すのだ?」

「今時は出版統制の影響もあって、新作を書いてくれる作家が少ないのよ。みんな新刊に飢えているのよね実際。新しい本を出して、それが大衆に読まれて、評判になるのが楽しみなの。読者だけじゃなくて作り手も新刊が欲しがっているわ」


 豊房は肩を竦めて首を大きく振った。


「まったく役人なんてのは。本を作るな着物もボロを着ろなんて、強制しているという点では犬を大事にしろとそう変わらないわよ」

「まあのう。経済活動が冷え込んでも幕府の懐は温まらんと思うのだが」


 などと話し合っているとスフィがぱたんと原稿を閉じて綺麗に整えた。


「ふう……」

「もう読み終えたのか? 早かったのう」

「いや! まだ途中じゃが、敢えて気になるところで止めた。続きは本が出るのを楽しみに待ってから読むとしよう!」


 目を輝かせて拳を握るスフィに、豊房が頷く。

 新しい作品は世間に受けるか受けないかわからないものだ。靂の書いたそれも、死に戻りという当時にしては斬新な要素をいれていてそれが当たるかは正直豊房にもわからないのだが。

 こうして新しい本を望む読者が世間には沢山いるはずなのである。


「そうね。出さないといけないんだけど……そうだわ、九郎」

「どうした?」

「案外面倒くさいのは検閲よりも、仲間行事による吟味なの。幾つかの版元が代表となって作品を出していいか調べるのだけれど、その中でちょっと面倒な人を話を通してきてくれないかしら。次に吟味で出る作品にケチは付けないようにしろって」

「己れにできることならば構わぬが……誰だ?」

「日本橋大伝馬町にある老舗の地本問屋『鶴屋』の主人、鶴屋喜右衛門よ。よろしくね。こっちの版元の名前出していいから」



 


 ********





 『鶴屋』は享保の頃より百年程昔、寛永年間に京都で創業した地本問屋である。

 京都に本店を残しているが、創業者自らが江戸に出店してそのまま日本橋店で業績を伸ばして定着したという。

 後には『江戸名所図会』にも店頭が掲載されれ、江戸でも屈指の版元として『蔦屋』と並び称されたという。

 九郎は手土産を持参して店の前にやってきた。一応は何度も通りかかり、繁盛している大きな本屋だなとぐらいは思っていた場所である。

 道から店の中が見れてあちこちに本の題名を掲げた張り紙がぶら下がっている。店の奥では本が山積みになっていて、店先では貸本の外回りが大きな背負子に本を詰めていた。屋敷や湯屋など、主があまり出歩かない場所へ貸本を持って行く営業形態である。

 店は出版不況にも関わらずそれなりに繁盛している様子だった。浮世絵の販売も行っていて、京都や大阪の絵師作も見えた。


「ふむ……とりあえず正面から行くか」


 九郎が店の中に入ると、小頭の役目らしい男が営業スマイルで近づいてきたので声を掛ける。


「すまぬが、己れは為屋ためや吉兵衛の使いでな。喜右衛門殿はいるか? 出版のことで話があるのだが」


 為屋吉兵衛というのは石燕などが出版している中小規模の版元通称『為出版』である。

 割りとニッチな内容の本を出しては発禁を受けたり、店主が手鎖を食らったりしているがさもありなん。実のところ、この版元は職にあぶれた元忍者が始めた店でもあるので、彼らの趣味全開でエンタメ方向に舵を切っているのであった。

 九郎の挨拶に小頭は頷き、彼を奥に案内した。

 部屋で暫く待っているとやがて四十代ぐらいの小柄な男が姿を現した。大店の主にしては地味な模様の着物だが京染めの高級品であることは見るものが見ればわかるだろう。神経質そうな顔にやや渋面を作って九郎の前に座った。


「おたくが為屋はんのところの使いさんでんな。わてが鶴屋喜右衛門だす」

「忙しいところすまぬ。ああ、これはつまらないものだが」


 九郎はお土産に持ってきた、重箱に詰めた煮染めを渡した。

 何やら汁っぽいものが入っていることに不信感を覚えた喜右衛門が開けて中を見て、九郎と重箱を二度見して叫んだ。

 

「お前はおかんか!?」

「たんとお食べ」

「何しに来たんや!?」


 九郎は改めて要件を知らせる。

 

「今度うちの版元で芝居の書籍を出すのだが」

「ほお……?」


 版元界隈では芝居の書籍、というだけで怪しい代物なのは丸わかりである。

 鶴屋喜右衛門は江戸の版元の中でもかなり立場が大きく、彼を説き伏せれば出版にかなり有利だと言われていた。

 周囲を黙らせる発言力の強さを「鶴の一声」と云うのはこの江戸の出版に於ける鶴屋の存在が語源になったという説も存在しているかもしれない。

 それに京都大阪にも販路を持っている鶴屋は版元としても優秀であり、ここで出す場合は作者への報酬が上がる。最初だけ為出版のような中小で出して、売れそうならば大手が引き受けるというパターンも行われていたようだ。

 

「それで仲間行事での吟味にて取り持って貰えぬかと頼みに」

「煮染めを持って?」

「……いや、それは具材として持ってきただけだ」


 どうして豊房がこちらに来たがらなかったのか。それには理由がある。

 この鶴屋喜右衛門は頼み事をすると一つこちらに要求をしてくるのだ。

 それは、


「ほんなら、わてに美味いうどんを作ってもらいまひょか!!」


 うどんキチなのである。

 初代は京都から出てきたとはいえすっかり江戸の水に馴染んでいるというのに、似非関西弁を使い蕎麦ではなくうどんを食べるという謎の関西贔屓をしている。 

 美味い店を紹介すれば、と思うかもしれないが基本的に江戸のうどん屋は全て巡っている彼を満足させることは難しい。

 豊房は一度目の依頼で普段蕎麦屋な実家で作られるうどんを出して話を通し、二度目は自作させられる羽目になった。

 それ以来、絵師仲間では豊房が一番料理上手なのでうどん係として鶴屋への話を度々持ち込まれるようになったのである。

 本人曰く「うどん捏ねるの疲れるのよ」とのことだったが。なお歌麿は「豊房ちゃんがうどんを足で踏んで捏ねてるのを見るとこう……厭らしくていいマロ!」とひたすら邪魔な視線を送ってくるので手伝いには呼ばないのだという。


 九郎はその提供するうどんに便利な道具を持っていたので、丁度よいとばかりにやってきたのであった。


「うむ。では今から作る」


 九郎は手土産を包んでいた風呂敷から一人用の大きさをした鍋を取り出すと、手早く術符で水を入れてお湯に変えた。

 喜右衛門は目の前で即座に湯が沸き立つのを見て唖然としている。九郎は最近、人前で術符を使っても後から妖術だと言えば適当に納得してくれるので特に隠さなくなっている。

 そして鍋の湧いたお湯の中に、インスタントの魔法うどんを投入した。


 魔法うどんとは! 魔法のうどんのことである!


 初登場シーンで九郎が焚き火の前でずるずると食べていたアレだ。ペナルカンドでは割りとメジャーなインスタント食品であり、向こうからこちらに来る際に幾つか持ち込んでいた一つである。 

 食ったら無くなり、補充もできないとなると食べるのを先延ばしにして放置していたのだが、こういう場で使ってしまうのもいいだろうと判断した。

 ふつふつとたぎる鍋の中で麺を柔らかくするうどん。出汁は固まった麺の内部に入っていてお湯に溶け出す。

 そこに九郎は煮染めた油揚げを載せる。家で作ってきたものだが、台所に立って油揚げを煮ていると将翁がそわそわとしながら横に立っていてチラチラと九郎を見てきたので味見をさせたら尻尾を振っていた。

 更に蒲鉾、椎茸、麸も煮色がついているものを鍋に投入して温め直し、最後に卵を入れてひと煮立ちさせた。


「鍋焼きうどんの完成だ。どうぞお食べ」

「な、鍋焼きうどんやて……!? 見たことが無いうどんやがな……!」

「そうか?」


 小さな鍋で一人分のうどんを具と一緒に煮込む。

 単純な料理だがこの当時では記録に残っていない斬新なものであった。鍋焼きうどんが記録に現れるのはこれより百年以上先、幕末の元治二年(1865年)、江戸で行われた芝居の『粋菩提禅悟野晒すいぼたいさとりののざらし』というものに出てくる。

 この芝居では大阪で立ち食いの鍋焼きうどんが流行している、と話題で出るのだが当然享保の頃は流行も何も発生していない。

 ごくり、と見たことのないうどん料理に喜右衛門が喉を鳴らす。

 折しも近頃の江戸は急に冬がやってきたようで、雪さえちらつく日もある寒さだった。そこに熱々の土鍋に滾った熱々のうどんである。

 湯気がもうもうと上がっていてそれだけで部屋が温まりそうだ。


「おっと。鍋に触ると火傷をするぞ」

「せ、せやな。おい、誰か膳を持ってきいや!」


 喜右衛門が云うと小間使いが慌てて膳を持ってきて、手ぬぐいで鍋を持ってそれに載せる。

 箸を手にして喜右衛門が熱気を放っている鍋からうどんを掬い上げた。

 口にする。煮込んだおかげでぽにょっとした柔らかい食感がつるつるっと口の中を通り、優しい昆布だしの味にほのかに煮物の甘さが滲み出ている汁が麺によく絡んで、


「旨い……」


 のである。

 寒くて冷え切った胃の腑まで、摩擦も無いように柔らかなうどんがすっと落ちて胃を温めた。

 ず、ず、とうどんの麺を啜り、つゆをよく吸った麸を噛みしめる。

 改めて上品な味のつゆをしているそれに驚く。目の前で湯の中にうどん玉を突っ込んだようにしか見えなかったが、いつ味付けしたのだろうと疑問に思うが幸せな味に頬が綻んでそれどころではない。

 魔法うどんはマジカル美味しいのだ。

 椎茸も惜しげなく入っていて、噛みしめるとじゅわりと濃い煮汁が出つつ微かに日なたのような香りを感じた。九郎が伊勢原から持ち帰った椎茸菌を原木に打ち込んで屋敷で取ったものである。寒さに合わせてぞろぞろと生えてきて食卓を賑わしている。

 散蓮華でつゆをすくい取って口に入れる。温かいうどんのつゆは塩っぱすぎず、体に染み渡るような塩梅だ。

 寒い日に食べる鍋焼きうどん。それは代用し難い幸福であった。


「なんてものを食べさせてくれたんや……」

「うちで全員分作るには鍋が足りんよなあ……ひっぱりうどんにするかのう」

「ちょっと待ちや。え。何。まだ知らんうどんがあるの?」

「さて……食べ終わったら出版の話に戻るかのう?」


 九郎はいっそ憎いような笑みを浮かべて、完全に鍋焼きの虜になった彼にそう告げた。



 新種のうどんを馳走したことですっかり気に入られた九郎は、靂の作品について適切な修正箇所は指摘するが通してくれるように約束を取り付けたのであった。


 




 ********





 それから暫くして、靂の作品は無事出版されることになった。

 ただ内容が奇抜だったので一般受けはあまりせず、美少女がまったく登場しなかったので男受けもしなかった。

 しかし死に戻りという斬新な設定は知識人の間では物珍しく評判を呼び、そして赤穂浪士モノというので一定数の購入者は確保できたので、トントンといった程度にはなったという。

 なおスフィは満足そうに読み終えていたので、それが何よりだと九郎は思った。

 新しい本には賛否が生まれる。古い本を読み直したときに生まれる感動も良いものだが、新刊の賛否はまた別物である。読む方も、作る方も皆が新しい本にワクワクを持って手に取り、また発表していくだろう。

 たとえ規制されていても、その楽しみを知っている限り様々な手を使ってでも。




「それより九郎」

「うむ」

「お店が評判になってるわね」


 そして出版とは関係ないのだが、緑のむじな亭にて鍋焼きうどんを提供しているところ、うどん好きの中では有名人だったらしい鶴屋喜右衛門が絶賛したという噂を聞きつけて客が大量に訪れていた。

 九郎が食べれる店としてひとまず六科のところを紹介したのである。鍋屋から中古の土鍋を幾つか購入して六科に冬の間の商品として作り方も教えに行った。

 切った材料をつゆで煮込むだけ、という簡単な調理方法も六科に合っていたのかもしれない。

 鍋焼きの材料も安いものに変えて、根深葱に薄切りの大根、麸と豆腐にしているのだがどれもこの寒い中では煮込んで食べるに旨い代物ではある。

 噛みしめると葱の甘みと爽やかさに熱いつゆが中に入っていて、大根もほくほくに煮えている。つゆで煮込んだ豆腐などは、そのまま熱い飯の上に載せて食べると何とも言えない旨いおかずになる。

 中にはうどんを抜いて、その鍋で酒を呑んでいる客も居た。寒い中、目の前で湯気を立てる一人分の鍋は非常に魅力的であった。


「というわけで九郎も暫く手伝ってよね、お店」

「わかっておる」


 というわけで生まれたばかりの赤子との子育てで手が回らないお雪も居るので、九郎と豊房が店の手伝いに駆けつけているのであった。

 特に九郎は炎熱符の数を増やしてコントロールすることで鍋を一度に多く熱する係となり、重要である。

 面倒を見る鍋が増えると六科の監督能力が怪しくなるので豊房も手伝わねばならないし、熱くて重い土鍋などはまだ小さいお風には運ばせられない。こんな時に限って歌麿は靂のところで次回作の相談に向かっていた。


「まったく。これは後で豪華版でも食べねば割に合わぬな」

「そうね。終わったら作りましょう。だから九郎、火元ヒモトとして頑張って──あっ!」

「まずい単語を口にしたように言い淀むでない!」


 口を塞いで気まずそうにしている豊房に、六科がぽんと肩を叩いた。


「……お房。九郎殿に酷いことを言ってはいけないぞ」

「何が酷いことなのだ、六科」

「九郎殿はこのような忙しいヒモ手伝ってくれ──あっ!」

「何を『しまった』みたいな顔をしておるのだ!?」


 忙しいヒモ。

 それがツボに入ったようで意味もわからずお風が笑っていて、九郎は怒るわけにもいかずに困った顔をしていたという。




作中作の軽い気持ちで書き始めた、吉良死に戻りの作品がこちら


オール・ユー・ニード・イズ・吉良~死に戻り赤穂事件~

http://ncode.syosetu.com/n8102dq/


短編なのに長いです。これを靂が出したってわけじゃなく同じ設定で書いた的な感じ

あと赤穂浪士の一人、武林唯七についてイメージを大きく損なう危険性がありますので

武林ファンの方は注意してください

ゲストとして影兵衛の祖父が出てきます

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