24話『影兵衛と怨みの話』
からん、からん、と乾いた鐘が霧の中に響き、大気中の濃密な水分に音は吸い取られていった。
怨嗟で歪んだ顔をした男が眼前に迫り、中山影兵衛は脇構えにした刀で首を薙ぎ払った。
自分の斜め後方に剣先を向けていた刀を一動作で首刈りの軌道に振るい、敵を寸断した。
油断なく刀を戻し、続けて別方向から襲い掛かってきたもう一人へと向き直る。
短刀を手にしている目が虚ろな男の、突きかかってきた腕を切り捨ててすれ違うように脇腹に刃を入れた。
再びからん、と何処からか金属の小さな鐘を鳴らす音が聞こえる。
「チッ──」
舌打ちをする。足元にはいつの間にか着物の女が転がっていて、影兵衛の足を掴み動きを止めようとする。
深い霧が立ち込めていた。足までの短い距離でも白く霞んで見える。
僅かな躊躇いをして足元の女が見たこともない何かだと判断し、刀で首を突く。
手応えにやはり影兵衛は顔を歪め、歯をむき出しにして周囲を睨んだ。
「なんだってんだ、畜生め!」
これで何人切っただろうか。十人か二十人か。濃霧の中から襲いかかる何者かを、影兵衛は延々と相手にしていた。
だがどの相手も手応えがなく、彼の表情は優れない。
(手応えがねェ、か……)
それが問題であった。相手が戦いにもならない素人ばかりというのではない。
切っても切っても、肉が裂ける感覚も血が飛び散る色も咲かない。死体も残らず、空気を切ったのと変わらぬ手応えしか無かった。
まぼろしを切っているようなものであった。
──からん、からん。
「せりゃア!」
再び近づいてきた、刀を手にしている浪人らしき影を大振りに切り払った。片手持ちで大きくリーチを伸ばしている剣の猛威に晒された敵は、やはり抵抗なく寸断されて周囲に溶けて消える。
周囲を取り囲む霧ごと吹き飛ばさんと裂帛の気合を込めたが、江戸の街中に立ち込める朝靄は如何に影兵衛が力を振るおうとも、ゆらぎもしない。
「こいつは……やべえな」
影兵衛は既に長い時間このまぼろしと戦い続けた疲労と、濃霧に包まれ敵らしき者を斬りつけ続けてきた感覚の麻痺に危機感を覚えた。
先程足元に絡んできた女を殺すのに僅かに躊躇いがあったように。
もしこの状況で、一般人でも近づいてくれば影兵衛は敵と間違えて斬り捨ててしまうだろう。
霧が深く彼の周囲を包む前に、空が白んでいたのを確認している。もう夜明けが近く、棒手振りなどは街に出始める時間帯だ。
「頭がイカレちまったのか、拙者は」
夜明け前から延々と霧相手に刀を振るっている──
というと、何かに取り憑かれたか気が狂ったかしている男に思われるかもしれない、と影兵衛は面白く無さそうに鼻白んだ。
この戦いの切っ掛けは果たし状であった。彼に届けられた一つの文には、
『汝に遺恨あり これまでに斬られた者共の怨みを果たさん 夜明け前に両国回向院前にて』
と、あって影兵衛は正々堂々とした意趣返しもあったものだと喜び勇んでノコノコと現れたのであるが。
そこにたどり着いた彼は濃い霧に包まれたかと思うと、霧の中でひたすら実体のない何者かと切り合っている羽目になったのである。
(最初の方は楽しかったが、見破れねえ手品に延々と付き合わされるのは御免だぜ)
血の匂いも悪党の怒号も生死の駆け引きもない。
鬱陶しい顔つきで襲い掛かってくる幽霊の群れを相手にしていては嫌気も差す。
一度切れば終わりならまだしも延々と出て来る上に惑わしてくるのだから堪ったものではない。
(形があるものならなんだって斬ってやるが、幻術の類かよ)
妖しげな術を使う者と相対しても、術者を斬れば良いのだがこの濃霧に隠れながらまぼろしを生み出している。
からん、と鐘の音が聞こえる。何もかもが幻惑なこの空間で、音だけは確かに響いていた。
影兵衛もその音が怪しいと思っているのだが──
「小束ァ!」
叫ぶのは相手の気配を探るためだ。取り出した、もっぱら投擲用に使っている指ほどの長さをした小刀を音が鳴ったと思しき場所へ打ち込む。
だん、と木の壁に突き刺さる音。手応えはない。何回もくり返し、これで手持ち最後の小束であったが成果は無かった。
濃霧が音を吸い取り、または反響させて発生源をわからなくしているのだ。距離すら不確かである。
更に云えば音に頼り投擲をするというのは危険な時間帯にもなってきた。
棒手振りが通りかかった音で武器を投げつけていては目も当てられない結果になるだろう。
「クソが……正体を現しやがれ!」
影兵衛が叫ぶと、せせら笑うように鐘の音が何度も鳴らされた。
音に続いて、声が聞こえる。
『よくも斬ってくれたな』
『恨めしい』
『気狂いの人斬りめ』
『怨めしい』
『許さ』
『ない──』
霧の濃淡から顔が生まれ、体が湧き出るようにずるりと現れ、何人もの亡霊が恨み言を吐きながら影兵衛を取り囲む。
彼は鼻で笑いつつも刀を構えた。ようやく言葉を返してきたと思えば、陳腐な「うらめしや」と来た。腑に落ちる思いである。
「いつ斬ったどちらさんか知らねえが、もう一回斬られに化けて出るたァ物好きだぜ。確り成仏しな──秘剣[乱杭]」
一度の踏み込みで六回の変幻な斬撃を繰り出す多人数用の剣技である。腰のひねり、剣の速さを上手く利用した連撃は踏み込まぬ牽制のような一撃にさえ致命の威力で急所を狙って放たれる。
亡霊六体の首や腹を掻っ捌き、近づき次第斬って捨てる。だが、手応えもキリも無さそうだった。
(キリがない──霧だけにってか)
道場の兄ちゃんならツボに入りそうだと場違いに思いながらも影兵衛は唸る。
まぼろしでも亡霊でも、実体がないものを幾ら斬っても無駄だ。
そもそも敵がまぼろしならば、こちらに攻撃もできないのではないか。
もしかして、と彼は思う。
恐怖や猜疑心を誘う術中にはまっているならば、無駄に怯えることこそが逆効果なのではないだろうか。
まぼろしを看破し、無視すればいい。子供騙しだと笑い飛ばしてやればネタも割れる。
からん、と音が鳴り新たなまぼろしが出る。
刀を構えた──自分によく似た姿の、髭を伸ばした侍だ。
無言。影兵衛は刀を下段に構えて攻撃を誘う。
あれがまぼろしならば、その攻撃もこちらに傷を負わせられない。
こちらが何体斬ろうとも手応えが無いのだからその逆も然りだ。影兵衛とて、これまで出てきた亡霊の持つ武器を叩いて見たがやはり霧で出来ているかのようにするりと攻撃は抜けてしまった。
侍がこちらに刀を振りかぶり、近寄る。
影兵衛は僅かに冷や汗を垂らしながら獰猛な笑みで剣の動きを睨んでいた。
まやかしの剣など体に触れることさえ出来ない──その筈だ。
刀が──袈裟懸けに迫る。
その時、無言で無音であったこれまでのまぼろしと違い──風切り音が聞こえた気がした。
継戦で疲れ、感覚も鈍っていた影兵衛の第六感が働いた。無意識に体を動かし、僅かに上体を逸らす。
ぱっと胸を熱いものが撫でた。
着物がすっと裂けて、胸板を斜めに赤い線が引かれた。
「ちィ──ボケが!」
肌に触れる鋼の冷たさ、硬さを確かに感じた。今、間違いなく刀はこの世のものだった。
影兵衛は下段に構えた刀を切り上げて相手を斬り捨てる。だがやはり手応えは無く、霧に溶けて消える。
(向こうの攻撃は当たるのかよ!)
悪態を付くが、どうしようもない事実だ。危ういところでバッサリやられるところであった。
胸からじわりと血が滲み出るが、表皮を斬った程度で済んでいる。ふと、影兵衛は傷口と当たったときの感触について違和感を覚えた。
(刀で斬られた──あの野郎が持っていた打刀で? いや、それにしちゃあ間合いがおかしいし、切っ先が尖っているわけだからもうちょい深く切り口は付くはず──先端で斬られたって感触じゃなかったぞ)
ひたすら刀で悪党を斬り続けてきて、その切れ味や切り込む深さなどを熟知している影兵衛が妙に感じたのである。
その分析は確かなものであっただろう。まぼろしで見えた刀ではなく、
(丸みを帯びた刃物で斬られたような……)
と、思ったが該当するような武器はパッと思い浮かばなかった。
武器種の不明さはあるが、だからといって亡霊に対抗する手段は無い。
ひたすら攻撃を受けないように斬り倒すしかないのだが……
その時──日の出で現れた眩い朝日が周囲を照らして、にわかに霧が光を乱反射して真っ白になった。
亡霊が一斉に消えたように感じる。光と闇の陰影から生み出されたまぼろしは、輝く光で塗りつぶされていった。
そして風が海から吹いた。
江戸中の淀んだ空気を吹き飛ばす風だ。霧の濃度が薄くなり、ばさばさと袴が音を立ててはためいた。
肺まで湿気で水に浸かっていた気分だった影兵衛は思わず咳き込む。そして、霧が完全に晴れる前に声を聞いた。
『明日、明け方──またここで待つ』
『来ねば貴様の住処まで向かう』
「手前ッ、くそ、逃げんな! 霧が晴れたら即逃げるとか……うざってェ野郎だ!」
影兵衛はそう怒鳴るものの、亡霊と鐘の音は霧と共に隠れ──消えていった。
当然ながら、火付盗賊改方の同心家族が住む役宅は調べればすぐに判明してしまう。根無し草ではなく守るべき家族が居る公務員の弱点であり、当然ながら長屋には警備の目も光ってるのだがこのような霧の妖怪相手では無意味だろう。
「こいつは……妖怪天狗の案件だぜ」
重装歩兵でも鎧武者でも鉄巨人でも切り裂いてやるという自負はあったが、実体のないまぼろしを斬ることが出来なかった。
影兵衛は己の自信すら揺らいでしまったようで、頭痛がこみ上げている。
傷口を押さえつつ、影兵衛は明け方の江戸を火盗改メ方ではなく神楽坂へ向かって足を進めた。
緊張の糸が緩み、疲労が襲ってきたようで酷く体が重かった。
*******
「それは[烟羅烟羅]という妖怪ね」
九郎の元にたどり着き、傷の治療を受けた影兵衛は霧に包まれ人のまぼろしに襲われたことについて語ったところ、同じく話を聞いていた豊房がそう告げた。
眠気と疲労で気怠げな影兵衛は聞き返す。
「なんだ、そりゃ」
同じく治療に当たっていたスフィも聞き慣れない響きに首を傾げた。
「まるで歌みたいな韻を踏んでおるのー。こほん。『エンラエンラ~♪ エンラエンラエンラ~♪ アウッ』」
「ブルーハーツか」
「『エンラアアアアイアアアー♪』」
「ホイットニー・ヒューストンか」
歌い上げるスフィに九郎がツッコミを入れる。当然ながらスフィは二十世紀の楽曲は知らないが、なんかそれっぽいリズムになっている。
ともあれ彼女の歌には世界が異なっても疲労回復効果があるようで、影兵衛も少し気が楽になった。
「それでフサ子や。そのリンダリンダとはどういう妖怪だ?」
九郎は素でボケて聞き直すと、彼女は溜息混じりに話を戻した。
「[烟羅烟羅]なの。なんか紛らわしいわね。[烟々羅]と記録ことにするわ」
そう言って彼女は筆と紙を取り出してさらさらと[烟々羅]と字に書いて見せた。
「するわってお主……」
「わたしが名前を考えたものだもの。好きに呼ぶわよ」
「鳥山石燕の創作妖怪か」
九郎は呻きながら、もう一人の石燕を見回したが部屋には居なかった。
幼女石燕は朝から何やら「改造人間は嫌だ……新造人間もダメだ……」などと布団で魘されており、そっと寝かしておくことにしたのである。夢の中で製作者と話し合っているのかもしれない。
「蚊遣りの煙なんかが時に人の顔に見えたりするじゃない。あれを妖怪化した存在ね。そこらに揺蕩い、形の変わるものがふとした観測者によって霊格を得る。前に一反もめんは製鉄の煙かもしれないって言ったじゃない。それと似たようなものだわ」
「だけどよ嬢ちゃん先生。ありゃ煙じゃなくて霧だったぜ」
「白くて漂ってるなら同じよ。そして人の顔が浮かんできたんでしょう?」
「顔どころか全身現れて、すり抜けたかと思えば斬りつけてくるでひでえもんだったが……」
ぺたぺたと包帯を巻いた傷口に触れながら影兵衛は言う。それを巻いた阿部将翁は、飲み薬を作るために薬種問屋に買い物に出かけた。
「っていうか、影兵衛のおっさんが斬りつけられるって相当だよな」
「わざと斬られてまぼろしを看破しようとしたんだよ。そうじゃなきゃあんなヘッピリ剣が当たるか」
お八は影兵衛の異常な強さを目にしている一人であるので、彼が斬られるという状況がかなり深刻なのを理解している。
彼女が見た中で今まで悪党相手に怪我らしい怪我をしたのは──時折、油断をさせるためにわざと食らう以外は──宇田とか言う拳法家に背中を割られたぐらいであった。
「斬ってきた相手の顔」
「ん?」
「影兵衛さん、どこかで見覚えのある顔じゃなかった?」
「うーん……あのまぼろし共は、拙者に遺恨のあるみたいなことを言ってたからなあ。そう言われると、今まで斬ってきた奴らみたいな気がするけどよ」
江戸で──というか、この太平の時代における日本全国では斬るスコアがずば抜けている影兵衛は覚えがあると云えばそんな気にもなる。
豊房は指を立てて解説を入れた。
「この妖怪は見る人の記憶に基いて顔が浮かんでくるの。ああ、この模様はあいつに似ているなあとか漠然と思い浮かべていると生まれるのよね。遺恨を持っている──と、影兵衛さんが思っている人達が、記憶の底から引っ張り出されて霧に浮かんできたのよ」
「ははあ……」
「[烟羅]の[羅]というのはね、羅という意味で日本では使われているけれど、元々の意味合いは[捕らえる]なのよね。字を見るとほら」
と、豊房が指を[羅]の冠部首に向ける。
「これは網頭。名前の通り、網を意味しているのだけれどそこから派生して、網で捕まった後を彷彿とさせる字になるの。[罪状][罰則][留置]なんかに付くでしょう?
そして下の[維]。これもそのまま、繊維──つまりヒモのことね。あっ」
豊房が失言した、とばかりに口を押さえて恐る恐る九郎を伺う。
周りで聞いていた者らも、気まずい空気になり顔を逸した。スフィは九郎の背中を慰めるように叩いてやった。
「いや待て! むしろそんな反応される方が傷つくぞ己れは!」
触れてはいけないとばかりに皆は沈痛な表情を浮かべて、話を戻す。
「……それで、つまり捕まえる為の縄を意味するのね。だから[羅]というのは捕らえる為の網縄、という意味がある字なのよ。烟々羅を見る人は過去に捕らわれていることを示すのね。わたしが考えたんだけど」
「過去に、ねえ……」
無精髭を撫でながら彼は静かに呟いた。妖怪の解説よりもあの霧のまぼろしをどうにかしなければならないのだが、それが実体の無い妖怪となればどうしたものかまるで彼もわからない。
斬る──或いは、もっと早く斬る。精々彼にできる対処はその二つで、相手が人間ならばまったく問題にはならないのだったが。
「他にも羅は[羅喉]を意味していて、これは天竺に居る首だけの魔神なんだけど煙に頭が浮かんでくるという点では共通させようと思ったのよね」
過去に捕らわれている。
今まで斬った者の怨みを名目にして影兵衛を襲おうとしたのならば──まさに過去から手を伸ばしてきた刺客とも云えるが。
「それで、どうやってその妖怪は倒すんだ?」
「倒せないわよ。ただ人の姿を取る煙、というだけだもの。本来なら害も無い筈よ。いいかしら影兵衛さん──影兵衛さんを斬ったのは霧のまぼろしではなく、それに乗じて仕掛けてきた誰かの刃物なのよ」
「……ちぇっ。わかってら」
舌打ちをして影兵衛は何処か寝ぼけたように反応の悪い指をわきわきと動かした。
あの瞬間、胸には刃と接点が生まれた。
そのときにどうにか刃を捕まえることができれば、まぼろしの向こう側から敵を引き釣りだせるだろうか。
そう思っていると先程から感心したような顔をして影兵衛を見ていた九郎が呟いた。
「影兵衛お主──人らしくなったな」
「あァん?」
そのよくわからない評価に、彼は不機嫌そうに問い返した。
「以前までのお主なら、斬った相手のことなど一切合切思い出しもしなかっただろうし、怨み辛みなど屁にも思わなかった。だが今は、己の力では斬れずに追いかけてくる亡霊に不安を抱いている」
「拙者がビビってるって? 馬鹿言うんじゃねえよ。拙者は単にな──」
「家族が心配なのだろう」
九郎の言葉に、影兵衛は口を噤んだ。
「それも前までのお主には無かったことだ。自分が買った怨みで嫁や子供に被害が及ばないか不安になり、亡霊を信じて怨みに悪態を吐くようになった。こうして敵を退治するのに、人を頼るようになった」
「……なあ九郎、拙者は弱くなったよな」
「そうだのう。人は大事なものが多くなれば弱くなるものだ。だが全てを捨てて強くなることを選ぶよりは良いと思うぞ。それがまともというものだからな」
彼の言葉に、影兵衛は大きく溜息をついて「そうかよ」とつぶやく。
影兵衛は──自分がまともだなどと思ったことはなかった。
大身旗本の家に生まれた悪ガキで、小さい頃から剣術で相手の身分関係なく道場で叩きのめし、家を飛び出て同心になり進んで人を殺してきた。
殺して殺して殺し続ければいつか世界さえ斬れると思って、血みどろに戦い続けて笑い続けていた。率直に云えば彼は狂っていた。それでいてまともを演じていたのだから、自分の異常さは誰よりも理解していたのだろう。
斬った相手のことなど気にせずに、抱いた女の顔も覚えずに、欲望のまま生きてきて友人となった九郎にすら斬りかかった男が。
この数年──幸せになっていたのである。
拍子で祝言を挙げることとなった女とくっつき、情を交わして子供が出来て、赤子が彼の手を握り、育って彼に剣術をせがむようにさえなった。
そして彼は気づいた。自分が手にかけてきた人間の怨みに。それはいつでも返り討ちにする自信がある自分ではなく、妻や子に降りかかるという可能性を。
実際に今回、相手からの果たし状が来たことで影兵衛はなんとしても復讐者を倒さねばならないという覚悟で挑み──それは成就しなかった。
「なあ九郎。拙者は次の明け方にもまた挑まねえといけねえ」
相手はいつでも影兵衛の家族を襲うことが出来て、その可能性をちらつかせてきた。
周りに人が居る役宅では、敵味方わからぬ霧の中で刀を振るうことは難しい。
「──そのためにはちょいと夜まで休ませて貰うぜ。疲れちまってな」
「うむ。将翁の薬湯でも呑んで。ゆっくりと体を休めるがよい」
「拙者が寝ている間に……どうやってか、敵さんへの対処を考えていてくれ。頼むぜ、九郎──拙者を助けてくれ」
「任せろ。友達だろう」
お互いに顔を見合わせて笑うと、影兵衛を休ませる為に一同は部屋から出ることにした。
すると丁度将翁が薬を持ってきている最中であった。
「ようやく出来ましたぜ。中山殿は結構な量の痺れ薬を吸わされていたようで、解毒剤の調達に時間が掛かった」
「痺れ薬を?」
九郎は毒薬を看破できる能力が使えるが、さすがに意識して使わなければ気づかない。
「忍びなどが使う、無味無臭の薬で煙などに混ぜるものですが……あれでよくもまあ戦えたものだ。意識だって朦朧とし始めるものだというのに」
「ふむ……意識をな。あやつが心理的な動揺が大きかったのは薬物の所為もあったかもしれん。とにかく、あやつに薬を飲ませてやってくれ。元気そうなら飯も頼むぞ。己れはちょっと出てくる」
忍びの薬ならば、と九郎は詳しい人物に話を聞こうと、千駄ヶ谷へと向かって行った。
********
田畑が広がる千駄ヶ谷にて、根津甚八丸の屋敷に向かう畦道を九郎が歩いていると、近くの木陰に知り合いの姿が見えた。
眼鏡を掛けた青年が何やら座り込んで騒いでいる。
「おい、靂や。なにを──」
九郎が近づいて声を掛けると。
車座になった靂の股間に、小唄が顔をずっぽり突っ込んでいた。
太腿あたりにある単衣の合わせの内側に顔を入れて、
「んちゅぅっ♥♥ ふぅっ♥ んんっ♥」
などと声が漏れている。
九郎は状況を察して頷いた。なにをって、ナニを吸っているのだろう。そういうのは他所でやって欲しかったが。
「あ、ちょうちょが飛んでおるー」
適当なことを言って目線を逸し、誤魔化して立ち去ろうとしたら靂の必死こいた声が九郎を引き止めた。
「ちょっと待って九郎さん!? 誤解しないで! っていうか止めて!!」
酷く面倒そうに九郎は振り向いて二人を見る。
なんとか靂は股間に顔を突っ込んでいる小唄を引き剥がそうと頭を押しているのだが、強い力で吸い付いているという状況のようだ。
あまり詳しく見てしまっては描写が引っかかりそうだと九郎は思い、顔を顰める。
「いやお主……己れが怨み買いそうだし」
「違うんですって! 蛇が太腿に噛み付いてきたら小唄が『毒を吸い出さないと死ぬぞ!』って無理やり内太腿に吸い付いてるんです!」
「そしたらお主の股間の大蛇も鎮めてくれようという感じに」
「ならないように今止めてるんでしょうが!」
まあ、これだけ草食系の靂が必死に説明しているのだからそうなのだろうと九郎は仕方無さそうに納得した。
そして夢中で靂の内太腿──勿論股間の蛇ではない──に吸い付いている小唄の、腋窩に指を突っ込んでごりごりとくすぐった。
「ふひゃっ!?」
突然の刺激に笑いそうになり口を外した小唄を、襟首を掴んで引っぺがす。
彼女は口元をべたべたにしたまま真面目ぶった顔をして、
「何をすんだ九郎先生!! このままでは靂が危険だ! これは治療行為であって疚しいことは何もない!!」
「ほう、どれどれ」
九郎が蛇の噛み跡らしき靂の傷口を見る。彼のふんどしも見えたがそれがずらされていない様子なのでどうにか最終防衛線には手を付けられなかったようだと安心した。
蛇の歯型が付いているそこを毒物判定の目で確認するが──
「……これは毒蛇の噛み跡ではないのう」
「えっ」
「……」
「そもそもなんでこんなところを噛まれたのだ?」
「いえ、木陰で本を読んでいたらいつの間にか裾から侵入したようで……本を読んでいると、周りが気にならなくなりますから」
「それで小唄はどこから?」
「僕が噛まれて思わず叫んだらすぐに木の裏から……」
「……」
「……」
「……さて。靂も元気になったことだしこれで私は失礼する」
「自作自演じゃねーか!」
アダマンハリセンが小唄の頭を張って地面に沈めた。己の欲望の為に友人に蛇をけしかけた報いである。
「う、ううう……やはり自分を噛ませて靂に吸わせた方が被害者感が出て良かったか……!?」
「欲望丸出しなのは止めろ──っと、いかんな、悪い。怪我をしておるぞ」
地面に叩きつけた拍子に、小唄は受け身を取ったのだが体を庇った肘の近くに小さな切り傷が出来ていた。尖った小石か何かで切ったのだろう。
小唄はそのすぐに自然治癒しそうな程度の軽い傷を見て手を振り気にしないように告げた。
「あ、いえこれぐらいは……録山先生の道場だとよくあることですし」
「あそこは容赦がないからのう……」
とはいえツッコミではあっても、年頃の女性を地面に叩きつけて怪我を負わせた職業不定で住所は女の家な男という非常に悪い自分の風評を九郎は広められたら致命傷である。
それに比べれば靂の男女関係などはある意味どうでも良かった。
「よし、靂」
「はい?」
「傷を舐めてやれ」
「はい!?」
「事情はどうあれ、蛇に噛まれた傷を舐めて消毒してもらったのだろう。それを返すと思え」
九郎が靂の背中を押すと、彼は戸惑ったように傷口と九郎の提案に放心している小唄の顔を見て……
躊躇いながら、僅かに血が出た彼女の傷口を何度か舐めて舌で拭ってやった。
「あううううう♥♥♥」
「なにこの反応!?」
ぶるぶると震えだして内股気味になった小唄に、不気味そうに靂は離れる。
顔は紅潮して汗を掻き上気している。目はとろんとしていて、口元からはよだれが溢れていた。
九郎は見たことがある。絶頂しているのだ。血液イキである。
「……靂の血を私が舐めて、私の血を靂が舐めた。お互いの血を体に取り込んだというこれはもはや性交では!? あ、あ、ありがとう九郎先生! 尊敬します! この地に九郎先生の祠を立てます!」
「こやつ頭おかしいから伴侶にするなら茨にしておけよ」
「九郎さんの冷めっぷりが凄い」
彼は経験上ストーカー系女子に厳しい。一人で感激している小唄を残して靂は家へ、九郎は甚八丸のところへ向かった。
「いいかおめえら! 俺様が繁殖させたこの無毒で噛む力も弱い蛇なら軟弱なおめえらでも勝てるだろう。そこでまずはこの蛇をナオンの近くにさり気なく配置して、気づかせる! 悲鳴を上げたナオンを助ける! その際にこいつに噛まれれば、自分を助ける為に負った傷なので吸わせやすいって寸法よぉ!」
「さすが頭領! それで色んな所を噛まれてもすぐわかるようにふんどし一丁なんですね!」
「いきなり全裸はまずナオンがビビっちまうからな」
配下の忍び相手にいかにも役に立たなそうなナンパ講座を開いている彼を見て、親子の血の繋がりを感じる九郎だったが、ひとまず彼に話を聞くことにした。
屋敷の客間に通されて茶を呑みながら、霧に痺れ薬を混ぜる手法について尋ねてみる。
甚八丸は暫く考える素振りを見せた。正直に云えば、あまり忍びの素性を他人にバラすというのは良いことではない。
だが彼が知っているその相手は忍びというには異質な者であった。不気味に語り継がれる妖怪のような存在である。それに目の前の何かと付き合いのある者の友人が襲われているとなれば、義理が天秤を傾けた。
「そいつは[霧隠れ]の鹿右衛門ってやつの仕業だろうな」
「鹿右衛門?」
「忍びというより、幻術を使う殺し屋だ。幻術つっても、妖術みたいなもんじゃねえ。相手の心をついて弱らせ、場を整え、見えないものが見えるように誘導する」
甚八丸は影兵衛の状況から話を整理していく。
「まずはその切り裂き同心。そいつの過去の遺恨があるということを伝える。ついでに伝える場所は役宅にでもすれば、家族の場所がバレている相手が狙っているという警告になるな。
一旦時間を置くのも有効だ。それまでに普通はいったいどこの誰が狙っているのか思案するわけだ。これまで切った連中の顔を思い出しながらな。
そうして思考の鈍る明け方に、朝靄で視界が遮られているところで──術を掛ける。やつが使うのは音の術法だ。鐘の音が鳴ったというが、それはむしろ耳を澄まさせる為の罠。
本命は常にブツブツと小声で相手を不安に陥れる短い言葉を高速で呟いているという。耳に入った小さな言葉は心の奥底から罪の記憶を喚起させ、薬物を噴霧した朝靄を吸い込んでいる相手には霧に人影が見えるようになる。
そうなれば後は暴れれば暴れるほど術は強く掛かり、心を消耗していく。その切り裂き同心は無駄に元気を維持していたから直接的な攻撃が飛んできたのだろうが、二日三日と続けられるときついぜ。
どこぞの殿様とか侍が、ある日突然乱心して見えない誰かに襲われていると錯覚して暴れまわり死ぬ話を聞いたことが無いか? そいつが殺した誰ぞの怨霊に取り殺された、とか噂されるやつ。
あれの何件かは鹿右衛門の仕業だって噂だ」
「催眠術師のようなものか……どうも嫌なやつだ」
「一応殺すのは怨みを買っているやつ限定らしいが、どうやって殺しを依頼するのかも俺すら知らねえ」
心理と催眠術と薬物を使い、相手を追い詰めて狂死させる殺し屋。
直接立ち会い、相手を斬り倒すことで物事を解決する影兵衛とはまったく相性が合わない厄介な敵であった。
「何か弱点などは無いのか?」
「そいつは場を整えるのが得意でな。恐らく仕掛けてきたってことは、ここ数日朝靄が発生する条件だと把握しているんだろう。
そして鹿右衛門は隠れることと逃げることが得意だ。霧が晴れたり、居場所を掴んだりした素振りを見せたら即座に逃げに走る」
「む……」
例えば周囲の濃霧を全て、[隠形符]で透明化してはどうかと考えていた九郎は「面倒な」と唸る。
逃げられてはまたいつ狙われるかわからないし、影兵衛の家族のこともある。
「つまりその場で、霧を晴らさず相手を見つけずにさり気なく仕留めねばならぬのか」
「きっと霧の中じゃあ四方八方に手裏剣を何百枚投げても当たらねえと思うが……そうなるな」
「……わかった。やはりこれは影兵衛よりも己れの領分だのう。世話になった。今度何か持ってこよう」
「いや」
立ち上がり、屋敷を後にしようとする九郎の背中に甚八丸は言葉を掛けた。
単純な問いであり、どこか思いを含んだ低い声である。
「悪党は幸せになっても良いとあんたは思うか?」
「さあな。少なくとも家族の幸せを守ろうとするぐらいは許されるだろうよ」
「脛に傷を持つ身は、他人事じゃねえからな」
「まったくだ」
忍びの頭領と助屋は皮肉そうに嗤った。
*******
その明け方──。
気付けの丸薬を口に加えた影兵衛が、朝靄の中昨日と同じく両国回向院近くの路へと踏み入った。
近くには川もあり、霧が発生するには絶好かつ隠れる場所が無数にある。
一間(約1.8m)先は霞んで見えない周囲の何処かに、隠れているか移動しているかして鹿右衛門は居るはずだ。
九郎は姿を消して影兵衛の背中に張り付いていた。消えたまま周囲を探すことも考えたが、影兵衛のまぼろしを斬ろうとする攻撃が飛んできた場合危険なので常に背中に居ることを予め伝えてある。
『お主は時間が来るまで、ひたすらまぼろしを斬っておるだけでいい。後ろの己れには当てるなよ』
そう言われた影兵衛は背後に九郎が居ることで頼もしさを感じていた。
周囲をまったく見渡せぬ暗い朝靄。注意深く観察すればするほど、霧の中からまぼろしが浮かんでくるという。
そんな中で背中側だけは安全だという認識は心理的に安定をもたらす。
「さあ! 来てやったぜ! てめえも出てきやがれってんだ亡霊野郎!」
影兵衛が声を張り上げると、返事のようにからん、からんと鐘の音が鳴った。
音と共に周辺の気配が一変するのは、聞き取れない高速で唱えられている相手の精神を乱す呪言からか。
水滴一粒一粒に染み込まれる呪いのようであった。
(毒物判定の目でもまるで居場所は掴めぬか……)
と、九郎は周囲を確認しながら胸中で呟いた。
感覚の目で見れば朝靄に含まれる痺れ薬ばかりが目について情報過多で余計に見通しが効かない。
(やはりあの作戦だな……)
九郎は頷きながら術符に触れた。
その間に影兵衛の前に霧の亡者が次々に現れだしていた。
近寄られる前に首を落として消していく。どの亡者が当たるかわからないから全てに油断が出来ない。
[霧隠れ]鹿右衛門は心を読む術に優れている。この術自体は、剣客でも身につけている者が大勢いる。つまりは、相手がどのタイミングでどんな手を打つかを予想するのだ。
それが高じれば標的の影兵衛が以前のように斬られないと思った瞬間に本命を仕込むことが可能になる。
(心を乱さないこと。呼吸を最小限に。相手を斬ることを、楽しいとも手応えが無くて苛つくとも思わねえこと)
手応えがない相手を斬るつもりで刀を振るい、止めるというのはかなりの疲労を蓄積させる。
だが生半可な攻撃を放ち、それを見切った相手に受け止められでもした場合が危険だ。影兵衛は素早く、力まず、現れるまぼろしを切り裂いていく。
と──その時。
剣先に僅かな手応えがあった。人を切ったものではない。刀に僅かに付着した重みがあった。
ひゅう、と影兵衛は息を吐く。白くなった息が朝靄に混じっていく。
何事も無いかのように、彼は鐘の音がなる中で亡者の幻影を打ち払い続ける。
「こいつは拙者が十八の頃、初めての同心の仕事で切った悪党。こいつは相模出身の火付盗賊の頭。こいつは盗賊に錠前の情報を流しまくっていた錠前屋の娘。こいつは植木屋として屋敷に入り見取り図を作る舐め屋。こいつは殺した押し込み先の女の死体とまぐわってた変態。こいつは人質に取った丁稚のガキを殺したと同時に俺が斬り捨てたクソザコ。なんだなんだ! 拙者、意外と覚えてるじゃねえか! 人は思い出せなくなるだけで、どんだけ興味無くとも一度目にしたものは覚えてるって嬢ちゃん先生が言ってたが本当だな!」
叫びながら、短刀で斬りかかってきた悪党を袈裟懸けにし、盗賊の頭を蹴り殺し、密通していた盗賊を殺したことで復讐鬼になった娘を首を落として、植木屋の投げて来た鎌を避けて小束で霧散させ、女の死体を抱きっぱなしの変態を四つに切り分け、クソザコを縦に真っ二つにした。
どれも本物ではなく、彼の喚起された記憶から生まれる幻影だが全て消されていく。
消されたといっても霧から生まれる烟々羅は次々に現れ、一度消えた者も再び生み出されていく。
残るのは影兵衛の疲労だけだ。疲れは呼吸を激しくさせ、麻痺薬は運動能力を阻害し思考を奪っていく。
やがて訪れるのは肉体か精神の限界からくる死──なのであったが。
鐘の音が、止んだ。
夜明け前の薄明かりが、きらきらと周囲に反射している。
周囲の地面や壁どころか、川にすら薄い氷が張っていた。酷く気温が下がっている。
九郎が白い術符を僅かに発光させながら言う。
「マイナス三十度。霧の水分は過冷却水となり、触れた者を次々に凍りつかせていく」
ただし、霧は霧のままに見える温度だ。氷結符で周囲の温度を下げて霧の中に隠れる鹿右衛門に継続的な攻撃を仕掛けていたのである。
相手は寒いとは思っただろうが、霧がある限り影兵衛への攻撃続行に問題はないと見て挑み続けただろう。普通に考えて、周辺の気温を五十度あまりも下げる者が居るとは想像もしない。
寒さは思考能力を低下させ、体力を減衰させる。マイナス三十度となれば蝦夷地にでも行かなければ体感できない、当時の日本人が通常では感じたこともない極低温だ。具体的に言うと沸騰したお湯を撒いたら空中で凍るとかそれぐらいである。
更に霧が過冷却水となり鹿右衛門の体にまとわり付き、全身どころか呼吸をした体内から凍りつかせていく。
九郎と影兵衛は予め炎熱符を張り体を温めていたので平気であった。
「[隠形符]。霧を晴らせ」
ぶわりと九郎の術符で周囲の霧が晴れると。
そこには、凍死寸前の男が一人倒れていた。
あまりの寒さに、指が何本かもげている。金属製の鐘と、もう一つは刃を輪にしたような形の飛輪という忍者の武器を持っていた指だ。目は涙の水分が凍ってまぶたを開けられず、口の中も喉まで薄氷が覆っているようだ。体の末端部分は変色していて、近づいてきた影兵衛と九郎に反応して顔を僅かに動かすと髪の毛がばりばりと崩れた。
通常の凍死ではなく、過冷却の霧を深く吸い込んだことで体内から冷えて一気に凍りついた状態であったが、まだ生きているようだ。 う、と呻いて鹿右衛門は口の奥から胃液を吐き出した。地面にびたびたと落ちるそれもすぐさま凍りつくが、どうにか胃液の暖かさで口腔内を覆う氷を溶かしたようである。
ひゅうひゅうとした掠れた声で彼は言う。
「わしを……殺しても……無駄だ……」
影兵衛は決意を込めた目で、刀を振り上げる。
老人のようになった男の声は続く。
「怨みは……一生……逃れられるものではない……いずれ……取り殺され……死ぬだろう」
「そうかもな」
相手の言葉を彼は肯定した。
この男は殺し屋だ。彼に依頼するような、自分に殺意を抱いている誰かは必ず存在するのである。
また違う刺客が来るかもしれないし、別件で狙ってくる者も居るかもしれない。いつ日常が破綻して彼や彼の家族に危害が及ぶかわからない状況が続いていくのだ。
「だが[いずれ]は今じゃねェんだって、いつでも言ってやる」
白い息を吐きながらそれだけを告げて、影兵衛は鹿右衛門の首を切り落とした。
傷口から湧き出る血すらも凍る、寒い夜明けのことだった……
******
──その晩、影兵衛は自宅で嫁の睦月にとある告白をしていた。
「なあ、むっちゃん」
「なあに? 旦那様」
「拙者ァ色んな悪党共から怨みを買っていてよ。もしかしたら、むっちゃん達に危害が及ぶかもしれねェなって気づいてよ」
「怖いねえ。どうしよっか」
「どうすりゃいいだろうなあ……」
「じゃあさ、旦那様。もしあたしが悪党に殺されたら、ちゃんと仇を討って下さいね。それでいいです」
「……それだけでいいの?」
「死んだ女の仇討ちなんて普通は認められないことだよ。だけどあたしの仇を取って、それからは好きに……あ、新助とか子供が独り立ちしてないなら、ちゃんと面倒も見ないと駄目だよ。それと……」
「いや……絶対お前らは殺させねェよ。ああ、絶対に」
******
一方、千駄ヶ谷にて。
「父さん! 父さん! うふふ、実は九郎先生のおかげで靂と血を交えたんだ!」
傷口を舐めた的な意味で。
だが完全に誤解を招く発言だったので甚八丸が頭を抱えてブリッジした。
「んなァァァァァにィィィィ!!」
「うふふ、お腹にはもう靂の子が! 居たらいいなあと思っている!」
想像妊娠もそのうちしそうないい笑顔だった。
だが後半は甚八丸の耳に入っていないようである。
「なんてこったァァァ!! あの助平天狗め、こんなに話を進めやがって許さねえ! この怨み晴らさで置くべきかァァァ!」
翌日。
九郎のトランクス股間部分に漏れなく濃縮唐辛子エキスが塗りたくられていて、即座に犯人を特定。
千駄ヶ谷に九郎が仕掛けた極寒の吹雪が襲いかかったが、農作物の収穫前だったので甚八丸の嫁に二人揃って正座させられしこたま叱られるのであった。
現代にて。
千駄ヶ谷には江戸時代享保の頃に建立されたと記録にある「九郎天狗を祀る祠」が残されている
商売繁盛などにご利益があるとされている天狗だが、ここでは特に恋愛成就の祈願が行われているという
九郎「マジで残ってしまっておる……どれどれ。来歴が彫られておる」
『九郎天狗は無毒の蛇を遣わして男に噛みつかせ、女がその傷口を癒やしたことから二人の仲を取り持ったとされている』
九郎「己れが蛇を使ったことにしてやがる!」