23話『[阿部将翁]がつくりたいものの話』
「──さてはて、これはどうしたものだろうか」
苦笑しながら阿部将翁は、幾つも出来上がった調薬に失敗した粉を眺めた。
どれもこれも、漢方薬を混ぜて炒ったものだったが彼女も試験的に様々な組み合わせで混ぜて作ってみたので、効能や分量もバラバラでとても効果的とは云えないものになってしまった。
「鰯の頭も信心から、と云いますから……売ってしまうのも良いかもしれませんが……」
どうも、気乗りしなかった。騙して売るにしても安い薬を高値にする、ぐらいはしてきたのだが、薬とも言い難い粉を売りつけるのは性に合わない。
それにしたって、彼女が調合で作り、失敗した薬の材料は阿蘭陀や清から貿易で手に入れた高価な物も多かったのだ。溜息も付く。
阿部将翁。
東北、仙台藩に住む薬師で陰陽師の一族であった彼女は、とある理由から一族と袂を分かっているので財力も頼れない。
「はあ……何を、しているんでしょうね。あたしは」
物憂げに、黄土色でサラサラとした失敗薬を指に付けて舐めながら呟いた。苦味が強くて舌を刺すようで、毒のような味がする。
巣鴨にある将軍の命で作られた薬草園。小石川にも薬草園はあるのだが、市中にある場合は火事で焼けることを危惧して最近に作られた場所である。
管理などは江戸の名だたる本草学者が任命されていて、町奉行や御殿医が関わる小石川に比べて幕府の手は入っていない。なので実験的な薬草の栽培、動物の飼育なども行われていて、乳牛や烏骨鶏なども飼われていた。
本草学者同士の付き合いでは阿部将翁も顔役の一人である。幕府御用の学者にして薬師で、貴重で高価な高麗人参の国内栽培を手がけて成功させた実績に、日本国中を歩いて得た薬草知識──そして何より、この時代に大陸まで渡って学んだという経歴は輝かしいものだった。
船が漂流した、という名目で清に渡りそこで新式の薬学を身に着けたのが阿部将翁である。
鎖国していた日本と違い、明時代から西洋と貿易を行い、清にもアダム・シャールやフェルビーストなど便利屋か何かのように伝手で西洋の道具や学問を伝えた人物が関わっているので、日本より遥かに進んでいるのだ。
この[阿部将翁]は独立してはいるが、表舞台の仕事を他の一族に任せたというだけで在野の学者としては以前と変わらぬ有名人としての立ち位置を持っていた。
故にこうして、新しく作った薬草園の薬膳所にも自分専用の部屋を借りて、研究に浸っているのであったが……
「やれやれ……ここまで失敗が続くとは。道具が合っていないのか? 全体の流れは間違いないはずなのですが……ね」
幾つもの失敗薬を少量ずつ混ぜて、味を確認しながらも首を傾げる。
何種類もの材料、生薬をそのまま──或いは乾燥させてすり潰し、それを混ぜ合わせて炒る。その作業のくり返しであったのだが。
問題は幾つかある中で、薬の匂いが大部分飛んでしまうのが特に問題であった。微妙な分量で混ぜているそれは複雑な匂いを出しているのだが、それが消えてしまうと薬効も落ちる。
「……鉄鍋が悪いなら焙烙を使うか……? いや、あれでは一度に多くを混ぜるのは難しい」
焙烙、というのは竹で作った型に薄い紙を張ったものだ。形としては、祭り屋台で金魚すくいをする道具に似ている。
その上に茶などを載せて火鉢で紙が焼けぬように炒る道具なのだが、如何せん形状的に今ある薬を混ぜるには火力が足りない。しかし鉄鍋では匂いが飛んでしまう。
失敗と成功。その言葉を浮かべて、将翁は低く喉を鳴らして嗤った。
「まったく。こいつは仙丹を作るより厄介だ」
彼女が今やっている調合は非常に不合理だ。
目標が見えず、辿るべき道も位置を示す地図も持たず正しい方位だと信じて進んでいるようなものである。
そんな盲人が針を探すような試行錯誤の果てに得られる薬は──恐らく、金にも時間にも見合った価値は無いと誰もが言う代物である。
仙丹、と呟いて将翁は何やら手を捏ねるように動かす。
「……仙丹、か」
或いはそれを作るための道具を用意すれば──と彼女が考えていると、盆に乗った湯呑みが背後から差し出された。
薬膳所で雇っている小者が気を利かせて持ってきたのだな、と将翁は振り向きもせずに受け取り、
「どうも」
と、声に出してぬるい湯茶を啜った。
背後の気配はすぐには立ち去らずに、彼女が作っている薬の残骸を見回したような動きの気配を感じる。
そして、
「いったい、何を作っているので?」
自分によく似た抑揚を持つ、若干高い声で語りかけられた。肩越しに振り向くと十代半ば程の少女形をした、狐面の女が居る。年若い阿部将翁であるようだ。
その疑問の言葉に、少しだけ将翁は驚いた気分であった。少し前までは、自分も彼女もほぼ同じ存在であり、記憶や知識から思考に至るまでを共有する一族の仲間だったのである。他人ではなく同じ自分に、疑問の言葉を掛ける必要もなかった。
恐らくは相手も似たような気分だろう、と将翁は考える。他の阿部将翁から見れば、自分は急に考えがわからなくなった異物であり、知識を持って逃げたとも思える。秘伝の調薬や薬草栽培の技術など他に漏らされては一族が困ることは無数にあった。故に、こうして探りを入れてくることもあるだろう。
「いえね、別に大したものではありませんよ」
将翁が肩を竦めながら答えると、狐少女は口元を胡散臭い笑みの形にしながら更に追求した。
「ほう……随分とまあ、清や阿蘭陀からの舶来品まで使っているようで、金が掛かっているというのに」
「幾ら金を掛けようが、本当に大したものではないのだから仕方がない。大体、金が掛かっているのは輸入をしているからであって希少で高品質の生薬というわけでもない。例えばこれ──」
将翁が小袋に入った材料を掲げてみせると、開けるまでもなく匂いで相手は答えた。
「肉荳蒄。健胃効果があるが取りすぎると毒になり、堕胎などにも使われることがある」
「聞いた話ではこいつの流通は現在、阿蘭陀が独占しているようでね。他の紅毛人らに売りつければ、一斤で牛が二頭三頭と買えるようだ」
「ほう……有用ではあるが、そこまでの価値は無い生薬なのだが」
健胃効果を持つ生薬は他に幾らでもあり、香りが独特ではあるが値段相応の薬効があるかと言えばそれほどではないものであった。
とはいえそれでも日本に肉荳蒄が阿蘭陀商船から持ち込まれている記録は長崎に残っているので、愛好家か本草学者が手にしていたのだろう。
「そんなものまで用意して、それで失敗を続けているとなると──ますます何をしているのやら」
「さて……」
誤魔化すように首を傾げる将翁。これもまた、以前までならば無かったことだ。
日本全国に散らばる一族の者が、それぞれで見聞き考察して得た知識を共有していたというのに彼女はそうしなくなったのである。
その心境は、その他大勢の阿部将翁である少女には理解が困難であった。他人の心を理解することなど不可能なことのように。
(興味半分、ではあるんですがね)
少女はそう思う。どうしても確認しなければならないわけではない。そう考えながらも、興味の残り半分は果たしてなんだろうか、とも彼女は胸中で疑問に感じた。
(まあ恐らく、あの人の関連だろう)
問いただすという行為を諦めて、少女は背を向け立ち去っていく。
共有する魂の輪から外れた者とはいえ、姉妹親子よりも近しい関係にあった相手だ。もう一人の自分だった相手とも云える。
そんな者に散々問い詰めるのは──自分の鏡に話しかけているようで、不吉な気分にもさせられたのだ。もう似た姿を映さない鏡だとしても。
********
「──というわけで九郎殿。何かあの人に頼みましたかね」
神楽坂の屋敷にやってきた少女将翁は九郎の前にちょこんと正座して、率直に聞いた。
九郎は微妙なしかめっ面をして、目の前に座る少女を見やる。
少し前までは、女も男も阿部将翁は阿部将翁であったのだが、九郎の屋敷に入り浸っている助平雌狐は固有種であると聞かされたばかりである。
だがこうして、直接別人として元本人から扱われる(紛らわしい)と違和感も拭えない。
九郎は出した茶を啜りながら告げた。
「いや、心当たりは無いのう。別段、知り合いに重病人などはおらぬから薬を頼んだ覚えはない」
「本当に?」
「……利悟と伯太郎の稚児趣味を治す薬とか、六科に人間性を取り戻させる薬とか、薩摩人を一瞬で眠らせる鎮静剤とか、影兵衛を一瞬で眠らせる鎮静剤とかは頼んだ気は……」
「そんなものありませんぜ」
「うむ。ばっさりその時も云われた」
頷いて首を振った。
「将翁が謎の薬を作っておるか……なんだろうな?」
「言葉を濁していたあたり、九郎殿関連だとは思うのですがね。九郎殿の頼みではないとすると、九郎殿に助平をする為の薬とか」
「……」
「確か……当帰も用意していたような。これは男性が服用すると血流を良くして夜の励みになり、女性が服用すると妊娠しやすくなるという」
当帰はセリ科の植物で、これまで中国から輸入していたのだが江戸時代に入ってから日本全国で作られるようになり、また将軍吉宗の頃に本草学者に幕府から研究するように指示が出されて地域別の薬効などを調べられた。
九郎はありそうな話に、苦々しい顔をした。
「というかどうしてあやつは、ああも助平目的なのだ」
「九郎殿がどうにかしたとしか思えませんが……彼女に変な病気でも移しましたか?」
「移してたまるか」
「おっと、『恋の病に掛けた』……なんて下手なことを言ったら指を差して嘲笑しますぜ」
「そんなもん己れでも笑うわ」
などと言い合い、九郎は「それで」と尋ねた。
「お主……いや、お主らかはどうして、うちの将翁の事を知りたいのだ? 己れに調べさせて報告でも聞きたいのか?」
「うちの」
少女はそこに引っかかったようで、繰り返してからニヤニヤと笑いだした。
そして茶のおかわりを持ってきたスフィを捕まえて、ひそひそと囁く。
「聞きましたか奥さん。あれだけ邪険にしているのに、居ないところでは『うちの』とか言ってるんですぜ、九郎殿」
「おおお、奥さん違うわー! し、しかしまあアレじゃからな。クローって案外ツンデレみたいなところあるというか、親しい女をいじめて楽しむみたいな……」
「ほう」
「おいこれそこの二人。何を勝手に言い合っておる。うちの、と云ったのも便宜上の話だ」
嫌そうな顔で九郎は否定する。うちの、と言ったこともこの屋敷で寝泊まりしているのだからそうおかしな表現ではないというのに勝手に深読みされた。
咳払いをして少女は告げてくる。
「いえ、単に興味半分ですよ。或いは、他所の家に嫁いだ娘の様子を聞きに来たとでも思ってください」
「娘ねえ……いや嫁がれたつもりはさっぱり無いのだが」
「いささか、大きな娘ですが、ね」
に、と少女は笑う。
「そうそう、害になることはしないとは思いますが、生憎とあたしは他人ですので自信はありません。なので、一応ご忠告までに……」
「むう……わかった。ちょいと聞きに行ってみることにしよう。巣鴨だったな?」
「ええ。巣鴨の薬草園に近頃はおりますよ」
そう告げて、少女は薬箪笥を担ぎ直して去ろうと立ち上がる。
部屋から出る前にふと何か気づいたような仕草をして振り向き、九郎を見て告げた。
「ああ、そうだ。うちの、子供はしっかりと育っております、よ」
「子供?」
スフィが首を傾げるので九郎が間髪入れずに付け加えた。
「将翁の子供だろう。前に一度見せたことがある。どうも一族で育てているようで、将翁もあまり会っておらぬので伝えておいてくれ……ということだな。うむ」
「ほほー。しかし、子供も小さいのに離れ離れとは可哀想な気もするが……む? どうしたのじゃクロー。汗を掻いて」
「今日は暑いな」
迷いのない九郎の言葉に、少女はくくくと喉を鳴らして頭を下げ、屋敷を出ていった。
それを見送ってスフィは素直な感想を九郎に言う。
「そう言えば、近頃将翁のやつは妙な匂いがしておったのー」
「匂い?」
「薬のせいかと思ったのじゃが、その調合しているやつかもしれんが……」
スフィは真剣な顔で、頷いた。
「加齢臭みたいなのが」
「……あんまり言ってやるなよ?」
*******
とりあえず九郎は巣鴨へ飛んだ。将翁が何を作っているのか確かめねばならない。
薬草園の庭に降り立つと周囲には畑や庭木として何種類も薬草の元になる植物が植えられていて、清涼な匂いが漂っていた。
天気もよく風がそよいで居る。市中の喧騒から外れて、涼しげで過ごしやすい場所であった。
「さてと……将翁はどこだ?」
九郎が見回すと、薬膳所らしき建物の縁側で将翁が寝転んでいる。
狐面を外して、腕を枕にしながら目を瞑り規則正しい寝息を立てて、白い餅肌が見える胸を僅かに呼吸で動かしていた。
昼寝をしているようだ。
九郎は足音を忍ばせて近づき、顔の前で手を振ってみる。
気づかない。完全に寝入っているようだった。不意の眠気にこらえきれなかったのか、よくよく見ると足には先程まで薬草園に降りていたのか土の付いた足袋を履いたままで、手は洗っておらず薬の粉が付着していて匂いがした。
「ふむ……此奴が寝ておる間に調べても良いが……」
僅かに悩んで、首を振った。
毒や病ならばわかるが薬の専門知識は持っていない。起きたときに聞く方が確実だろう。
「暫く待つか……」
と、九郎も縁側に座る。そして何気なく、将翁の寝顔を見た。
「そういえば、普通の寝顔を見るのは……初めてな気がするが」
時折布団で同衾しようと画策し、諦めて寝かせる場合もあるがそれは普通ではないので除外して。
こうして疲れて眠っているのを見ると、胡散臭い狐面の女も邪気が抜けているようであった。
男女問わずに惑わしては誘う過剰な艶気も無い。あれは表情と声音、姿勢などを使って妖しげな魅力を醸し出しているもので、すっかり油断して眠っている今はただの安らいだ表情をしている女であった。
「……む?」
枕元で座っていると、もぞもぞと将翁が寝返りを打つ仕草をして仰向けになる。
すると胸元が緩んで開けたので、薬膳所の他の者が見るには目の毒になると九郎は手を伸ばして正してやった。
体をぐいと近づけてその作業をすると、その間に将翁の頭が座っている九郎の太腿に擦り付くように載せられた。
「……」
「……すやぁ」
寝息が再び聞こえた。九郎は疑わしげな目でじっと将翁の寝顔を見る。
変わらぬ寝顔で膝枕をしている将翁は眠っているように見えるが。
前屈して更に顔を近づけ、鼻先がくっつきそうなぐらい近くで将翁の寝顔を眺めた。
息が掛かる距離になり、将翁から薬の匂いが僅かに香った。
「……」
「……うぅん」
苦しげに将翁が顔を九郎の腹側に向ける。そして、頬に僅かに触れる布越しの感触を楽しむようにして、口の端が僅かに綻んだ。
九郎は言う。
「将翁。お主から加齢臭が……」
「失礼な」
カッと目が見開いた。鼻を鳴らして匂いを嗅ぎながら彼女は言う。
「……」
「嘘、ですよね九郎殿? いえ、仮に、いや……仮にでもあたしから加齢臭などと……まさかですぜ。まさか」
起き出して弁明か何かを始めた将翁のつむじを、九郎はぐりぐりと親指で押してやった。
ひとまず将翁を座らせて、対面になった。
彼女はまだ気にしているようで腕を上げて腋や胸元などをスンスンと嗅いでいる。余程ショックだったのだろうか。
「薬湯……」
「うむ?」
目を泳がせながら彼女はそう言う。
「薬湯に入りましょう。どうもここ数日、調薬が忙しくて湯に使っていないせいに違いない。これはマジですぜ」
「必死すぎる……というか違う。将翁、お主──」
立ち上がりふらふらとそのまま湯浴みにでも行きそうな将翁の手を掴み、九郎は引き寄せて座らせた。
そして服の袖についている匂いを嗅いで、改めて告げる。
「お主、カレーを作ろうとして居なかったか?」
「……バレてしまいましたか」
彼女の体から匂うのはカレー臭。いや、正確には様々な香辛料めいた匂いであった。それらが複雑に組み合わさり、カレーのような匂いになっていたのだ。
カレーを作る為に高価な舶来品の漢方薬を使い、日本全国から生薬を集めて、毎日調薬をしては失敗していたのである。
たかが食品──しかもインドあたりでは味噌汁のような気軽さで食されているものだ。それを何十両もつぎ込んで作るのは、非合理的で割に合わないと誰もが言うだろう。
それでも彼女は連日制作をしていたのだが──
「というか、加齢臭って……」
「カレーの匂いだ」
「……とすると、あたしの体からは加齢臭は──」
「まあ……感じたことはないな」
「ふ、ふふふ……」
笑いながら胸元をパタパタとさせる将翁。ぎこちない笑みを浮かべていて、胡散臭い雰囲気は感じない。
すると彼女は突然動きを止めて、自分の顔を撫で回した。
「あっ……」
と、呻くと、片手で顔を隠したまま手探りで狐面を探す。
手にとって安心したかのような息を吐き、いつものように顔の上半分を隠す狐面を被ると、平常の何処か怪しい薬師の女がそこには居た。
「さて……」
「いや、お主何故顔を隠すのだ?」
「深い理由はありませんぜ。その……それより[かれえ]というやつの話です、よ」
話を戻すので九郎は溜息をついて改めて聞いた。
「何やら高価な素材を使い、怪しい薬を作ろうとしていて何度も失敗していると聞いたのだが……」
「ええ。天竺あたりで食べられている汁物なのですが、香辛料などが不明でしたので漢方薬を組み合わせまして、ね」
とはいえ、大抵の香辛料は漢方薬の素材にもなるので発想が間違っているわけではない。
実際に取り寄せたインド、東南アジア系の香辛料の匂いは僅かにカレーを想起させる匂いに組み合わさっていた。
なのだが、
「しかしお主……実際にカレーを食べたことがあるのか?」
「……食べた人の話は何度か聞いたことが。清や阿蘭陀人などにも」
「己れやスフィもした気がするが……材料などは」
「手探りでして……」
「た、食べたことも嗅いだことも無い食い物の味と匂いを再現しようとしていたのか?」
それは無茶な、とは思うがスフィや自分が気づく程度には出来上がっているので九郎は驚いた。
複数の香辛料の組み合わせで、刺激的な辛味や僅かな苦味、甘さが複雑に組み合わさり、色は黄褐色であり、発汗作用・食欲増進・健胃整腸作用などがある。
それだけわかっていた将翁は、香辛料として使われる漢方薬の中で似た作用の物を選び、混ぜ合わせて味を調節するという試行錯誤で近づいていたのであった。
(失敗作が無数に出来上がるはずだ)
驚きと同時に呆れも覚えながら九郎は問いかける。
「カレーならば、食ったことのある己れかスフィにでも相談すればよかったでは無いか。香辛料の種類は正直知らんが、匂いと味程度ならば覚えがあるというのに」
試作品を九郎に頼んで味や香りを確かめてもらうだけで、随分と楽になったはずだ。
そう思った九郎だったが、将翁は何やら困った様子で頬を押さえて──諦めたように九郎に告げた。
「九郎殿を……驚かせようと思いまして、ね」
「その目論見を崩したのは悪いが……なんというか」
九郎は将翁の手を握ったまま、言う。
「一緒に作ればいいだろう。嫌か」
「──いえ。九郎殿とならなんだって作れそうですぜ」
「……」
「おや?」
「…………」
「どうされました」
「………………いや、なんでもない」
将翁がシモネタに走らないか警戒した沈黙を振り切って、九郎は首を振った。
********
「己れも最初から調合されていたカレー粉ぐらいしか知らんのであまり詳しくはないがな──あとスフィの名を出したがあやつには頼らん方がいい」
「ほう。それはどうして」
「ゴーダー風のカレーにするとかなんとか云って……ジャムとか大福とか入れるからのう」
「……九郎殿、調味料とはいえ高価な代物になるのですからそれだけは」
「わかっておる。だが味は悪くないのだぞ不思議と……」
九郎は調薬部屋の中央に座り、将翁に聞いた。
「とりあえず、これまでどうやって作っておった?」
「材料を粉にし、何種類かを混ぜ合わせてから鉄鍋で炒っていたのですが……」
「ふうむ、大体そんな感じだとは己れも思うが……材料となる薬を粉にしたものを一つ一つ出してくれぬか。味と匂いを見て、これが混ざっておったと思うものを取り分けていこう」
「なるほど」
「それほど自信があるわけではないが、明らかに違うものを省ければそれっぽくなるだろう」
そう告げて、九郎は手を差し出した。
僅かに彼の手を見て躊躇ったようにしたが、将翁は紙に載せた粉薬を手渡す。
「どうした?」
「いえ──こうして、他の方と薬を作るなど普段は無いもので」
「そうなのか? 勉強などは……これ味エグッ。絶対違うな」
「調薬の知識は全て特殊な伝承をされますので、子供だろうが老人だろうがあたしらは同じだったのですよ──はい、次」
「だが今後、お主は違うのであろう? ……保留。僅かに甘いな。混ざっていても不思議ではない」
「ええ、まあ」
「だったら薬師の弟子が出来るかもしれぬのだから、普通に学ばせるのも考えておくといい……うっ、これは酷い味だ……」
「……水を」
「ああ、うむ。助かる」
水を受け取ってうがいをして飲み込む。複数の漢方薬を口にしているので吐き出した方がいいのだが九郎の体内にいれれば副作用があってもある程度は無毒化される。
「弟子といえば、別の阿部将翁が来たのだが……」
「ああ、彼女が九郎殿をここに寄越したのですね──今度お礼をせねば」
「お礼? は良いとして……お主の子供は順調に育っているそうだぞ。良かったな」
「左様ですか」
あっさりと答える将翁に、九郎が漢方薬の微妙な後味に口を歪めながら見る。
彼女はそれに応えるように、
「子供とは云え、彼も阿部将翁ですぜ。なんというか──自分で自分を産んだような気分が……僅かなずれの始まりだったというべきか」
本来ならば疑問にも思わず、一族として一族の者を産んで育て、知識を継承して親子というよりはほぼ同一人物にする。
彼女の一族が代々やっていることであり、普通は気にする程のことでも無かったはずだった。
恐らくその子も、もはや母が居ないことなど当然として受け入れ、一族として生きていくだろう。
「……子供、ね」
「むう。これは入ってそうな味──どうした将翁」
「いえ、まあ後でお教えしますよ。こちらの薬は[孜然]。健胃効果がありますぜ」
「これは入っているな……」
などと続けて、九郎が苦しみながらもどうにか有力候補を更に絞り込んだ。
そうして選び抜かれた八種類の生薬を将翁が説明する。
「孜然。清国からの輸入品で、薬効は健胃、整腸。清の国では羊肉料理の匂い消しにも使われているようです」
「小荳蒄。遣唐使の時代に入ってきた生薬で種を使います。奈良で栽培されているのを持ってきました。薬効は体力増強」
「肉荳蒄。阿蘭陀からの輸入品。整腸に香り付けの効果があり、これも肉に使うとか。使いすぎると地獄を見ますがね」
「丁香。花蕾を使う漢方薬で消化促進の効果がある。香りが強く、密教ではお清めに使ったりもするものだ」
「桂皮。近年、清から輸入された肉桂の樹皮だ。体を温める効果がある」
「芫欄。匂い消しの一種で、京の御所に生えているのを頂いてきた。解毒作用がある」
「茴香。平安の頃に宋から持ち込まれたもので、山間部に生えている。精神安定の効果がある」
「姜黄。黄色い生姜、というか琉球で秋に取れる鬱金で苦味の少ないものだ。血の巡りをよくする」
ちなみに上から現代風に云えば、クミン・カルダモン・ナツメグ・クローブ・シナモン・コリアンダー・フェンネル・ターメリックである。
もの凄く伝手があり、頑張って集めればなんとか江戸時代で揃えられなくもない──というか、将翁が頑張って香辛料になりそうな漢方薬として様々に集めたのである。
九郎はそれに更に四つ材料を加える。
「基礎的なものだがな。大蒜と生姜と赤唐辛子、胡椒も粉にして混ぜるといい。というかそれだけだと凄い匂いの薬になりそうだ」
コクと辛さを加える基本食材を九郎が用意して、それを粉にする。
すり鉢を九郎が押さえて、将翁がごりごりと砕いていく。本来ならば一人でもできるのだが、九郎が当然のように手を貸したのでそれに従って将翁も作業を手早く進めた。
「……なんというか」
「どうした?」
「いえ」
九郎と協力をして作業をしていると体が暖かくなるようだった。
基本的に、邪険に扱われて助平魔人か何かだと思われているのでこうして真面目に共同作業をするというのも珍しく──どこか気恥ずかしい。
いっそまた助平な冗談でも告げてしまおうか、と心の中で囁く声を抑えるのが大変であった。
「さて……それでどうこれらを混ぜましょうかね」
「とりあえず……見た目をそれっぽくするには、姜黄が多めがよかろう。後は強い香りのものを少なめに測って、他は当量ぐらいでいいのではないか?」
「割りと適当なんですね……」
「薬ではなく食品だからのう。カレーは様々な食材を受け入れるのだ。原料の段階でも受け入れてくれるだろう。多分」
「多分」
「失敗しても死にはせぬ。己れの責任でやろう」
そしてやたら爽やかな香りがする小荳蒄と丁香を半量にして、それ以外を一匁ずつ、姜黄を全体にそれらしい色が出る六匁取り分けて調合した。重さの計測は将翁が秤を使って慎重に行い、記録もしっかりと彼女が付けている。
「これを炒ると思うのだが……」
「ところが九郎殿。普通に鉄鍋で炒っては、匂いが飛んでしまう」
「それはいかんな。どうする?」
彼女は部屋の隅から、道具を持ってきた。
「そこで取り出したるはこの[八卦炉]。かの太上老君が仙丹を練るのに使っていた道具ですぜ」
「八角形だのう」
彼女が出したのは八角形の鉄箱のようなもので、八卦の印がそれぞれには刻まれている。
八卦炉は太上老君が中に孫悟空を閉じ込めて業火で熱したと云われている錬丹術の道具であり、八角形の八卦にそれぞれ陰陽・五行思想に基づいた意味があった。
材料は八種類に、大陽・小陽・大陰・小陰を加えた四種類。全ての卦を揃える意味でも丁度良い数だった。
「蓋を閉めたまま熱し、混ぜれば香りは逃げない。なにせ中の蒸気で孫悟空の顔は熱され赤くなったと言われているほどで」
「どうやって混ぜるのだ?」
「……九郎殿、何かいい方法は無いですかね」
「ううむ……八卦炉を縦に置いて、網の上で転がすか」
二人は釘や膠を使って部屋にある台や板などを組み合わせ、火鉢の上で八卦炉が動かず縦回転をする仕組みをどうにか作り上げた。
出来上がったのを見て九郎が、
(商店街の抽選でガラガラと回すやつのようだ)
と、思うような形であったがひとまずこれで火鉢の上で回転させ、中の材料をかき混ぜることができるようになった。
「後はどの程度混ぜるかですが……」
「焦がさぬような温度でじっくり混ぜるか……よくわからんが、火の通りは将翁の勘に任せよう」
何百回も薬を火に通してきた彼女の知識と経験で、中身を見ずとも焦がすことはしないだろうと九郎は将翁に頼んだ。
彼女は「ええ」と、応えて頷く。任されたのならば、やる気も充分であった。
そして、火で八卦炉を炙りながらもがらがらと回して混ぜる。
奇しくも二百年後に同じように材料と思しきものを薬種屋から買い集めて匂いを頼りに国産カレー粉を作り上げた、[S&B]カレー粉で有名な山崎峯太郎も八角形の焙煎機を使って試作品を完成させたと云われている。恐らく八卦思想は関係ないが。
十分なぐらいに焙煎をしてから、八卦炉が冷めるまでまだ開けないようにした。
「少し時間を置いて馴染ませれば、より良くなるのが炒った漢方薬ではよくあることですが」
「ふむ……確かに、熱々を開けるよりは冷ました方が香りも逃げまい。暫く待つか」
そう云って九郎は外をちらりと見るが、既に辺りは暗くなっていて室内には行灯を二つばかり付けている。
延々と作業をしていたのだからこのような時間になってしまった。
「ひとまず……カレーを作るのは明日にするか。材料も買わねばならぬし、出汁もなあ」
「出汁?」
「コンソメとかブイヨンとか……野菜や肉、魚などを煮込んだ汁で溶いて食うものなのだが」
「なるほど……一応、出汁の方はこちらで用意しましょうか」
「具材も無いとな──まあ、明日だ明日。屋敷に戻るか?」
尋ねると、将翁は首を振った。
「いえいえ。作りかけの薬から目を離すのはいけないことだ。中途半端になっちまうから、あたしは出来上がるまでここに居ることにします」
「むう……そう云われると己れも離れるわけにもいかぬな。出かける時はスフィに声を掛けてきたから、大丈夫だろう」
「食事の用意でもさせましょう。天ぷらと、酒ぐらいならありますぜ」
「それはありがたい。天ぷらか……」
将翁が住み込みの小者に食事の用意を頼むと、ややあって料理が出された。
江戸市中では屋台などで魚の天ぷらが売っているが、ここでは薬草の天ぷらである。ほろ苦くて山菜のようで、酒によく合った。また、当時天ぷらの衣はかなり分厚いので案外に腹に溜まるものである。
舌鼓を打ち、八卦炉は一晩寝かせることにして酒を酌み交わして寝床に付くのであった。
「……それで、九郎殿」
「……なんだ」
「……加齢臭はしないですよね」
「……しないから安心しておけ」
********
翌日。
八卦炉を開けると九郎も親しんだカレーの匂いが香ばしいカレー粉が完成していた。
「とりあえず二人で味見をしてみるか。材料を集めねばな」
「例えばどのような?」
「人参とか……」
「高麗人参ならありますが」
「いや、そんな心臓に効きそうなやつではなく──っと、西洋人参は入っておらぬのか」
「食用ということなら、京人参で代用しましょう」
将翁が薬草園の一部に植えてある、赤みの強い人参を取ってきた。[金時人参]などとも呼ばれる、京都で栽培されている人参である。
西洋人参が普及するのは明治時代になってからで、それまでは京人参か薬効目的の御種人参が主であった。
「他には玉葱とか……」
「玉……葱?」
「こう、丸くて茶色い薄皮があり、中は白い葱なのだが……無いか?」
「見たことないですねえ……」
「お主が無いというのならば、本当に無いのだろうなあ日本に」
「根深で代用できませんかね」
玉葱は中央アジア原産とされているが、中国付近にも何故かあまり伝わっていなかったようだ。
日本に観賞用植物として入ってきた記録が残されているのは明和7年(1770年)のこと、作中より五十年は先である。
「後は賛否あるだろうが、ジャガイモなど」
「じゃが……ああ、じゃがたら芋ですか」
「おお、あるのだな」
「……蝦夷地の瀬棚で栽培されているのを見たことがあるのですが……そこ以外は」
「材料欲しさに蝦夷地まで行くのはやめておくか……」
本格的な栽培が始まるのは百年以上先であり、1707年に瀬棚で栽培をしていた者が居るという記録にのみ残るだけである。
「他には肉……この前豚肉残しておけば良かったが、鳥肉でも構わぬかこの際」
「でしたら、ここに丁度若鶏が居ますので買ってしまいましょうか」
「烏骨鶏も居るのではないか?」
「あれは貴重なので……それに、肉が真っ黒ですからあまり食欲を誘うものでもありませんぜ」
「出汁はどうするかのう。鶏ガラ煮込んでおったら二刻は掛かる」
「ここは一つ、昆布と鰹節の基本的な出汁でよろしいんじゃないでしょうか。不味くはならないと思います、よ」
そうして相談し、分担して二人は料理の準備を始めた。
鍋に出汁を張って用意し、別の鍋で具材とカレー粉を炒める。
具材は新鮮な若鶏の肉。江戸で食われる鶏肉の多くは、卵を取る用の鶏が老いたものを使うのでバサバサとしているが若鶏は脂の付き方が違う。
皮の部分を切って鍋の底に菜箸で塗りつけるようにして熱すると、じゅわりと鶏油が溢れ出て脂を鍋に塗りつける。
そこに切った根深葱を投入して熱を加えつつ、脂を葱の隙間に染み込ませて旨味を増させる。
細かく刻んだ金時人参は甘みを出すのに適している。カレーは野菜の甘みでまろやかになるのだ。肉のみのカレーや、カレールウをお湯で溶いて食べるだけの貧乏カレーを作ると異様にしょっぱく感じられるのは野菜が無いからである。
火を具材に通しながら、カレー粉をふりかけて味をつける。油で熱されたカレー粉のスパイス香がもわりと上がり、九郎の胃袋が空腹を訴えた。
それから出汁を入れて味を馴染ませる。また、このままではスープカレーのようなシャバシャバなので、増粘剤として溶いた片栗粉を入れて仕上げに混ぜた。
出来上がりを九郎が改めて確認をする。
鶏肉と長葱の入った、昆布鰹節出汁で溶いたスープに片栗粉でとろみを付けたもの。
「カレーうどんの汁だこれ」
カレー粉を作るまでは完全に欧風の雰囲気を保っていたのに、カレーソースになる段階で思いっきり和風に引き寄せられていた。
将翁はどろどろしたカレー汁を見ながら、
「……では、うどんでも茹でますか」
そう云って、結局二人でカレーうどんを食べることにしたのであった。
汁の一滴まで飲み干して、二人は浮かんだ汗を拭った。
味はとても良かったのだがさすがに漢方薬を焙煎して作ったカレー。胃の腑から熱が湧き出るようで、汗も出てきた。とろみがついているのでじわりと粘膜にそのまま染み付くようで、かつ腹にもどっしりと溜まる。
「旨かったのう」
「ええ。しかし、薬に慣れているあたしや九郎殿が食べてもこの薬効。ちょいと皆様には厳しいかもしれませんね」
「まあ……辛くて食えぬと云われては勿体無いしのう。高いのだから」
自分らとスフィぐらいだろうか、まともに食べられそうなのはと九郎が算段していと、
「ああ、良かった」
将翁が感慨深そうにつぶやくので九郎が彼女の方を向く。
「何かあったのか? 己れを驚かすためなどといい、カレーを作ろうと考えたのは」
「いえね」
彼女は狐面を外して素顔になりながら、汗を浮かべた顔で薬草園の遠くを見ていた。
「作りたかったんですよ。[阿部将翁]では作れない、作らない、そんな何か──」
「……」
「不合理でも、金の無駄遣いでも──他の[阿部将翁]では作ろうと思わないし、ならば九郎殿の手伝いも得られない。この[かれえ]は、あたしが作ったものだと。伝承されて作ったものではないと……そう思えて──ああ、良かった」
彼女の──
心の奥底にある素顔が見えたようで、九郎は丼を置いて静かに「そうだのう」と頷いた。
「九郎殿」
「なんだ」
「どうやらあたしはもう、子供ができない体らしい」
「……」
言葉も無かった。これまで散々妙な誘惑をしてきたが、そんな事情を見せたことは無い。
いや、或いはその急変していた態度自体がやけっぱちのようなものだったのかもしれなかった、と九郎は思い至った。
将翁は手を前に伸ばして何かを掴むような仕草をしながら目を細める。
「だけどまだ、こうやって──これからも、九郎殿や他の誰かと、何か大切な物を作り、増やせたなら……きっと意味のある生き方でしょうぜ」
寂しさと希望を混ぜ合わせ、焙煎したような感情を滲ませる将翁に九郎な何とも云えず。
ただ、横に座り後押しするように背中を軽く叩いてやった。
ほんの少しの間だけ、将翁は肩を震わせていた。阿部将翁であって阿部将翁でない、一人の女は肩を震わせていた……
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「それはそうと万に一つ子供が出来る可能性に掛けて、これからたくさん子作り行為はしましょうぜ九郎殿」
「台無しか!」
「告白すると九郎殿に恋の病を掛けられたようです」
「指を差して笑うわ!」
九郎「で、何故子が産めなく?」
将翁「妖狐転化という術を使ったらどうも半人半妖になってしまい……完全に妖怪化してたら大丈夫だったのですが」
九郎「無駄に此奴ファンタジーだ……」