21話『上級薩摩人と一反もめんの話』
「キエエエエエエエエエエエ──!!」
今日も江戸の爽やかな秋晴れの下、猿が断末魔を上げたような叫びが響き渡った。
近くの家屋がビリビリと音波で軋む、雷鳴のような大音響である。小動物程度ならば叫びだけで気絶ないし殺傷可能であり、裂帛の気合は鉄格子をへし折るという。
そんな叫びに身構えた九郎は、一人の薩摩剣士が自分の方へ猿叫と同時に接近してきていることに気づいた。
咄嗟に思考を状況把握と対応に巡らせる。躊躇する時間は一瞬も無い。与えられた時間も僅かだ。
平和な神楽坂の屋敷、その庭にて枯れている庭木を植え替えようかと九郎が佇んでいたところへの奇襲であった。
幸い、周囲に他の巻き添えを食らいそうな女は居ない。
一直線に向かってくる賊は薩摩剣士一人。構えは超攻撃的な[蜻蛉]。防御を捨てて攻撃特化というか、攻撃の為に振り上げたその姿勢だ。そこから防御などに派生することはなく、一撃で振り下ろし相手を打ち倒すのみだ。
更に云えばその相手が持っている刀も薩摩太刀と言われる町中で佩くには長大にして物騒な野太刀であった。攻撃力は構えにより倍、武器の補正で更に倍は掛かってくるだろう。
そして突進力である。
九郎とて幾度と挨拶代わりに薩摩者に襲われたことはあるが、怒り狂った猪の突進を彷彿とさせる彼らの野性味溢れた勢いとは、この襲撃者の接近は異なった。
暴の力を身に宿しつつ、素早い接近の動きは一寸も体幹の狂いが無く、地面を滑るように──尋常ならざる早さで迫ってきている。
(達人か……!)
芋畑で産出される量産型薩摩人ではない。
体を執拗なまでに鍛えに鍛え、ひたすら過酷にいじめ抜いて更にその先──剣術の理をも収めた剣士の動きであった。
そこまで判断するのに一瞬。死の予感に、全身が引きつるような錯覚を覚えた。
疫病風装。風を感知して自動回避を行うその衣は反則のような回避性能を誇るのだが──
切ることを極めた刀の一撃は避けきれないことがある。
目の前の剣士より、晃之介や影兵衛より攻撃の速度は何百倍も早い狂戦士と化した勇者ライブスの、軌道エレベーター主柱を削り出して作った棍棒による連撃は問題なく回避可能なのだが、日本刀による一撃が特殊なのである。
古来、日本刀は儀式により病魔や悪神を祓うことに使われてきた。
その概念が病魔そのものの装備である疫病風装を突破する効果になるのだ。勿論、極めた達人などでなければ発揮できぬ追加効果だが。
「──エエエエエエエエ!!」
叫びが近づく。もはや刹那の猶予も無い。
ノーマルさつまもんの攻撃ならば受け止めることも可能な剛力を九郎は持っているが、この相手ではどうなるか解らぬ。
自動回避も危険が伴う。
生半可な──いや、致命打になりえる迎撃をしても無駄だろうことは明白だった。
考えよりも先に九郎の長年培った生存本能が対応した。
術符フォルダより薄緑色の術符を取り出して前方に放り投げつつ、上位出力で発動させる。
([起風符]──!)
小さな風圧の爆弾と化した術符は、全方位へ暴風を弾けさせる。
体重の軽い人ならば吹き飛ぶ威力だった。しかしそれでも薩摩剣士は突進の速度と質量で突破してくる。
それでも僅かに速度が落ちて──そして九郎の方へも吹き付けた風の勢いで、彼は後方上空へと飛び退った。
「──エエエエエイイ!!」
太刀が振り下ろされる。九郎の眼前であった。
もし斬られたとしても、頭蓋骨の硬さなど意にも掛けぬであろう剣の勢いだ。
鼻先にでも剣が触れれば切断力が伝播し、顔が真っ二つになりそうである。
間一髪、剣の届かぬ空に逃げた九郎は寿命が縮む思いをしながらも油断せずに術符を取り出す。[電撃符]だ。この強力で役立たずな術符との付き合い方も九郎は心得ている。
最初から敵薩摩剣士を狙わずに、牽制のように周囲に細い雷を落とす。目も眩む閃光が相手を照らした。
「動くな」
「──む!?」
当てるために打っているのではないと自分を納得させれば当たらずとも苛立つ要素はない。何故か雷速で放たれる電撃を、ドッジボール感覚で回避する輩が多いので目覚めた使い方だった。
初太刀を躱され、雷による警告を受けた薩摩剣士は──やおら、太刀を腰に収めた。雷に怯えた様子ではない。この時代の人間は──というか、普通は雷を見せられれば超常の力を意識して恐れるはずだが、少なくとも動揺は見受けられなかった。
ようやく九郎も落ち着いて相手の姿を確かめる。
三十半ば程の侍である。丁寧に月代や髭を剃っている確りとした身なりで、顔つきには弛みが一切なく武人といった風貌でありながら、薩摩人に見られる狂乱の色は目に見受けられず静かな眼光で九郎を見上げていた。
農民なのか武士なのか用心棒崩れなのか解らぬ薩摩人ではなく、侍の薩摩人であった。
彼が声を掛けてくる。
「──よか!」
「何もよくねえよ」
思わず素で返す九郎であった。
******
とりあえずもう薩摩人に戦意は無さそうなので家に上げて座敷で向かい合った。
遠慮なく薩摩侍は上がってきて、ばりばりと煎餅を齧り出した。
九郎は頬杖を付きながら彼に問いかける。
「で、何の用だ」
「うむ。おいは島津ン殿様に警護番で仕えちょっモンじゃが──」
「すまぬ。ちょいと待て……方言をなるたけ混ぜんでくれんか。わかりにくい」
「こいでも抑えちょっが、まあよか」
薩摩侍は咳払いをして、言い直した。
「おいは薩摩で新番をやっている者でな。殿の警護として江戸に上がってきていたのだが、そこで任務を頂いた」
「任務?」
声のイントネーションにやや訛りはあるものの、標準語を喋り出したのに感心しながらも九郎は聞き返した。
「妖怪退治じゃ。薩摩の地元に噂のあった妖怪が、江戸にも出るようになった。既に何人か薩摩の武士が返り討ちにあったので、示現流の達者なおいが退治せいと話が回ってきた」
「……まったく心当たりはないが、その妖怪が己れというわけではないよな?」
「ああ、関係なか。ただ薩摩でも秘策を与えてくれる天狗殿が江戸におると噂になっちょって。そいなら妖怪についても何か知ってるかと思うてひとまず声を掛けてみたわけじゃ」
「強烈な声と共に剣撃がすっ飛んできたわけだが!?」
「ふ──天狗殿は知らんと見えるが」
薩摩侍は得意気な顔をして応えた。
「薩摩の侍が興味があるとは実際切ってみたいと同じ意味じゃ」
「最悪だな!」
「南蛮人とか切ってみたかーって皆云うとる」
「そんなんだから後世で事件が起きるのだ」
凶悪な薩摩人の気質に九郎がぶちぶちと文句を言っていると、サツ子が湯呑みと急須を盆に載せてやってきた。
彼女は一瞬、薩摩侍の方を見て目を軽く見開き、頭を軽く下げて双方に茶を出して深々と礼をする。
そうすると破顔した薩摩侍が懐から麻袋に入った黒砂糖を取り出してサツ子に渡してくる。
「なんじゃおんし、太ぅなったのう~!! ほれ、黒糖でも噛めい!」
「ありがたく頂きます先生」
「よかよか!」
黒砂糖を頬張ったサツ子に、九郎は問いかけた。
「知り合いであったか?」
「こんお人は薩摩じゃ薬丸先生と呼ばれちょる人で、農民にも郷士にも上士様にも尊敬されてごわす。何度か会ったことが」
「あの物騒な剣術の先生か……道理で殺されかけたわけだ……」
「はっはっは。一の太刀を外されるとはな。この薬丸兼雄、さすが天狗殿じゃと感心したぞ」
笑いながら手で剣を振るう動作をして嬉しそうに告げる、薬丸兼雄という侍であった。
まったく九郎にとっては笑い事ではないというか、[起風符]と疫病風装がなければまず死ぬ攻撃であったので気軽に打ち込まれても困るのである。
恐らくは防御不能の一撃であっただろう。受け止めるには彼と同等かそれ以上の研鑽と技術が必要になる。
そして彼は薩摩の示現流で東郷家と並ぶ師範級の達人にして、野太刀を使う古剣術を組み合わせた示現流を使う。
「で、なんであったか。妖怪?」
「おう、そうじゃった。薩摩でここ二十年ばかり、[一反もんめん]という物の怪が出回っている。それが江戸にも現れた」
「[一反もんめん]? というと、あれか」
九郎は彼が育った日本で一番有名な妖怪漫画、アニメに出てくる、白くて長い空を飛ぶ布の妖怪を思い浮かべた。
すると奥の障子を開けて石燕と豊房が部屋に入ってくる。
ここぞとばかりに妖怪の話題が振られるのを待っていたのだろう。得意の解説しようと石燕が口を開いた。
「妖怪の話だね! ようしここは江戸に名高い妖怪生き字引、鳥山石燕の出番──」
「[一反もめん]ね。薩摩の肝付などで有名な妖怪だわ。空を飛んでいる一反の白い木綿布。それが人の首を絞めたり、目隠しをしたりするというもの。元々薩摩辺りでは、お葬式で棺桶を運ぶのに持つ輿の前後に木綿布を垂らして運ぶのね。それが風に飛ばされていくのは物の怪が宿ったからということらしいわ」
石燕の言葉を豊房が遮った。
「そ、それ以外にも全国各地で類話が──」
「空から襲ってきて人の首を絞めたり目隠ししたりする妖怪は各所に見られるわ。佐渡ヶ島の[衾]も布の形で覆いかぶさって視界を奪ってくるところと、お歯黒で噛み切れるところが一緒ね。関東で見られる[野鉄砲]も視界を塞いでくる妖怪だと云われているの」
石燕の言葉を豊房が遮った。
「じ、実はそれらの視界不良妖怪が見られる地域には同一の──」
「佐渡ヶ島に薩摩、それに関東各所は多くの砂鉄が取れるから鉄炉が今もあるか昔はあった形跡が多く見られるのが特徴ね。白煙が空に上がる様を布に見えたり、風向き次第で見つけた人の周りを煙で隠したり呼吸を苦しめたりしたことが妖怪の悪事と見なされたのかもしれないわ」
石燕の言葉を豊房が遮った。
「房ァー!!」
「なによ。鳥山石燕の出番って云ったじゃない。つまりあたしの出番なのだわ」
セリフを全部取られて涙目で豊房に抗議する石燕に、彼女は冷静に返した。
薩摩先生も呆気に取られているが、九郎は豊房に対して「しっかり勉強しておるなあ」と感心している。
この時代、簡単に検索して調べたりはできないのだからその土地土地の出身者に妖怪の話を聞いて自分なりに纏めなくてならない。古来より伝わるものから、マイナー妖怪、創作妖怪に至るまで書き記した鳥山石燕という存在は並々ならぬ知識を蒐集しているのだ。
一方で元石燕とでも云うべき幼女は歯をむき出しにして対抗心を露わにしていた。
「ふ、ふふふ! では房よ。一反もめんの性質をある程度備えた千年以上前の南蛮妖怪との関係性はわかるまい!」
「ちょっと! 南蛮妖怪とか出すのは反則よ」
相手の持っていないチート知識を活かして反撃に出るという、微妙に情けない対抗手段であった。
「[布]で[首を絞め]たり[覆いかぶさって]くるというその妖怪の話が日本に伝来してきて変質し土地の妖怪になったのではないかと私は考察するわけだ! さあ九郎くん! 一体なんの妖怪だと思うね?」
「己れに聞かれてものう……妖怪博士というわけではないし……」
「西洋ではないよ。唐国でも無い」
豊房も必死に考えているが、知らない答えを探すというのは不利極まりないと不満顔だ。
「ううう……広目天?」
「ふむ。確かに広目天は羂索という布のような縄で悪鬼を縛り付けるがそうではないね」
「石燕。妖怪談義もいいが、客人がぽかんとしておるから早めにな」
「むう……あと一刻は答えを出せない房の顔を楽しもうと思ったのだが」
渋々とばかりに石燕は恨めしそうに見ている豊房に、さも自慢げに答えを教える。
「回教に於ける天の御使い[じぶりいる]が一反もめんの正体だよ!」
「危ないネタは止せ!」
咄嗟に九郎は突っ込みを入れた。
回教のジブリール……つまり預言者に啓示を与えた天使ガブリエルのことである。アブラハムの宗教系天使で人気ナンバーワンなやつだ。
意気揚々と石燕は続ける。
「[じぶりいる]は預言者に啓示を与える際に、神の言葉が書かれた布を出して『読め!』と指図した。すると預言者は『何を?』って返事をしたらその布でぐいぐいと首を絞めてきたんだ」
「ツッコミが厳しいの」
「そして開放してからもう一度『読め!』って云ってきたのでやはり『何を?』って返事をした預言者の首をまた布で絞めてきて」
「説明しろよ天使……」
「やがて開放されてから『読め!』って云われた預言者が『何を?』って返事をしたらやはり……」
「これ『はい』って答えないと先に進めないやつだ!」
更に彼女の説明は続く。
「そのあたりは解釈の違いもあってね。別の解釈派では『布で首を絞めたんじゃなくて、覆いかぶさって金縛りにしてきたんだ。流れ事態は合ってる』という派もあるから首を締めるのと覆いかぶさるの属性はばっちりだね」
「話の流れをどうにかしろよ!」
「天井芸なの……」
「ちなみに[じぶりいる]は更に昔の預言者が死んだ際に顔に布を被せた故事もあってね。生粋の布系天使と呼べよう」
布系天使ジブリール、日本で一反もめんになる。
そんな彼女の考察に九郎が疑問を投げかける。
「というか、だとしたらどうしてそんな半端な逸話だけ日本に入って定着しておるのだ」
「[三宝太監]を知っているかね? 明の伝説的な海軍提督にして冒険家、鄭和のことだね。彼の時代は日本と明は貿易をしていたのだが、永楽二年に明の船が日本に訪問する予定の記録が明に残されている。
そこで日本を調べるために北から南まで船で下って寄港したとすればどうだろうか。鄭和自身は回教徒であるし、世界中に貿易網を作るために航海技術を持っていたからね彼らは。そして立ち寄った回教徒が布教のつもりで逸話を残した……」
「どうして明が日本を調べに?」
「[世界の記述]だ。明が滅ぼした元は冒険家マルコポーロと親しく、元皇帝に黄金の国に関しての記録を残していたとすれば海軍強国となった明が日本に興味を持つのも当然ではないかね」
石燕は拳を握りしめて強く主張した。
「というわけで、私は一反もめんと衾に妙な共通点があることに関しては回教の天使が伝わり妖怪に凋落した姿である論を主張しよう!」
「……そうか」
九郎は何度も頷いて、自慢げに胸を張っている石燕の頭を撫で回してから薬丸兼雄と向き直った。
「──それで、一反もめんが江戸に出たと」
「九郎くん!? 私の話を適当に流していないかね!?」
「妄想の域を出ておらぬし……」
「酷い! みたまえ房の反応を!」
面倒くさそうに再び振り向くと、豊房は壁にもたれ掛かって酷くぐったりとしていた。
そして幽霊が紡ぐ恨み言のようにぶつぶつと呟く。
「やられたの……完璧な理論なの……あたしもまだまだなの……」
「おーいフサ子。帰ってこい。あまり本気で信じるでない。お主の知らぬ知識を使って怪しく纏めただけだぞ」
「後世には先生の論を残しておくしかないの……」
「止めろ」
妙な妖怪論が捏造されかけるのを九郎は止めて、サツ子に命じて二人を隣の部屋に連れて行かせた。
危うくイスラム教に喧嘩を売ってるような妖怪の解説が残されるところであった。九郎は僅かに浮かんだ額の汗を拭う。
空気の読める薩摩人である兼雄は何事も無かったかのように話を戻す。
「ここ十年二十年ほど、薩摩の地では何人かが体を叩き切られ首を締められ殺されておる亡骸が見つかっていた。下手人らしき者は何人も捕らえて死罪にしたものの、一向に収まらん」
「さらっと話すが死ぬほど治安悪い事件だよな。何人も犯人が死罪になっておるのも。それと、首を締められるより前に斬り殺されておるのか?」
「おう。示現流の一撃で、肩から脇腹までばっさりが多か。その後で首を締めた痕を付けたみたいじゃ」
「首を締める一反もめんより問答無用で斬り殺される方が恐ろしいが……その後でわざわざ首を締めるのも頭がおかしくて嫌だのう」
何が目的なのだろうか。殺したなら殺したで終われば良いものを、リスクを犯してまで首を絞めていくとは。
或いは一反もめんの仕業だと噂を流すためか、本当に一反もめんか。後者の場合[示現流で襲い掛かってくる一反もめん]という物理攻撃特化な妖怪が居るということで非常に怖いのだが。
「一反もめんというか、気狂いの示現流首絞め魔がいるといったところではないのか?」
「ところが、事件に前後して目撃者が『白木綿が飛んでいた』とか『誰それに絡みついていた』という証言が出ておる」
「ううむ……」
「少なくとも下手人は達人じゃ。切り口を見ればわかるし、中には刀を抜いていたが反撃できずに斬り殺された亡骸もあった。余程の実力差が無ければ一太刀は打ち返すのが薩摩者じゃ」
神妙な顔で彼は付け加える。
「そいが出来ちょらん。そうなれば敵奴は、物の怪の類じゃ」
「ふむ……たとえ相手が物の怪でも気狂いの殺人鬼でも、江戸に現れたとなると危ないのう」
「今んとこは江戸で薩摩の士が三人殺されて、表沙汰にできんから病死とした。許せんやつじゃ。おいに藩命が下った以上はもう殺させん」
「薩摩人ばかりを狙うか……」
九郎も同じ屋敷に暮らすサツ子以外にも、鹿屋黒右衛門にでも被害が及びそうならば見過ごせない事件であった。
「鹿屋に話を聞いて、不可思議な力を使い空を飛ぶ天狗殿ならば一反もんめんも見つけやすかと思うて頼みに来たところじゃ」
「いきなり斬りかかられたが」
「あれを躱すようなら本物じゃっど。よかよか」
「何一つよくねえよ。江戸に新たな事件発生の危機だったわ」
噂の天狗が本物かどうか試すために斬りかかるのは迷惑どころの話ではない。
不満そうにしている九郎に、兼雄は小判を十枚包んだ紙を差し出した。
「おいの俸禄は二百石取りで金をよう持っちょらん。こん役目を引き受けた以上、事件を鎮めねば腹を切る積もりじゃ。どうか江戸の天狗殿、協力してくれんじゃろうか」
威張っていそうな薩摩武士が頭を下げて頼んでくるのだから九郎はどうも逆に気後れした。
二百石とはいえ、新番は立派な城下士の役職である。普段九郎が付き合いのある足軽身分以下とは立場が大きく違う。だが薬丸兼雄は剣術のみならず学に長けた男であり、協力者を募った方が理にかなうという己の考えを躊躇わず実行する行動力もあった。
「……わかった。斬りかかったことはともかく、なんとか手助けはしてみよう。ひとまずどうするのだ?」
「暫く薩摩の士らは出歩かんように云うちょるから、おいが人通りの少ない場所を進むので天狗殿は見張っちょってくれ。一反もんめんを見つけたらすぐに教えてくいや」
「それに誘われてくれれば良いがのう」
ひとまずは兼雄のその案に頷いて、早速出かけることにした。
なお妖怪のことならと石燕と豊房が付いてこようとしたが、
「おなごんしは危なか」
と、バッサリ兼雄に拒否されて留守番となった。
*********
薬丸兼雄の職、新番とはつまり藩主の警護をする馬廻衆のようなものである。
ただでさえ藩主が出歩く際には馬なり輿なりの側に付いて警護をし、更に示現流に達人ともなれば自然と足腰は頑強となっている。
つまり江戸の街を一日中歩き通したところでびくともしない体力があった。
一反もめんが襲うのは被害者が一人のとき、襲う時間帯はまちまちだが夕暮れ時が一番多いとのことでとりあえず日が落ちるまで兼雄はひたすら歩き続け、九郎は透明化して空から周囲を見張っていた。
時折降りて休息を提言したり、向かう方向を相談したりしながら二人は斬殺首絞め魔を探す。
影兵衛などを呼べば喜んで探し回ってくれそうだが、
「薩摩の事じゃっど」
と、兼雄が云うように薩摩で解決せねば意味がないことでもある。それに、襲われるのは今のところ薩摩人ばかりだ。江戸の狂犬を放っても獲物が掛かるとは限らない。
探しながらも、九郎は通りかかった知り合いから情報を集めてみた。
昼夜、風烈廻りとして江戸の街を歩いている小山内伯太郎曰く、
「空に飛んでいる木綿布? うーん……風の強い日に見たような記憶があるけど、そういう日は洗濯物も飛ばされるからなあ」
瓦版を配達しているお花は、
「白い布ですか……そう云えば誰か長いのを身につけて走ってるのを見た気がしますけど、古い忍びの鍛錬だなあと思ってあんまり気に留めませんでしたね。事件ですか!?」
と、証言があった。
何も集まらないかと思ったら、案外に見間違いも含めて江戸でも目撃情報に近いものがあるようで、兼雄は気を引き締める。
「とは云っても、元は田舎にてもんめんが飛んでいるから目立つわけで江戸の街ではよくあることかもしれんがっさ」
「そうだのう……」
などと言いながら一日目の探索を終えてお互いに帰宅した。
屋敷にて皆と九郎は相談をする。
「一反もめんが襲いやすい相手というのはおらんのか?」
「特に無かったとは思うね。逆に、お歯黒を塗った歯は噛み切られるというのでそれを付けてると襲われないと思うけれど」
「ああ、それは兼雄からも聞いた。誘っておるのに付けてもどうしようもないからあやつもしておらぬが」
「じゃあ出たらどうするのよ」
「示現流で叩き切るそうだ」
「強引すぎる……」
除霊(物理)の解決法である。
しかし、九郎の疫病風装に効果があったように日本刀に霊祓いの効果はあることはあるので、効果が無いとは一概に云えない。実際に刀で斬り殺して退治した、という妖怪の例は多々ある。
相手がただの殺人鬼であっても、示現流の達人である兼雄に掛かればひとたまりもあるまい。
「薩摩で起きた事件が江戸でも起きているというのが不気味なのだがのう……もし犯人が居るとすれば、参勤交代でついてくる武士などに限られるであろう」
「或いは鹿屋の関係者とかね。そう気軽に人が行き来できる距離ではないから」
「うーみゅ、よくわからんがなんなら私が魔物を呼ぶ口笛でも吹いてみるかえ? 案外寄ってくるかもしれんぞ」
スフィの提案に九郎は即座に制止した。
「それは止めておけスフィ。何が呼ばれるかまったく制御できぬであろう、お主のそれ」
「そうじゃのー……江戸に出現する可能性のある妖怪悪霊の類が区別なくこの屋敷を襲ってくるかもしれん」
「やめて」
「お願い」
ダンジョンでレアな魔物を呼び出す際に使ってみたらモンスターハウスのような状況に突入したことがあったのだ。
妖怪博士の二人も被害が集中しそうな提案には顔を青くして止めた。
「はー、しかし危なそうならサツ子は暫く留守番にした方がいいでありますな」
「誰かと一緒ならば大丈夫だとは思うが……念のためにそうした方がいいだろうな」
「了解であります! サツ子! お前には自分が新たな仕事を与えるであります!」
びしりと手を上げて返事をした夕鶴がサツ子に向き直り、勢い良く告げる。
サツ子の方は首を傾げつつ聞いた。
「なんすっと?」
そうすると夕鶴はサツ子の前に細い足を着物の裾から放り出すと、
「自分の足の爪を噛んで切るでありま──あうっ!?」
九郎は夕鶴のうなじに手刀を入れて言葉を途切れさせた。
彼女が首筋を擦りながら痛そうにしているところで、九郎が声を低くして唸る。
「何処でそんな変態行為を覚えた」
「ううう……この前、将翁さんと花札で負け続けた挙句の罰にやらされたでありますう……」
「ろくな事せんなあの両刀淫魔は。しかもこんな時に限っておらぬし」
阿部将翁は屋敷を留守にしていた。薬の売買から薬草畑の管理、生薬の仕入れなど彼女は本業で屋敷を空けていることも多い。
「とにかく、明日も薬丸兼雄に付いて一反もめんを探し回ってくる。お主らも危ないところには近づかぬように」
そう告げて一日目を終えた。
*******
翌日も大した成果は得られぬままであったが、一反もめんの薩摩で云われた噂について兼雄から聞くことが出来た。
「この一反もんめんは伊集院様の怨霊じゃと囁かれちょった」
「伊集院様?」
「伊集院久明様という、藩の重役で示現流の達人じゃったお人じゃ。そんお人が亡くなってから一反もんめんが出るようになり、示現流の太刀筋で暴れちょるもんでそんな噂が立った」
「ふむ……」
「久明様はおいの師匠の師匠に当たるお人じゃ。妙な噂を立てられるのは許されん」
示現流の達人であった伊集院久明が死後に悪く云われているのも複雑な事情が絡んでいることではある。
東郷重位によって薩摩に広められたとされる示現流であるが、その三代目重利の高弟であったのが伊集院久明である。
腕前は申し分なく、家禄も十分なのだが彼が病の重利に代わり、その息子である四代目東郷実満に示現流を相伝したところ、本人の気質も関係していたのだろうがそこまで上達しなかったのである。
示現流宗家の面目が凋落したとも云える。おまけに、実満の子らはお家争いを初めて片方は遠島送りになったり、拝領された道場が出火したりと色々東郷家は大変な節目にあったのがこの頃である。
ケチの付け始めとでも云うべき伊集院久明は、それ故に示現流の物の怪が行う事件に持ち出されたのであった。
「おいの剣友である位照殿がおらん間はおいが守らにゃならん」
「位照とは?」
「東郷宗家の剣士じゃったが、問題を起こして廃嫡され大島に流された。腕前はおいと並んじょったのに」
「ふーむ……色々薩摩も大変なのだのう」
更にその後になると、東郷宗家の五代目を薬丸兼雄の父親であり更に達人な薬丸兼慶が鍛えるという複雑な模様になるのだが、それはさておき。
二日目の探索も終えて、翌三日目。
兼雄は九郎と合流したとき、もう一人の協力者を連れていた。
山伏服と狩衣をあわせたような奇妙な着物に、高下駄。背中には薬箪笥を背負い、顔の横には狐面を付けている──
頭が禿げ上がり、雪のような眉毛で目元が隠れた老爺だった。
「どうも。阿部将翁です、ぜ」
「じっ爺になっておる……」
様々な形態があるうちで九郎が見たことのなかった、阿部将翁老人形態だった。
美男美女の面影はまったくなく、寺の住職を長年やっている老人といったような普通の爺である。
ふと九郎は、この爺がうら若き乙女に足の爪を噛ませようとしてたらとんでもねえなと連想された。
「薩摩じゃ呪いもようやっちょる。こん呪い師に頼んでみようぞ」
「──というわけで、ちょいと占って見ましょうかね」
将翁老人はそう告げると、茶屋の腰掛けに座り荷物を広げた。
折りたたまれた紙片を無数にディーラーのように並べて二人に見せる。
「この紙には吉となる方角が記されております。これを一升の米が入った箱の中に入れて、混ぜ合わせる」
「米は?」
「紙への捧げ物として後で奉納するのですよ。そして人の穢れを入れぬよう、千枚通しで一枚を刺し選ぶ……」
彼は慣れた手つきで取り出した細い突き棒にて、米と紙片の混ざりあったところから紙を取り出した。
それをゆっくりと広げて見せる。
「──浅草裏、とありますぜ」
「よか。行こう」
「わかった」
「……そうだ、念のためにあたしも離れて付いて行かせて貰います、よ」
「無理すんでなかぞ、爺さま」
それだけ云って、兼雄は肩で風切るように早足で浅草裏へと向かっていった。
人通りが多く江戸の観光地にして歓楽街でもある、浅草上野に新吉原がある付近だがそれ以外は少し歩けば農村のようなものであった。
あまり早足で歩いても出てくるとは限らぬと助言して、ゆっくり歩く兼雄を見下ろしながら九郎も周囲を見回す。
布切れが飛んでいればすぐにわかるはずであった。
かなり離れた視界の外れには距離を置いてついてくる将翁の姿も見える。
当然と云うべきか、中々に一反もめんは姿を表さない。
九郎は若い頃にテレビで見た、幻の珍獣を探す探検隊の気分になりつつあった。ダンボールみたいな質感の岩が転がってきたり、かがんだら手に蠍が乗ったりしてくるやつだ。どうしても目的のものが見つかるエンドが思い出せずに九郎はその想像を振り払った。
夕刻になれば更に人気は無くなり、周囲の畑からも農民が居なくなっていく。
何か兼雄が手招きをしているので降りて話を聞く。
「何か誘い出す方法は無かか」
「ううむ……そうだのう。お主、そこらで示現流の鍛錬をしてはどうだ? 一反もめんが薩摩人を探しておるなら、それにおびき寄せられるやもしれん」
「よか方法じゃ!」
九郎も自分で云っててどうかと思うような方法だが、何故か兼雄は気に入ったようである。
彼は手頃な大きさの枝を刀で無造作に切り飛ばし、余計な枝を払って握りを削り簡易的な木剣を作り上げた。
そして生木である銀杏の大木に向けて、
「キエエエエエエエイ!!」
と、猿叫を夕暮れに響かせて乱打した。
勢いに、九郎は見ていて引く。
腹の底から呼気を吐きながら立ち木を打ち砕かんと殴る鍛錬は、一撃一撃が重く叫びにも容赦がないので案外すぐに息切れする。
なのだが、兼雄は一度の叫びの間に樹皮を砕く打ち込みを四十は入れているのだ。九郎が何度か見た薩摩人の倍はある。
一撃一撃に腰が入っている。当たれば死ぬ勢いをそれだけ続けているということは、その気になれば兼雄は一度の叫びで四十人を斬殺してのける剣を持っているということだ。
狂ったように叫び、尋常ならざる速度で銀杏の木を乱打する姿はそれこそが妖怪のようだった。そして気まぐれに選ばれた銀杏は残念だが、このままでは幹をやられて枯れるだろう。九郎は打ち込みの衝撃で落ちる銀杏を拾いながら物言わぬ木の運命に哀悼の意を送った。
「エエエエエエエイ!!」
幾度となく打撃の嵐は続く。鍛え抜かれた彼の手の皮は、即席の木剣で木よ倒れろとばかりに打ち込んでも血豆どころか痺れすら起きない。
徐々に暗くなりつつある浅草裏の畑道に、猿叫と木があげる悲鳴のような打撃音だけが響いている。
その時。
匂いが、した。血の匂いだ。
感じ取った兼雄も九郎と同時に振り向くと、そこには白い影が。
いや、白い布を首に巻きつけている男が一人、居た。
妖怪とて薩摩──同じ薩摩の空気に引き寄せられるは当然か。
言葉は無かった。男は駆け寄ってくる。手には抜き放った刀が、蜻蛉の位置に振り上げられていた。
兼雄が木剣を放り捨てるが、彼はまだ二本を腰に差したままだ。九郎が身構える。
「退けッッ!」
兼雄から発せられたのは有無を云わせぬ言葉の力であった。九郎は襲撃者と兼雄の間から飛び退って離れる。
恐るべき速さで襲撃者は来る。ただし猿叫は無かった。目だけがぎらぎらとしていて、兼雄を真っ直ぐに見ていた。
まだ兼雄は抜いていない。双方の距離が間合いに入る。
う、とか、あ、とか云う言語化出来ぬような叫びを上げて襲撃者は刀を振り下ろした。
それに対して兼雄は身を捻りながら、太刀を真下から上に切り上げるようにして居合抜きを放つ。
示現流の[抜き]である。
対鎧武者が想定されているこの技は、股下から臍へ切り上げる軌道で刀を抜き打ちする。
体捌きにより上段の一撃を避けて放った兼雄の攻撃は、相手の両腕も巻き込んで股から横腹を切り抜き致命傷を与えた。
走ってきた勢いで、分割された体をばらばらと散らしながら即死した襲撃者が倒れる。
「──天狗殿! 一反もんめんが逃げっど!」
一瞬の交錯に気を取られていた九郎が兼雄から指摘され、空へと飛んでいく木綿布を掴もうとした。
しかし九郎の手をするりと抜けて更に上空へ飛んでいこうとする。
その時、ぽつぽつと九郎が手に雨粒を感じたと思ったらにわか雨が振り出し、打ち付けられたように木綿布が動きを止める。
「おっと占いそびれちまってた──雨が降りますぜ」
将翁の声が聞こえたが、そちらを向くよりも際に一反もめんを掴み取る。
手で触れたと思った布は彼の首に掛かり、締め上げだした。
「んなっ!?」
本物の妖怪か、と九郎は慌てて己の刀を抜いて、首をぎゅうぎゅうと締める木綿布を切り裂こうとする。
が、九郎の刀が僅かに刺さった瞬間にその意思を持って動いていたかのような布は力を失った。
訝しそうに首から外しつつ、九郎は地面に降り立って勝手に飛んでいかないよう刀で土に突き刺した。
「おやおや、お歯黒も用意していたのですが、ね」
老人将翁がいつの間にか近づいてきて、黒黒とした歯を見せて笑った。
「そこらの妖怪では、平安京の大魔王が作った刀の威光には敵わないということで」
「よくわからんが……先生よ、そやつは?」
九郎が問いかけると、亡骸を検分していた兼雄は立ち上がって苦い顔をした。
遺体は五十絡みの頑健な体をした侍であった。
「……ああ、知り合いじゃ。東郷家の親戚の武士じゃ」
「どうして其奴が……」
「さてな。一反もんめんの噂を広げて久明様への意趣返しか、自分の力で暴れて今の乱れている東郷宗家への意趣返しか……」
兼雄は大きくため息を吐いて、寂しそうに呟く。
「おいとしては──此奴も一反もんめんに取り憑かれちょっただけじゃと思いたかなあ……」
襲撃者の目は殆ど正気を失っているようにも見えた。
薩摩の国で犯行を重ねるだけではなく、こうして江戸に出てまで凶行を行うにはリスクが高い。
そうなれば、やはり何かに取り憑かれて衝動に突き動かされ、このような結末になったのだろうか。
それはもう──妖怪の仕業としか云いようが無く思えた。
「……おい、将翁。この一反もめんはもう大丈夫か?」
地面に刺していた木綿布を引っ張りあげて将翁に見せる。
「どれどれ……ふむ、問題無いでしょう。これはただの布です」
「さっきは妙に動いたが……」
「ただの布でも、強く恨みを溜め込めば動くこともあるでしょうよ。幽霊の正体見たり枯れ尾花とは云いますがね、近づいた枯れ尾花が顔を撫でてくれば、それはやはり幽霊の仕業だと人は思うものだ」
「恨みの篭った布は何らかの偶然で首に巻き付きやすくなると?」
「器物の動きに意味を付けるのが呪というものでして。これは何の関係も無い者にとってはただの血の匂いが染み込んだ木綿布でしかなく、たしかに薩摩武士にとっては一反もんめんも亡骸なのです」
「今は動かぬのか?」
「九郎殿がその刀でこれを刺したことで、あたしが呪を断ち切りましたのでね。呪の本体であるそちらの方も亡くなり、一反もめんはもう動かない」
老人に云われると含蓄があるように聞こえるのは、普段の将翁が隙あらば助平な話を割り込ませてくるからだろうか。
そんなことを思いつつ、九郎は布を兼雄に渡した。
「……ともあれ、事件は解決したのだ。後はどう報告するかはお主に任せよう」
「……うむ。世話んなったのう」
「殆どお主がぶった切っただけだから気にするでない」
九郎は手を振って軽くそう告げると、兼雄も優しげな顔をして頷いた。
「……ところで天狗殿ところで奉公しちょる娘」
「サツ子か? どうした?」
「あれはおいの親戚じゃからちゃんと面倒みてくいや」
「……あ、ああ」
「何かあったらうっ殺しに行くから」
「止めてくれぬか。犯行予告は」
微妙な縁を暴露されつつ、九郎はひとまず兼雄と分かれて歩いて行くのであった。
道中は老人の将翁と途中まで一緒だったが、彼からこう告げられた。
「ところで九郎殿」
「うむ? なんだ?」
「お宅で世話になっている阿部将翁のことですが……」
「遠回しな言い方だのう。どうした?」
老人は眉毛で目元の見えない顔を、更に狐面で隠しながら云う。
「あれは我らから外れた存在になったので、ご安心を」
「は?」
要領を掴めぬ言葉に問い返す。
「我らは元々京に居た一族だったんですがね、お家争いに負けて陸奥へと引っ込みまして。そこで薬草づくりや京に送り込む陰陽師の教育をしていたわけですが……」
「阿部将翁村、陸奥にあったのか……」
「代々記憶の継承──なあに、そう深く考える必要はございません。先代までが溜めた知識を全て身につけると思っていただければ──をしていたわけで、おおよそ一族の皆が同じ知識と似た思考になっている同一とも云える存在なわけです」
「ほう」
「日本各地を旅する中で手に入れた知識も、すぐに共有するようにしているのですが……」
老人は本題だとばかりに枯れ枝のような指を立てた。
「九郎殿に構っている阿部将翁は、既にその輪から外れておりまして」
「……どうしてだ?」
「本人たっての希望とあらばほら……断るのもなんじゃありませんか。あなた、野暮というものですよ」
「変な気を効かせておるな!?」
狐面は喉の奥でくくくと笑って、
「なので九郎殿もどうか他の阿部将翁に気兼ねなくあれと付き合ってください。……それと、あれがそうだからといって他の阿部将翁は決してド助平ではありませんので勘違いなさらぬよう」
「なんか後者が嫌で切り捨てた感あるのう」
「それでは」
かつ、かつと高下駄を鳴らして老人は九郎に背を向け、去っていった。
九郎はそれを見送りながら、どことなく肩を落として軽く頭を抱える。
「何か以前より暴走気味だと思うておったら、将翁のやつ……あの個体だけ独自進化をしておるのか……」
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その後、薩摩藩でどのような沙汰があったか九郎は知らない。
だがこの事件で九郎の薩摩人の間での評判がまた上がったようではあった。
それはさておき、
「九郎殿、どうされました? 物憂げな顔で……」
「いいや……たまには真面目な阿部将翁を見たなあと思いつつもこいつじゃないんだなあと思ってのう」
「なあに悩み事なんざ、一旦脇に置いておきましょうぜ。元気がないならどうですかい。胸を揉むと元気になると市中じゃ噂らしいですが」
「揉まん」
「おやおや……これが本当の[一旦揉めん]──なんてね」
「酷い洒落だのう……」
セクハラを噛ましてくる阿部将翁に、ため息を吐くのであった。
将翁ちゃんも必要とあらば真面目モードには入れるんや!
たぶん……