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85話『八枚のお札と飛縁魔』



「人間は──」


 江戸の最も高い場所で、そう呟く男が居た。

 いや、男かはわからない。顔には燃える珊瑚をあしらったような面をつけており、襤褸切れを纏って見える手足は枯れ木のようであった。ただ、声は低い男の声であった。

 そもそも人間かどうかも知れない。

 彼の眼前には、あちこちに燃え広がる江戸が見えた。煽動して組織し、惑わして狂わせた江戸の火付け衆を使った同時放火である。 

 一万人の人が集まれば一人は狂人が居る。

 なれば、百万集まるこの江戸の街で、百人の放火魔を作るのは容易いことであった。

 男の声が続く。


「大凡二つの概念によって生きてきた。破壊と創造だ。陳腐な言い方かもしれないが、言い古されているからこそつまらぬほどにその通りなのだから仕方あるまい」

 

 指をゆるく立てて、誰にとなく云う。


「人の歴史では破壊と創造は、火や病とも云える。人は火に焼かれ、火で土を焼き。病に倒れ死に、病を堪えて耐性を得て過ごしてきた」


 だが、と云う。


「同時に決して克服できないのが火と病。いかなる未来でも、火で炙られれば人は死に、万病を癒やす薬は現れない……さて」

  

 江戸城天守閣の上でそう唱えた男の背後には、金眼四つ目の模様が描かれた狐面を被った男が力なく倒れている。

 手足が沸騰したようにぶくぶくに皮膚の内側から膨れ上がり、汚泥の如きものを垂れ流して異臭を放つ。近くには男の持っていた矛が墓標の如く突き刺さっていた。

 一人ではない。

 三人の狐面が全身をぐずぐずに損壊させて腐らせながら生きているのか死んでいるのかすらわからぬ状態であった。


「直接に会うのは久しぶりだな……阿部、はて。阿部──なんと呼ぼうか」

「……」


 男──阿部将翁は黙ったまま、一人だけが顔を上げて狐面を朱面の者に向ける。


「不死を求めた阿部御主人か、鬼となった阿部仲麻呂か、鬼祓いの安倍晴明か。それとも単なる九尾狐と呼ぼうか。魂を分化して継承する術を使う生き汚く醜い、不完全な不老不死者よ」

「……」


 将翁のかつての名──。

 今より千年の昔を生きていた、先祖であり本人でもある者達であった。

 最初は偶然の憑依に気づいた。阿倍仲麻呂は同じ阿部氏であった阿倍御主人の魂が幼い頃に己に入り込んだ事に気づき、それを同化させた。

 次は更に死後明確に霊鬼となった。鬼となった阿部仲麻呂は友人であった吉備真備の協力を得て、九尾狐に取り憑いて日本に戻った。

 それから阿部一族に戻り、転生を重ねて陰陽師になり、学者になり、旅人にもなった。そうして彼は長い年月を、同じ魂の記憶を重ねたまま生きてきたのである。

 将翁が遥か昔に出会ってこともある陰陽師──道摩法師の成れの果ては言葉を続けた。


「時間とともに魂の可能性は濁り、何も創造をできぬようになり朽ちていく。それでも人としての生を続ける意味などあるのか、小さき者よ」

「生憎と……」


 苦しげに、将翁は狐面の下から声を出した。


「あたしゃ、大層な考えがあってのことじゃないんで、ね。昔、友人が詩で咏った……美しい世界とやらをずっと見ていたいだけだ」

「ふむ。李白か。だが奴も病で死んだ」

「そう……人は病には勝てぬ。だが、抗うことができる……」


 腫れ、爛れた手を伸ばして矛を掴み、それを杖に将翁は立ち上がる。


「面に封じられし、疫病の鬼よ。方相氏として祓い、鎮めてくれる」

「まあどうでも良い。余興である」


 道摩無法師は升のような箱を取り出した。

 古びた鉄や皮などを材料に使われた奇妙な紋様の立方体である。


「この地に眠る怨霊の鎧より作った[小匣]。この中に収める、未来永劫果て無き病の糧となりたまえ」

「いくぞ」


 将翁が矛を持ち、道摩無法師に挑みかかった──。

 大火の起こっている江戸を見渡す城の上でのことであった……。




 ******





 九郎は疫病風装で飛行しながら江戸の市中上空に戻り、遠目からではわからなかった火事の状況を把握しようとした。

 見下ろす眼前には濃い煙と町火消の大騒動、逃げる人が大移動をしており混乱の極みにある。

 そして火元は、


「あちこちから火が出ておる。飛び火ではない、同時放火か」

 

 何処が燃えているのか、夜の江戸を上から見た限りではわかりにくい程の騒動であった。

 火消しが現場に複数到着して喧嘩すら始まっているところもあり、またそれにより放置され延焼が広がっている火災現場もある。

 道摩無法師が煽動し洗脳した犯罪者百名が恨みのあるところや密集地に無秩序に放火を行っている。桜田門外、旗本屋敷の集まる番町、小石川、八丁堀、吉原、神田、浅草、日本橋、両国などとにかく広域に火災が点在していた。

 

「ええい、わけがわからん。とにかく向かうか」


 空を進めば知り合いの状況を確認して回るのに時間はそう取られないだろう。

 緑のむじな亭は元火消しであった六科が居るから最悪の事態にはなるまい。

 あの男ならば適切な判断ができるだろう。こう云うときにこそ役に立つ男だ。

 そう信頼して九郎はひとまず四谷にある火盗改の同心長屋へ向かった。

 まず確実に一家を守るべき夫が居ないのが、負傷している中山影兵衛と美樹本善治である。目の前で二人共すぐには駆けつけられぬ状況になっただけあって、九郎は彼らが倒れている間に家族に何かあれば、


「とんでもないことだ」


 そう呟いて風を切り進む。

 やはり恨みを持って放火しているようで、四谷にある火盗改方で妻帯している同心、与力が使う長屋にも火の手が上がっているようだ。

 九郎が舞い降りたがまだここは火消しの手も入っていない。だが大勢が不安そうに燃え広がる長屋から離れて見ていた。

 見回して、赤子を抱いた女を見つけ肩をつかむ。

 影兵衛の妻の睦月であった。


「おい、大丈夫か!?」

「あっ……九郎ちゃん。私は大丈夫だけれど……旦那様は一緒じゃなかった!?」

「影兵衛は平気だ。そのうち戻ってくる。良いか、市中はどこも大騒ぎで危ないから、避難するなら千駄ヶ谷の方へ行くのだぞ。あそこは火が付いていなかった」

「うん……でも、燃えて、どうしよう……」


 さすがに家が目の前で燃えているのを見て不安そうにしている彼女に言い聞かせる。


「お主が怯えていては子供も泣くぞ。見てみろ、影兵衛の子だけあって、この騒動でも泣き叫んでおらぬ。よいか、怪我をせぬように、影兵衛に元気な顔を見せろよ」

「わ、わかったよう」

「では己れは行く……と、その前に。あの長屋には誰も残っておらぬな」

「うん」

「よし、燃え残りは諦めろよ──」


 九郎は腰の術符フォルダから赤い符を取り出し、指で挟んで火事を見守る集団の先頭に行き、差し出した。


「[炎熱符]──上位発動」


 ごう、と九郎の正面から炎と云うよりも熱の奔流が生み出され、それは一定の範囲に広がってその空間を燃やし尽くし、数秒で炎は消えた。

 九郎の出した炎熱符の魔法によって火事現場の酸素が消費尽くされて木造は燃え尽き、炭になって崩れ落ちて後にはちりちりと僅かな火が残るだけであった。

 燃える物を全て燃やして火災を消し止めたのである。火消しも来ていないので、燃え広がる前に緊急処置であった。

 魔力を一時的に使い果たして光を失う術符をフォルダに戻して、九郎は東の空を睨む。


「次は八丁堀か」

 

 あたりの人が唖然としている状況のまま、気にしている暇もなかったので九郎は飛んで行くのであった。


「まるで飛縁魔だ……」


 誰かがそう呟くような、不思議な光景であった。




 ******




 九郎は移動がてら九段下にある藍屋の本店付近や神楽坂には火が付いていないのを確認して速度を増す。

 燃えている眼下を目安にして、目指す八丁堀はその名の通り堀と川に囲まれた地域だが、そこも火事にあっているようだ。

 逃げる人と火消しの移動で橋が埋まり、また近くの日本橋や銀座にも多くの火事が発生しているので完全に混乱状態にある。

 同心が暮らすのは同心長屋とでも云う連なった住宅街だ。ここはちょっとした広さのある家であり、部屋に余裕のある者は他の者を空いた部屋に家賃で貸し出しても良いとされている。

 ここも妻帯者と独身者で住み分けられているが、その妻帯者用の屋敷も徐々に火が回っている状況であった。


「っと」

 

 九郎が勢い良く地面に着地して数歩たたらを踏んだ。

 やはり上から現れた九郎は目を引くが、それで全員の顔がわかりやすい。

 何度か見たことのある美樹本善治の妻と、それに手を引かれた子の姿を確認した。見た目は完全におじさんな善治だが、妻の年は十八ぐらいであり子供は五歳。子供の方は前妻との子であるらしいが、正直両方共娘に見えるような年頃であった。

 九郎は彼女に話しかける。


「全員避難は済んでおるな」

「あなたは御用聞きの……あの、夫をご存知でないですか、帰ってきていないのですが」

「あやつは捕り物で少し怪我をしてな。心配するな、命に別状は無い。ともかく、あちこちで火事が置きておるから子供とはぐれぬように。下手に市中方面へ出ぬ方が良いかも知れぬ」

「はい。そ、それより、長屋の中でまだ瑞葉さんが避難していなくて……」

「なにっ」

「それを聞いた利悟さんが、水を被ってあの燃えているあたりの自分の家に今しがた駆け込んでいって……」

「ええい、手間を掛ける!」


 九郎が宙に舞い、数度入ったことのある利悟の家に回りこむ。しかしあちこち燃えていて、部屋も多いので何処に居るかは見当がつかなかった。

 一方で、部屋の一部さえ燃え始めている彼の家で瑞葉はあちこちから家の物を持ちだそうと集めていた。

 火事が起きた時合は内職の仕事を納品に出かけていて、やや帰りが遅くなっていたのである。その日は利悟は仕事で夜は帰らないと聞いていたのでたまたま家に居なかったのだ。

 帰り着いた彼女は燃える家を見て、すぐに中に駆け込んでいった。


「これと、これと……どこにあったでしょうか……」


 呟いて、咳き込む。煙も家の上には漂っていた。徐々に息苦しくなっていて、これが限度かと思い立ち上がろうとした。

 ぱき、と火が爆ぜる音と共に、ぶわりと部屋の畳に火が燃え広がるのが同時であった。


「あ……」

「阿呆か!」


 叫びと同時に飛び込んできたのは利悟である。

 瑞葉の手を引っ張り、怒り顔でがなり立てる。


「火事の現場に物を取りに戻る馬鹿が居るか!」

「あの、でもこれはいつも利悟さんが大事だって……」


 彼女が集めていて風呂敷に詰められていたのは──利悟の稚児趣味春画コレクションであった。

 割と貴重な物も含まれていてマニアならばかなりの値段がつく物もある。というか、二度と手に入らぬ物も含まれるのだ。

 利悟は酷く動揺した顔で、


「お、おまえ、こんな……いやこれは死ぬほど大事だけど! 大事だけどさあ!」

「利悟さんが、これの為なら命を掛けれるって前々から云っていたので……」

「いやそうだけど! ああもう」


 利悟は春画の包みではなく、瑞葉を両手で抱いて立ち上がる。


「それよりお前の方が大事だっての……! ってうわっ!? 本気でも燃え落ちてきたー!?」


 利悟は自分が最短距離で蹴破って突入してきた道も火で包まれだしているのを見て、口を塞ぐ。

 火事の現場で息が詰まり死ぬのは、良く現場に行くこともある町奉行所所属なら当然知っていた。

 二人が居たのは奥まった部屋であり、壁の一二枚を抜いたからと云ってすぐに外には出られない。

 すると屋根の上あたりから声が響いた。


「利悟! どこだ、大声を出して場所を教えろ!」

「陰毛生えたら有罪ー!!」

「死ね。[精水符]──上位発動」

 

 九郎が上空から上位発動させた、普段は水瓶をゆっくりと満たす程度の水量しか出せない青色の術符から、瞬時に十斗(約百八十リットル)の水が生み出された。

 更にそれを操作して螺旋状に回転をつけて屋根を突き破り、利悟と瑞葉に当てないように周囲に水をまき散らしながら出口まで一直線に水流で破壊して道を作った。訂正する。利悟はちょっと巻き込んだ。

 水が消火しながら道を作り風が吹き込んで呼吸が楽になる。酸欠にはこれでなるまい。利悟はボディーブローを食らったように水流のとばっちりを受けたが、瑞葉を抱いてその道を駆けて外へ出た。

 上位発動で魔力のチャージ状態に入った符を戻して二人の元へ行く。


「大丈夫か?」

「うう、なんか理不尽な暴力が……」

「いや別にお主に聞いたわけではない」

「酷い」


 九郎はやや濡れた瑞葉の頭に軽い拳骨を落として、仕方無さそうに云う。


「自分の命が一番大事だと思えよ。お主は侍でも無いのだ。変な事に命を掛けるな」

「……すみません」

「それと利悟。何だこの火事は。あちこちで起こっておるぞ」


 九郎は事情を知っているのかと町方同心に尋ねた。

 彼は頷いて、


「上方の大阪京都三河あたりで近年大火事が起こりまくってるのは知ってる?」

「はて……そう云えば鹿屋に聞いたような。随分焼けた火事があったとか……」

 

 大阪にも交易の拠点として店を持つ、薩摩との交易商からの話を思い出した。

[妙知焼け]とも云われるその火災は大阪の歴史上、戦争以外では最も被害が大きかった大火災になっていた。

 焼けた建物は一万をゆうに越えて、大阪市街の六割以上を灰燼に帰したと云うとんでもない規模である。

 また、京都や名古屋、高知などでもこの頃大火事が起きている。


「それらの火事を引き起こした、火事場泥棒の[蜘蛛火党]って賊が江戸に入ったってことで町方で捕縛に大勢向かっていたんだけど、それを察知されたか或いはこの火事を起こす予定だったかで拠点はもぬけの殻。そして火事があちこちで起きて奉行様もてんやわんやになって、拙者は嫌な予感がして慌てて戻ってきたんだ」

「成程、善治が云ってたのは、そっちに人員が割かれていたことだったか」

 

 町方の同心与力に従者達も大慌てで方方の火事現場へ向かい状況を纏めねばならないらしい。

 日本橋、銀座なども燃えているのでそれに乗じた火事泥棒も乱発し、もはや誰が蜘蛛火党かもわからぬ程に治安も悪化している。


「では利悟はこの辺りを頼むぞ。火事を消し止めたと見ると再度放火に来るかも知れぬ。怪しい奴はとりあえずしょっぴけよ」

「わかった。九郎は?」

「他を回る」


 告げて再び空に舞い上がる。薄く光を反射して青く輝く衣が、夜空を駆け抜けていった。

 


 

 *****




 八丁堀からすぐ。日本橋も何件か燃えている。

 真っ先に目についたというか耳についたのは石猿が集団で断末魔を上げているような声である。

 堀沿いの店である薩摩の鹿屋が完全に燃え上がった隣の店から延焼を受けかけている。

 こうなれば避難する以外に無いのだが、


「じゃが薩摩もんは違うッッ!!」

「よう見ちょれ!」

「キイイエエエエエ!!!」


 隣の燃え盛る家を叩き壊そうと示現流の上段構えをしたさつまもん達が火をも恐れずに突っ込んでいく!

 自殺行為である。いかに普段桜島の灰をコーティングされているからと云って、薩摩人が火に強いわけではない。

 だが行かねば薩摩武士の覚悟にもとる。

 下級武士どころか上級武士すら、外貨を稼ぐための藩命を受けている店を守るために、隣の店の柱を叩き壊そうと合計七人が突入した。


「死ぬだろうそれ! [起風符]上位発動!」


 突発的な豪風が発生した。

 多少の風では火事を燃え上がらせるのみだが、焼け落ちる寸前であった鹿屋の隣家を九郎の術符から発せられた風は破壊して吹き飛ばす。

 周りに飛び散っては余計に被害が広がるので、堀へ向けて燃えたままの木材や、焼け死ぬ寸前のさつまもん達を暴風でたたき落とした。

 普段はそよ風しか起こせぬ出力の符をここまで使ったのだから暫くは使い物になるまい。魔力を消費した術符を戻す。鹿屋黒右衛門が仰ぎ見ている。


「九郎殿!?」

「落ちた奴らを助けておけ」


 言い残して九郎は次に藍屋の日本橋支店へ向かった。

 お八の実家で九段坂に本店もあるが、どちらも家として使える為に彼女はここに泊まることも多い。

 藍屋は炎のまっただ中にあった。左右の店から挟み込まれるように火炎が攻めて来ており、店に火が燃え移っている。

 幸い店の者は避難をしているが、愕然と燃えていく店を見ていた。


「──九郎か!」


 声が掛かる。そこには長大で無骨な武器を持っている晃之介が駆けて来ているところであった。

 手に持つのは十尺はある狼牙棒である。六天流棒術で使う、実戦用武器であった。

 お互いに視線を交わして言い合う。


「俺は右の火事を止める! 九郎は左を何とかしてくれ!」

「わかった」


 云うと周囲の人を下がらせて晃之介は狼牙棒を地面と水平に持ち構えを取る。

 集まっていた、纏を振り回している荒くれである町火消の者も異様な迫力に思わず身を引く。

 火事現場に他の者が入り込むと喧嘩になりかねないのが常であったが、それどころではないのだ。


「行くぞ……!」


 見るからに凶悪で、普段市中で持ち歩いていたら通報待ったなしな武器だが、このような火事の場では建物を壊す破砕棒にも見えた。

 ずしりと重たい棒に力を込めて薙ぎ払う動きで振りぬく。狼牙棒の先端が薄く雲を引くような、大気を爆発させる疾さを持っていた。

 轟音と共に焼けた家屋の壁が破壊されて燃える室内が露わになった。中に空気が供給される前に、横に振りぬいた遠心力を縦軸の回転方向に変えて、振り下ろす連続の一撃で──家を支える柱を殴り砕く。

 門や壁を破壊する隙などよりも威力を重視した攻撃。


「六天流──[破門]!」


 焼けた店が主柱を失って崩れ落ちた。

 彼の攻撃にしてみれば木造の家屋など障子紙のようである。屋根が力なくぐしゃりと潰れ落ちる。

 続けて反対側では九郎が術符を取り出す。


「炎は温度が無ければ燃えぬ。ロシアの厳冬で薪に火をつけるのに苦労するようにな。[氷結符]──上位発動」


 差し出した薄水色の術符によって周辺の温度が急激に奪われる。

 氷属性の魔法は温度を下降させる能力を主に発揮する。九郎とはやや相性の良い氷の術符は焼けた木材を発火温度以下に下げて炎を消滅させていった。

 晃之介の方とは対照的に、静かに鎮火を行う。

 だがこれで氷結符はその魔力を消耗して暫く使用不能に陥る。

 また、温度を下げて気圧の変化が急速に起こったのか、或いは誰かが雨乞いの儀式でもしたか、雨がぽつりぽつりと降り出し、この周辺ではあられとなっていく。


「うおっ、さっみ。なんか急に冷えてきたぜ師父ー」


 云いながら焼けかけの藍屋から出てきたのは、背中にどっちゃりと高級な布束を風呂敷に放り込んで、胴巻きを重そうにしている少女であった。

 彼女を見て避難していた中から進み出て怒鳴り声が上がる。


「あ゛ー! てめえなに、人の家にドサクサで火事場泥棒カマしてんだおい!」

「馬鹿云うなよ、どうせ焼ける道具を無許可で避難させようとしてただけだろ。って火事治まってんじゃん」

「置いてけー! おーいーてーけー!」


 ほぼ同じ顔体つきの少女がいがみ合う。お七とお八であった。

 むしろ慌てたのがお八の両親や従業員達である。彼らがお七を見るのは初めてであった。


「お、お八が二人!?」

「親なら見分けろよ! 全ッ然違うだろうが! 別人の小泥棒だ、小泥棒!」

「おいおい、道場の後輩に失礼だなーおい」


 父親の藍屋芦川良助がよろよろと進み出てじっとお七を見ながら、


「ま、まさか赤子の頃に鷹に連れ去られた双子の……?」

「いやー普通に考えて赤子が鷹に攫われたら確実に死ぬだろ。常識で考えろよおっさん」


 白けた眼差しのお七である。

 前に彼女がそんなことを云っていた気もしたが、九郎はともあれ、


「晃之介。お主はどう動く」

「俺の道場は外れだから問題ないとして、子興殿の居る石燕殿の屋敷にこれから向かう」

「わかった。まだ神楽坂は火が付いていなかったが、放火魔が居るのだから安心はできぬ。頼んだぞ。己れもむじな亭を確認してからそちらに行く。後で合流しよう」


 九郎とそう言葉を交わすと、晃之介は狼牙棒を立てて持ち人を掻き分けて走り去っていく。

 言い争いをしているお八に近づき、


「すまぬがハチ子よ、己れはこれから家を見てくる。念の為にそのお主のお守り、少し返して貰うがよいな?」

「あ、ああ」

 

 彼女の首に巻いている[快癒符]を受け取り、九郎は空を睨む。


「それと、この火事は放火魔があちこちに居るらしい。日本橋付近にもまだ居るかも知れぬから、火消しや番に伝えて見張らせておけよ」

「わっわかりました」

「ではな」

 

 そう良助に言い残して九郎は再び空へ舞い上がった。

 観衆はどよめいたが、それよりも火事が大事だとばかりにそれぞれが動き始める。

 良助は娘に思わず尋ねた。


「九郎殿はいったい……」

「ああ、そういやまやかしの術を使うとか、仙人みたいなものなんだと」

「ははあ……」


 むしろ合点が云ったとばかりにしきりに頷く良助であった。

 

 緑のむじな亭付近は大捕り物の最中であった。

 盗賊団の一団だか、蜘蛛火党だかがそこに現れたのだが鉢合わせした同心らと戦闘に突入しているのである。

 九郎は悪党に見当をつけて空中から重力加速を込めた飛び蹴りを浴びせかけた。

 

「へべっ」


 背中を蹴り倒されて顔面から地面に叩きつけられる覆面の男。

 不意を打ち続けて隣の者も鞘に入れたままのアカシック村雨キャリバーンⅢで殴りつける。

 怪力と云える膂力で振るわれた一撃はたやすく賊の受け止めた腕骨をへし折り悲鳴を上げさせた。

 更に返す刀で三人目の覆面に殴りつけたら、クナイと十手の二刀流で受け止められた。


「うわー!! ちょっと! 九郎くん!? 僕だよ町方同心の藤林!!」

「ああなんだお主か紛らわしい。覆面外せよ」


 賊と思って殴りつけたのは町奉行所の[無銘]同心、藤林尋蔵であったようだ。

 変装をしている時以外は覆面を被っている忍術使いなので見た目は賊にそっくりである。

 よくよくあたりを見れば、彼だけではなく他でも覆面と覆面が戦っている。また、犬が縦横無尽に数匹暴れ回り、賊を的確に襲い掛かっていた。


「というかお主、手先の岡っ引きも覆面か。どんだけ紛らわしいのだ」

「だって皆、悪党に顔バレしたくないって云うんだもん……小山内くんと一緒に賊を追いかけたはいいんだけど、抵抗にあってるんだ、助けて!」

「人の店の前で暴れるなよ……む」


 賊の一人が店に逃げ込もうとしたが、太い腕がその頭を掴んでめきめきと握力で持ち上げられて投げ捨てられた。

 乱闘に交じる自立戦闘兵器、六科が混じっている。


「この野郎ォ!」


 と、ドスを片手に六科へ突きかかった賊が居たが、鉄製のワイヤーを巻きつけたような硬い筋肉に覆われた上腕が唸りを上げてラリアットで迎え撃たれ、首の骨に致命的な打撃が与えられ沈黙する。

 戸惑う他の悪党を掴むや否や、相手の手首をあらぬ方向に躊躇わずへし曲げる六科である。あれ? 本当に悪党だったか。ドン引きした尋蔵の手先ではないことを祈ろう。

 

「あやつも喧嘩慣れしているのだったな、そういえば……」


 荒っぽい火消しの鳶職をやっていた男だ。[鵺]の六科と云えば一時期は恐れられる喧嘩絡繰とまで云われた人間味の無い暴力装置であったのだ。

 

「大変だ!」


 九郎に近づいて声を駆けてくる男は小山内伯太郎である。


「どうした」

「犬達は鼻をひくつかせている! 油の匂いが近いんだ! どこかで油を撒いている!」

「なんだと、これからか!」

 

 しかし店も裏路地も長屋も立ち並ぶ周囲ではどこで油を撒いているのかは全く見当も付かなかった。

 犬も既に流れている油によって正確な位置が掴めていないようである。


「くっ……賭けだな」

   

 祈るように店の中に入る。そこでは僅かに青い顔をして震えるお雪の手を握って宥めているお房。そしてタマが居た。


「九郎!? どこ行ってたのよ!」

「そこら辺だ。それより放火の危険がある。脱出の準備はしておけよ」

「大丈夫なの。お金は壺に入れて埋めたわ」

「心配はそこか……タマや、少し手伝って貰うぞ」

「は、はい兄さん!」


 タマを招き寄せると、術符フォルダから[隠形符]を取り出して、タマと共に指で摘んだ。


「良いか、己れではよく使えぬがお主なら或いはと思う。これは物を透かす術符だ。タマよ、この辺り一帯の家屋の壁だけを全て透明にするように念じるのだ」


 魔女の魂を持つタマに術符の補助をさせる。九郎が使っては効果範囲の指定ができずに、全て透明化させてしまうが本来ならばかなり自由度を持って光の波長を操ることができる。

 彼に魔力は無いし魔女であった記憶も残っていないが、魂の一部が共通しているので波長が合う筈であった。

 九郎の言葉にタマの目が僅かに光った。


「物を透かす……透け透け。これがあれば覗き放題し放題! タマアアア! 凄く興奮してきたタマアア!!」

「相性が良すぎたかも知れぬ……[隠形符]、上位発動」


 ぶわりと空間のドームが広がるように、人と地面しか見えない透明な世界が広がる。長屋の入り口で不安そうに空を見ている住人。屋根に登って戦々恐々としている男。表で大立ち回りをしている同心と悪党、六科。そして入り組んでいた筈の小路地があった場所で、油壺を持った男が動揺したように周囲を見回した。


「くっ、失敗タマ! 服も透かすつもりだったのに」

「効果解除。そこだな」


 無視して術符を仕舞いこんだ。再び周囲の景色は室内に戻る。

 九郎は裏口から飛び出て一直線にそちらへ向かい、油を撒いている放火魔に鞘で脳天から一撃を加えた。

 

「ぐむう……」


 と声を上げて昏倒する。

 がしゃりと落として割った油壺には既に中身は入っていない。水たまりが続くように、そこらに油の液がひたひたと撒かれている。


「火の粉でも飛んで燃え広がったら堪らぬな。[砂朽符]、上位発動」


 術符フォルダから取り出したのは九郎が使えば物質を劣化させて砂にする程度の能力がある符である。

 液体を砂にすることはできないが、油の掛かった地面を広範囲に砂へと変えた後に再び固めた。土の中に封じ込めてしまえばそのうちに分解されるだろう。

 下手人の着ていた服の帯を剥ぎとって両手両足を縛り付けて通りに放り投げて、乱闘に加勢する。

 

「騒ぎは収まりそうか?」


 悪党をハエたたきのように鞘で殴りつぶしながら尋蔵に聞いた。


「どれだけ賊が居るのかわからないから、なんとも。とりあえず片っ端から火は消して放火魔は捕まえてってやらないと」

「なんとも酷い状況だ」

「だけど雨が降ってくるみたいだから少しはマシになるかなあ!」

 

 そうしてあらかた、忍び衆と共に賊を召し捕り番所に溢れんばかりに詰め込んで、尋蔵と伯太郎は次の場所へ向かっていった。

 九郎も六科に、


「火が回らぬように、放火魔が寄らぬように男衆と協力して見廻りをしておれよ」

「うむ」

「九郎はどうするのよ」

「石燕の様子を見てくる。神楽坂は燃えておらなんだが、飲みに出かけて居ないだろうな、あやつ」


 云って、再び牛込の方面へと九郎は夜空を進んだ。




 ******




 しとしとと降り始めた雨で炭臭い匂いが江戸中に漂っている。場所によっては徐々に鎮火も始めたようだが、人の騒ぎはまだ収まっていない。

 雨が降ればすぐに火事が止むと云うわけではないが、少なくとも放火の条件は非常に悪くなるのでこれ以上の被害拡大は少ないと願いたかった。

 平川が流れる神楽坂は近くに寺社が多いので火事となればそこに逃げ込めばひとまずは安心なのだが。

 ──と。

 鳥山石燕の屋敷近くが見えた、と思った時である。

 火柱が上がった。

 雨を蒸発させるような、油ではなくもっと他の可燃物を使用した刺激臭すら含む強烈な炎である。

 爆発するようであった。雨粒と煙に炎の光が乱反射して周囲を照らす。


「やはり」

 

 声が聞こえた。ぽつりとした声であったが、妙に響く。

 燃え上がる石燕の屋敷の上に、誰かが立っている。


「ここに来たな? 疫病の使いよ」

 

 誰だ、と呼びかけようとした瞬間に、燃える屋敷から飛び出てくる影があった。

 

「九郎!」


 晃之介だ。手元には子興を抱いて、あちこちと衣服を焦がしながら叫ぶ。


「どうした!? 子興は……!」

「わからん! あいつに、」


 屋根の上に立つ、朱く禍々しい仮面を被った人物。

 それを睨みながら云う。


「俺が来た時にはあいつに首を捕まれていて、かなり具合が悪そうだ」

「……おい! 首が妙な変色を……これは痣や酸欠ではないぞ」


 九郎は疫病風装の効果で即座に、首筋に経皮性の毒物が付着している事に気づきぞわりと背筋を泡立たせた。

 

「まずい」


 すぐさま九郎は疫病風装を脱ぎ捨てる。黒い肌着と股引だけになりながら、消毒効果のある衣服を巻き付けるようにして子興に着させる。

 契約者以外が長く着用していては体調を崩すが短時間ならば良い。


(口などから毒を入れられていればおしまいだが……)


 震えて意識が朦朧としている子興が、指を向けて囁く。


「師匠が……九郎っち……助けて……」


 九郎が見上げながら道摩無法師へ云う。


「貴様。どこの仮面変態かは知らぬが、石燕の家を燃やしおって。あやつはどこだ」

「ふむ。あの期待外れの病体のことかね。正直、こっちが[百鬼酖毒]の材料なのではと思っていたのだが、残念だった。まあ、小匣の材料にはなるがね」

「意味のわからぬことを」


 九郎が[電撃符]を取り出して雷でも落としてやろうかと思った。

 見上げる相手は異常である。

 魔物の気配とでも云うか、話していて夢現になるような、酷く違和感を感じた。

 ただの化け物ならば出会ったことがある。しかしこれは人間のようで、化け物のようだ。

 道摩無法師がすっとしゃがみ込んだ。

 そして、何か黒い物を掴んで持ち上げ、九郎に見せる。


「これのことだろう? 君が探しているのは」


 それは喪服に包まれた体であった。

 見慣れた、彼女がいつも着ているものである。

 しかしひと目では石燕とわからなかった。

 首がだらりと、折られたように据わっておらず、ぐしゃぐしゃの髪の毛が生気無く顔に張り付いていた。。


「そうか。死ね」


 九郎は飛び上がった。

 疫病風装を脱いでいたので飛行は不能だったが、地面を蹴りその強さだけで屋根まで跳躍したのである。

 アカシック村雨キャリバーンを解放させるのももどかしく、抜き打ちで斬りかかる。

 

「そのような無粋。君の鎌を出し給え」


 道摩無法師はつい、と刀の軌道に喪服の体を差し出して盾にした。

 九郎は刃に反射する喪服の体を見て二重の意味で戸惑い、横っ飛びに攻撃を無理やり止める。

 だが九郎の逃げた方向に薬壺が放られて、それは火薬で爆ぜるように屋根の火に燃え移って九郎を巻き込んで爆発した。

 小規模なものだ。咄嗟に顔を庇ったが、撒き散らされた揮発成分を吸い込み九郎は顔の粘膜が焼ける感触を覚えた。

 今すぐにでも掻き毟りたくなる痛みにこらえて、刀を向ける。

 一撃目の強襲を防いだことで盾の役目は果たしたと思ったのか、ぐしゃりと投げ捨てる。それでも一切反応はなかった。


「折角同輩と対面したと云うのに、つまらぬ反応だ」

「確か疫病神とか云ったな、お主」

「さて。そう呼ぶ者もいる。だが些細な事だ」

「些細な事か。そうだな」

 

 九郎は拾った瓦を道摩無法師の顔面に投げつける。 

 彼は手毬でも受け取るように瓦を手で掴みとるが、同時に九郎が掬い上げる斬撃を接近して行っている。 

 それを無法師は一歩距離を詰めて剣から絶妙に、柳の如くゆらりと避けて九郎の右目へ指を突っ込んだ。

 触れる。その瞬間に九郎は顔を逸らしたが、右目の視力が奪われた。毒でも塗られたようであり、瞼からは出血している感触がある。


「ふむ。その右目も[そう]かと思ったが、抜け殻か」

「どうでも良い」


 九郎は再び挑みかかるが、体が毒に侵されていて動きに精彩が欠けていた。

 普段ならば毒物は即座に疫病風装で分解してしまうのであるが、今は子興に着せる為に脱いでいる。

 おまけに術符フォルダはほぼ全てが使用不能。電撃符が使えるが、使っても効果があるかどうかは疑問であった。

 接近戦を仕掛けて更に病毒を体に仕込まれ続ける九郎の戦いを見上げて、晃之介はじれる。

 燃えて崩れそうな屋根の上に、身の丈六尺ある彼が飛び乗れるかどうかは怪しい。

 徐々に呼吸が安定してきた子興に彼は尋ねた。


「子興殿。聞いてくれ。九郎が苦戦している。この屋敷に、弓は無かったか」


 がらくたに付喪神が付くとして石燕は様々な曰くつきの物品を集めていると聞いていた。

 弓矢や刀などは妖怪退治の基本武装でもある為に、無いものかと質問したのである。

 子興は、


「あそこの……蔵に」

「わかった。ありがとう」


 彼女をその場に寝かせて、晃之介は屋敷の敷地に建っている蔵に向かった。

 鉄錠と御札が扉に張り巡らされていると云う如何にもな代物であったが、狼牙棒で突き壊して中へ入り弓矢を探した。

 その間に九郎は、全身が酷い風邪の中ウォッカをひと瓶飲み干したような気分の悪さに、剣を杖に動けぬ状況にすらなっていた。

 疫病風装が無いとはいえ、多少の毒物は胸の不老術式と、腕に巻きつけた快癒符で徐々に癒やされていく。快癒符は随分長い間使用不能であったのに、お八に貸していたらいつの間にか魔力を取り戻していたようであった。

 九郎は口を開いて問う。


「何が目的だ」

「さて……何がと云われると悩みどころだな。自分の為でもあり、人の為でもある。為にならぬことでもある」

「意味がわからん」

「疫病の使いよ。私はね、千年の昔に面に封じられた悪神なのだよ。封じられたのは残念なことだが、やるべきことは変わらない。新たな病気を、強い毒を求め、それを人に与える。人が斃れ、或いはそれを克服することで恐怖や憎悪から疫病神としての信仰が得られる。──見給え」


 彼は江戸の市街へ手を向けた。


「ただの火事ではない。油に仕込んだ毒は煙となり、雲になる。そこから降り注ぐ雨は病の元になるだろう。あの陰陽師が呼んだ雨雲も、私の後押しにしかなっていない」

「……嫌なことを聞いた」

「安心し給え。所詮この雨で羅病するのは六割程度と云ったところだ。運が良ければ君の知り合いも死なずに済む。さて」


 彼はゆっくりと近づいてきた。

 手には錆びた宝剣が握られている。一体何の薬物に浸したのか、異様な変色をしている。

 

「この者には素晴らしき病の気配があったがなりを潜めている。体の内部で百鬼が暴れつつ命だけは繋がれる。百の死病を同時に感染すると云う奇病。[百鬼鴆毒]の材料となるものであったが……君の鎌はそれ以上のものを感じる。出さぬと云うのならば腑分けしてでも取り出そう」

 

 向かってくる道摩無法師の姿がぶれて二重に見える。


「君がそれを手放す時を待っていたのだがね。どうも一度姿を見せたきり見せないもので、焦れて来たのだよ」


 相手の言葉を理解するという思考ですら酷い気分になる不調であった。


(ブラスレイターゼンゼのことを云っておるのだろうが……己れが知るか)


 いつの間にか持ち込んでいた疫病の鎌であったが、すぐに消えてしまった道具でもあった。

 秩父山中に溶けてなくなったとでも説明すれば、穴掘りでもして探してくれるのだろうか。

 吐き気と頭痛を堪えながら九郎は、睨みながら彼に云う。


「ああ、ところで……一つ疑問なのだが……」

「なにかね」

「貴様……」


 九郎が喪服を指さして、云う。


「一体、誰を殺したのだ?」


 ──それは鳥山石燕ではない。

 

「何を──」


 云った瞬間、飛来する音も聞こえずに道摩無法師の首に矢が貫通した。

 屋敷の下で晃之介が奇妙な矢筒と弓を構えてまっすぐに狙っていた。


(六天流──[無音むいん])


 矢の風切り音どころか弓引き弾く音さえ消して放つ静かな一射である。

 化け物ならばただの矢で苦しまないだろう。

 実際、道摩無法師と云う人間もどきの悪神は物理的な損壊をも躊躇わない。 

 だが、


「ぐうううう!?」


 首に突き刺さった矢を引き抜こうとしても、それは決して彼の力では抜けず苦痛を与えた。

 足音がする。

 高下駄の音だ。

 屋根の上にもう一人──女の姿をした狐面の阿部将翁が現れた。


「そいつは石燕殿の蒐集品[古空穂]。かの三浦介義明が九尾狐を射抜いた矢筒に収められた矢。故に──おれ達のような化け物には抜けぬ呪いが掛かっている」


 彼女がそう告げると同時に、九郎がアカシック村雨キャリバーンⅢを道摩無法師に投げつける。

 

「近づけば病に侵されるならば、投げて刺せば良いのか」

 

 それでも動きが止まっていなければ当たらなかっただろう。九郎の投げた剣がざくりと道摩無法師の右腕を切り落とした。


「ふ、ははははは! 問題無しとしよう! なればこの女の体を使い──」

 

 残った左手で女を掴み上げると、首の折れ曲がった女はぎょろりと正気でない目で彼を睨んだ。

 右目しか無い顔で。


「うちの息子に手を出しそうなクソ悪霊が」

 

 喪服を着て石燕のふりをした──雨次の母親、行方不明であったお歌夢であった。


「くたばれ神様とやら」


 彼女は片手がなくて空いた着物の中に、導火線に火のついた大玉の花火を入れていた。

 倒れているうちに屋根の火で着火したのだ。

 爆ぜる。

 周囲を轟音と共に火花と体程度ならば吹き飛ばす爆発が、道摩無法師とお歌夢を中心に発生した。

 お歌夢は爆発が膨れ上がるのを長くなる感覚で見続けていた。


(まあ、運命が伸びたのは雨次の為だ……あとはうまくやれよ)

 

 彼女はある理由で未来において、雨次にこの悪霊が良くない結果を齎すことを知っていた。

 故に、排除することにしたのである。出くわす場面を狙いながら。

 吹き飛ぶ道摩無法師は屋根から弾き飛ばされながらもその肉体を保っていた。

 そこに、九郎が跳躍をして空中で追いかけてくる。

 剣を持っていない九郎に対して、奇跡的に持っていた宝剣を道摩無法師は突き立てようと振るった。

 それは避けられぬ動きだと九郎は悟る。空中で自在に動く服を着ていない。何の毒が塗られているか不明な、怪しい剣を受け止める──。

 ふと、九郎は思いついた。疫病風装は近くにあれば呼んだ時に飛んでくる。

 ならば、


「──来い! ブラスレイターゼンゼ!」


 呼ぶと、彼の手元にぞわりぞわりと黒蟻が瞬時に増幅していくようにして、漆黒の鎌が突如現れる。

 その鎌は無くなったのではない。見えなくなっていたのである。

 極小のウイルスとなり九郎の体内に残り待機していたのだ。彼が必要な時に召喚するまで。


(それはそれで嫌だな!)


 侵食する疫病は道摩無法師の宝剣を逸らして、彼の胸に突き立てられた。

 上から振り下ろすような鎌の一撃。

 容赦無い病毒の猛威が道摩無法師の全身を襲う。彼は面に封じ込められた悪霊の類だが、肉体は人間なのである。

 脳を支配していてもひとたまりもない──いや、脳すら破壊する病魔が襲うのだ。

 二人の疫病の使いは空中を落下していく。九郎は相手の体を蹴って離れ、続けざまに術符を解き放った。


「[電撃符]──上位発動」


 雷が九郎から離れた道摩無法師の体を焼きつくした。

 ──その衝撃で、道摩無法師の面が僅かに外れるのが見えた。

 よれよれの細い手足と襤褸切れのような服装。しかし低く張りのある男の声。いかなる者がその正体かと思ったら──。

 仮面の内側に見えた顔が。

 一瞬光りで浮かんで、すぐに焦げたように消えた。

 九郎は目を疑い、手を伸ばした。


「……」


 仮面の人物が何かを言おうとし──平川に水柱を上げた。

 地面に殆ど転げるように落ちた九郎に、晃之介が近寄る。


「大丈夫……じゃなさそうだな、九郎」

「すまぬが、子興の具合が良さそうなら己れの着物を持ってきてくれ」

「わかった」

 

 頷いた晃之介が疫病風装を持ってくるのを待ちながら、


「気のせいか……?」


 と、川の方を見ながら呟く。

 見間違いというのならばその方が可能性が高い。

 ほんの一瞬だったので、勘違いだったと云うことも考えられるが……。


「いや、まずはこっちだ」


 九郎は晃之介が持ってきた疫病風装を着ると、体の痛みはそう変わらないが微睡んだような気持ちの悪さはすぐに解消されて、潰されかけた右目も視力を取り戻した。

 そして子興に聞く。


「子興。あの女は、そして石燕は?」

「と、突然あの片目の女の人が屋敷に上がり込んできて、狙ってる奴が居て危ないからって師匠の喪服を代わりに着込んだんだ。それで師匠は暫く床下の地下収納に隠れてろって……」

「床下? ぬう、火事の現場ではないか」


 九郎は向き直ると、いつの間に屋根から下りたやら、将翁がアカシック村雨キャリバーンⅢを持って来ていた。


「これがご必要で?」

「助かる。少し離れていよ───アカシック村雨キャリバーンⅢ、解放」


 光の爆発が屋敷の土台以外を吹き飛ばした。

 燃えていた部分は綺麗に破壊されたので九郎は子興を連れて慌てて上がり込む。


「ここの下!」


 床板を剥ぎ取ると床間に小さな塞ぐ扉があった。

 九郎がそれを引っぺがすと、中は箪笥を床に埋めた程度のスペースがあり、酒や漬物壺が置かれている。


「うわあ!? 今度は何かねー!?」

「……」


 驚いたように、車座りしていた白い襦袢姿の石燕が顔を上げた。


「って、九郎くんではないか。向かえに来てくれたのかね? いや、何やら上でどっかんどっかん音がするわ燃えてる気配もするわで生きた心地がしなくて……」

「ええい、もう解決したから上がって来い」


 九郎から手を伸ばされて、石燕はそれを掴んで引っ張りあげられた。


「いやあ綺麗な星空だね。星ー!? 私の屋敷消えとるー!」

「火事は怖いのう」

「半分ぐらい九郎っちが吹き飛ばしてたような……」


 ──ともあれ。

 こうして、石燕は救出されてやがて江戸の大火事騒動も下火になっていくのであった。

 なお江戸中にばら撒かれた毒はブラスレイターゼンゼの広域の病毒を操る能力で回収することで何とかなったのである。





 *****





「あの道摩無法師と云うのは医学的に云えば……精神障害を引き起こす物質を含んだ面により生み出された人格とでも云いましょうか」


 その深夜、緑のむじな亭で九郎は将翁からそんな話を聞いていた。

 

「神秘的に云えば、古に道摩法師と云う腕の良い陰陽師が疫病の鬼を封じた面が妖怪化した姿、みたいなもんでして」

「面、か」

「そう。あれを身につけて、精神の波長が適合した者はああいう、病毒に命を費やす化け物になっちまうんです。そう云うもの、だと思うしかありませんぜ。世の中、化け物も妖かしもそう云うものとして存在するんでしょうよ」


 結局、真夜中の平川に沈んだ死体は上がらなかった。

 探している暇も無かったと云うのもあるが、正体どころか生死もわからずじまいである。

 ところで、と将翁は話を変えた。


「あれが持っていた、病気が封じられた小匣はどうしました?」

「己れが無毒化して、どうやら昔の鎧の断片が使われていたようでな。晃之介が鎧神社に埋めに云った」

「それが良い。……お歌夢さんが死んだことは……」

「……雨次に云わない方が良いだろう。少なくとも、今は。あやつが大人になってから、知りたいと願えば教えよう」

「左様で」


 よくわからないことだが、お歌夢は石燕の身代わりに捕まり、そして爆死していった。

 それをまだ少年である彼に伝えるには、九郎自身も理解ができていない。

 ならば母親は家出して、本人らは自立へ向けて努力しているのだから今はそれで良いと九郎は思うのであった。

 何もかもわからないことを残したまま、中途半端に事件だけ解決してしまったようなものである。

 

「やあ九郎くん! 引っ越しの道具を持ってきたよふふふ!」

「わかったわかった」


 店の入口から入ってきて、着替えなどを最低限調達してきた石燕は家が焼けたので再建するまで暫くむじな亭の二階、物置部屋を片付けて住むことになったのである。

 この大火事で焼け出された人で、どこの宿なども満員になっているので仕方ない。

 なお子興の方はさすがに一緒に泊まる広さはないので、晃之介の道場に厄介になることになった。年頃の娘であるお七も居るので一人増えたぐらい構うまい。むしろ晃之介と子興二人きりだとぎくしゃくするので、お七が間に立ってくれることで少しは気楽だろう。

 様々な傷跡を残しつつ、大火事件は後始末の忙しさへと入っていく。

 しかし九郎はくたびれたので大欠伸をした。


「さて、そろそろ寝るか。明日の事は明日考えよう」

「そうだ、寝るといえば九郎殿。ちょいと頼みが」

「なんだ? 泊まるなら石燕と同部屋だが、狭いぞ」

「いえいえ」


 将翁は狐面をつけたまま、笑っている様子であった。

 

「実はこの大火事であたしの一族で人死が結構ありまして」

「それはご愁傷様だな……」

「まあ、皆覚悟は済ませていたのですが……随分と減ってしまいまして……このままじゃ一族が……」


 彼女は指を立てて提案した。


「というわけで九郎殿。あたしと子供を作りましょうぜ」

「……」

「ああ、たねを貰うだけでいいので。勝手に産んで育てますから」

「……」

 

 ひとまず。

 将翁を外につまみ出して、ぴしゃりと雨戸を閉めて九郎は寝床へ向かうのであった。

 とにかく忙しく、眠たかった……。




 

 ******





 翌日──。

 火事の被害は無かったものの、その様子を見ようと千駄ヶ谷に住む天爵堂は、顔を顰めながら街を歩いていた。

 騒ぎは火が消えて一晩経過した今もなお続いている。幕府からの食料配給が始まるのはまだ先だろうか。

 また材木商が儲けて富の偏りが生まれる。

 そんなことを思いながら平川沿いを歩いていると、ふと何かが流れ着いているのに気づいた。


「おや?」


 変わった意匠の仮面である。

 狐面をベースに、赤い珊瑚を炎を魅せるように作られた年代物である。


「見たことがない造形だ。これは珍しい」


 天爵堂はこの大騒動では持ち主も現れるまい。現れた時に返せばよいと云う気分でその奇妙な面を持ち帰ることにした。


 その面は、以降彼の屋敷の蔵に収められている……。


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