82話『未必の故意の空騒ぎ』
近頃どうも、頭に靄がかかったようで気分的に疲労を感じている。
「風邪でも引いたか? いやー寒中水泳してもビクともしない拙者がまさかなあ」
稚児趣味同心[青田刈り]の利悟は首を傾げながら呟いた。
町奉行所と云うものは南と北に二箇所あり、利悟は南町奉行所に務めている。
それぞれが月ごとに交代で働き、その月の当番ではない方は休みと云うわけではないがその間に前の月で溜まった事務仕事などを済ますのである。
外回りが主だった役目の利悟はここ暫く、定時の鐘がなれば帰る楽な仕事ぶりであった。
だから疲れる筈も無いのだが……。
奉行所の門番に軽く挨拶をして帰路に付く。
「どうしたんだろうなあ、別に疲れることもしてないのに。いつも定時に上がって、暗くなる頃に帰って……あれ?」
定時上がりの外はまだ夕前で明るい。闇に包まれるまであと一刻はあるだろう。
ここから長屋のある八丁堀に帰っても四半刻程度しか掛からない。
しかしどこかで時間を潰していた記憶は無いが……。
考えながら道を歩いていると、不意に周囲が静かになった。
夕方となれば、利悟と同じように家に帰る者が多く混雑する筈だ。
「あれ? ……ここ、どこの辻だ?」
考えながら歩いていたからだろうか、帰り道に無い路へ入ったようである。
しかし、利悟は焦ったように云う。
「おかしい」
彼は町方見廻同心なのである。月ごとに担当する区域は変わるが、江戸の殆どの道は歩いたことがある筈だった。
迷うわけがない。
高い塀に囲まれている路地で周囲を見回すと──巫女服のような変わった衣装の少女が居た。
顔に狐面をはめていて、それを利悟の前で外す。
白粉を塗ったような真っ白の肌に、髪の毛をおすべらかしに編んでいる。口と目元に赤い紅を差していて、息を飲む美しさをしていた。
年は十代の前半だろうか。
セーフかアウトかで云うとヒットエンドランな少女に、利悟は動きを止めた。
彼女がにっこりと笑みを作り、利悟も思わず微笑み返してはっとした。
(いや……これは初めてじゃな)
思い至る前に、濡れた布を口と鼻を押さえるように彼女が手を伸ばしてくるのを、呆けたように見て体が動かなかった……。
意識が混濁する。
*****
「ああ面倒くさいのう」
脱力した利悟を近くの大工建材や樽などが置かれた、通りかかる人に見えない町の死角に引っ張り込むのは九郎であった。
彼の隣には、顔の横に狐面を付けた少女が居る。
「ま、再三と九郎殿に依頼が来たのですから仕方ありやせんぜ」
「というか大岡越前から依頼が来るとか何なのだ。部下のマインドコントロールを頼む上司って」
「問題を起こさせるよりましだと思ったのでしょうよ」
物陰に置いていた薬箪笥から道具を出している少女は、阿部将翁である。
時折男女が入れ替わる人物であったが、九郎の依頼に協力して利悟を惑わす為に少女形態になってやって来たのであった。
(なんでもありだな、こやつ)
姿形こそ変われども、齟齬が出ない程度に知識や記憶は共有しているようだ。
さて、今回の依頼。持ち込んできたのは利悟の先輩である美樹本同心であるが、その上──与力、さらに町奉行からも利悟をどうにかしようと云う意向があると伝えられたのである。
素行が悪いわけではない。利悟はなんだかんだで手を出さない男であるからだ。
しかし評判が悪い。例えば敏腕刑事とはいえ、それがロリコンだと公言して憚らない性格だったならば住民はなんと思うだろうか。
こうなれば下手に児童を拐かしたりする事件が起きたときに風評被害が起こる可能性も考えられた。
ということで、やたら便利に物事を解決する、知る人ぞ知る助屋の九郎に依頼が回ったのである。
「稚児趣味を変えさせるか、同居している瑞葉と結婚させるか……」
「妻帯者となりゃ、多少は社会で信用されるってもんですからねえ」
「うむ、それを見越して偽装結婚する者も居るが……」
壁にもたれかかった利悟をとりあえずは洗脳してみようと、日々彼の帰宅時に襲撃を掛けて徐々に脳をやらかしている最中なのであった。
最初は真っ当に言い聞かせたり他の属性を解放させようと九郎も手を尽くしたのだが、利悟の業が深すぎて強行的にこの手段になっているのである。
少女将翁が、薬箪笥から取り出した練香を、九郎が着火した炭の棒でじりじりと炙り利悟の顔の前で揮発した成分を吸わせる。
明らかに違法めいた光景に、九郎はこれまで気にしないようにしいたが、ついに尋ねた。
「ところでその香は?」
「これですかい? こいつぁ[波布草]と云って、割りと新しい種類の薬草を混ぜた薬でしてね。ちょいと抜け荷で手に入れたので、調合したやつで御座いますよ」
彼女は子供ながら悪そうな笑みを浮かべて、
「さしずめ、[脱法波布]ってところですかい」
「危険じゃないよな……まあいいか」
やがて薬効の聞いてきた利悟が焦点の合わない目を開けて、虚ろに宙を見ている。
九郎は銭を細長いぶら下げるやつで括って振り子にし、彼の目の前で左右に揺らした。
更に耳元に、将翁が手で覆い反響させるようにしながら囁く。
「吸ってー……吐いてー……吸ってー……」
「よし、今日もいい感じに催眠状態になってきたのう……利悟、浮け」
「はい、利悟浮きます……」
ふわーっと浮く利悟である。いや、比喩表現だが。
深く催眠状態に陥った彼を、すり込みめいた声を九郎と将翁が左右から囁く。
「この前は十六歳までいけるようになったから十七歳だな。十七歳はどうだ?」
「う、ううう……」
「石燕先生はどうですかい?」
「あれは……十七歳じゃない……」
「そうだな。じゃあ本物の十七歳なら大丈夫だな」
「うう、ううう……」
彼の心理に語りかけて、妥協のような形で徐々に対象年齢を引き上げていくのである。
度々引き合いに出されるのが石燕だったが、仕方ない。
よだれを垂らして人格が崩壊した目をしながら洗脳音声を脳内にこびり付かせて、最後に締めくくる。
「手頃な相手と結婚しなければ、婆専門になるぐらいまで続けるからのう……」
「早いところ自分からどうにかしようとしなければ……脳がまったくの別人に入れ替わってしまいますぜ……」
強迫観念めいた言葉を無意識に蓄積させておき、利悟をふらふらと送り出す。
暫く歩けば催眠も解けて、何が起きたかも忘れているだろう。
しかし一度脳に染み込ませた情報は、忘れているだけで記憶域から消えるわけではない。
「たとえ忘れられたとしても、魂がきっと覚えているものだ。必ず思い出すだろう、それまで待っておけ」
「ふむ、九郎殿のその言葉、もうちょっと良い場面で使えそうなものですが」
「何がだ?」
将翁の言葉に九郎は意味がわからぬと問い返した。
相手を催眠洗脳したときに使っては露骨に台無しであった。
「さて、茶店にでも寄って帰るか」
「くくく、この格好だと九郎殿が微妙に優しいのが役得、ですかね」
「どうも調子が狂うのう。エルフの友人からは子供扱いするなと云われたものだが、どうしてもなあ」
中身が大人でも子供をつい甘やかすのはもう癖のようなものであった。
相手によっては失礼だとはわかっていても、やってしまうのだからもう生来の性質だと思って矯正は諦めている。
将翁は男女差さえ気にしないので、まあ良いかと九郎は彼女と並んで夕飯前に空いた小腹に、団子でも入れる為に茶屋へ向かおうとした時である。
「……人心を惑わす怪しげな妖怪が居ると聞いて一部始終を見ていたのだが」
辻の影からじっと家政婦めいた目撃方法をしていた誰かが声を掛けてきた。
利悟の脳を洗うのに夢中だった二人はようやく気付いたように振り向くと、妖怪と聞いて駆けつけてきた絵師の鳥山石燕が酷く胡散臭げな目で見ている。
彼女はやおら近づいてきて軽く頭痛を感じるような仕草をしつつ尋ねた。
「何をしているのかね九郎くん」
「なんだ、おったのか。見ての通り人から相談を受けてな。差し詰め、恋の後押しとでも云うか」
「さながら月下老人の如く、男女二人を運命の赤い……細長い縛るあれで結んでいるのですぜ」
「そんな楽しげな雰囲気じゃなかったよね!?」
悪びれもせずに云う催眠洗脳術者に石燕は珍しくツッコミを入れた。
「と云うかだね、人の思考を改変してまでくっつけるというのは人倫に反すると云うか、恋とか愛とかそんなんでいいのかね?」
やたら常識的な批判というか、石燕ならばノリノリでやらかしそうだと思っていた九郎はその問いに面食らった。
将翁は手伝う側なのだが、提案は九郎なので困ったように顔を向けた。
「どうなんですかい、九郎殿」
「そうだのう、こう云う言葉がある。『修行で得た悟りも、薬物で得た悟りも本質的には同じ物である』。つまり問題ないだろう──多分」
「今小さく[多分]って云ったね!?」
石燕からの追求に九郎は顔の前で手を振り、払うような仕草をしながら応える。
「よいか、己れ達が即興でやって教えこませている、対象年齢を引き上げる催眠だが……それは利悟と酒でも酌み交わしつつあやつを徐々に説得していったそれが成功したとしても結果は変わるまい。ようは過程をふっ飛ばしているだけで」
「いや、過程と同時にもっと大事なものをふっ飛ばしている気が……」
「過程と云えば昔、家庭をふっ飛ばしてカニ漁船に乗ったやつと少しの間仲良くなったのう。このままだと生活できなくて娘が学校辞めて働くとか言い出されたもので慌てて出稼ぎに来ていたやつだった」
九郎が染み染みと思い出しながら云う。どうでもいい事であったが、自分が落ちた後のカニ漁船は無事だっただろうか。ロシア軍に捕まっていないことを祈るのみである。
「趣味嗜好を変えるのがだめとするのならば自己啓発もちょっとした相談もできなくなるであろう。まあちょっと強引かもしれないが、お互いに憎からず思っている仲だしか、利悟と瑞葉は」
「程度の問題というか、程度が問題というか……」
「お互いにじれったかったり無駄に鈍感こじらせている組み合わせはこうしてやれば早いのではないか?」
「君がそれを云うかね」
何故かジト目で石燕は告げてきた。九郎はきょとんとする。
将翁が薄笑いを浮かべたまま、
「ま、いいじゃありませんか。あたしらの催眠でも変えられる認識には限界がある。これでくっつくようならば、元から利悟殿には相手様を好きになる要素があったということで」
「そうだのう。長い間一緒に居たのだ。他にお互い相手がおらぬのならば、自然とこうなる。己れ達はそれを見守るのみだ」
「さり気なく責任逃れをしようとしていないかね?」
「……」
「……」
二人してどうしたものかと顔を見合わせた。
目撃者が居ないこと前提で洗脳してきたので、自然とくっつけば大団円、何か失敗して利悟が廃人になったら不幸な事故で処理する予定だったのだが。
石燕から追求されては後味が悪くなりそうだ。
将翁が声を潜めて囁く。
「何か、石燕殿が喜びそうなことを云って誤魔化しては」
「ううむ……」
九郎がやや悩んで、爽やかに笑いながら石燕に云う。
「よし、石燕も一緒に何処か飯にでも行くか。己れは石燕から奢られる飯が一番旨いと思うのう」
「ふふふ! 仕方ないね九郎くん! 将翁もついでだから私のお勧めな料理屋にでも連れて行ってあげようかね!!」
「……おや、おや。こいつぁ……なんとも」
あっさりと訝しむことを止めた石燕の様子に、将翁は「くく」と笑いながら聞こえないように云った。
「赤くはないですが、既に繋がっているようで」
*****
その夜、夢を見た。
扉に引っ張り込まれるようにして強引に夢に介入されたかと思えば、ヨグの固有次元へ九郎は入っていた。
夢の中だというのに叩き起こされたような眠気のまま、九郎が頭を押さえつつのそりと起き上がる。
「はーい! 一名様ご案内~!」
「何か用事か、ヨグ」
はしゃぐ声を上げるヨグに九郎はげんなりと尋ねた。
彼女は椅子から立ち上がり、九郎の前へ歩いてくる。にやにやとした邪悪な笑みを浮かべたまま、両手を広げて云う。
「じゃーん! これどーよ!」
「それは……振袖か」
赤い着物に黒と金の帯。足元にはこの前九郎がプレゼントした白足袋が履かれている。
いつものだぼっとしたローブ姿ではなかった。
「くーちゃんに足袋を貰ったから服も合わせてみた! ほれほれ、どうよ! 似合ってる?」
「ああ、似合っているぞ」
「本当に!? どれぐらい!?」
「沖縄の成人式で見る若者ぐらい」
「それ褒めてないよね!?」
ヨグがすっ転びつつツッコミを入れる。
ついカラフルな着物と髪の色で九郎はそう称してしまった。
彼は怠そうに、ヨグの部屋を見回して、鎮座していた電気炬燵へと入り寝転がった。
「ああもう寝る態勢に!」
「だってお主、夢の中でまで動きまわってどうするのだ。明日へ向けて休養するのが眠りの仕事だろう」
「明日に向けてったって、君は特に何もする予定ないじゃないか。まあいいや」
ヨグも炬燵に入りながら、テーブルに頬杖をついて寝転がっている九郎をニヤニヤと見下ろしている。
「それにしてもくーちゃんも良いこと云うね!『修行で得た悟りも、薬物で得た悟りも本質的には同じ』と来たか!」
「むう、もしかしてお主、監視とかしておらぬか?」
今日の夕方に発言した内容を把握されていて、九郎は嫌そうに彼女を見る。
ヨグは半月形に手先がなっている義手を振って否定した。
「いんや。今日はたまたま。見ようと思えば見れるけど滅多には。だってくーちゃん、我が覗くときに限って将棋盤を一時間も睨みっ放しだったり、店で暇そうに寝こけてるんだもん。ヒマー」
「見れるのかよ。見るなよ」
起き上がりつつ九郎は半眼でヨグを睨んだ。
九郎と彼女の間には魔力的な繋がりがあり、それを通して九郎の様子を把握することも出来るのである。
しかし常識的にと云うか、他人の一日をじっと見続けていても暇であるのでヨグは滅多にしない。意識を集中させる為にやりながら漫画を読んだりゲームをしたりが行えないのだ。
彼女は義手を向けながら云う。
「しかし他人の恋を成就させてるけどくーちゃんはやんなくていいのー? その体は子供なんだから青春よもう一度してもいいんじゃないかなー?」
「己れはどうでも良い。今更張り切る年でもなし、相手もおらぬしな」
「これだよ!」
ヨグが呆れながら云う。
「というわけで我がお節介してやろう」
「何を───む!?」
九郎が口を開いた瞬間、ヨグの義手が変形して水鉄砲になり彼の口へ何らかの液体を射出した。
勢い良く喉をついたので咳き込みつつ思わず飲み込む九郎。
「いえーい! 成功! それは強力な惚れ薬でぇーっす! 起きた後で最初に見た人にべた惚れしちゃうよ! ただくーちゃんの体はいーちゃんの魔法による解毒作用も強いからね、多分一日ぐらいじゃないかな効力は!」
「何をしてくれるのだお主は!」
藪睨みにヨグを見て、慌てて目元を手で翳した。まだ薬は回っていないのか効果は出ないようだ。
「ほら、くーちゃんも云ったじゃない。幼馴染ヒロインでも、空から落ちてきたぽっと出ヒロインでも、ミザリーかまして独占したヒロインでも、薬物で惚れさせたヒロインでも、本質は変わらないっぽい?」
「それはさすがに変わるわ! と云うか己れのは比喩だ!」
「ごめんね、面白がってやっただけだった」
「白状するな!」
「一応云っておくけど、夢の中で飲ませたので魂に直接影響してるから疫病風装じゃ解毒できないのでシクヨロ! じゃあくーちゃん、応援してるからガンバ!」
云うが早いか。
ヨグが取り出した目覚めのハンマー[覚醒君]でぶん殴られるのを、目を閉じた九郎は避ける事もできずに──。
******
布団から身を起こした。じとりと汗を掻いている。
先ほどまで見ていた夢は確かに覚えていて、朝日が差す室内で目元に手をやった。
ヨグが飲ませた薬。
今日一日、目にした誰かに自分が惚れる。
九郎は内心で毒づいた。
(あやつはやると云ったらやる、クソ迷惑な女だ……薬は本当だと思ったほうが良い)
そして、考えを煮詰めて焦りが生まれる。
「説明が雑すぎるだろう……」
最初に見た相手に惚れる。それは異性か同性かも指定されていない。
見たというのも、顔を見れば効果が発揮されるのか体の一部でもアウトなのか、遠くから見ても駄目なのか。
心の瞳で見た場合や幻覚で見た場合などは……とそこまで考えて考慮から外した。慌てているようだと自覚する。
ともあれ、
「誰かを見るわけにはいかぬな、うむ」
ヨグの悪戯に巻き込むには友人らは心苦しい。
自分が一日外出を控えていれば良いのである。
そこまで考えた瞬間である。
「はーい兄さん今日もいやらしい朝が来たキボーの朝だよー! キボーッキボー!」
やかましい声を出しながらタマが部屋に突入してきたので九郎は目を強く閉じて念の為に顔を背けた。
タマは訝しむ声を出す。
「あれ? 起きてたの兄さん。というかどうしたの?」
「タマ。今日己れはどうも風邪を引いたようでな。ここで寝ておくことにする」
「ええっ!? 大丈夫タマ!?」
素直に心配する声に心苦しくなるが、
「うむ……いや、ちょっと悪くてのう。感染ると危ないから看病は要らぬ。フサ子にも伝えておいてくれ。あと、客が来ても上げぬように」
「それじゃあ後でお粥を持ってくるタマ」
「部屋の前に置いておくれ。気を使わんでいいからのう」
「うん。それで兄さん」
タマが足音を立てて九郎の顔を向けている方向へ回り込んだ。
すぐに九郎は目を閉じたまま反対側へ顔を向ける。
「……」
「……」
「なんで顔を背けるタマ?」
「具合が悪くて……」
「一応熱だけでも測ってみるから動かないで欲しいタマ」
あまり強く拒否すると余計に怪しまれると思った九郎は、疲れたような仕草で目の上を押さえながら額を触れさせた。
「うーん、少しある……かな?」
「大丈夫、一日程休めば治るから気にするな」
「わかったタマ。それじゃあ安静に~」
そう云って去っていく足音を確認して、九郎はちらりと隠していた目元を開けて周囲を確認。
タマは居なくなったようで、ほっと一息ついた。
「言付けは終わったからこれで当面は……」
安心、と思った九郎に電流が走るように、新たな問題が浮かび上がった。
それは、
「……便所に行かねば」
生理現象として、小用を足したくなったのである。
しかし九郎の寝室は二階で、厠は一階に階段で下りて店の裏口から出て、長屋の並ぶ裏路を歩き奥の小さな庭にある共用の厠で済まさねばならない。
目を閉じたまま壁伝いに、お房などに不審に思われずそこまで行けるだろうか。
怪しまれて目を閉じていることを言及されて問題が起こる。よしんば店を抜けても溝に足を取られる。厠で躓く。そして往復の危険性を考えれば上手く行く気がしなかった。
「ならばいっそ……」
窓から飛び降りるか、と見上げるが、夜中に時折立つ場合と違ってもはや朝である。
おまけに目を閉じたままならば飛ぶのも覚束ないのでふわふわ浮いているところと見つかれば騒ぎが起きてやはり目を閉じていることに追求される。
また、厠からこの窓に戻ってくるにも目を閉じていては失敗した場合二度と戻れぬようになる可能性もある。
「これも駄目か……だが、丸一日は我慢ができぬぞ」
汗を浮かべながら九郎は方法を練る。
最終手段では疫病風装で濾過してやれば無菌状態の液体に変わり処理がしやすくなるが、自分の小便を自分の服で拭うのや、他の器に出してしまうのはどう考えても避けたい事態であった。痴呆老人ではあるまいし。
「ならば[隠形符]で……!」
九郎は術符フォルダから自らの姿を消す符を取り出した。
消えている状態ならば多少は不審な様子で目を閉じて移動しても目立たない。引っ掛けて転んでも音がなるだけで、見つからねば問題は無いだろう。
早速術符の魔力を発動させて自らの身体を透明化させる。
そして、気づいた。
「……今まであまり違和感を感じなかったが、これを使っている間は目を閉じられないのだな」
問題判明である。
正確には瞼は閉じているのだが、瞼も透明化しているのでしっかり前が見えてしまうのであった。
わざわざこれを使って目を閉じる実験などしたことが無かったので気づいた欠陥である。
「いっそタマに連れて行ってもらうのは……駄目だ。孫のような、しかもイリシアの生まれ変わりに便所を介護してもらうなど……!」
重病のふりをして肩でも借りる図を想像したが、泣けてきて駄目だった。
予想以上に便所と云うのは難しいシステムのようだ。九郎は心のなかでヨグを罵りつつ他の方法を考える。
「いや、六科ならば……あやつならきっと介護なぞなんとか思わんから己れも気にせずに済む!」
奇しくも、部屋の外にどしりとした足音が聞こえた。
「九郎殿。粥を置いておく」
食事を運んできたのが六科だったのである。神の采配的な偶然と九郎は声を掛けた。
「六科よ。頼みがある」
「なんだ」
「実は病で足がよく動かず、目が霞んでいてのう。ちょいと背負って厠まで運んでくれ」
「わかった」
この明確にして率直なやりとりに九郎は満足しつつ、目を閉じたまま六科に米俵のように担がれて厠へ連れて行かれた。
今日は二度と来るまいと思いながら便所の壁を睨んで用を足して、再び六科に担がれて部屋に戻った。
そうして布団に戻れば再び安息が訪れた。
「ふう、後は明日まで静かにしておくだけだ……」
九郎はそれから本を読んだりしながら退屈に時を過ごしていた。
外にも出かけられず、目的も無く室内で過ごしていると昔を思い出した。
まだ学生の頃にやっていたアルバイトであるが、
「確か……小さな雀荘で他の三人と過ごし、もし後で警察にその時のことを聞かれたらその場に居なかった四人目がどんな上がりをしたか云うだけの簡単な仕事だったな。なんかヤバいアリバイだったよなあこれ絶対……」
呟きながら、隠居したい静かに暮らしたいと思っていた自分に対して思う。
「隠居はしたいが、話し相手は欲しいのだな。ま、明日までの辛抱だ……」
呟いて布団で仰向けに寝転がり、欠伸をすると階段を上がってくる足音が聞こえた。
九郎は慌てて目を閉じて来訪者に備える。
「九郎。将翁さん連れてきたのよ」
お房の声であった。九郎は即座に返す。
「い、いや。将翁のやつに掛かる程ではない。寝てれば治るから連れてこんで構わん」
「何云ってるの。目が見えない上に足が動かないって明らかに重病じゃない。早く治して貰いなさい」
「そ、そりゃそうだが……」
己の判断ミスを悟る。
六科に伝えた病状であるが素人目に判断してもやばい病気である。そして六科は素直にお房に聞かれたら九郎の様態を応えただろう。
彼女は慌てて店をタマに任せて飛び出し、まず石燕のところへ一人で走って行き、師匠に報告した。
そこで飛び上がったのが石燕である。おろおろしながらやかんと枕を持ってしばし家の中をうろついて、将翁を探しに二人で出ようとしたところで偶然来訪した将翁を捕まえて連れてきたのであった。
「九郎くん大丈夫かね!? これでも病気に関しては一家言ある身だ、様子を見せてくれたまえ!」
「目と足に急な病となりゃ、ちょいと診察しないといけませんぜ」
お房に続いて石燕と少女な将翁もやって来ているのがわかった。
九郎の嘘が周りを慌てさせていることは、皆の声音からしれて九郎は、
(うわあ……済まぬ、というかどうしよう)
治ったと云えば顔を見せろと云うだろう。
目を閉じたまま様態は平気だと誤魔化せるだろうか。無理だ。目を閉じている病人を心配するに決まっている。
かと云って、見てしまえば厄介な問題が発生する。
薬の効果がどの程度か不明なので安易に試す気にはならなかった。ちょっとした見ていると動悸やめまい、体温の上昇がする程度ならまだしも欲情したら目も当てられない。
(事情を話すか……駄目だ、というか駄目だ)
お房に事情を話すとする。
「そんなのある訳じゃないの。ちゃんとこっち見なさい」と叱られてアウト。
将翁に事情を話す。
「ほう、そいつぁ……ちょいと面白そうな……くくく」と興味を持たれてアウト。
石燕に事情を話す。
「ふふふ、よし、この妖怪絵師鳥山石燕に任せたまえ! さあいざ!」と遊ぶ気満々でアウト。
タマや六科は論外で、男に惚れるという感情は己の精神に深い傷を残すだろう。
九郎は頭を抱えた。詰みかけている状況だ。下手に誰かに惚れ薬の効果を発揮したら一日とはいえ非常に気まずい。
普段枯れまくり老人だと云うのに孫のような年の相手にデレる姿を、しかも確実にヨグが撮影か何かしている気がする。
(くそ……! ここにイツエさんが居れば事情を話して後腐れなく相手を頼むのだが……!)
デュラハンの姫騎士な友人には妙なベクトルの信頼があるようだ。
なにせ3m近くある大鎧を身にまとっているので力や体格が上で、九郎が暴走しても止めてくれそうだから滅多なことは起こらないと云う判断であったが、その彼女はこの世界には居ない。
部屋の戸が開けられる。
九郎は出来る限り平静に、上体を起こしたまま顔を窓の方へ向けて薄目を開けてるような閉じてるような、実際閉じている程度にして静かに云う。
「心配を掛けて済まなかったのう。なに、具合はかなり良くなっている。明日になれば治るだろう。だから気にするでない」
安心させるように、誤魔化されてくれと背中に汗を浮かべながら九郎は云う。
「ちょっと九郎。こっち見なさい」
お房から厳しい言葉が掛けられて、引きつったような笑みを浮かべながら薄く閉じた顔を向けた。
頬に手が触れた。
「やっぱり目を閉じたままじゃない! 見えてないんでしょう!」
「い、いやそんなことはない。ちょっと乾燥してのう。花粉症かもしれんなあ。とにかく大丈夫、すぐに良くなる」
「閉じてたら充血してるかどうかもわからないでしょ! 将翁さん診てやって頂戴」
「ちょいと失礼しますよ」
「九郎くん、安静にしたまえ」
目を閉じているので状況は察するしか無いのだが、布団の前から将翁が伸し掛かって来て、九郎の背後から石燕が押さえているようだ。背中にモチめいた柔らかみを感じた。
(拙い)
九郎は手を両目に翳して必死に見せないようにした。
その必死さが逆に周りの女性の不安を煽り、
「やっぱり悪いのね九郎、大人しくしなさいよ」
「お願いだから治療を受けてくれたまえ九郎くん……! 君に何かあったら……!」
「こいつぁ只事じゃ無くなってきました、ね」
「違う。だから違うのだ。そんなに心配するな! 本当に済まぬ!」
酷い罪悪感に苛まれつつ九郎は三人がかりで手を外そうとしてくるのに耐えた。
女の力だから九郎の固い守りは崩せないが、この状況を続けるわけにも行かずに九郎は頭を働かせる。
(己れの目を見たら死ぬ妖怪が取り付いたとでも云うか!? いやそれもそれで心配される! ええいどうしたら……)
──と、九郎が目を閉ざしているのが裏目に出た。
彼の鼻が強烈な刺激臭めいた匂いを感知して、「ぐあ」と呻く。
薄くだが前に感じたことのある──将翁の[脱法波布]の匂いであった。
続けて耳元に直接脳まで舐めとるようなぼそぼそとした呪詛の声が流し込まれ、瞬間的に頭に空白を作らされた。
将翁と共に散々やらかした催眠術を九郎が今度は掛けられているのだ!
「さ、目を開けて──」
催眠術でもっとも簡単な命令が[目を開けさせる]ことだ。
九郎の手が緩み、女二人からどかされてうっすらと瞼が──
(やらせるか)
ぶちりと嫌な音が口の中からした。
舌を噛んだのである。
無意識に半開きになっていたのだろう。口からだくだくと血が垂れ流された。
同時に意識を覚醒させて瞼を強く閉じる。だが、状況は悪化した。
「九郎が吐血した……! 助けて将翁さん!」
「ああ、九郎くん、死なないでくれ……!」
(泣き声混ざったー!)
本格的に超心配を掛けている。どう云えば誤解が解けると云うのか。
まだいっそ一人に惚れていた方が被害が少なかった気すらしてきた。こうなれば……!
・窓から飛行して脱出し、明日死ぬ気で謝る。
→・誰か一人に決めて皆を安心させよう。
既に場は危険極まりないが、ここでもし窓から飛んで逃げたりしたら惚れた腫れたどころの気まずさではない。
これ以上心配を掛けたら罪悪感で潰される。九郎は覚悟を決めた。
選ぶとなれば……
・お房ならば孫的な愛情だから大丈夫だろう。
→・将翁は人外っぽいからこの中では一番精神的に動揺しない筈だ。
・石燕には予め云えば冗談として済ませてくれる。
将翁に決めた。怪しげな術さえ使う彼女ならば、惑わされている自分の状況も把握するかもしれない。
それに実年齢は九郎よりも上であるし、いざとなれば薬物で自分を対処してくれるだろう。
他人の好意に疎いのに都合の良い女を見極めるスキルは高い男である。
希望を持って九郎は正面にいる将翁を手探りで触れた。
「将翁か?」
「はい、ここですぜ」
「もしかしたら己れが怪しげな人格に取り憑かれるかもしれぬがその場合は一日ぐらい気絶する薬物で眠らせてくれ」
「いや、一日気を失う薬物ってあなた……毒って言いませんかね」
微妙そうな声を出したが、九郎は目を開け放ち将翁を見た。
一本に編んだ髪を腰まで垂らした、狐面を顔の横につけている化粧をした少女である。
九郎の見開いた目を、将翁がじろじろと瞼などに触れながら確認する。
「はて……特には……」
「将翁」
「はい?」
九郎はがしりと将翁の手を握って、澄んだ瞳でこう云った。
「お主の催眠術の腕に惚れた。これからガンガン人を洗脳していこう。その為のコツなど話を聞かせてくれ」
「瞳孔開いてますぜ、九郎殿……」
惚れ薬が変な方向にキマった。明らかな謎の人格導入に将翁も細い体を身じろぎさせる。
異様に、異常にスッキリした様子の九郎にお房と石燕が身を引きつつ云う。
「ど、どうしたの九郎」
「体が……?」
九郎は二人に向き直り、にっこりと不気味に笑って云う。
「まずはこの不安がっている二人を安心させてやろう」
「え……?」
「ひっ」
──それから暫くして、タマは不安そうに一階で緑のむじな亭の切り盛りをしていたのだが二階からお房と石燕が降りてくるのを見て声を掛けた。
「あ、二人共! 兄さんはどうだったタマ!?」
するとお房と石燕はごく自然な笑みを浮かべてこう告げた。
「別に問題は無かったの催眠バンザイ。すぐに良くなるって催眠バンザイ」
「やれやれ取り越し苦労が一番だね催眠バンザイ」
「なんか駄目だこれー!?」
それから──。
九郎の知り合いが訪れる度に二階へ上がり、にこやかな笑顔で戻ってくるというホラーになったのでタマは震えっ放しであった。寝室も怖いので店の座敷で一晩過ごした。夜中になっても二階から九郎と将翁が降りてくることはなかった。
翌朝になればその謎の状況も収まり、皆の様子も戻ったようだが、ただ九郎は酷い顔でぐったりとしながら降りてきて朝から酒を煽りつつタマに云った。
「……あれだな。恋愛って自然が一番だよな」
「に、兄さんが似合わないこと云ってるタマ……」
何やら後悔している様子であったが、ひとまず皆に心配を掛けた分は忘れられているので、一晩催眠術談義に付き合わされた将翁以外には被害が出ない形で事件は収まったのであった。
一応将翁にも事情は話して、幾らか対価を渡すことになる……。
※九郎は簡易催眠術が使えるようになりました。
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ここ数日、頭を覆っていた靄のような頭痛も消えて随分爽やかな気分になった。
利悟はその日も定時で奉行所を上がり、家に帰る途中でふらりと足が妙な方向に向いた。
虫の知らせかと思ったが辻を出て、特に何も無い様子なのでそこにあった豆腐屋で揚げを見つけた。
「おっそういえば家にひじきがあったな。これを煮物で合わせると旨いんだ」
利悟は紙に包んでもらい、主人のどこか狐っぽい女房から受け取って帰路につく。
(狐……女。はて? 何かあったような……)
思い出せないが、また帰る途中で後ろから声を掛けられた。
「利悟や」
「うん? ああ、九郎か。拙者に何か用事?」
相変わらず少年体だと云うのに怠そうな雰囲気の男である。
彼は小さな布で包んだ物を利悟に渡してきた。
「これをやろう。酒の盃だ」
「そういえばうちの盃も随分古いから、くれるっていうなら貰うけど……なんで二つ?」
九郎から渡された包みを見ると、中には同じ形の盃が二つ入っているのである。
彼は頷いて、
「一つは同居している瑞葉の分だ。たまには共に飲んでやれ」
「うーん? ま、まあたまには、ね」
少し言い淀みながらも利悟は頷く。
それを満足気に九郎は去っていた。利悟は自分に盃を渡すだけに来た彼に、よくわからぬと疑問顔であった。
つい催眠術を掛けまくった利悟に詫びと、瑞葉への応援のつもりだった。同じ形なのは夫婦盃を意識したものであり、酌み交わせば少しは進展していくだろうと思ってのことだった。
利悟ひとまずその後、自宅に戻っていく。
体調がよくて機嫌が良いので声も明るい。同居したての頃は呻くしかできなかったのだが。
「ただいま」
「お帰り、利悟さん」
すぐに玄関に瑞葉がやってくる。
髪を凝らずに簡単に結って、清潔感のある化粧をしている若作りの女である。若作りとはいえ、まだ二十程なので十代後半に見える程度だが。
「お揚げを買ってきたからひじきと煮付けてくれるか?」
「任せてください」
早速それを受け取って、夕飯の支度に取り掛かる。
その背中に利悟は呼びかける。
「瑞葉」
「はい?」
「夕飯できたら一緒に飲むか、たまには」
「──はい、喜んで」
そうして、焼き魚とひじきの煮物、蛤の酒蒸しを肴に二人は向い合って酒を飲んでいた。
始めこそは無言であったが、酒を常飲する方では無いので徐々に酔いが回れば元々幼馴染だった関係だ。話も弾みだす。
ここ数年疎遠になっていただけで、瑞葉が十四、五ぐらいまでは仲も良かったのである。
利悟が云う。
「というか瑞葉も、拙者みたいなサンピンで同僚からの評判も悪い男じゃなくもっと良い相手を探せよ。なんというか死んだあいつに申し訳が立たない」
「姉さんは関係ないです。それにわたしは、利悟さんの誰にでも自慢できる良いところを知ってますから、利悟さんがいいんです」
「そんなんあったかあ? こちとら殴られても『まあ利悟だからいいか』みたいな扱いを受けてるんだけど」
瑞葉は酒でやや紅潮し、据わった目でじっと利悟を見ながら告げる。
「──利悟さんは子供に優しいじゃないですか。子供だったわたしにも、独り立ち出来るまでずっと優しくしてくれました。だから、利悟さんと子供を作っても絶対大事にしてくれます」
「うぇええ!? 子供って……いや拙者そりゃあ子供は超大事にすると天に誓ってるけど……」
「じゃあわたしとの子供を大事にしてくださいね……」
「ちょちょちょいと瑞葉ちゃん……?」
すっと身を乗り出してくる瑞葉に震えを覚える利悟。
肉体が自死を選んで崩壊しかねない。生存本能が警笛を鳴らしている。
「ああ、くそ……」
利悟は声を滲ませて云う。
「せめてお前が十七歳なら……!」
一応まだ効いている、上限突破催眠であった。
そこで、瑞葉は九郎から教わった最終兵器を投入した。正直恥ずかしい。だがここだと云う人生の箇所で使うことに恥は必要ない。
にっこりと笑って、彼女は告げる。
「瑞葉、十七歳です」
詐称であった。
だが、利悟の震えが止まった。同時に彼は口がすべるように発言してしまった。
「じゃあ夫婦になるか」
「はい」
ぶわりと利悟の全身から汗が噴き出る。
色々走馬灯が思い出されて、その中で自分を洗脳している二人組の記憶さえ浮かんだ。忘れていても思い出す大事なことの様に。
そうしてなんとなく利悟と瑞葉は夫婦になり、祝言を上げることになるのであった……。
*****
「何かで得たかが重要なのではなく、誰と得たかどうかが重要なのであるからのう」
「……まあ、あたしゃ別にいいんですがね」
「だから悪かったと」
あけましておめでとうございます
新年早々へんてこな話ですがよろしくお願いします
あとヨグさんの格好は「振袖足袋ヨグさん」でググればイラストさんのピクシブで見れます