第12話 / 極楽坂 / どたばた! 事件の終わり! 人としての終わり!
覿面だった。会長室の内装の豪華さは。八人の男達を激怒させるのに。
「俺達の家族の名誉や命を毀損して!」最も純粋な意味での復讐者と化した男達は会長をその場で私刑に処した。自治会長は顔や腹や股間を延べ三二の手足で殴打された。彼はのたうち回り、もんどりを打ち、口から目から毛穴から血を噴出したが、しかし、その血は床を赤く汚さなかった。床には元から赤い絨毯が敷かれているからだった。彼が救うと約束した人々から吸い上げた文字通りの血税で買い求められた赤い絨毯である。自業自得は何時もこのように皮肉に完成する。「それで得たリッチな暮らしはどうだった、え!?」
僕はその光景をジッと見守っていた。自治会長の執務室を漁れば僕の政治的な立場を挽回するに足る何かが出て来るかもしれない。そうしなかったのはブシドーの全身から発散される一種の雰囲気に飲まれたからだった。彼女はその表情こそ無にして零、一切の表情筋を一ミリとて運動させていなかったが、背中が雄弁に語るに曰く、『哀しい』。一方的な暴力を見るのが嫌ならば八人の男達を自治会長の前に案内しなければよかったではないか。言うのは簡単だ。
僕は自治会長の執務机の上に体育座り、その机の上に放り出された大忘却以前の品らしい煙草を一本、くすねようとして良心が咎めたようで自前の〝ヴィクトリー・シガレット〟を咥えた彼女に同情していた。火を点けてやる。「悪いな」とブシドーは言った。ブシドーは人に親切にされると『ありがとう』ではなく『悪いな』が口を衝いて出るらしい。性格だ。
『どうして俺達にそんなによくしてくれる?』と、男達の代表者が尋ねた。ブシドーが『自治会長を殺そう』と発議した事に対する返答がそれだった。男はブシドーが答える前に質問を付け足した。『そもそもだ。アンタは握手会で俺に殴られた。身を躱すのなんて朝飯前だったろうに。どうして殴られた?』
ブシドーは困ったように笑った。『アンタが俺に苛立ってるらしいのは一目見りゃ分かった。殴られるなら殴られてやろうと思ってた。俺を殴れば少しは気が晴れるだろ?』
思う。一人の〝人間〟の中に〝人間〟の部分は何グラム分あるのだろうか。その部分を僕らはどうやって減らないように守ればいいのか。守る必要があるのだろうか。守れば、この〝|万人の万人に対する闘争〟の時代、他人を守れても自分を守れないではないか。〝人間〟を辞めて、辞めさせられてしまった少女達の方が大の大人よりも遥かに〝人間〟であるとき、僕らは彼女らに何を言えばいいのか。
数年前、惚気るようだが、モモが気紛れに僕にチョコレートをくれた。中にドロッとした液体が入っていた。何かと尋ねると『私の血ですよお』だと教えられた。旧時代の風習に、如月の月の二週目に恋する乙女から恋される益荒男宛に(自主規制)入りのチョコレートを贈る文化があるそうだが、モモは何処で聞いたか、その風習を再現した訳である。彼女には喜んで自分の肉体の一部を僕に食べさせる悪癖があった。僕は彼女の爪や皮膚を何度か食べさせられた。千切れた自分の腕さえも衛生状態がそれを許せば焼いて食べさせられたかもしれない。彼女は日に最低でも五度、『愛してるよ』と言って欲しがって言わないと不機嫌になり、日に最低でも七度、『私をまだ好き?』と訊いて、その答えが彼女の意に沿わないと拗ねてしまった。
他方、彼女は僕が誰か他のアイドルに現を抜かしても決して怒らなかった。意外にも僕の生活を束縛するのを彼女は全く好まなかった。心の底では束縛したかったのかもしれない。だとしてもしなかった。彼女はその理由を僕にそれとなく匂わせた事がある。『私は人間じゃないんです。アイドルなんです。アイドルと人間じゃ違う生き物なんですよ』
〝人間性〟を考えるのが僕は怖い。強引に脳の回路を切り替えた。
自治会長が失脚するならば、ブシドーが彼の手下を蹴り飛ばした件も、もしかすると不問になるかもしれない。どうかな。彼の後継者が一層の自治権を死守する為に取り沙汰するかもしれない。小春日和さんが持前の素直さで報告書にありのままを書き記す可能性もある。だからどちらにしてもブシドーの今後のキャリアを安泰にするための策は欠かせない。いっそ、と、僕は思った。この自治会長を助けてやれないか。恩を売ればこの男は使えるのではないか。この男自体は使えなくともその人脈は利用できるのではないか。
自治会長は僕が評価していたよりも幾らか感傷的な男だった。広場で起きた銃撃事件、あの責任を僕らの管理不徹底であったとしてしまえば自らは責任を逃れられたろうにどう足掻いても逃れられないと思ったらしく、歌囀さんが教えてくれた所と状況証拠に拠れば自殺を試みようとしたらしい。或いは彼にも悪い意味での〝アイドル信仰〟があったのだろうか。『アイドルには勝てない』との刷り込みがされていたのかもしれない。それならば彼も損な男だ。畜生め。話が人間性に回帰してしまった。
「頃合いだ」と、男達のリーダー格が言った。肩で息をしている。自治会長の息の方は絶え絶えだ。リーダー格は自治会長が愛用していたと云うリボルバーを歌囀さんから受け取っていた。彼はベルトの隙間に突き刺してあったそれを引き抜き、磨き上げられた銃身に映る自分と暫し見詰め合ってから、仲間に目で合図をした。自治会長の上半身が無理に引き起こされた。リーダー格はその自治会長の額に銃口を突き付けた。リーダー格の面持ちは精悍だったが、生気には乏しく、疲労の色だけが更に濃かった。
「待て」――と、引き金が絞られる寸前、ブシドーが言った。
「何だ?」と、リーダー格は焦れた。
「余興がある」と言いながらブシドーは執務机の上の電話機を操った。男たちは何事かと動揺している。自治会長は譫言のように「家族だけは」と呟き続けていた。電話が誰かに繋がった。ブシドーはその相手に「お願いした準備は出来ましたかサンゴ先輩」と常の声よりも一・五オクターブ高い声で尋ねた。「おファックDEATHわ!」との返事が受話器の向こうから漏れ聴こえた。声がデカい。〝おファックDEATHですわ〟は〝準備はできましたか〟の返答として正しいのだろうか?
「一体何を」と訝しむ男達に、
「ほらよ」とブシドーが差し渡した受話器からは、
「お父さん?」の幼い声が聴こえた。一同は化石してその場から動けなくなった。自治会長がハッと目を見開いた。「今ね、アイドルの人がお家に来てね、それでね、私にお歌を歌ってくれてね、凄く美人でね、私も将来はこうなれたらいいなあって思ってね、それからね、お父さんはどんな人? って訊かれたからね、下の層で立派に働いていてね、層の人たちが大好きでね、層の人たちからも〝そんけー〟されていてね、偶にしか帰ってこられなくてね、それで私の誕生日には絶対に帰ってくるって言ったのにね、帰ってこられなくてね、それでね、私が泣いちゃってね、お布団の中に閉じこもっちゃってね、お父さんを困らせちゃったって話をね、してあげてね、あ、でも、お父さん、もう怒ってないからね、安心してね、ね、お父さん? そこにいるんだよね?」
ブシドーが受話器を電話機に叩き付けるようにして戻した。「以上だ。終わりだよ。どうした。撃たないのか?」
「どうしてこんな真似を」リーダー格は震えた。他の男達も震えていた。リーダー格は訊いた。「今になって?」
「別に」ブシドーは事もなげに応じた。「アンタらが忘れてるんじゃねえかと思って再確認させてやったんだ。その男にも事情はあり、家庭があり、娘が居てってな。それだけだ。撃てよ。どうした。まさか自治会長にも娘が居る事を知らなかった、考えなかった、そーゆー訳でもねえだろ。撃てよ。とっとと撃て。どうした。ここで日和るのか? 娘を殺された恨みはその程度か? なあ?」
リーダー格の喉仏がグッと皮膚の下でせり上がった。
「お前は!」
リーダー格は怒鳴った。「お前は娘を殺した。約束を守らなかった。娘はこんな小さくて薄い蒲団の中から動けなくなった。誕生日会なんて生まれて一度か二度しかやってもやれなかった。それなのにお前の娘は一度も命の危険に晒されたこともなく厚い布団の中で――中で――中で……」
そうだ。それの何が悪いのだろう。無実の子供が毎晩、暖かい布団の中でヌクヌクと眠り、幸せな夢を見る事の?
彼は葛藤していた。自治会長を殺したいのだろう。殺したくないのだろう。葛藤は銃口の位置に表れた。銃口は額の中央から右に、左に、上下にズレては中央に戻り、戻ってはズレた。リーダー格は怒鳴った。「どうしてお前だけが!」と。「どうしてお前の娘だけが!」と。「殺してやる!」と。それでも彼は撃たなかった。撃てなくなっていた。
「それでいいんだな?」
とのブシドーの問いに、
「いい筈がないんだ」
と、彼は答え、
「だが俺はこの男と同じにはなりたくない。なりたかった。でもなれない」
と、言うと床に泣き崩れた。彼は泣く。他の男達も泣く。巷に雨の降る如く。
後悔するだろう。彼らは。一生涯だ。ここで自治会長を殺さなかった事を。
だが、撃てば何かが終わった。復讐ではない何かがだ。撃たなければ、では、何かが始まったのだろうか?
ブシドーは机から飛び降りた。リーダー格の手から落ちたリボルバーを回収する。他の男達にも一人ずつに「これでいいんだな?」と尋ねた。答えはリーダー格のそれとそう懸け離れたものではなかった。ブシドーは最後に自治会長を見、彼が未だに「娘だけは妻だけは」と呟いているのを確認すると、身体中の感情を全て眉間に集め、言葉としては一言も発さずに会長室を後にした。ブシドーの眉間の皺はそれはそれは深かった。僕は――
「殺させてやるべきだったな」ブシドーは自治会館の廊下を音高く歩きながら言った。「殺させてやるべきだった」
自治会館の前、〝こうせい車〟の前、歌囀さんとシノブちゃんと子供達が僕らを待っていた。子供達は泣き腫らした目でブシドーを睨み、
「お父さん達をどうしたの!?」
ブシドーはその子供達に例のリボルバーを渡した。子供の手には大きい。それでも彼女らが抱く殺意の大きさからすれば大き過ぎることはない。ブシドーは言った。
「撃っていいよ」と。
「撃っていい。お父さん達を殴られて、蹴られて、酷い事をされて、それで私を殺したいと思うなら、殺していいよ。目を狙えば少なくとも痛がらせる事は出来る。六発全部撃ち込めば殺しさえできるかもしれない。いいよ。貴方達ならいい。撃ちたいなら撃ちなさい」
乾いた風がブシドーと子供達の間を吹き抜けた。