第11話/或る男の物語
その男――
一層自治会長は電話機を片手に逡巡していた。電話を掛けるべきか。掛けないべきか。それが問題だ。掛けるべきだと感情が勧めた。掛けないべきだと理性が諭した。彼は愛用の執務机の三番目の抽斗を開けた。抽斗には難民を便利使いして手に入れた盗掘品が眠っている。旧時代の煙草の箱もその一つだった。箱の表面には赤い丸が描かれていて、その丸の内側にラッキー何たらと書いてあるが、彼にはその〝何たら〟の部分は読めない。彼は無学者だった。
無学者の彼にもこの煙草の値打ちは分かっていた。彼が難民を派遣している遺跡は旧時代の街、それが放射性廃棄物だの雪だのの下に埋まってしまったものだったが、そこに転がっている物品の大部分――例えばペット・ボトルであるとか硝子の瓶であるとか――は自然分解が進んでいた。だから完品の煙草が新品同然の状態で出土するのは奇跡と言っても過言ではない。もしも彼がコレを帝国アイドル博物館に持ち込んだならばキュレーターは狂喜乱舞、欣喜雀躍、自治会長の名を〝煙草の発見者〟として聖アイドル帝国史に刻み込むだろう。
彼は別に歴史上に名を遺したいとは思っていなかった。自分はそんなに大した人間ではないと弁えていたからだ。事実、彼がこの煙草を吸わずに保管していたのは、『誰か趣味人を見付けて売り飛ばしたら相応の財産になるのではないか?』と睨んだからだった。(何度も何度も『吸っちゃうか!』と誘惑に駆られては『いやいやいや』と思い直して、思い直しては『一本ぐらい!』と翻意して、またそれを『いやいやいや』と思い直す作業を過去一年間だけでも三〇回は繰り返していた)
彼は「えい!」と煙草の包装を剥した。この期に及んで『貴重な品なのに!』と震える指を律する。一本を咥えて、これでも〝大忘却〟以前の代物である横擦り式のライターで着火、灰を有毒だが有毒だからこそ人々を魅了する煙で満たすと涙が溢れて止まらなくなった。
思えば遠くまで来たものだ。彼は第八軌道エレベーター〝リザベーション・シート〟の生まれで、満五二歳であるから、人並に甲羅を経ている。彼の父親は彼が三歳の時に死んだ。反政府主義の活動家だったそうで、音に聞く〝イチジク機関〟のエージェントとの格闘の末に死んだそうだから、まあそれなりに凄い人ではあったのだろう。活動家であったのも父の年代であれば不思議ではない。父の年代はその上の年代から〝エレベーター独立戦争〟の泥沼を伝え聞いている年代だからである。〝十人に一人は活動家〟の年代だ。
不思議なのは妻子に恵まれた父が何故に活動を途中で止めなかったのかだ。自分が父の立場であったならば子供が生まれたのを汐に活動からは身を引く。自分が父ではなかったが為に自分と兄と母は酷い苦労に見舞われた。一家は父の英雄的活動のせいで村八分、母は子供を食わせようと躍起になって売春宿に身を投じたが、一日十八時間、素性の知れない男達と不衛生な筵の上で懇ろになる生活を一年も続けると体が襤褸雑巾のようになり、ならばと人の嫌がる汚物その他を扱う雑役に就いた兄の稼ぎは三人を食わせるにはとても足りなかった。結局、兄は後の自治会長が六歳になったばかりの某日某朝、弟を抱いたまま冷たくなってしまった。
自治会長は強烈に記憶している。彼が治めるこの一層と同じような住環境、工業地帯付近のゴミ山の中に建てられた小屋、兄の遺体、栄養たっぷりのぷるぷるとした目玉に蠅が集っていた。父がテロリストだったとしても兄は何もしていない。何もしていなくはない。兄は母と弟をその場凌ぎでも生活させる為に身を粉にしていたのだ。その健気さの報いがこれか。小汚い虫のその日の糧になる事がか。
兄の遺体は自治会長の一家と同じように何等かの理由でゴミ山に暮らしている男の手で埋葬されたが、棺は捨てられていた用途不明の鉄箱、棺に入れるのに突っ張って邪魔だからとその手足はバキバキに折られた。母は別段騒ぎもしなかった。性病でスポンジのようになってしまった脳では何も考えられなくなっていたからだ。母が口にする言葉と言えば「いあしやい」だけだった。〝いらっしゃい〟である。人とは呼べない姿になっても、尚、母は子供を養うための娼婦でいるつもりだったらしい。
「アイドルにでもなれればな」
と、ゴミ山の男どもの一人が言ったのは、兄の死から間もなくだった。自治会長は聖アイドル時代を生きていながらアイドルの四文字をそのとき初めて聴いた。彼はアイドルとは何かと尋ねた。男は歌って踊って綺麗で強くて美味いものがワンサカと食える職業さと言った。歌って踊って綺麗なのはどうでもいい。強くて美味いものがワンサカと食える二点が自治会長をしてアイドルを志望させた。彼は男を質問攻め、歌とは何か、踊りとは何か、それが上手ならばアイドルになれるのか、だとすれば自分に知っている限りを教えろと詰め寄った。男は少年のひたむきさに負けた。自治会長は一日の半分を兄と同じ雑役に、残りの半分を母の世話と歌と踊りの稽古に当て、睡眠時間も食事も極端に削った。
男は少年に重要な真実を教えなかった。それを優しさと呼ぶべきかどうか。その真実、『男の子はアイドルにはなれないんだよ』を少年が知るのはアイドルの存在を知ってから二年後で、彼にそれを知らせたのは彼が暮らしていた町に置かれたアイドル事務所の採用担当官であり、担当官の口吻は絵に描いたような〝お役所仕事〟だった。
少年の夢は潰えた。少年は大人になった。尤も性的な意味では、彼は夜な夜な自分の下半身を弄る母を乱暴に押し退けるのに疲れて、七歳で大人になっていた。彼は家を捨てた。捨てるに当たって母を楽にするのに躊躇いはなかった。母は首を絞められながらも「いあしやい」と言い続けた。
その後、金になると踏めば何でもする鉄砲玉に、少年はなった。一度は野戦憲兵や私立事務所の職員になる事も考えた。考えるだけだった。野戦憲兵は一世紀前、エレベーターの独立と反乱を恐れた中央政府が各エレベーターにアイドルの保有数制限を課した際、言い逃れ的に誕生した存在だった。アイドルの保有が規制されるならば人の軍隊を編成しようとした各エレベーターに対して中央政府はそれも規制、であるならばと、各エレベーターが考案したのが野戦憲兵、即ち有事には前線に投入されて逃亡者を取り締まるなどするが、平時には警察業務を補佐する半軍半警察的な存在だった。折りからの不景気で凶悪犯罪が増加、それに警察だけで対応するのは難しいから、――と云うのがエレベーター側の主張であり、そのように主張されると中央政府としては反論困難、不景気が中央政府の指導力不足だったのは明らかだったからである。
彼には野戦憲兵のその成立経緯が気に食わなかった。如何にも〝卑怯な大人の手口〟だと思えたのだった。私立事務所の職員も同じだった。
鉄火場で鎬を削って幾星霜、人に説明し辛い縁で結ばれた妻を得、子を得、青年になっていた少年は拳銃商売から足を洗った。彼が政治家として再出発したのは娘には内密にし続けている少年時代、何人もの有力者を救ったり殺したりしている間に築いた人脈を利用してで、自分でも驚いた事に、彼にはその道の才能があった。彼は自嘲した。政治とは煮詰めれば権謀術数と保身である。彼が一番嫌っていたものだ。自分がそれに向いているとは。
いいだろう。それならば堕ちる所まで堕ちてやる。
彼は数年で一層の自治会長の座を射止め、人心をも掌握、財を蓄えに蓄えた。人類がルナリアンに勝てないのは半世紀の人生で何度もこの目で見ている。ノア号の席は、政府高官や学者やその他各分野の英才の為の優先搭乗席を除き、抽選で国民全員に割り振られるとの発表だったが、それが虚偽であるのを彼は知っていた。あたしもあたしの家族もこの星で後何年かで死ぬ。だとすればどうして他人に良くしてやらねばならないのか。自分は自分と自分の愛する人を守るだけで手一杯だ。
後一歩だった。もう少しばかりの金が溜まったならば彼はこの職を辞して上層で悠々自適な暮らしを家族と営むつもりだった。それだけが彼に残された人生の望みだった。それをあのアイドルどもが台無しにした。またしてもアイドルだ。自分の人生は何時もアイドルに滅茶苦茶にされる。
あの手を打った。この手も打った。が、最早、自分の失点は挽回不可能な程に大きい。自分の統治する層でアイドルに対する銃撃事件が起きてしまったのである。打った手が悉く裏目に出た。会場警備に非協力的であったとかテロの可能性を申告しなかったとかのカドで自分は逮捕されるだろう。層の自治権だって巻き上げられる。
死ぬしかない。あたしが死ねば家族は大目に見て貰えるかもしれない。彼は電話機と反対の手にリボルバーの柄を握っていた。無論、柄は彼の手汗で粘つき、滑りもしたが、彼はそれをガッチリと握って手放さなかった。昔取った杵柄とはまさにこのことだろう。
彼が悩んでいるのは死ぬ前に家族に電話を掛けるか掛けないかだった。最後に声が聴きたい。通話記録を調べられたらどうする。家族に秘密の遺言を遺したと疑われるかもしれない。そうなれば家族の運命も自分のそれと軌を一にする。彼は孤独に死ぬ事を決めた。煙草は美味く、美味過ぎて、この世に未練が残ると嫌だったので半分吸った所で灰皿で揉み消した。因みに、彼が自殺の決意を固めるのはこれで二二度目であり、だから、その、まあ、つまり、ちょっとした難事件にぶつかると彼は何時もこうして――できもしない――決意を固めて悲壮ぶるのだった。(人の一生は他人からすれば悲劇的な喜劇でしかないのかもしれない)
勿論、自治会長も今回ばかりは〝二二度目の正直〟を覚悟していたし、それを完遂するつもりだった。その女が自治会長室に乗り込んでくるまでは。
「はいどうもォ」と、自治会長室の扉を蹴破り、右手に自治会館の入り口を守らせていたキラー・エリート、左手にこの部屋の前を守らせていたキラー・エリートをそれぞれ引き摺る形で現れたのはダーク桃色法被を着た眼鏡の女だった。歌囀と云う彼女の名を自治会長は知らない。が、そのダーク桃色法被が特務機関、取り分け彼の父の仇である〝イチジク機関〟の機関員に愛用されている品だとは知っていた。彼のリボルバーは単なる人間であれば絶対に見切れない速度で歌囀をエイム、
「権力を嵩に着て人民を弾圧する豚野郎、豚乙女、豚その他ァ! アンタらのような鬼畜をぶっ殺してやりたくてあたしは!」
硝煙と放熱が自治会長の手を焼き焦がした。弾丸は正確に歌囀の右目を貫く仮想上の軌道をなぞっていた。特務機関の強化人間であろうと目玉と喉は急所となる。自治会長の脳裏に蠅に集られる兄の右目が映った。何もかもこれで終わりよと彼は思った。ところがである。
不可解だ。弾丸が消えた。何時の間にか歌囀は右手のキラー・エリートを放り投げていた。空いた右手は拳を作り、自治会長の方に突き出されており、この拳が解かれると、
「意外に良い腕をしてるじゃないスか!」
拳の中から現れた弾丸は重力加速度に従って床に急速に落下した。自治会長は我が目を疑った。弾丸は指先で摘まめる程に圧縮されていた。握り潰されていたのだ。飛翔する弾丸を受け止めて握り潰すだけならばアイドルであれば誰でも出来る。彼を驚愕させたのは弾丸の表面がピカピカと煌めいている事だった。
リボルバーも弾丸も自治会長の私物の例に漏れず盗掘品だった。どちらも状態は良好だが、長く地下に眠っていたから、その表面に塵だの他の物品から剝離した黒鉛だの何だのが付着していた。彼はそれを完全には拭い取らずに発砲している。
自治会長は怖気を震えた。黒鉛に高圧力と高熱とを与えるとダイアモンドになるのは金品財宝が好きな彼であるから知っていた。だが、その高圧力とは、握力で言えば五〇〇万キロに相当する。五〇〇万キロだ。そんな馬鹿な数字が現実に有り得るだろうか。熱の方はどうだ。ダイアモンド精製に必要な温度は約二〇〇〇度である。人体が二〇〇〇度を超える高熱を発する訳がない。二〇〇〇度はアイドルニウム合金の融点を流石に超える。(もしも発したとしても掌の中の空気が大変な熱膨張を起こす。その爆発を握り潰す事が幾らアイドルとは言え可能なのか?)
「皇帝府の御様御用!」自治会長の口は独りでに動いていた。「首切り役人! 処刑人!移動虐殺機関! まさか! まさか! まさか! アンタら〝イチジク機関〟の〝イチジク〟の意味は――」
「――そのまさかでスわ。アイドルをリボルバーで殺せるとでも思ったか。しかも私らは唯のアイドルじゃない。私の顔に見覚えがあるだろ。ここで私のセット・リストを見せてやろうか。お前もお前の大事なものもエレベーターごと吹っ飛ぶぞ」
自治会長の手からリボルバーが零れ落ちた。零れ落ちたのはリボルバー以外の何か別の物だったかもしれない。歌囀はこれで自分の役目は終わったなと考えた。自治会長に死なれてはここから先の展開にあれやこれやと問題が生じる。彼には生きて今日の事件の責任を取って貰わねばならない。
「私はこれで終わりね」と、自治会長は嘆いた。
「死のうとしてたのに死にたくないんスか?」
「家族が気に懸かるのよ」
「そうスか。そうねえ。じゃ、賭けでもするスか?」
「賭け」自治会長は目を細めた。「賭け?」
歌囀は左手のキラー・エリートも(現役を引退してから長く腕力に訴える事は無かったから手加減をミスったが死んではいない)床に放り、入れ替わりに自治会長が落としたリボルバーを手にすると、何を思ったか弾倉に五発の弾丸を詰め、
「何をしてるの?」
と、震える声で尋ねる自治会長を後目に、リボルバーの銃口を自らの右眼球に押し当てた。引き金を引く。自治会長の身が強張った。弾は発射されなかった。歌囀は出てもいない銃口の煙をフッと吹き消す真似をしてから、
「はいどうぞ」
リボルバーを自治会長に差し出した。「ロシアン・ルーレットですよ。ご存じスかね。弾が出なかったらアンタの勝ち。ご家族は私が責任を持って保護しますよ。不発の可能性もあるんだ。可能性は〇じゃない。ほら、頑張って、頑張って、あと一息! ずっきゅんハートに火をつけてみては?」
自治会長は絶句した。「イカれてるわ」と彼は呟いた。と同時に、過去、自分が抗ってきた(と少なくとも彼は信じている)ものに自分は全く相手にされていないと悟り、彼は――
五分後、コクジョー・ブシドーとその暫定マネージャーが自治会長室を襲撃すると、自治会長は力なく笑っており、歌囀は猫脚のソファに横になってラッキー何たらの煙草を吸っていた。歌囀は挨拶代わりに手を振りながら言った。「どうも豚乙女と豚その他さん!」




