第三十二話
正直に言おう。
僕は絵なんて今まで殆ど描いた事が無い。
絵を描く機会なんて学校の課題でしょうがなく描いた時ぐらいのものだし、それを補う余りある才能なんてものも勿論持ち合わせてはいない。
――――故にこの菫にとって世界で一番美しい絵は他の誰かにとっては間違いなく、つまらない只の風景画だ。丁寧に描きはしたものの、それだけで優れた絵を描けるなんて事を僕は到底考えていない。絵は修練と才能が作り出す芸術だ。それを僕みたいな人間がちょちょいとマスター出来るようなものじゃあ、無い。
それでも僕は絵を描かなくてはならなかった。その風景の美しさは写真では表せられないとそう思ったし、何よりも僕が描かなければ意味が無かった。
絵をただ描くだけならむしろ相田さんにお願いすべきなのだ。彼はプロの画家だ。走り書きでさえ僕の何倍も美しい絵を描いてくれるだろう。
でも――――違う。違うのだ。僕でなければいけないのだ。僕が感じた事を、この絵に込めなければ一筆一筆に想いを乗せて描かなければならなかった。
引き籠りであった時に感じたあの世界の美しさを絵に十分に、いやそれ以上に込められるのは僕だけだと思った。僕がこの世界の美しさをこの絵に込める事が出来る。
傲慢だと思った。でも――それで良い。
傲慢であっても、
欺瞞であっても、
偽善であっても、
独善であっても、
――――一枚の絵が描ければ良い。
僕は――――――そう思ったのだ。
「菫」
僕は少女の名を呼ぶ。白峰館は201号室の、あの大きく僕らの間を隔てた遮光カーテンに向かって僕は思いの限り、彼女の名前を呼びかけた。
「菫」
「…………………………」
少女は僕に返事を寄越さない。遮光カーテンの奥に居る事はもう確認している。音が漏れている。光が漏れている。それだけで引き籠りが家に籠っている事ぐらい分かる。
無視された――――それで良い。元より反応など期待していない。僕は僕の想いが絵によって伝われば良いとしか考えていない。
その絵の美しささえ伝われば他に何も――――――要らないのだから。
「菫。別に返事なんてしなくて良い。反応も要らない。一々、御礼なんて僕は要求しない」
「…………………………」
「僕が今日、ここに来た理由は一つだけだ。たった一つのシンプルな理由だ。僕の描いた絵を見て欲しい。それだけ――――それだけなんだ。……見てくれるよね?」
「…………………………」
菫は何も言わない。代わりに遮光カーテンが無味乾燥な返事を返す。
僕は無言で遮光カーテンの隙間、下から絵を投げ入れた。絵は地を這いながら遮光カーテンの奥へと送られた。
「……………………これは?」
暫くして菫は言葉を発した。掠れた声。二十日前よりもずっとくぐもった小さな音。
「君が知っている風景を描いた絵だ」
「知っている? そんな訳は無い。嘘を吐くな、椛。ぼくはこんな場所を知らないよ」
「……そうだろうな」
僕は微笑んだ。この絵は彼女が知っている風景を描いたものだ。
けれども――――その実、その絵の風景を知らなくて当然なのだ。
「……椛。君は随分とつまらない嘘を吐くんだね」
「菫。僕は嘘なんて吐いてないよ。お前は知っている筈だ、その絵を」
「……だから知らないと言っている」
「知っているんだよ。絶対に知っている。……でも知らないんだ。知らなくて当然なんだ」
「禅問答なんてつまらない事をするつもりかい?」
「……いや僕は至って当然の事を言っているだけだ」
僕はかぶりを振った。そして一呼吸置いて真実を告げる。
「菫。この絵はね、この部屋の――白峰館の201号室、その玄関のドアを開けてから見渡せる景色を描いた風景画なんだ」
「この部屋の? 馬鹿を言え。この部屋の玄関を開けた時、こんな景色では無かったよ。正面のアパートはこんな色じゃなくもっとぼろかった筈だし、目に見える範囲にこんなおっきなマンションなんて無かった。それに確か川が見えていた。中華料理屋だってもっと――もっと綺麗で……こんなに色褪せてはいな…………かった…………?」
菫の声は次第に勢いを失くしていった。多分、真実に触れたのだ。この絵の真実に彼女は触れて、そして――――――気付いたのだ。
「そうだよ、菫。この絵に映っている景色は正真正銘、この部屋の玄関から描いた景色だ。対して君が知っている景色はもう――――四年も前の事なんだよ。変わったんだ、君が見ない間にね」
そう――――そうだ。絵を教えて貰っている時に相田さんから僕は詳しい話を聞いた。
この白峰館は四年間というもの、一切改築なんてものはしていなかったらしいが周囲は違う。白峰館の周囲は時が経つと共にどんどん変化していったそうだ。
まず白峰館の正面、道を挟んだ真向いにあるアパートが三年前に改築した。色も新しく塗り直して、今では綺麗な空色をしている。そして一年前に大きなマンションが白峰館から見て右斜め前に建てられた。十階建ての大きなマンションで随分高級そうな図体をしている。その際、白峰館から見渡せた筈の川がマンションによって隠れてしまったと相田さんが文句を垂れていた。毎日盛況な中華料理屋も当然、四年も経てば変わる。雨に打たれ、風に吹かれ、嵐なんかも経験している内にペンキが色褪せていき随分と見栄えが変わったそうだ。それでも味に関係無いから良いんじゃね、と相田さんは言っていた。彼は典型的な花より団子タイプなのだろう。
「菫。お前はさ、自分の事を変わらない、変われないってそう――言っていたよな。…………でもさ、そんな筈無いんだよ。絶対にな」
「………………………………」
「お前は変わっていく。むしろ変わらない方が有り得ないんだ。お前の歳なら余計だろう? この四年間で身長も体重も随分と様変わりした筈だ」
「それは…………外見だけの事だ。中身は変わりない」
「本当にそう思うか? 違うだろう。お前だって分かっている筈だ。変わらないものなんて無いんだ。お前が気付かないだけでゆっくりと変わっている。この玄関先から見た景色みたいにさ。知らない間にゆっくりと変わっている、そういう事もあるんじゃないか?」
僕は喋り続けた。口は意外にも軽快に動いた。
「自分の世界は心地良いよ。それに安全だ。比べて外側の世界は危険だ。怖い事も沢山ある。時には誰かを傷つけたり、傷ついてしまう事もあるだろうさ。でもそれを補うあまりある美しさが外には待っている。こんな部屋の真向いでさえ気付かない変化があるんだ。きっと世界にはずっとずっと大きな変化が起こっている。美しい変化が待っている。それを全て見届けよう――何てそんな烏滸がましい事は言わないし、言えない。けれどその世界の一端に触れる事ぐらいなら僕ら引き籠りにも許されるんじゃないかな?」
「――――ぼくでも?」
「――――お前でも、だ」
僕は即答した。遮光カーテンに手を掛ける。そして勢いよく開け放った。
菫は居た。ずっとずっと――――そこに居た。
菫は泣いていた。ずっとずっと――――泣いていた。
四年もの間、ずっと泣いていたのだろう。多分。
「引き籠りにとって外側の世界は恐ろしいよ。まず日光が怖い。あの照りつける日差しが愚鈍な僕らを焼いているようで、どうにも僕は辟易してしまう。他人の視線が怖い。何か敵意を向けられているようでさ。僕は何か重大な失敗をやらかしたんじゃないかっていっつも不安になりながら通りを歩いている。夏の暑さや冬の寒さが怖い。あんな剥き出しの温度に晒されるより快適な部屋の中でのんびりと暮らしていた方がよっぽど幸せだと感じてしまう。外は危険で一杯だ。でも――――――それ故に美しいんだ」
僕は菫に右手を差し出した。
「ほら――――来いよ。そして一緒に行こうぜ、外にさ」
菫は手を伸ばしてくれた。癇癪は…………起こさなかった。そもそも僕の手を掴んだかどうかは涙で視界が揺れていたので分からなかった。
――――――でも掴んでくれたと妄想しておこう。
世界なんて想像と妄想でどうにでもなるもんさ――――――そんな風に勘違いしていた方が幸せな事もやっぱり世の中にあるのだろう。
なんて――――――――ベタな事を僕は思い浮かべていたのだった。




