第10話 夢幻界
夢幻界
「それで、ここは何ですか?」
「ここって、この夢の世界のこと? それとも船の中のことかしら?」
「両方ですよ。とりあえず、『夢幻界』のことからお聞きしたいのですが?」
夢幻界、という言葉を聞いて、都リーダーの表情が引き締まった。
「この世界のことはもう知ったのね?」
「はい、和泉さんに教えてもらいました」
「なら話は早いわ。夢幻界は通称。専門用語では、『ユニバーサル・アンコンシャス』UUCと呼ばれる世界よ。『普遍的無意識』と訳されている。この辺りは授業でユング心理学を習った時に聞いたことがあるはずよね」
『普遍的無意識』とは、ユングの心理学用語に出てくる概念だ。
人の自我は意識と無意識でできている。
意識的に物事を行う場合と、無意識に体が反応する場合だ。
意識はわかるとして、無意識はちょっとわかりづらい。
身近な例では反射神経で体が反応して目の前に飛んできたボールを受け取ったとか。
そんな極端な例でなくとも、普段から人は無意識に動いている。
ただ立っているだけでも、人間は無意識に数百の筋肉を動かし細やかなバランスを取って行っている。
こんなことを意識的に行おうとしたら、それこそ大変な手間になる。
だが、ユング心理学ではさらに無意識の奥に『普遍的無意識』というのが存在する。
これは人間を含めありとあらゆる生物が生まれながらに受け継いでいる心の本当の深層にある意識のことだ。
例を挙げれば、本能とか本質とかになる。
すべての人の根底にあるがゆえに、心の奥底ですべての生き物は結びつき、互いに影響を及ぼすとされる。
この意識があるがために、世界中の神話や伝説は似たようなものになるという仮説をユングは主張したのだ。
「でも、あれってあくまで人の心理を説明するときに使われている言葉なんじゃ?」
「これまではそう思われていた。でも、UUCは実在していることが明らかになったわ。大隅教授の研究のおかげでね。そして、夢幻界に侵入して自らの意思を持って自由に行動することができる能力者のことを、私たちは魂戦士と呼んでいるの」
夢幻界で戦う戦士、それこそが真のガイストの意味か。
俺は改めて納得した。
「でも、この世界のことは極秘事項に属するから、表だって言うことが出来なかった。だから、ダイヴしてから説明するつもりだったわ。それが何かのアクシデントであなただけ夢幻界の中にいきなり出てしまったのよ」
「どうしてなんですか?」
「分からないわ。こんなことは初めてなの。いずれ細かい検査が行われると思うわ。その時は協力お願いね」
そう言うと、都リーダーは軽く微笑んだ。
俺はうれしいような、厄介ごとをしょい込んだような複雑な気持ちになった。
「あらかじめ言ってくれれば、こんなに苦労しなくても済んだのに」
「夢幻界のほうが内密の話をするのには、向いているのよ。盗聴される恐れがないし、記録として残すことも出来ないから、証拠にならない。だからこそ、このことはここに来るまで秘密にしておきたかった」
都リーダーは真面目な顔で答えた。
確かに機密を守るという意味では、ここほど相応しい所はないだろう。
いざとなったら文字通り夢落ちで言い訳できる。
「それじゃ、改めて説明してくれませんか。この世界のことを」
俺の質問に都リーダーはうなずいた。
「夢幻界は現実と夢の世界の狭間に存在する世界よ。講習の復習になるけど、人はほぼ90分間隔で、レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルを繰り返しつつ、およそ6~8時間眠る。ちなみにレム睡眠とは、Rapid Eye Movement・急速眼球運動(REM)の頭文字を取っているってことは習ったわね」
「はい」
レム睡眠は体は休んでいるが、脳が活発に動いている状態だ。
人はこの時間帯にストーリー性のある複雑な夢を見るといわれている。
「それに対してノンレム睡眠は、眼球運動がなくなり心身ともに休んでいる状態ね。眠りにおける深さによって4段階に分けられており、3~4段階目では完全に熟睡している状態になるわ。近年の研究でノンレム睡眠の時も夢を見ることが分かっているの。ノンレム睡眠時では、落ちる夢など単純な夢が多いらしいわ」
ちなみに三大よくある夢は、空を飛んでいて落ちる夢、準備不足でアタフタする夢、そして裸になる、もしくはする夢だって聞いたことがある。
「夢幻界はこのレム睡眠時とノンレム睡眠時の境、つまり意識と無意識の境界、専門用語で『変性意識』とか言われるけど、そこを研究した結果見つかった異世界よ。もともとは明晰夢研究の第一人者、スティーブン・ラバージ博士が主張した概念ね。この研究が引き継がれ、発展し実践させた結果、夢幻界の発見にまで導いたのが、睡眠空間学研究者として有名な大隅教授よ」
大隅教授の名はナイトメアハザード前から俺も知っていた。
もっともインチキ学者やマッドサイコロジストとみたいな扱いをされてたけど。
「当初は大隅教授の理論はすっかり忘れ去られていたわ。それが、一躍注目を集める事態になったのが、ナイトメアハザードよ。大隅教授はこの昏睡状態をもたらせたのが、夢幻界による影響であると主張したわ。当然だけど、その意見は当初は誰からも無視された」
だろうな。
誰だってこんなことを言われて信じるわけがない。
今でさえ、週刊誌ではネタ扱いだし。
「でもナイトメアハザードの原因がつかめないまま日々だけが過ぎて、政府が大隅教授の研究に注目せざる得なくなったのよ」
一般人の俺にもお呼びが掛かるぐらいだからなあ。
「ANHDは正式に大隅教授を顧問として雇い入れたわ。その研究のおかげで、夢幻界の調査は急ピッチで進められた。今ではナイトメアハザードの原因は、この世界における何らかの干渉ということが分かっている。でも、その原因までは分からない。だから、私たちANHDは極秘に探索を進めてきたの」
なるほど、そう言うことか。
「だから、武蔵君もこのことは私たちだけの秘密にしておいてほしいのよ。頼むわよ」
了解です、と答えた。
「ところで、最初の話に戻るんですけど、どうして夢幻界は創造するのにリアルさが必要なのに、空に帆船が飛んでいたり、昔風の帆船の中身が現代の台所なんですか?」
「いい質問ね」
そう言うと、都リーダーはニコニコ笑った。
某解説者の先生ですか、あんたは。
「それはねえ、この船を創ったのが出雲愛ちゃんだから」
「出雲愛って、たしかさっきから名前が出ていたような・・・」
「一度は聞いたことがあるんじゃないかしら。ナイトメアハザードの唯一の生き残りよ」
都リーダーは少し翳りのある表情を見せた。
ナイトメアハザードでは、未だに百万以上の人々が昏睡状態に陥っている。
だが、たった一人だけナイトメアハザードから目覚めた子がいた。
それが出雲愛である。
当初はマスコミが大きく取り上げて、大騒ぎとなったことまでは知っていた。
「まあ、騒がれるのは当然だけど、愛ちゃんへの風当たりは決していいことばかりではなかったわ。唯一の生存者として、他の犠牲者の両親や友人からは、どうしたら助けられるのかとか、息子や娘の様子はどうだったなどの質問が山のように寄せられた。でも夢幻界から死にものぐるいで、ただ逃げ出しただけの愛ちゃん自身は何も知らなかったのよ」
「あの後、相当バッシングがあったらしいですよね?」
「ええ、生還の知らせは当初は美談だったのに、やがて妬み、やっかみへと変わった。マスコミやネットなどの心ないネタ扱いに愛ちゃんはふさぎ込むようになっていったわ。とうとう国がこれ以上の報道を禁止した。プライバシーの保護のためという理由で、愛ちゃんをANHDの管理下に置いたのよ」
それ以来、愛ちゃんのことは触れられなくなり、俺もANHDの隊員になるまで、愛ちゃんのことは知らなかった。
今回の調査に愛ちゃんが大きく関与しているということを始めて知ったのだった。
「愛ちゃんは能力者の一人よ。それもものすごい能力だということが、大隅教授のおかげで分かった。愛ちゃんは自由に夢幻界に行き、動き回ることが出来る。この船も愛ちゃんの能力によって創られたものよ。だから船名はカプリース号、『気まぐれ』って意味ね」
「『気まぐれ』号か。愛ちゃんが自由気ままに動き回りたいって気持ちが込められているんだな」
俺がそう言うと、都リーダーがうなずいた。
「あなたはもう隊員、しかもガイストのメンバーだから、知らせてもいいと思うけど、この夢幻界には一般人は入ることが出来ないわ。唯一明晰夢を見れる能力者だけがここに入ることが出来るけど、それだけなのよ。調査をしたり、ある特定の場所を見たりなんかできない。それ以上に他の人と夢を共有することが不可能だった」
「でも、俺たちはみんなで夢幻界での体験を共有しているけど・・・?」
「それこそが真の愛ちゃんの能力よ。愛ちゃんはこの船を創ることで、みんなの意識をまとめ上げて、夢幻界での共同活動を可能にしたわ」
それで、合点がいった。
「そうか! それで和泉が愛ちゃんの夢に俺が入っていないって不思議がっていたのか!」
「そう言うこと。あなたは何故か、愛ちゃんの夢に同調しないで、いきなり夢幻界に飛び込んでしまったのよ。こんな事例はあなたが最初よ」
そう言うと、都リーダーは手を顎に当てて考えていた。
「さっきも言ったように、このことは大隅教授とも相談して詳しく検討されることになると思うわ。最初の問いに戻ると、カプリース号は愛ちゃんによって創られているから、愛ちゃんのイメージした気持ちのいい場所が船室になっているのよ」
「つまり、愛ちゃんは帆船は創ったけど、中身は知らなかったから家の台所になったというわけか」
納得だ。
俺はこの心地いい船内を改めて見た。
確かに乗り心地はいいし、こんなリラックスできる乗り物は始めて乗った。
なんせ、ゲームまで前の大型スクリーンに接続しているぐらいだ。
「ゲームのコントローラーまである。さすがによくできているなあ」
「ああっ! それはダメよ」
「何だよ。ちょっとぐらい遊んだっていいんじゃないか」
「いや、それはゲームじゃないんだ。俺は使ってないけど、この船の操縦用だ」
上の方の隠れた位置に誰からかの声がした。
驚いた俺が様子を見てみると、上の吹き抜け状の二階は、車の運転席になっていた。
そこに30代前半ぐらいの男性が座っていた。
都リーダーと同じ制服に身を包んでいる。
実技授業の時に幾度か姿だけは見たことがある。
ガイスト担当なので実際会って話するのは初めてだった。
「やっと気づいたな。『信濃』だ」
そう言って信濃さんは車の運転席から声をかけてきた。
人の良さそうな兄ちゃんといった感じの人だ。
短髪で穏やかそうな目元、剃り残しのあるあごひげが印象的というぐらい、あまり目立たない。
むしろ、体つきのほうが特徴的だ。
結構鍛えているのか、両手はしっかりと筋肉がついている。
体はわからないが、この様子だとしっかり腹筋も割れていそうな気がする。
和泉といい、この人といい、何故こんなに筋肉質の人が多いんだ?
俺も少しジムでも行って身体鍛えた方がいいかなと、マジで考えてしまう。
信濃さんは俺を見ながら、ハンドルを回していた。
「この船の航海長なんだけど、これじゃドライバーだな」
「く、車? 運転がですか?」
俺の戸惑った表情に信濃さんは笑い出した。
「だろ。俺も最初見たときは驚いた。まさか、船なのに車のハンドルだからな。だが、訳を聞いて納得したよ。この帆船は出雲愛のイメージで出来ている。だから、操舵輪で動かすってのに想像が及ばなかったんだな」
「確かに、子供には船の動かし方なんて分からないですよね」
俺がそう言うと、信濃さんはうなずいていた。
「初めはそこにあるゲームのコントローラーを操縦用としてイメージしたんだが、さすがにこれでは不安でな。結局みんなの意見を採り入れて車の操縦席を創り出したんだ」
確かにゲーム感覚は困る。
冗談抜きで、あっという間にゲームオーバーになりそうだ。
俺は上二階に上がって、操縦席を見てみた。
見たところ本当に車の操縦と変わらないようだ。
ハンドルとギアがあり、前にはスクリーンがある。
一見したところゲーセンにあるカーレース用のボックスシートを見るかのようだ。
ただ、例外はギアの横にもう一つギアがあることだ。
「このギアは何なんですか?」
「ああ、これか」
信濃さんはブレーキペダルを踏んだ。
船がゆっくりと制止した。
その状態でもう一つのギアを前に倒した。
船がぎしぎし音を立てた。
俺が驚いて身構えていると、船が傾き始めた。
前のほうに向かって舳先が下がっていく。
船全体を映しているモニターで見るとはっきりとわかったが、カプリース号全体が下向きになって動き始めた。
「ということだ。左右は車と同じくハンドルだが、ここでは上下にも動かさないといけないから、このレバーで動かしているんだよ」
宇宙空間と同じく3Dだから、そのためか。
「慣れてくれば自在にこの空間を飛び回ることが出来る。もどったらシュミレーターがあるからやってみたらいいよ。ただ、いくらここで運転できたとしても、現実では御法度だからな」
そう言うと、信濃さんは笑い出した。
結構笑う人だなと思った。
この人の気さくさは悪くない。
すっと懐に入られて、仲間にいつの間にか、なっていそうな錯覚すら覚えるぐらいだ。
あれ、何か変だ。
俺の身体が重く感じた。
急に重力が掛かってきたというか、地面が揺らいでいるというか、そんな違和感がする。
「まずいな。もうそろそろ終わりか?」
ポツリとつぶやいた信濃さんは、都リーダーのほうを向いた。
「急いで同調域へ向かって!」
都リーダーがあわてて指示した。
「了解」
そう言うなり、ギアを上に変え、アクセルペダルをベタ踏みにした。
「な、何の異常なんですか?」
俺の質問に都リーダーが答えた。
「愛ちゃんが眠りそうなのよ」
「眠るって、ここ愛ちゃんの夢の中なんじゃ?」
「確かにその通りなんだけど、レム睡眠状態の時は夢幻界に入っていることが出来るの。でも、ノンレム睡眠時にはここでは活動できない。愛ちゃんが徐波睡眠に入りつつあるのよ」
徐波睡眠とは、深いノンレム睡眠のことだ。
完全に意識がなくなるぐらいに脳が眠ってしまう。
俺に説明している間にも、カプリース号は猛スピードで動いていた。
「ノンレム睡眠に入ったら夢幻界へは、いられない。だから、本来の愛ちゃんの夢まで戻るのよ。愛ちゃんの夢と夢幻界を結ぶ通路が同調域よ。そろそろ見えてくるわ」
俺はモニターを見つめた。
薄紅色の世界の中に白い雲がかかっていた。
その中に渦巻き状の丸い雲が見えた。
「あの雲がシントニー。ここが愛ちゃんと夢幻界のつなぎ目になっているわ」
都リーダーがそう言っている間にも、カプリース号は雲へと近づいていき、ついに雲にくっついた。
そのとたん、雲は船を取り囲んだ。
周りは真っ白になったが、次第に黒くなってきた。
俺が不安な顔でモニターを見ているのに気付いて、都リーダーが声をかけた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。シントニーを通じて、本来の愛ちゃんの夢の中へ戻っているだけだから」
そう言った都リーダーは少し感慨深げな表情を浮かべていた。
次第に、ゆっくりと船が制止していく。
やがて画面も真っ暗になり、何も映らなくなった。
「もうすぐしたら愛ちゃんの意識が完全になくなるわ。私たちの意識も愛ちゃんにつられて眠りに入る」
「そ、それじゃ俺たちはどうなるんだ?」
「次のレム睡眠期にまた行動開始ってことで船に戻るんだけど、今回は初めてということでこのままリンクアウト、つまり夢幻界を離れるわ。愛ちゃんとの接続は終わって、自然に目覚めると思う」
都リーダーはそう言うと手を振った。
「それじゃ現実で会いましょう」
都リーダーの顔がぼやけていく。
側にいた信濃さんや、下にいる日向、和泉の姿ももう見えなかった。
俺が意識を失う前に、何か声を聞いた気がした。
子供の声だった。
「・・・バイバイ。またね」