第2章 金曜日の出来事
翌日の金曜日、春樹は二日連続で大学を休んだ。自宅から通学している恵美莉は、一日のカリキュラムに空き時間があると時間を持て余す。みのりがいれば暇つぶしできるのだが、この時みのりには授業があった。
そんな時は、
♪ピンポーン カチャカチャ・ガチャン
恵美莉は呼び鈴を一回押した後、合鍵でドアの鍵を開けた。返事がなくとも勝手に入れるこの部屋は、一人暮らしを始めた春樹のワンルームである。
「いるんでしょ。今日もズル休みする気?」
と言葉を遠くに投げかけながら、玄関キッチンとリビングの間のドアを開けると、
「うヴぇ!」
いつものシンナーの匂いがして、言葉を詰まらせた。
「ちょっと、換気しないと体に悪いよ」
「ああ、寒いから」
「暖房点けてるじゃない。こんな臭いの中で中毒になっちゃうよ。寝てたの?」
ベッドに横になっていた春樹は、首だけ持ち上げて恵美莉を迎えた。
「うん。今、下地塗りが乾くの待ってた」
「授業は今日も出ない気?」
床に広げられたバラバラのガンダムをまたぎながら、座る場所を探すがスペースがなく、ベッドに正座した。
「日曜が締め切りだから、それまで何とか完成させて、店に持ち込むんだ」
「コンクールに出すの? そんなに急ぐならもっと早く作ればいいのに」
「この新発売モデルで出展することに、意味があるんじゃないか」
「ああ、そうか。それで得点変わんのかな?」
「絶対優勝」
「もうどれくらい進んでるの?」
「見ての通り、部品ばらして面取りして下地塗り終えたとこ」
「昨日から作ってるんでしょ」
「ああ、夕方から寝ないでやってる」
「20時間近くもやりっぱなし?」
「そう」
「ちょっとは寝なよ」
恵美莉はあきれ顔で言うと、
「あんまりそんな時間ないって、これからが本番だから」
春樹は満面の笑みで返す。
(あたしには、こんな真剣になってくれたことないのに)と少し不満に思うのだ。
「じゃ今夜も徹夜?」
「もちろんさ」
「じゃ、あたし今晩ヒマなんだけどな」
「ずっとここに居ていいよ」
「だからヒマなんじゃない」
「手伝ってもらうことはないしな」
「手伝う気はないわよ」
「じゃ、俺ちょっと寝る」
「・・・・・・。」
その様子を無言で見つめていた恵美莉も、モソモソっと春樹の横に添い寝した。
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「!!! いっ今何時!?」
恵美莉が飛び起きた。それまで春樹の部屋には静寂が漂っていたが、壁の時計を確認しながら、クローゼットに取り付けられた姿見をのぞき込んで、髪の毛を手櫛で整え、カバンを掴んでドタバタとベッドから飛び降りた。
「授業?」
「違う、バイト!」
恵美莉はこの日、学内の学生相談室で受付けのアルバイトの予定があったのだ。それが15時から、もう10分しかない。春樹は床に視線を向けて、
「あああ、部品踏まないで!」
「踏んでない!」
そう言うと玄関から猛ダッシュで出ていった。
「行ってらっ・・・」
あとに残された春樹は、ベッドの上から手を伸ばして、床に並べたパーツを指で触って、
(よかった。もう乾いたな)
ゆっくりと起き上がり足を床につけると、両腕を大きく上に伸ばして欠伸をして、
「じゃ、がんばりますか!」
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「お疲れさまでーす」
恵美莉は学生相談室に駆け込んで、開口一番にそう言った。
「ああ、お疲れ。今日も元気だね」
そう返したのは、この日のカウンセリング当番の桧垣助教授である。
「やばかった。ついさっきまで彼氏んとこで寝てました」
「イヒヒ、昼間っから仲いいね」
「そうじゃないですよ。ホント寝てただけです。ホントに」
息を切らせながら恵美莉は平静を装ったが、春樹のアパートからここまで全力ダッシュしてきていた。中学時代は陸上部だった恵美莉も、高校から大学3年の今までは運動はしていない。その表情を見た桧垣は、
「顔が紅潮してると、あの時みたいにカワイイね」
「えへへ、体力不足かも。走るのは嫌いじゃないけど、ベッドの上のほうがいいですね」
「なんて積極的に誘ってくるんだ」
「もう、そんなんじゃないですよ~だ」
露骨な会話はいつものこと。桧垣は妻帯者であるが、恵美莉は一年以上前から抱かれている。今更ながらの会話である。
「今日は予約が4人もいるから、ちょっと忙しいよ」
桧垣がニヤケてそう言うと、恵美莉から近づいて、
「悔しそう。仕事ですよ先生・・・」
今日はイチャイチャする時間がないことを残念に思いながら、相談者が来る前に、一応抱き合って、キスだけしておくのだった。
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「晩御飯はどうする?」
「今日は彼氏が部屋にいるんで、帰って晩御飯作ってあげないといけないんですよね」
学生生活に悩む生徒の相談を受けた後、その内容をPCにまとめる作業をしながら、桧垣は必ず恵美莉を食事に誘う。相談者がいなくなった部屋では、どんな会話も遠慮なくできるのだ。
アルバイトの時間は18時まで。その後食事をするにはちょうどいい時間なのだが、恵美莉はあまりこの誘いには乗らない。というよりは、遠慮していると言ったほうが適切だろう。週2~3回のバイトといえど、本命彼氏ではない相手にべったりにならないよう、彼女のモラルではギリギリの線を引いているつもりだった。
桧垣のほうも残念に思いながらも、無理に誘うことはしない。心理学を専門に教える彼は、恵美莉の心理をうまくコントロールすると共に、また次のチャンスを伺うのだった。お互いこうすることで、二人は安心の距離を保ち、関係は安定していた。
「そうか、じゃ僕は研究室に戻るから、後片付けして鍵を学生課に返しておいて」
「はい、お疲れさまでした先生」
そうしてまた抱き合って、さっきより濃厚に絡み合う二人だった。
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春樹の部屋に戻る前、スーパーで買い物をする恵美莉は、
(なんか晩御飯作るの面倒になっちゃったな)
さっきまで一緒にいた桧垣のことを考えながら、ニヤケ顔になるのをこらえていた。
一通り店内を回ったが、結局『20%引き』のシールが貼られた牛丼を一つ買って、春樹のワンルームに向かった。
♪ピンポーン カチャカチャ・ガチャン
「ただいま」
「おかえり」
恵美莉が部屋に入ると、春樹は机に向って、ピンセットでプラモを組み立てていた。その様子をリビングの入り口で見た恵美莉は、
「またすごい臭いしてる。これ、牛丼買ってきたよ」
「ああ、ありがと。あとで食うよ」
「どうせ昨日から、ろくなもん食べてないでしょ」
キッチンに捨てられたスナック菓子の袋を見ながら言った。
「じゃ、チンして食べてね」
「え? 恵美ちゃんは食べないの?」
「うん、今日はもう、家に帰って食べる」
「そう、じゃまた連絡するよ」
「うそ。プラモに熱中してたら連絡なんかしてこないわよね」
「ははは、そうかも」
「今日も徹夜すんの?」
「うん、でも組み立て終わったら、色付けの乾き待ちで、ちょっとずつ寝れるから」
「いつ完成する予定?」
「多分、明日の夕方頃かな」
「でもあたし、明日の晩は、みのりと約束あるからね」
「うん、大丈夫。俺は寝るから」
「そう、じゃ日曜はどうする?」
「日曜はコンクール締め切り日だから、完成品を本店に直接持ち込みに行く」
「ええ? 遠いじゃん」
「ついてこなくてもいいよ。絶対、あそこの店長とは長話するから」
「そうね。じゃ、月曜はちゃんと授業に来るようにー」
「分かってまー」
「じゃ、帰る」
「あ、待って、キスキス」
恵美莉は満面の笑顔で、床の部品を踏まないよう、ちょんちょん爪先歩きをして、首を伸ばしキスをした。
「もう口紅取れてるよ」
(え? やべぇ)
春樹のワンルームマンションの玄関を出ると、恵美莉はその部屋のベランダを見上げた。
(放ったらかしにするから悪いんだからね)
ダウンジャケットのポケットからスマホを取り出すと、それを歩きながら操作した。
SMS
桧垣先生
08032XX77XX
[先生。まだ時間ある?]
✓20XX/12/08 18:40
恵美莉はLINEではなく、デフォルトアプリのSMSを使用した。相手は桧垣助教授宛てである。そして暫く歩きながら返信を待った。歩いて行く先は駅ではなく、大学へ向かっていた。
10分ほど歩いて、大学の近くまで来た頃、そのSMSに返信があった。
[どうした?]
20XX/12/08 18:51
恵美莉はすぐに会話を続けた。
[気が変わったの。また会いたいんだけど]
✓20XX/12/08 18:51
[研究室にいるから]
20XX/12/08 18:52
[すぐ行くね]
✓20XX/12/08 18:52
恵美莉はそう入力した後、笑顔になってその会話を削除した。浮気を隠すため、LINEは使わず、いつもそうしているのだった。
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