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24/27

普通の日に戻るはずだった

 翌日、王都南区の役所。その一室へ続く長い廊下には、朝から大勢の人が並んでいた。商人、職人、教会関係者、冒険者、杖をついた老人、幼い子供の手を握る若い母親。誰も楽しそうな顔はしておらず、隣にいる者と目を合わせようともしない。


 だが、その空気は昨日までとは少しだけ違っていた。俯いていた者がときおり顔を上げ、扉の方を見る。前に並ぶ誰かの背中を見つめ、不安そうに息を吐く者もいる。それでも、列から離れて帰ろうとする者はいなかった。


「次の方」


 扉が開くと、呼ばれた中年の男が肩を小さく強張らせた。一度だけ深く息を吸い、それから覚悟を決めるように室内へ入っていく。


 机の向こうには担当官、その隣にはリシェルが座っている。今日は髪も服装もきちんと整え、王女として人前に出る姿をしていた。表情は穏やかだが、背筋はまっすぐ伸びている。


「お名前を」


担当官に促され、男は椅子へ浅く腰掛けた。


「……ハイルです」


緊張で声が少し掠れている。膝の上では両手の指を落ち着かなさそうに組み替えていた。


「ガルド商会との関係を」


男の手が止まる。やがて両手を拳にし、膝の上で強く握り締めた。


「三年前、店を広げるために金を借りました」


担当官が紙へ視線を落とす。


「返済は?」


「しました」


男はすぐに答えたものの、その直後に唇を噛む。


「ですが……帳簿では、払っていないことにされて。そのあと……」


そこで言葉が途切れた。男の視線が床へ落ち、喉が小さく動く。何かを言わなければと分かっていながら、どうしても続きを口にできない。


リシェルは急かさず、しばらく黙って男を見つめていた。それから責める色のない静かな声で言う。


「話したくない部分まで、話す必要はありません」


男が、はっと顔を上げる。


「必要なのは、何をされたかです。何を隠していたかではありません」


リシェルは目を逸らさず、真っ直ぐ男を見ていた。男の目が揺れ、握り締めていた拳から少しずつ力が抜けていく。


しばらくの沈黙のあと、男は小さく息を吐いた。一度目を閉じ、やがて覚悟を決めたように頷く。


「……脅されました」


担当官の筆がサラサラと紙の上を走る。その音を聞きながら、男は膝の上で握っていた手をゆっくり開いた。


「証言します」


小さな声だった。それでも今度の声は、はっきりしていた。


リシェルは何も言わず、ごく小さく頷いた。




それから、一人、また一人と証言者が部屋へ入ってきた。


「返済証明がなくなりました」


商人の男が、古びた書類を両手で差し出す。


「家族のことを知られて、仕事を辞めろと言われました」


若い職人は俯いたまま、汚れた指先を強く握り締める。


「土地を渡せば黙っている、と」


老人が杖を握る手を震わせながら言う。


「昔の失敗を子供に知られたくなくて……ずっと言えませんでした」


若い母親は胸元で手を組み、涙を堪えながら最後まで言い切った。


昨日まで、誰も口を開こうとはしなかった。《暴露庫》が何を知っているのか分からず、ガルドに何を暴かれるか分からない。その恐怖が、誰の口も塞いでいた。


今は違う。


《暴露庫》はもう動かない。ガルドも拘束されている。それでも、怖さそのものが消えたわけではない。


名前を告げる瞬間、過去を口にする瞬間、誰もが一度は躊躇する。


けれど、一人が扉をくぐれば、その姿を見ていた二人目が続く。二人目が立てば、三人目が手にしていた書類を持ち直す。


 昼を過ぎる頃には、廊下の椅子が足りなくなっていた。壁際に立つ者もいれば、荷物を足元へ置いて順番を待つ者もいる。それでも帰ろうとする者はいない。


 担当官は机の上に積み上がった資料を見下ろした。朝には数枚しかなかった紙の束が、今ではずっしりと厚くなっている。


思わず筆が止まる。


「……こんなに」


リシェルも扉の向こうへ目を向けた。廊下には、まだ何人もの人間が待っている。


「ええ。報告書には、ありませんでしたね」


担当官は何も返せない。


リシェルは資料へ視線を戻し、静かに続けた。


「報告書の数字に入らなかった人たちです」


 担当官の手が紙の上で止まる。しばらく何も言えないまま資料を見つめたあと、やがて黙って筆を取り直した。




同じ頃、冒険者ギルド。


「……暇だ」


レインは机に突っ伏し、頬を木の天板につけたまま完全に力を抜いていた。


受付の向こうからその姿を見たミーナが、呆れ半分の声を投げる。


「昨日まで、あれだけ大騒ぎしていた人の台詞ですか?」


「昨日まで大騒ぎしてたから、今日は暇なんだよ」


顔を上げる気配すらないレインに、ミーナは依頼票を一枚手に取った。


「薬草採取、ありますよ」


レインの片目だけが開く。


「……遠い?」


「近いです」


「危険?」


「ほぼありません」


「報酬?」


「普通です」


数秒考えるでもなく、レインは再び目を閉じた。


「うん、完璧だね」


ミーナが思わず口元を緩める。


「本当に普通の依頼が好きなんですね」


「普通が一番だろ」


「そうですね」


そう返したミーナの声が、少しだけ静かになる。


短い間のあと、カウンターの上で指を重ねながら口を開いた。


「父が、昨日、役所へ行きました。証言しに」


レインの瞼が上がり、ほんの少しだけ顔を起こす。


「そっか」


「はい。怖がっていましたけど、それでも……」


ミーナは一度目を伏せ、それから小さく笑った。


「今度は、逃げないって」


レインは何も言わなかった。ただ、さっきまでとは違って、きちんとミーナの方を見ている。


「レインさん」


「何」


「ありがとうございました」


レインが一度だけ瞬きをし、すぐにいつもの気の抜けた表情へ戻る。


「何の話だ?」


ミーナがじっと見る。レインもじっと見返す。


数秒の沈黙のあと、ミーナが先に、にこっと笑った。


「何の話でしょうね」


「…………覚えたな」


「誰かさんのおかげです」


レインは鼻で小さく息を漏らし、ほんの少しだけ口元を緩める。


「じゃ、薬草の依頼、行ってくる」


椅子から立ち上がると、ミーナがすぐ返した。


「逃げましたね」


「いや仕事だよ」


「はいはい」


レインが受付に置かれた依頼票を取った、その時だった。


バンッ!


ギルドの扉が勢いよく開く。


「レイン!」


依頼票を掴んだレインの手が、そのまま止まる。


「…………」


顔だけをゆっくり扉の方へ向ける。


ミーナもそちらを見て「あ」と声を漏らした。


入口には、少し息を弾ませたリシェル。その後ろにはクロエ、さらに南区の担当官までいる。


その三人を見た途端、レインの顔が露骨に嫌そうに歪んだ。


「目立つなって」


「今日はいいのです!」


「よくないだろ」


すでにギルド中の視線が一斉に集まり、ざわざわと声が広がっている。


けれどリシェルはまるで気にせず、一直線にレインの前まで歩いてきた。


「孤児院の件、正式に決まりました」


その一言で、レインの目から面倒そうな色が消える。ほんの少し姿勢を正す。


「どうなった?」


リシェルの表情が明るくなる。


「立ち退き命令は無効です。借金も、返済済みと認められました」


「土地は?」


今度はレインの方が少し身を乗り出す。


「孤児院のものです」


一拍置いて、レインの肩から力が抜けた。小さく、長く息を吐く。


「そっか」


「はい」


リシェルもようやく緊張を解くように笑った。


「間に合いました」


レインの口元も、ほんの少しだけ緩む。


「……そうだな」




午後、孤児院。


門を開けた瞬間、庭にいた子供たちの顔が一斉に上がった。


「レイン兄ちゃん!」


「来た!」


「ほんとに来た!」


その声と同時に、嫌な予感を察したレインが足を止める。


「おい」


一歩、二歩と下がる。


だが遅い。


ドドドドドッ!


子供たちが一斉に駆け寄り、脚や腕や服へ次々しがみつく。


「うおっ」


「レイン兄ちゃん!」


「遊ぼ!」


「剣見せて!」


「屋根登って!」


レインは一人ずつ顔を見ていき、最後の一言で眉をひそめた。


「最後のは駄目だ」


「なんで!」


「危ないから」


子供が頬を膨らませる。


「レイン兄ちゃん登ってたじゃん!」


レインの動きが止まった。


「見てたのかよ」


後ろから、くすくすと笑う声が聞こえる。


振り返ると、リシェルが口元を押さえている。


「大人気ですわね」


子供二人に腕を引っ張られながら、レインが助けを求めるように見る。


「助けてくれ」


「嫌です」


間髪入れず返される。


「即答?」


「わたくし、困っていませんもの」


涼しい顔をするリシェルを、レインがしばらくじっと見る。


やがて少しだけ目を細めた。


「……覚えてたのか」


「もちろんです」


リシェルが悪戯っぽく笑う。


そこへマリアが歩いてくる。目元は少し赤い。


二人の姿を見つけると足を止め、深く頭を下げた。


「レインさん、リシェさん、本当に、ありがとうございました」


リシェルが目を見開き、慌てて両手を前へ出す。


「頭を上げてください」


レインも肩にしがみついていた子供を一人抱え、地面へ下ろす。


「俺は、たいしたことしてない」


その横からリシェルが即座に返す。


「しましたよ、結構しました」


「そう?」


レインが首を傾げると、少し後ろにいたクロエが無表情のまま加える。


「かなりな事をね」


レインがクロエを見る。


「なんか増やされたぞ」


そのやり取りに、マリアが思わず小さく笑った。


少しだけ空気が和らぐ。


「土地のことも、もう大丈夫だと」


「ええ」


リシェルがしっかり頷く。


「地下の魔晶石については、王都側で改めて調査します」


その言葉を聞いた途端、マリアの笑顔が消えた。胸元で握った手に力が入る。


「やはり、ここを……」


「いいえ」


リシェルがすぐに言葉を重ね、一歩マリアへ近づく。


「土地を取り上げるつもりはありません」


マリアが不安そうに顔を上げる。


リシェルは目を逸らさない。


「採掘することになっても、孤児院を守る形で進めます。利益の一部も、こちらへ戻るように」


マリアが目を見開いた。


「そんな……わたしたちには多すぎます」


リシェルの表情が柔らかくなる。


庭の方を見ると、子供たちが笑いながら走り回っている。


「でしたら、子供たちのために使ってください」


マリアもその視線を追う。


転びそうになった子を別の子が引っ張り、また笑い声が上がる。


目元に涙を滲ませながら、今度は笑っていた。


やがて静かに頷く。


「……はい」




その時、リシェルの袖がくいっと小さく引かれた。


「お姉ちゃん」


リシェルが視線を下げる。


「はい?」


そこには小さな女の子がいて、不思議そうにレインとリシェルを見比べている。


「レイン兄ちゃんの、お嫁さん?」


「っ!?」


リシェルの顔が一瞬で赤くなり、体ごと固まる。


対してレインは、ほとんど考える間もなく即答した。


「違うぞ」


リシェルも我に返る。


「違います!」


ぴしゃりと声が重なる。


一拍置いて、リシェルがぎぎぎ、とレインの方を見る。頬はまだ赤い。


「……どうして、あなたの方が早いのです?」


レインは何が問題なのか分からない顔をしている。


「質問が簡単だったからな」


リシェルの眉が跳ねる。


「どういう意味です!?」


女の子はさらに首を傾げた。


「じゃあ、好きじゃないの?」


今度こそリシェルの口が開いたまま止まる。


「え」


レインがその反応を見て、ぼそっと呟く。


「ほら、難しくなった」


リシェルが勢いよく振り返る。


「何がです!?」


少し離れた場所では、クロエが完全に顔を逸らしていた。


ただ、肩だけが小さく震えている。


リシェルの目が細くなる。


「クロエ!」


「何でしょう」


「笑っているでしょう!」


「いいえ」


「こちらを向いてください!」


クロエはさらに反対側へ顔を向ける。


「今は、子供たちを見ているだけですので」


「絶対に笑っていますわ!」


レインは子供に腕を引かれたまま、その騒ぎを眺めていた。


庭には子供たちの笑い声が響き、リシェルの声と、クロエの震える肩がそこへ重なる。


レインが、ぼそりと呟いた。


「まあ、平和だな」


リシェルが即座に振り返る。


「誰のせいで、こんな話になっていると思っているのです?」


レインが少し考える。


「子供?」


「あなたです!」


レインが自分を指さす。


「俺かい?」


「あなたです!」


そのやり取りに、庭の笑い声はしばらく絶えなかった。




夕方になり、


孤児院を出たレイン、リシェル、クロエの三人は、並んで南区の通りを歩いていた。


一日の終わりを告げるように、夕日が街の屋根を赤く染めている。


リシェルが前を見たまま口を開く。


「これで、終わりですね」


レインは肩の力を抜いたまま歩いている。


「ガルドの件はな」


「まだ裁判があります。制度の見直しも、魔法契約の規制も、証人保護も、商会の帳簿調査も」


話しながら、リシェルの指が一つずつ立っていく。


レインが横目でそれを見る。


「やっぱり終わってないじゃん」


「事件は終わりました!」


「なんだか仕事増えてないか?」


「ええ、増えました」


そう答えた瞬間、リシェルの肩が僅かに落ちる。


レインがその横顔を見る。


「嫌そうに言うなよ」


するとリシェルが、じろりとレインを見る。


「誰かさんが、大きなものを消しましたからね」


その一言で、レインの表情がほんの一瞬だけ止まった。


歩きながら右手へ視線を落とす。


指が、ぴくりと小さく動く。


一歩後ろを歩くクロエだけが、その仕草に気づいていた。


視線をレインの右手へ向けるが、何も言わない。


リシェルは気づかないまま続ける。


「ですが、一つだけ良かったと思っています」


レインが顔を上げる。


「何」


リシェルは前を向いたまま、少しだけ笑った。


「あなたと、会えたことです」


レインの足が、すっと止まりかける。


同時にリシェル自身も、自分が何を言ったのか理解する。


「…………」


「…………」


その間も、クロエだけは何事もなかったように歩き続けている。


やがてリシェルの耳が赤くなった。


レインが横から見る。


「急に何」


リシェルが勢いよく振り返る。


「ち、違います!」


「何が」


「そういう意味ではなく!」


「どういう意味?」


レインは純粋に聞いているだけの顔をしている。それが余計にリシェルを焦らせる。


「事件解決のために!」


「はい」


「必要な人材だったと!」


「はい」


「その!」


「はい」


毎回素直に頷くレインを前に、リシェルの顔がどんどん赤くなっていく。


「……もういいです!」


くるりと前を向き、スタスタと早足で先へ行く。


その背中を見送ったレインが、クロエを見る。


「怒った?」


「照れています」


クロエは即答した。


前を歩くリシェルの肩が跳ねる。


「聞こえています!」


レインが少し目を丸くする。


「?」


クロエの口元が、ごく僅かに緩む。


「ええ。あなたのせいで」


レインが自分を指さす。


「俺?」


前方から、すぐに声が飛んでくる。


「そうです!」


レインとクロエは顔を見合わせ、少しだけ笑った。




その日の夜


《渡り鳥亭》のレインの部屋。


灯りは一つだけで、室内には机と椅子、ベッド、それに最低限の荷物しかない。いつも通りの、何もない部屋だった。


レインは扉を閉めると、カチャリと鍵を確認する。


剣を壁際へ置き、上着を脱いで椅子へ放る。凝った首を軽く回しながら、疲れ切った声を漏らした。


「……疲れた」


そのままベッドへ向かおうとして、足が止まる。


机の上。


「…………」


一通の手紙が置かれている。


レインの目が細くなる。


さっきまでの気の抜けた表情が消え、室内へ鋭く視線を走らせる。


部屋へ入る前に気配は確認していた。


扉の鍵は壊れていない。


窓も閉まっている。


床も乱れていない。


誰かが入った形跡は、どこにもない。


それでも、机の中央には白い封筒が置かれている。


宛名はない。


レインはすぐには触れず、しばらく黙ったまま見つめる。


それから慎重に近づき、指先で封筒を持ち上げた。


裏返し、封を確認してから開く。


中には紙が一枚。


書かれているのは、一行だけだった。


『イレイサーを使ったな』


レインの瞳が一気に鋭くなる。


呼吸が止まる。


「…………」


次の瞬間。


紙の端にある文字が、すうっと消えた。


「え」


レインの目が見開く。


一文字、また一文字。


黒い文字が何かに削られるわけでもなく、端から白へ変わっていく。


紙を持つ指に力が入る。


最後に残った『な』の一文字も消え、完全な白紙になった。


部屋には何の音もしない。


レインは紙から目を離せないまま、しばらく立ち尽くしていた。


やがて掠れた声で呟く。


「……俺以外にも、いるのか?」


視線を右手へ落とす。


その手は、本人にも分かるほど僅かに震えている。


レインは無意識に拳を握った。


その時。


ぞくりと、頭の奥を何かが撫でたような感覚が走る。


『――レイン』


レインの肩が跳ねる。


「……?」


すぐに周囲を見回す。


誰もいない。


聞こえたのは、女の声だった。


どこかで聞いたことがある気がする。


懐かしいような感覚だけが胸の奥をざわつかせる。


けれど、誰の声なのか分からない。


思い出そうと眉間に皺を寄せた、その瞬間。


声も、感覚も、すべて消えた。


レインは額を押さえる。


「……何だ」


目を閉じ、記憶を探る。


だが、何も出てこない。


やがて目を開き、机の上へ視線を戻す。


白紙。


その中央に、さっきまではなかった文字が浮かび上がっている。


『次は』


レインの表情が固まった。


紙を握る手に力が入る。


「…………」


続きを待つ。


数秒経っても、新しい文字は現れない。


そして今度は、その二文字まで、すうっと消えていった。


再び完全な白紙になる。


部屋に静けさが戻る。


レインはしばらくその場に立ち尽くし、白紙を見つめていた。


やがて肩から力を抜き、深く長いため息をつく。


「普通の冒険者に、戻りたいんだけどな」


白紙を机へ置く。


誰も答えない。


窓の外には、静かな王都の夜が広がっている。


第一の事件は終わった。


けれど同時に、レイン自身が忘れている物語が、誰にも気づかれないまま静かに動き始めていた。


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