普通の日に戻るはずだった
翌日、王都南区の役所。その一室へ続く長い廊下には、朝から大勢の人が並んでいた。商人、職人、教会関係者、冒険者、杖をついた老人、幼い子供の手を握る若い母親。誰も楽しそうな顔はしておらず、隣にいる者と目を合わせようともしない。
だが、その空気は昨日までとは少しだけ違っていた。俯いていた者がときおり顔を上げ、扉の方を見る。前に並ぶ誰かの背中を見つめ、不安そうに息を吐く者もいる。それでも、列から離れて帰ろうとする者はいなかった。
「次の方」
扉が開くと、呼ばれた中年の男が肩を小さく強張らせた。一度だけ深く息を吸い、それから覚悟を決めるように室内へ入っていく。
机の向こうには担当官、その隣にはリシェルが座っている。今日は髪も服装もきちんと整え、王女として人前に出る姿をしていた。表情は穏やかだが、背筋はまっすぐ伸びている。
「お名前を」
担当官に促され、男は椅子へ浅く腰掛けた。
「……ハイルです」
緊張で声が少し掠れている。膝の上では両手の指を落ち着かなさそうに組み替えていた。
「ガルド商会との関係を」
男の手が止まる。やがて両手を拳にし、膝の上で強く握り締めた。
「三年前、店を広げるために金を借りました」
担当官が紙へ視線を落とす。
「返済は?」
「しました」
男はすぐに答えたものの、その直後に唇を噛む。
「ですが……帳簿では、払っていないことにされて。そのあと……」
そこで言葉が途切れた。男の視線が床へ落ち、喉が小さく動く。何かを言わなければと分かっていながら、どうしても続きを口にできない。
リシェルは急かさず、しばらく黙って男を見つめていた。それから責める色のない静かな声で言う。
「話したくない部分まで、話す必要はありません」
男が、はっと顔を上げる。
「必要なのは、何をされたかです。何を隠していたかではありません」
リシェルは目を逸らさず、真っ直ぐ男を見ていた。男の目が揺れ、握り締めていた拳から少しずつ力が抜けていく。
しばらくの沈黙のあと、男は小さく息を吐いた。一度目を閉じ、やがて覚悟を決めたように頷く。
「……脅されました」
担当官の筆がサラサラと紙の上を走る。その音を聞きながら、男は膝の上で握っていた手をゆっくり開いた。
「証言します」
小さな声だった。それでも今度の声は、はっきりしていた。
リシェルは何も言わず、ごく小さく頷いた。
それから、一人、また一人と証言者が部屋へ入ってきた。
「返済証明がなくなりました」
商人の男が、古びた書類を両手で差し出す。
「家族のことを知られて、仕事を辞めろと言われました」
若い職人は俯いたまま、汚れた指先を強く握り締める。
「土地を渡せば黙っている、と」
老人が杖を握る手を震わせながら言う。
「昔の失敗を子供に知られたくなくて……ずっと言えませんでした」
若い母親は胸元で手を組み、涙を堪えながら最後まで言い切った。
昨日まで、誰も口を開こうとはしなかった。《暴露庫》が何を知っているのか分からず、ガルドに何を暴かれるか分からない。その恐怖が、誰の口も塞いでいた。
今は違う。
《暴露庫》はもう動かない。ガルドも拘束されている。それでも、怖さそのものが消えたわけではない。
名前を告げる瞬間、過去を口にする瞬間、誰もが一度は躊躇する。
けれど、一人が扉をくぐれば、その姿を見ていた二人目が続く。二人目が立てば、三人目が手にしていた書類を持ち直す。
昼を過ぎる頃には、廊下の椅子が足りなくなっていた。壁際に立つ者もいれば、荷物を足元へ置いて順番を待つ者もいる。それでも帰ろうとする者はいない。
担当官は机の上に積み上がった資料を見下ろした。朝には数枚しかなかった紙の束が、今ではずっしりと厚くなっている。
思わず筆が止まる。
「……こんなに」
リシェルも扉の向こうへ目を向けた。廊下には、まだ何人もの人間が待っている。
「ええ。報告書には、ありませんでしたね」
担当官は何も返せない。
リシェルは資料へ視線を戻し、静かに続けた。
「報告書の数字に入らなかった人たちです」
担当官の手が紙の上で止まる。しばらく何も言えないまま資料を見つめたあと、やがて黙って筆を取り直した。
同じ頃、冒険者ギルド。
「……暇だ」
レインは机に突っ伏し、頬を木の天板につけたまま完全に力を抜いていた。
受付の向こうからその姿を見たミーナが、呆れ半分の声を投げる。
「昨日まで、あれだけ大騒ぎしていた人の台詞ですか?」
「昨日まで大騒ぎしてたから、今日は暇なんだよ」
顔を上げる気配すらないレインに、ミーナは依頼票を一枚手に取った。
「薬草採取、ありますよ」
レインの片目だけが開く。
「……遠い?」
「近いです」
「危険?」
「ほぼありません」
「報酬?」
「普通です」
数秒考えるでもなく、レインは再び目を閉じた。
「うん、完璧だね」
ミーナが思わず口元を緩める。
「本当に普通の依頼が好きなんですね」
「普通が一番だろ」
「そうですね」
そう返したミーナの声が、少しだけ静かになる。
短い間のあと、カウンターの上で指を重ねながら口を開いた。
「父が、昨日、役所へ行きました。証言しに」
レインの瞼が上がり、ほんの少しだけ顔を起こす。
「そっか」
「はい。怖がっていましたけど、それでも……」
ミーナは一度目を伏せ、それから小さく笑った。
「今度は、逃げないって」
レインは何も言わなかった。ただ、さっきまでとは違って、きちんとミーナの方を見ている。
「レインさん」
「何」
「ありがとうございました」
レインが一度だけ瞬きをし、すぐにいつもの気の抜けた表情へ戻る。
「何の話だ?」
ミーナがじっと見る。レインもじっと見返す。
数秒の沈黙のあと、ミーナが先に、にこっと笑った。
「何の話でしょうね」
「…………覚えたな」
「誰かさんのおかげです」
レインは鼻で小さく息を漏らし、ほんの少しだけ口元を緩める。
「じゃ、薬草の依頼、行ってくる」
椅子から立ち上がると、ミーナがすぐ返した。
「逃げましたね」
「いや仕事だよ」
「はいはい」
レインが受付に置かれた依頼票を取った、その時だった。
バンッ!
ギルドの扉が勢いよく開く。
「レイン!」
依頼票を掴んだレインの手が、そのまま止まる。
「…………」
顔だけをゆっくり扉の方へ向ける。
ミーナもそちらを見て「あ」と声を漏らした。
入口には、少し息を弾ませたリシェル。その後ろにはクロエ、さらに南区の担当官までいる。
その三人を見た途端、レインの顔が露骨に嫌そうに歪んだ。
「目立つなって」
「今日はいいのです!」
「よくないだろ」
すでにギルド中の視線が一斉に集まり、ざわざわと声が広がっている。
けれどリシェルはまるで気にせず、一直線にレインの前まで歩いてきた。
「孤児院の件、正式に決まりました」
その一言で、レインの目から面倒そうな色が消える。ほんの少し姿勢を正す。
「どうなった?」
リシェルの表情が明るくなる。
「立ち退き命令は無効です。借金も、返済済みと認められました」
「土地は?」
今度はレインの方が少し身を乗り出す。
「孤児院のものです」
一拍置いて、レインの肩から力が抜けた。小さく、長く息を吐く。
「そっか」
「はい」
リシェルもようやく緊張を解くように笑った。
「間に合いました」
レインの口元も、ほんの少しだけ緩む。
「……そうだな」
午後、孤児院。
門を開けた瞬間、庭にいた子供たちの顔が一斉に上がった。
「レイン兄ちゃん!」
「来た!」
「ほんとに来た!」
その声と同時に、嫌な予感を察したレインが足を止める。
「おい」
一歩、二歩と下がる。
だが遅い。
ドドドドドッ!
子供たちが一斉に駆け寄り、脚や腕や服へ次々しがみつく。
「うおっ」
「レイン兄ちゃん!」
「遊ぼ!」
「剣見せて!」
「屋根登って!」
レインは一人ずつ顔を見ていき、最後の一言で眉をひそめた。
「最後のは駄目だ」
「なんで!」
「危ないから」
子供が頬を膨らませる。
「レイン兄ちゃん登ってたじゃん!」
レインの動きが止まった。
「見てたのかよ」
後ろから、くすくすと笑う声が聞こえる。
振り返ると、リシェルが口元を押さえている。
「大人気ですわね」
子供二人に腕を引っ張られながら、レインが助けを求めるように見る。
「助けてくれ」
「嫌です」
間髪入れず返される。
「即答?」
「わたくし、困っていませんもの」
涼しい顔をするリシェルを、レインがしばらくじっと見る。
やがて少しだけ目を細めた。
「……覚えてたのか」
「もちろんです」
リシェルが悪戯っぽく笑う。
そこへマリアが歩いてくる。目元は少し赤い。
二人の姿を見つけると足を止め、深く頭を下げた。
「レインさん、リシェさん、本当に、ありがとうございました」
リシェルが目を見開き、慌てて両手を前へ出す。
「頭を上げてください」
レインも肩にしがみついていた子供を一人抱え、地面へ下ろす。
「俺は、たいしたことしてない」
その横からリシェルが即座に返す。
「しましたよ、結構しました」
「そう?」
レインが首を傾げると、少し後ろにいたクロエが無表情のまま加える。
「かなりな事をね」
レインがクロエを見る。
「なんか増やされたぞ」
そのやり取りに、マリアが思わず小さく笑った。
少しだけ空気が和らぐ。
「土地のことも、もう大丈夫だと」
「ええ」
リシェルがしっかり頷く。
「地下の魔晶石については、王都側で改めて調査します」
その言葉を聞いた途端、マリアの笑顔が消えた。胸元で握った手に力が入る。
「やはり、ここを……」
「いいえ」
リシェルがすぐに言葉を重ね、一歩マリアへ近づく。
「土地を取り上げるつもりはありません」
マリアが不安そうに顔を上げる。
リシェルは目を逸らさない。
「採掘することになっても、孤児院を守る形で進めます。利益の一部も、こちらへ戻るように」
マリアが目を見開いた。
「そんな……わたしたちには多すぎます」
リシェルの表情が柔らかくなる。
庭の方を見ると、子供たちが笑いながら走り回っている。
「でしたら、子供たちのために使ってください」
マリアもその視線を追う。
転びそうになった子を別の子が引っ張り、また笑い声が上がる。
目元に涙を滲ませながら、今度は笑っていた。
やがて静かに頷く。
「……はい」
その時、リシェルの袖がくいっと小さく引かれた。
「お姉ちゃん」
リシェルが視線を下げる。
「はい?」
そこには小さな女の子がいて、不思議そうにレインとリシェルを見比べている。
「レイン兄ちゃんの、お嫁さん?」
「っ!?」
リシェルの顔が一瞬で赤くなり、体ごと固まる。
対してレインは、ほとんど考える間もなく即答した。
「違うぞ」
リシェルも我に返る。
「違います!」
ぴしゃりと声が重なる。
一拍置いて、リシェルがぎぎぎ、とレインの方を見る。頬はまだ赤い。
「……どうして、あなたの方が早いのです?」
レインは何が問題なのか分からない顔をしている。
「質問が簡単だったからな」
リシェルの眉が跳ねる。
「どういう意味です!?」
女の子はさらに首を傾げた。
「じゃあ、好きじゃないの?」
今度こそリシェルの口が開いたまま止まる。
「え」
レインがその反応を見て、ぼそっと呟く。
「ほら、難しくなった」
リシェルが勢いよく振り返る。
「何がです!?」
少し離れた場所では、クロエが完全に顔を逸らしていた。
ただ、肩だけが小さく震えている。
リシェルの目が細くなる。
「クロエ!」
「何でしょう」
「笑っているでしょう!」
「いいえ」
「こちらを向いてください!」
クロエはさらに反対側へ顔を向ける。
「今は、子供たちを見ているだけですので」
「絶対に笑っていますわ!」
レインは子供に腕を引かれたまま、その騒ぎを眺めていた。
庭には子供たちの笑い声が響き、リシェルの声と、クロエの震える肩がそこへ重なる。
レインが、ぼそりと呟いた。
「まあ、平和だな」
リシェルが即座に振り返る。
「誰のせいで、こんな話になっていると思っているのです?」
レインが少し考える。
「子供?」
「あなたです!」
レインが自分を指さす。
「俺かい?」
「あなたです!」
そのやり取りに、庭の笑い声はしばらく絶えなかった。
夕方になり、
孤児院を出たレイン、リシェル、クロエの三人は、並んで南区の通りを歩いていた。
一日の終わりを告げるように、夕日が街の屋根を赤く染めている。
リシェルが前を見たまま口を開く。
「これで、終わりですね」
レインは肩の力を抜いたまま歩いている。
「ガルドの件はな」
「まだ裁判があります。制度の見直しも、魔法契約の規制も、証人保護も、商会の帳簿調査も」
話しながら、リシェルの指が一つずつ立っていく。
レインが横目でそれを見る。
「やっぱり終わってないじゃん」
「事件は終わりました!」
「なんだか仕事増えてないか?」
「ええ、増えました」
そう答えた瞬間、リシェルの肩が僅かに落ちる。
レインがその横顔を見る。
「嫌そうに言うなよ」
するとリシェルが、じろりとレインを見る。
「誰かさんが、大きなものを消しましたからね」
その一言で、レインの表情がほんの一瞬だけ止まった。
歩きながら右手へ視線を落とす。
指が、ぴくりと小さく動く。
一歩後ろを歩くクロエだけが、その仕草に気づいていた。
視線をレインの右手へ向けるが、何も言わない。
リシェルは気づかないまま続ける。
「ですが、一つだけ良かったと思っています」
レインが顔を上げる。
「何」
リシェルは前を向いたまま、少しだけ笑った。
「あなたと、会えたことです」
レインの足が、すっと止まりかける。
同時にリシェル自身も、自分が何を言ったのか理解する。
「…………」
「…………」
その間も、クロエだけは何事もなかったように歩き続けている。
やがてリシェルの耳が赤くなった。
レインが横から見る。
「急に何」
リシェルが勢いよく振り返る。
「ち、違います!」
「何が」
「そういう意味ではなく!」
「どういう意味?」
レインは純粋に聞いているだけの顔をしている。それが余計にリシェルを焦らせる。
「事件解決のために!」
「はい」
「必要な人材だったと!」
「はい」
「その!」
「はい」
毎回素直に頷くレインを前に、リシェルの顔がどんどん赤くなっていく。
「……もういいです!」
くるりと前を向き、スタスタと早足で先へ行く。
その背中を見送ったレインが、クロエを見る。
「怒った?」
「照れています」
クロエは即答した。
前を歩くリシェルの肩が跳ねる。
「聞こえています!」
レインが少し目を丸くする。
「?」
クロエの口元が、ごく僅かに緩む。
「ええ。あなたのせいで」
レインが自分を指さす。
「俺?」
前方から、すぐに声が飛んでくる。
「そうです!」
レインとクロエは顔を見合わせ、少しだけ笑った。
その日の夜
《渡り鳥亭》のレインの部屋。
灯りは一つだけで、室内には机と椅子、ベッド、それに最低限の荷物しかない。いつも通りの、何もない部屋だった。
レインは扉を閉めると、カチャリと鍵を確認する。
剣を壁際へ置き、上着を脱いで椅子へ放る。凝った首を軽く回しながら、疲れ切った声を漏らした。
「……疲れた」
そのままベッドへ向かおうとして、足が止まる。
机の上。
「…………」
一通の手紙が置かれている。
レインの目が細くなる。
さっきまでの気の抜けた表情が消え、室内へ鋭く視線を走らせる。
部屋へ入る前に気配は確認していた。
扉の鍵は壊れていない。
窓も閉まっている。
床も乱れていない。
誰かが入った形跡は、どこにもない。
それでも、机の中央には白い封筒が置かれている。
宛名はない。
レインはすぐには触れず、しばらく黙ったまま見つめる。
それから慎重に近づき、指先で封筒を持ち上げた。
裏返し、封を確認してから開く。
中には紙が一枚。
書かれているのは、一行だけだった。
『イレイサーを使ったな』
レインの瞳が一気に鋭くなる。
呼吸が止まる。
「…………」
次の瞬間。
紙の端にある文字が、すうっと消えた。
「え」
レインの目が見開く。
一文字、また一文字。
黒い文字が何かに削られるわけでもなく、端から白へ変わっていく。
紙を持つ指に力が入る。
最後に残った『な』の一文字も消え、完全な白紙になった。
部屋には何の音もしない。
レインは紙から目を離せないまま、しばらく立ち尽くしていた。
やがて掠れた声で呟く。
「……俺以外にも、いるのか?」
視線を右手へ落とす。
その手は、本人にも分かるほど僅かに震えている。
レインは無意識に拳を握った。
その時。
ぞくりと、頭の奥を何かが撫でたような感覚が走る。
『――レイン』
レインの肩が跳ねる。
「……?」
すぐに周囲を見回す。
誰もいない。
聞こえたのは、女の声だった。
どこかで聞いたことがある気がする。
懐かしいような感覚だけが胸の奥をざわつかせる。
けれど、誰の声なのか分からない。
思い出そうと眉間に皺を寄せた、その瞬間。
声も、感覚も、すべて消えた。
レインは額を押さえる。
「……何だ」
目を閉じ、記憶を探る。
だが、何も出てこない。
やがて目を開き、机の上へ視線を戻す。
白紙。
その中央に、さっきまではなかった文字が浮かび上がっている。
『次は』
レインの表情が固まった。
紙を握る手に力が入る。
「…………」
続きを待つ。
数秒経っても、新しい文字は現れない。
そして今度は、その二文字まで、すうっと消えていった。
再び完全な白紙になる。
部屋に静けさが戻る。
レインはしばらくその場に立ち尽くし、白紙を見つめていた。
やがて肩から力を抜き、深く長いため息をつく。
「普通の冒険者に、戻りたいんだけどな」
白紙を机へ置く。
誰も答えない。
窓の外には、静かな王都の夜が広がっている。
第一の事件は終わった。
けれど同時に、レイン自身が忘れている物語が、誰にも気づかれないまま静かに動き始めていた。




