第1話 勇者、竜と再会する
木漏れ日が、魔境の森をまだらに照らしていた。
どこまでも続く深い森。
人間の暮らす土地とは、空気からして違う。
濃密な魔力が霧のように漂い、時折、遠くから獣の唸り声が響いてくる。
それだけで、兵士たちの間には自然と緊張が走っていた。
――ただ一人を除いて。
隊列の先頭を歩く青年は、まるで散歩でもしているかのように気楽な足取りだった。
白金色の短髪が木漏れ日を受けて淡く輝いている。
蒼い瞳は穏やかに周囲を見渡し、その表情には危険な魔境を進んでいる者特有の警戒心など、ほとんど見られない。
身につけているのは、動きやすさを重視した軽装の鎧。
派手な装飾はない。
腰に佩いているのも、一本の長剣だけだ。
伝説に語られる勇者というより、どこにでもいそうな旅の冒険者に見える青年だった。
だが、彼の正体を知る者が見れば、決してそうは思わない。
彼こそ、この王国にただ一人存在する勇者――エリオスである。
「勇者様。魔境に入ってから、もう半日ほどになります。
前方の丘を越えれば、予定していた捜索区域に入ります」
先行していた偵察兵が戻り、報告する。
「ご苦労さん。
今のところ、予定通りだな」
エリオスは軽く頷いた。
その態度からは、相変わらず緊張感が感じられない。
「今日は魔王城に乗り込むわけじゃないんだ。
そんなに気を張らなくても大丈夫だって」
その言葉に、近くにいた兵士たちから苦笑が漏れた。
「勇者様はいつもそう言いますけどね……」
「ん?」
「勇者様の言う『大丈夫』って、俺たちにはどうにも信用できないんですよ」
「ひどいな。俺、結構慎重だぞ?」
「前回も同じこと言ってましたよね」
「あー……」
「その結果、とんでもなくデカい魔獣と遭遇したわけですが」
「……あれは不運だっただけだ」
エリオスは気まずそうに頬を掻いた。
兵士たちから、また笑いが起こる。
彼らにとって、勇者という存在は決して遠いものではない。
圧倒的な力を持っている。
それは間違いない。
けれど、エリオスはいつだって気さくで、誰に対しても気取ったところがない。
どれほど危険な戦場でも、決して取り乱さない。
その背中を見ているだけで、不思議と恐怖が薄れていく。
だからこそ、彼らはこの勇者を慕っていた。
――もっとも。
隊列の後方では、そんな空気とは少し違う声も聞こえていた。
「……なあ。魔王討伐って、いつまで続けるんだ?」
「また魔境だぞ。もう勘弁してくれよ。
魔獣だけならまだしも、魔族まで相手にしなきゃならないんだからな」
「声がデカいって。勇者様に聞かれたらどうする」
古参の兵士が慌てて制する。
だが――
その声は、しっかりとエリオスの耳にも届いていた。
エリオスは振り返らない。
ただ、少しだけ笑って言った。
「心配するなって。今回は魔王討伐じゃない」
兵士たちが顔を上げる。
「最近、この辺りで魔獣が増えてるらしいんだ。
村や街道に出てくる前に、数を減らしておこうってだけだよ」
「……じゃあ、魔族とは戦わないんですか?」
「うん」
エリオスは頷いた。
「だから、無理はするな。危ないと思ったら、すぐに撤退する」
それだけの言葉で、兵士たちの表情から幾分か力が抜けた。
――その時だった。
茂みの向こうから、低い唸り声が響いた。
グルルル……。
「敵襲!」
叫び声と同時に、灰色の狼型魔獣が二頭、茂みから飛び出した。
真っ先に飛びかかってきた一頭へ、エリオスが一歩踏み込む。
――閃光。
銀色の軌跡が走った。
次の瞬間には、魔獣が地面に転がっている。
もう一頭が、血の臭いに反応したのか、大きく口を開いてエリオスへ迫った。
しかし。
エリオスは剣を振らなかった。
左手を、すっと掲げる。
掌に淡い光が集まった。
「――行け」
光が走る。
それは一本の槍となって、魔獣の身体を貫いた。
爆発はない。
轟音もない。
ただ、白い光が魔獣の身体を貫き――魔獣はそのまま力なく崩れ落ちた。
兵士たちは息を呑んだ。
詠唱はなかった。
術式を組み上げる様子すらない。
まるで、魔力のほうからエリオスの意思に応えたかのようだった。
「ほら。大したことなかっただろ?」
エリオスは剣についた血を振り払い、鞘へ収める。
「もう少しだ。仕事を終わらせたら、さっさと砦へ帰ろう」
そう言って、彼は再び歩き出した。
兵士たちも後に続く。
――だが。
それから間もなく。
再び、森の奥から唸り声が響いた。
一つではない。
二つ、三つ。
やがて、数頭の狼型魔獣が一斉に木々の間から飛び出してきた。
「迎撃!」
兵士たちが一斉に盾を構える。
槍が突き出され、先頭の魔獣を押し返す。
その隙を狙い、騎士たちが剣を振るった。
戦闘は、ほんの数分で終わった。
「……やっぱり、この辺りは魔獣が増えてるみたいですね」
一人の兵士が汗を拭う。
だが、その横でエリオスは動かなかった。
倒れた魔獣を見つめたまま、眉を寄せている。
「……いや」
「勇者様?」
「こいつら、おかしい」
エリオスは魔獣が飛び出してきた森の奥を見る。
「俺たちを襲ってきたというより……何かから逃げているみたいだ。」
蒼い瞳が、鋭く細められる。
兵士たちが顔を見合わせた。
その直後だった。
――ゴゴゴゴゴ……。
地面の奥から響くような音が、森全体を揺らした。
木々がざわめく。
そして次の瞬間――
樹上にいた無数の鳥が、一斉に空へ飛び立った。
「な、なんだ……?」
鳥たちが、我先にと森から逃げていく。
甲高い鳴き声が重なり、静かな森が一瞬で騒然となった。
エリオスの表情から、先ほどまでの笑みが消えた。
「全員、止まれ」
静かな声だった。
けれど、その声には有無を言わせぬ緊張があった。
「警戒しろ」
兵士たちが一斉に武器を構える。
「勇者様……何がいるんです?」
エリオスは答えなかった。
ただ、森の奥を見つめている。
「……大型魔物だ」
直後。
――轟音。
木々が次々と薙ぎ倒された。
森の奥から、巨大な影が飛び出す。
空気を叩きつけるような羽ばたき。
暴風が巻き起こり、周囲の木々が激しく揺れた。
兵士たちは、恐る恐る空を見上げる。
そこにいたものを見て――
誰もが言葉を失った。
「……竜」
誰かが呟いた。
「竜だ……!」
巨大な翼。
銀白色に輝く鱗。
その姿だけで、森そのものが震えているように錯覚する。
竜。
それは、人間がまともに戦える存在ではない。
兵士たちの顔から血の気が引いた。
そんな中。
エリオスだけは冷静だった。
「撤退」
「勇者様!?」
「今の戦力じゃ勝てない」
即答だった。
「ここで無駄に死ぬ必要はない。
全員、国境砦まで戻れ!」
「はっ!」
兵士たちは一斉に走り出した。
だが――
竜が翼を一度、羽ばたかせる。
巨体が宙を滑る。
距離が一気に縮まった。
速い。
このままでは追いつかれる。
エリオスは足を止めた。
「お前たちはそのまま行け」
「勇者様!」
「俺が足止めする」
「しかし――!」
「大丈夫だ」
エリオスは振り返り、いつもの笑顔を見せた。
「先に砦へ戻っていろ」
そして、少しだけ声を落とす。
「俺も、ちゃんと帰るから」
兵士たちは歯を食いしばった。
それでも、命令には逆らえない。
最後の一人が森の向こうへ消えるまで、エリオスは動かなかった。
そして――
「……よし」
小さく呟く。
直後。
ドォンッ!
背後に、竜が降り立った。
大地が震える。
巨大な翼がゆっくりと畳まれ、竜の巨体がエリオスの視界を覆い尽くした。
それでも、エリオスは怯えなかった。
ゆっくりと振り返る。
蒼い瞳が、目の前の竜を見上げた。
しばしの沈黙。
そして――
エリオスの顔に、先ほどまでとはまるで違う笑顔が浮かんだ。
「……会いたかったよ」
まるで、ずっと会いたくて仕方がなかった子供のように。
エリオスは嬉しそうに笑った。
「父さん」




